文芸船

WORLD HEALTH ARMY

 俺は隔離室の中、監視映像をひたすら記録していた。俺はノンフィクション作家だ。いや、それは昔の話だ。今の俺は、世界中の監視映像から雇い主に都合の良い話を集め、未来への夢物語を動画配信する宣伝業者だ。

 俺の雇い主はWORLD HEALTH ARMY。通称WHA、世界保健軍だ。かつてのWHOと各国政府は、ウイルスの世界感染爆発に効果的な対抗策を打てないまま崩壊しつつあった。その混乱の中、医療研究者とICT技術者、そして元軍人たちが創設したWHAは、長い隔離生活を支える無料の高度な仮想現実空間システムと、厳格な隔離政策という飴と鞭を民衆に提供した。民衆はその甘みに殺到し、全世界はWHAに従属した。

 現実を見つめる意味を俺は何度も自問した。弱者の味方を気取りながら、山積みされた感染遺体の動画に嗤いがこみ上げる。自身の穢れに身をかきむしる。爪に残る皮膚と滴る鮮血に、俺はやっと自分の生存を実感する。言論なんて無力だ。感染症への恐怖に文章表現が勝てるわけがない。だから俺も自ら宣伝業者に身を堕とした。

 だが、そんな俺もひそかに雇い主へ反逆している。未来への希望の物語からこぼれた人たちの姿を集め、反WHAサイトで動画配信しているのだ。さあ、俺が収集したくだらない、隠された人たちの影を眺めてほしい。

第壱話 カレンデュラの抱擁

「瑠美ってファーコートとか甘口系の印象だったんだけど、そんな本格的なモッズコートなんて着るんだ。イメチェンしたの? でもカーキも案外、似合うっぽいね」

 美咲はディスプレイの向こうで、黒縁の眼鏡をわざとらしくずらしてみせて快活に笑った。思わず怒鳴りつけたくなったけれど、手元に淹れたカレンデュラのハーブティーを口に含み、そのほろ苦さで苛立ちを鎮めた。肌の弱い私にぴったりのハーブティーだ。久しぶりに連絡をくれた美咲は涼太のことなんて知らないのだから。

 終わりの見えない隔離政策の中、あふれるほどの報道に誰もがずっと混乱したままだ。まして、その陰鬱な報道に登場する人たちが身近にいるだなんて思わない。

 思いたくない。信じられない。

 今でも、信じたくない。

 でも今は、せっかく久しぶりに連絡をくれた美咲との時間を大切にしなきゃって思う。

「そっちは都会だから大丈夫だと思うけど、うちって田舎っしょ? 最近は人が全然出歩かないからって、キタキツネが家の前を平気でうろつくんだよね」

「かわいいじゃない、それ」

「都会のお嬢様だよね。エキノコックスは怖いんだぞ」

 美咲は童謡のような節をつけて、妙に上手な歌声で答える。相変わらず面白い野生児だ。私なんかより、こういう子の方が涼太に似合っていたのかもしれない。

 羽織ったモッズコートに顔を埋め、ほんのわずかにでも、涼太の残り香がないか探ってしまう。もういちど、彼の腕に抱きしめられたい。

 私は曖昧に笑い返すと、カレンデュラティーで喉を潤しながら、彼との時間を思い返した。


「これってちょっとセンスが微妙かな。もらってはおくけど。っていうか何で急にプレゼント?」

 届いたモッズコートを抱えながら、私は甘えた意地悪をぶつける。ユニセックスなのか、女性向けにありがちな薄手や毛羽立ちのある安物ではなく、カーキ色のごわつく生地で、私には本格的過ぎる印象のコートだ。涼太はディスプレイの向こうで頭をかきながら言い訳した。

「急な召集で、来週のデートは無理になったんだ」

 私は絶句する。来週末は外出特例許可日。事前申請の順番待ちで、半年かかってようやく一緒に外出できる私の誕生日なのに。お金持ちは怪しいお金で違法に割り込みしているなんて噂がささやかれるほど、この隔離政策中の外出特例許可は重要な日だというのに。

 何とかならないの、とわかっていながらも口をとがらせてみせる。涼太はごめん、といつものようにまた頭をかいて、でもいつもと違う真面目な表情で答えた。

「今回は僕も行かなければならないんだ」

「危ないことなんて、ない、よね?」

「これでも僕は専門家だ」

 いつもと違う端的な言い回し。WHAに勤めるもう一つの彼の姿だ。WHA防疫管理官という、世界感染爆発後のこの世界で最もあこがれで、そして危険な職場で働く彼は頭の良い人だ。医師免許はないけれど、大学で公衆衛生の博士号を取ったそうだ。それですぐ、世界感染爆発直後のWHAに採用されたわけ。

 デートの最中でも、携帯端末で公衆衛生の短報論文を読んでしまう仕事への情熱は行き過ぎだと思うけれど、この感染爆発を終わらせたいと熱く語る彼のことは、微笑ましく思えてしまう。そんな彼が専門家だと言い切るのだから、それを私が信じられない訳がない。

 信じてあげたいと思う。

 信じなきゃと思う。

「で、何でモッズコート? 話を戻すけど」

 私は羽織ってみながらまた口をとがらせた。私には大きめで生地のごわつきが最初は気になったけれど、こうして羽織ってみるとあったかくて、涼太の優しい温もりまで伝わってくる気もする。もしかしたらお気に入りになるかもと思っているけれど、今は内緒だ。すると彼は曖昧な笑みで言った。

「一応は僕も軍人でモッズコート、みたいな?」

 はあ、と私は気の抜けた答えを返す。軍人だからモッズコート。なんと安直な。でもあらためて見てみると、むしろ涼太に似合いそうだと思う。

「涼太が着たら良いよ。絶対に似合うよ」

「僕に似合うか。それは良かったかも」

 彼は少し変なことを言って優しくほほ笑み、戻ったら連絡するよと言ってチャットを切断した。


 三か月後、濃厚感染区域の号外速報が流れた。住民は都市外へ完全隔離後、ペットも含め都市ごと最新型兵器で焼き払われたそうだ。この住民救出作戦を遂行した公衆衛生部隊は、都市文化を守ろうというテロ組織との戦闘により多数の被害を負ったそうだ。

 テロ組織は相手をその手で殺す必要はない。部隊員の防護服さえ破壊すれば良いのだから。感染させた子供たちを感染源とした自爆テロだったのだから。その公衆衛生部隊員は、優しい人たちばかりなのだから。

 そう、涼太のように優しすぎる人たちなのだから。

 作戦初期にテロの犠牲となった涼太が、現地で荼毘に付されたとの速報が届いたのは、作戦成功の報道に世間が湧きあがった直後だった。彼の同郷の先輩からは伝言もあった。外出特例日近くに、デートに着ていく服の相談を受けたから、モッズコートを勧めたそうだ。そして涼太は、私にプレゼントする予定のファーコートが外出特例日までに間に合わないと、こぼしていたそうだ。

 信じられない。信じたくない。

 玄関のチャイムが鳴り、荷物の到着を知らせた。到着した荷物が、殺菌コンベアを通過して部屋の中へ運び込まれる。箱を開けると、パステルピンクのファーコートが入っていた。そして、おしゃれな白い箱に包まれたカレンデュラのハーブティーも入れられていた。肌の弱い私にぴったりのハーブティーで、涼太らしい選び方だ。箱の伝票には、故人からの荷物なので返品の場合は店舗へ連絡するように、との注意書きが添えられていた。

 カレンデュラの花言葉は、悲嘆と絶望。

 今の私にぴったりの、贈り物。

 私は箱を部屋の隅に追いやり、彼のモッズコートを羽織ると膝を抱えてうずくまった。


「私にモッズコート、本当に似合うかな」

 重ねての言葉に、美咲は陽気に答える。

「絶対に似合うよ、それ。大切にした方がいいよ? 隔離政策後に街を着て歩ければ良いよね」

「もちろん、大切にするよ」

 私は強くうなずき、ライブカメラから視線を逸らすと彼のモッズコートにまた、顔を埋めた。

第弐話 ヴァンパイアの絶唱

「大変なのはわかるよ。私もだから。だから隔離室を脱出するなんて言わないで」

 私の言葉に彼らは素直にうなずく。もう一押しだ。私は口元に手を当てて目を潤ませ、黒革の長手袋をみせつけるようにして首筋の後毛をかき上げた。右のうなじに二つ並んだ小さなほくろ、ファンたちが言う「ヴァンパイアの傷口」があらわになる。

『闇夜魔姫様! 姫様についていきます! 俺たち臣民は貴女のもの!』

 私は物憂げに微笑んでうなずくと、紅色に輝くヘッドセットを手にとって頭につけた。

 深呼吸する。大丈夫、私はできる。

 私は世界最高のアイドル。

 闇夜魔姫は永遠のアイドルなのだから。

 私はたとえ強大な感染症にも絶対に負けない、無敵不老不死のヴァンパイア系VRアイドル。少なくとも、この仮想空間に集まったファンたちにとって今、それは真実だ。だから私は歌う。全力で歌う。

 世界中の誰にも負けることはなしに歌う。

 たとえ、その相手が。

 既に亡い、本物の闇夜魔姫だとしても。


 VRライブを終え、私はその場にぶっ倒れた。私は誰だっけ、と自答する。私は山田美咲。どこにでもある名字に平凡な名前。過呼吸気味になった体で身動きできない。いつもどおりカメラから隠していた酸素スプレー缶で酸素を補給し、何とか肉体の落ち着きを取り戻した。

 画面に映る闇夜魔姫は、純白のフリル付きブラウスに骸骨のチョーカーを提げ、ワインレッドのスカートをまとい、黒革の長手袋とブーツを身につけて、背中にコウモリのような漆黒の翼を生やしている。

 私はライブカメラを遮断するとアクターズスーツを脱ぎ捨て、飾り気のない白シャツと黒いスキニーパンツを履いて黒縁の眼鏡をかけた。鏡に自分の姿を映して確認する。田舎住まいで地味子そのもの。そんな地味子の私が、カルト的と言われる自称吸血鬼系アイドル、闇夜魔姫を今年から演じているだなんて誰も思わないだろう。

 もちろん、初めから闇夜魔姫が私なら、万が一にでも疑われるかもしれない。でも私は、闇夜魔姫こと朝日真希の幼なじみでファンで。

 人気の絶頂で彼女が亡くなったことを知ったとき、私は信じられなかった。死因を聞いてもその情報源は何も答えなかった。そう。私の雇い主、WHA。世界中の防疫をつかさどる強大な軍事組織にして科学者集団。文系で政治にも興味の薄い私は、この機関にICT技術者や扇動宣伝担当職員もいるだなんて知らなかった。

 機関からの男は言った。貴女は闇夜魔姫のコスプレ活動では第一人者ですね。私がコスプレして遊んでいたことは、真希にも秘密にしていたのに。私は身震いした。

 だが男はそんな私の反応にも何の感情も示さず、話を続けた。ICT技術で顔立ちは完全に書き換えられますから、闇夜魔姫に成り代わってほしいと。そして男は、真希が最期まで書いていたという日記を私に手渡した。

 あの子、ヴァンパイアとか自称していたくせに古式ゆかしく紙で日記を書いてたの。実は小学生の頃からずっと。でも私だって彼らと会うまでは真希の日記なんて読んだことはなかった。そのときに渡された日記は、今も私の手元にある。私が闇夜魔姫になりきるためだ。

 トップアイドルの唐突な死は人の心を騒がせる。軍事通達への漠然とした疑義が湧きかねない。この長い隔離政策の中、折れた心で自棄を起こす集団の発生は、社会全体に深刻な影響を与えるかもしれない。

 真希がヴァンパイア系とか言っているくせに、実は物申す気概のある子だったことは私がよく知っている。地に足のついていない芸能活動をしているくせに、通信教育で政治学を勉強していて、それも大きい話じゃなく過疎地の地方自治だなんて笑っちゃう。何となく文学部に行って、何となく採用されたというだけで適当に販売員なんてやっていた私とは比べものにならない。

 でも、そんな私でも。むしろそんな私だからこそ、彼女の喪失が人の心を折ることはよくわかる。彼女が遺したアイドルの足跡を多くの人たちが大切に思っていることは、親友としても絶対だってわかる。

 だから私は受けた。闇夜魔姫としてしぐさを魅せ、ダンスを踊り歌で心をふるわせる。思考を模倣し、ファンたちを観察しながら理想の闇夜魔姫として語りかける。

 冒涜と呼ぶなら呼ばれたって良い。地獄に落ちるのは決して真希じゃない。私と、私をそそのかしたWHAに巣食う宣伝職員やICT技術者だ。

 全ての罪は背負ってやる。その代わり私は、私と似た境遇のファンたちを救う。それがたとえ偽りの救済だとしても、この隔離政策が終わるまでは。私は一人でも多くのファンが生き延びるよう、救ってあげようと思う。


 また一人、心を壊したファンがいた。長期の隔離政策は人を壊す。それでも闇夜魔姫支援者は統計上、心を壊した人数が有意に少ないそうだ。これは私の大切な闇夜魔姫、朝日真希の功績だ。そう、彼女はこの隔離下でも交流できる唯一の場、この仮想世界で今も生きている。

 私は闇夜魔姫の大ファンだ。最高に忠実で、そして彼女を真剣に愛してきた人たちへの偽りを背負った、冒涜的なファンで幼なじみだ。

 ねえ真希。私は頑張るから。

 まだ頑張れるから。

 まだ、壊れないから。

 きっと、もう少しだけ。

第参話 パルフェ・タムールの芳香

Blue Moon

Viora Odorata

 合言葉に、僕はそっと鍵を開ける。男はほんの少し開けた扉から店内へと滑り込んだ。

 ここは廃ビルの地下一階。古いテレビゲーム機やソフトを販売していたマニア向け店舗の跡地だ。この類の店は、隔離政策後に全在庫を売却して解散したか、ネット売買業態に変更し日陰の店舗業態は絶滅した。そんな場所だからこそ、僕の店の隠れ蓑としてちょうど良い。

 僕はお客様から、カシミアのチェスターコートとダークブルーの中折れ帽を受け取って木製の洋服掛けにかける。お客様はカウンターの席についた。椅子も洋服掛けも父から受け継いだ、当店自慢の北欧製家具だ。どれもかつては、職人さんが丁寧に手作りしていた天然木の家具だが、今は隔離政策の中、3Dプリンターを応用したリモート制作による合成板の家具しか手に入らない。

 お客様はN95マスクを外して深呼吸し、目を細めて奥の棚を眺める。僕は黙ってお客様を待ちつつ、背中の棚に並べた酒瓶を一緒に眺めた。

 アイラ系スコッチの名作、ボウモアやラガヴーリンは正露丸臭とも評される癖の強い泥炭の香りがあり、お客様の好みは真っ二つに分かれていたのだが、今は感染爆発で薬品臭に飽きているからか全く出なくなった。

 だが、ちょっとしたバーなら当然備えていた、シングルモルトでは代表的なマッカランすら、手元には一箱しか残っていない。ストリチナヤやスミノフといった、カクテルに重宝していた著名なウォッカたちの工場も、大半が殺菌用エタノール工場に振り向けられてしまった。

 WHAは世界の実権を握ると、酒税と食品衛生、公衆衛生を所管する国家機関を抑え、酒造工場を分類した。ウォッカのように味や香りの成分をあまり残さない蒸留酒の工場は原則、消毒用エタノール工場へと強制的に業態転換させられた。その他の酒造工場も、原料生産から瓶詰に至るまで人を介する工程を合理的に排除され、芸術的と讃えられたスピリッツの香りは大半が喪失した。

 そう、スピリッツ。父の魂はWHAに否定された。もちろん父から承継した、僕の店も。

 父から継いだパルフェ・タムールは昔ながらのショットバーだ。カクテルの果物は妥協せず、生の果実を使用する。カクテルベースの酒は良心的な価格とするために熟成年数は抑えつつ、なるべく良いものを。ストレートで飲まれるお客様へのお冷やには、氷の水質にも気を使う。父の代からずっと続けてきた、大切な看板だった。

 でも今は、その看板を掲げられない。

 ショットバーは現在、WHAの営業禁止業態店だ。でも、この長い隔離政策に疲れている人は多い。酒に頼るなと安易に言うけれど、少しなら頼っても良いと思う。だから僕の店は、ほんの一杯のショットかカクテルだけだ。でも、その一杯が安らぎになるのであれば。

 お客様は迷った末、意外な酒を指差した。アップルワインだ。ごく安くて甘くて褐色のお酒。失礼だが、中折れ帽にチェスターコートなんて紳士より、淡い色をしたふわふわのニットを着るような若い女性が好むお酒だ。重ねて確認すると、お客様はつぶやくように言った。

「私と後輩の彼は、アップルワイン工場のある街の出身だった。一緒に公衆衛生を学んでいた、優秀な男だ」

 僕は皆まで訊かず、黙ってうなずいてグラスに氷を入れると、銀色の鼓型のメジャーカップでアップルワインを計って注ぎ込んだ。三回半ステアしてお客様の前に置く。お客様はゆっくりと一口だけ飲んで溜息をついた。

「彼との連絡が途絶えた」

 言葉が見つからない。現実世界での交流を制限されている現在、仮想空間での唐突な連絡の途絶は、感染かWHAの暗い影が忍び寄る。

「まあ、それだけなんだよね」

 お客様は無表情でアップルワインを一息に空けようとして軽く咳き込み、苦笑すると今度はゆっくりと飲み干した。お客様は立ち上がってマスクと中折れ帽、そしてコートをまとってカードを示す。僕は雑貨店名義のカードリーダーを使った。僕の店の売上は安全のため、偽装会社を通して入出金している。

 お客様はありがとう、と短く言って扉を開けて店をあとにした。今日のお客様は一人だけだろうか。僕は溜息をつきながらグラスを洗い、水を拭き取ろうとした。

 涼やかな鐘が鳴って鍵をかけているはずの扉が開け放たれ、防護服に身を包んだ集団が店内に雪崩れ込んだ。

「WHA取締部だ。動くな」


「パルフェ・タムールに間違いないね」

 防護服の集団は総勢五人で、黒い防護服を着た代表者らしき男が声を発した。残り四人は純白の防護服を着ている。僕が沈黙していると、男はゆっくりと決定的な合言葉を口にした。

Viora Odorata

 僕は体を固くする。男は続けて言った。

「合言葉はニオイスミレの学名だね。店名の由来となった、パルフェ・タムールと呼ばれるリキュールの原料に必須のスミレ科の植物だ」

「よく、ご存じで」

「私は本来、植物検疫関係が専攻でね。それにニオイスミレの穏やかな青に近い、優しげな紫色は、私も好きな花の色ですよ」

「残念ながら、私はお酒とばかり付き合っていて、原料の花は見たことがないのですよ」

「それは残念です。もし機会があれば見ていただければと思いますよ」

 機会があれば、という声に一瞬だけ震えが入る。黒服の男は研究者系の幹部か。僕の店に来るなら荒事専門の軍人を向けることはないだろう。だが彼の声の震えに、僕は気持ちが沈み込む。防疫専門の軍事組織がどのような裁判を行うのか、僕も詳しくは知らない。

 四人が動こうとしたとき僕は声を発した。

「もし可能なら、連行される前に一杯だけ、カクテルを飲んでいきたい」

 黒服の男は、少し考え込んでうなずいた。

 僕はシェーカーに氷を入れる。店内に涼やかな音が響いた。続いて銀色のメジャーカップを手にすると、ドライ・ジンを背の低い方でなみなみ一杯入れる。次いでレモンを絞り、その汁をメジャーカップで半分ほど量って入れる。そして最後に濃厚な紫色の酒瓶を手にとる。

 一瞬だけ迷い、紫色のパルフェ・タムールをメジャーカップで半分ほど量ってシェーカーに注いだ。ふわりとバニラの甘い香りが店内に漂ったけれど、この場では防護服を着用していない僕しか楽しめない。

 シェーカーを振る。できることなら今の時間を引き伸ばしたいけれど、水で薄まったカクテルを飲むほど落ちぶれたくはない。僕はカクテルグラスを手に取って、そこにカクテルを注ぎ込む。

 幻想的な薄紫色のカクテルが現れた。

「ニオイスミレの色ですね。何というカクテルですか」

「ブルームーンです」

 僕はさらりと答える。黒服の男は手元の情報端末で検索して首をかしげた。

「かなわぬ恋、という意味があるのですね」

「僕はこの店に恋していましたから」

 男はうつむいて視線を逸らす。僕はブルームーンを口にした。リキュールの甘さとバニラのみではない複雑な香りに、アルコール以上の酩酊が呼び込まれる。これが逮捕前の一杯でなければどれほど良い一杯だっただろうか。今日の出来は格別だと思う。

 飲み干した僕はグラスを置いてゆっくりとうなずく。四人の男たちは無言のまま僕を捕らえ、棺桶のような隔離室型担架に押し込んだ。

 ふたが閉じられる前にパルフェ・タムールの瓶が一瞬だけ目の端に映り、できるならば実物のニオイスミレを見てみたいと思った。

第肆話 エデンの蛇

「なんとか、娘に会いたいのですが」

「まことに残念ですが、『クリーンルーム』の住民の方を感染区域内へ入れることはできません」

 衛生兵は申し訳なさそうな表情を浮かべつつ、もう聞き飽きた言葉をまた繰り返しました。

 衛生兵と言っても昔の軍隊で言う衛生兵ではなく、衛生管理を担当する兵隊という意味です。彼はこの区域に住む私たち市民への衛生管理の啓発活動が担当なのだそうですが、実際は市民の苦情対応係のように働いておられます。もちろん、私のような平凡な老主婦は軍隊組織なんてよくわかりませんけれど、今の生活で少しは軍隊の知識もつくのは当然です。WHAの動きは常に報道されているのですから。

 感染症により一変したこの世界を科学知識で、ときには軍事力で抑え込むWHAの大切さはわかります。そしておそらく、科学的に正しい判断をされていることも。とはいえ、ほんの少しだけでも娘に会いたいのです。

「私もこれが仕事ですので。他の方も我慢されておりますし、軍令は絶対ですから。ご理解をお願いします」

 衛生兵はまた申し訳なさそうな顔で、彼の背中にそびえ立つコンクリート製の擁壁を仰ぎ見ました。この区域は通称、クリーンルームと呼ばれております。非感染区域ですので他の感染区域から保護されているのです。

 続けて衛生兵はWHA配布の携帯端末を示しました。

「こちらの携帯端末の使い方はご存じですよね? 端末で娘さんとは連絡をとれるはずですよ」

「そんなことはわかっております。もう何年、娘と会えていないと思っておられるのですか」

「善良な市民の皆様の健康を守るためです。どうか感染区域内が基準値に低下するまでお待ちください」

「貴方たちは、私たちを守ると言っていますけれど、この壁は私たちを閉じ込める壁ではありませんか」

 声を荒げた私に、衛生兵は表情を変えず答えました。

「どちらが隔離されているのか、その議論に生産性はありません。本質は感染者と非感染者との隔離ですから」

 どれほど彼はこの議論を繰り返してきたのでしょう。衛生兵より刑務所の刑務官にでもなれば良いのに。東京に進学した娘がどんな生活しているのか、心配でたまらないというのに。心配な気持ちは、安心の感覚は仮想空間越しでは伝わらないものなのです。

 一時期、娘はお酒には弱いくせにアップルワインを飲んでみたいと言っておりました。何でも、仲良くしているお友だちの方の故郷に醸造場があるそうです。娘はお友だちと言って、上手にごまかしているつもりのようでしたが、母親の私はその関係を察しておりました。

 しかし最近は、そのお友だちの話を全くしなくなりました。私の手作りマスクとともに送った食べ物をきちんと食べているのか心配で。ネットの向こうにいるはずの娘は、違う世界の住人になったように思えてしまって。

 クリーンルーム内では、世界感染爆発以前に近い生活をしています。でも、守られているはずの私たちは他の区域に行くことができません。アダムとイヴは蛇の誘いで知恵の実を食べて世界へ追放されましたが、クリーンルームの蛇は駆除され知恵の木も伐採され、永久に楽園内で生活する定めになっているのです。それはむしろ、無感染を原罪とした牢獄にすら思えてしまうのです。

「まことに残念ですが、クリーンルームの住民の方を感染区域内へ入れることはできません」

 衛生兵が、また同じ言葉を繰り返しました。

第伍話 キスの日

 今日、5月23日は「キスの日」だ。太平洋戦争から間もない時期に、日本初のキスシーン入りの映画が封切り上映された日だ。今は意味が変わってしまったけれど、それでも「キスの日」という名前は変わらない。

 仮想現実ならいつでも会えそうだけれど、私は深夜近くまで続く在宅勤務で疲れ果て、仕事が終わればそのまま寝てしまう日々がこの一か月もの間、ずっと続いていた。でも今日はやっとの休日だ。

 私はVRディスプレイを被り、仮想現実にある東京の下北沢駅に立っていた。街角の人たちはみんな、自由にファッションを楽しんでいる。仮想現実だからなのか、着ぐるみの人までいる。

 下北沢は昔から日本演劇の中心地で、それはWHAの感染症対策で生活のほとんどが仮想現実に移った今も変わらない。むしろ稚内在住の私みたいな娘でも簡単にアクセスできるぶん、現実時代以上の活気だそうだ。

 下北沢駅前の仮想演劇場で偶然に出会った、あつき。漢字で書けば蒼月って、少し華やかな印象の名前。秋葉原と稚内在住の私たちは、仮想現実だからこそ偶然の巡り合わせで出会い、すぐに意気投合した。

 二人で観劇して感想を言い合って、たまにはけんかもして。カクテルにも詳しい大人の彼に、ほんの少しだけつま先立ちの背伸びで合わせる時間が幸せで。隔離政策の外出禁止が終わったら現実の下北沢で会いたいって。

 キスは何度も交わした。仮想現実の中だけれど。リアルではまだ、彼の指先に触れたことすらないけれど。

 でも私たちは、キスを交わした恋人だ。

 ふと、隣りの子が中空を眺めたまま表情をゆがめて、「キスの日」とつぶやくと唐突に消滅した。強制ログアウトしたらしい。

 今度は私の目の前にウィンドウが開いた。蒼月からの文字だけのメッセージだ。

「今日のデートは行けない」

 私は慌てて音声入力でメッセージを送る。

「今日は来られるって約束していたよ」

「今日は、キスの日、だから」

 返事とともに、蒼月から一枚の画像が送られてきた。赤いキスマークに黒い通行禁止の丸とバツ印を重ねた、絶望の意匠。WHAが感染症対策として公開した動画。見送る葬列すらなく、感染遺体を満載した冷凍コンテナ車の長く連なった車列を背景に表示された、この画像。

 キスの禁止。

 そしてゆがめられた「キスの日」の意味。

 一年のうち、WHAが公開したキスの日の画像さえ送れば、自由に別れを告げられる日。

 私はその場にくずおれる。街を行く人は私になんて気にも止めない。中には一瞬だけ足を止める人もいるけれど、VRカレンダーを確認して、ああ、とつぶやくと通り過ぎていく。

 私は現実世界でVRディスプレイを脱ごうとして、先ほど強制ログアウトした子のことを思い浮かべた。今の私も、あの子と同じ。

 空を仰いで、空中を舞う数々の演劇ビラをぼんやりと眺め、ふと一枚の奇抜なビラをつかんだ。「キスの日をぶっ飛ばせ」という題名と、ヴァンパイア系VRアイドルが演じる、壊れた笑顔のヒロインが滑稽だ。

 私は蒼月と観るはずだった恋愛劇をキャンセルして、つかんだビラの予約メニューにログインした。

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