文芸船

魔法少女WLB(上)

 小樽市。歴史的建造物は観光の目玉として地域経済の中心を担っているが、裏を返せば繁栄は過去の栄光で、今は何とか市の体裁を保っている。冷たく分析するとそんな街なので、子供たちも庶民的な服装が一般的だ。

 でも坂道を上ってきた少女は違っていた。顔立ちや体形は小学校高学年ぐらいだろうか、今どき珍しい三つ編みと角の少しとがった縁なし眼鏡のおかげか、丸顔に大きな瞳とも相まって真面目そうな印象を受ける。さらに千鳥格子柄のワンピースに黒いボレロを着て、胸元には星を二つあしらったチョーカーをつけている。足元も黒革のパンプスで、何とも清楚なお嬢様という雰囲気だ。

 少女の目の前を六歳ぐらいの男の子が横切り、横断歩道を渡っていった。するとそこに一台のダンプトラックが走ってくる。横断歩道が目の前だというのにスピードが落ちない。運転手はハンドブレーキをひいているが、この坂道では間に合わない。少女は道路に駆け出して少年を突き飛ばした。トラックが目前に迫る。彼女は目を見開き、歩道に転がった少年へ気丈な笑みを見せた。

 トラックが衝突する前に僕は、頭に伸びる長くて白いふさふさの耳を伸ばして時間を百倍に認識させる魔法を打った。僕は聖なるウサギだ。この場を助け上手く利用するんだ。僕は厳かな声色で慎重に呼びかけた。

「まだ生きたいであろう。今、救われたければ『この身に神力を宿せ』と叫ぶのだ」

 嘘は言っていない。今、救われたければ、だ。将来まで保障した覚えはない。そんなことは消費者金融会社と同じ真っ当なお話だ。ただ、もっぱら中学生未満を狙う点と超常の力だという点に目をつぶれば、だけれど。

 少女は当然、自棄っぱちの声で叫んだ。

「この身に神力を宿せ!」

 少女の体が光に包まれて衣服が消滅し、白いレースを裾にあしらい背中に大きなリボンを配した薄桃色のフレアスカート、フリルの袖なしブラウスに、頭には銀色の小さなティアラのかわいらしい僕好みの魔法少女に変身する。僕は彼女の背に跳び乗って叫んだ。

「僕と一緒に跳ねよう」

 彼女が両足で地面を蹴ると、瞬時に四階建ての学校の屋上に跳ね上がった。そのまま彼女は屋上の床に降り立ち、僕も彼女の背から降りて正面に足を揃えて座る。

 彼女は呆然と僕を見つめ、ウサギ、と呟くように言葉を吐いた。まあ当然、喋らなければ僕はただのシロウサギにしか見えないし。そして彼女は自分の頬をつねる。いつものよくある反応。僕の頭を恐々と撫でた。

 次いで彼女は僕に背を向け、いきなりコンクリート製の床に頭を何度も打ちつけた。

「待って! 待って馬鹿になるから止めて」

 僕の制止にゆらりと振り向くと、あらためて僕を見つめ、そして抱き上げる。

「やっぱり、夢じゃない?」

 僕は長い耳をぴくぴくと揺すり、彼女の首筋に毛の生えた鼻を寄せて体温を伝える。

「そう、夢じゃないんだよ」

 続けて僕は駄目押しの言葉を厳かに告げようとしたけれど、彼女は見慣れない嫌な笑みと怪しい輝きの視線を向けて独り呟いた。

「ものを喋るウサギなんて面白い。今日の部活で使う実験動物に供しようか。それとも情報同好会に持ち込んで動画をネットに流せば百万回再生も行けるんじゃ?」

 ちょっと待ておい。なんか見た目に全く似合わない台詞が漏れているんですが。次いで彼女は自分の服を見てちっと舌打ちすると、持っていた鞄から白衣を取り出して羽織り、はあ、と安心した声を発した。

「中橋中学校理科部部長、鬼塚麗華様に拾われるとは何とも運の悪い珍獣だね」

 まずいこいつ見た目詐欺だ何が清楚なお嬢様だ反発大好きな思春期真っ盛りの中坊でおまけに狂科学者の卵ときた。ちくしょう僕の目は狂いまくっていた。

 いや焦るな。だいたい理系は交渉に弱いし、理科部なんて理屈で押せば僕の思惑に巻き返せる可能性は十分にある。僕は気を取り直し、予定通りの発言に進んだ。

「少女よ、本来なら車両事故で君は亡くなっていたはずだ。しかし私の貸与した神力による奇跡の力により、君は生還したのだ」

 ようやく彼女は事故前の清楚な雰囲気に戻り、そしてあらためて自分の体を見回す。

「怪しげなウサギを使いにして少女を囲い込むロリコンの神様が助けてくれたわけね?」

「誰がロリコンだ!」

 本当、調子狂うなこの子。それでもまだ自分を抑えて咳払いすると定番の話を続ける。

「世界はかつてから魔の力と神の力が対立しており、人間たちが自分たちで魔から守れるようにするため、私のような神使が遣わさされているのだ。そして、魔に対抗できる純心な少女に神力を与えて戦っているのだ」

「つまり、現地雇用社員に経営資源を貸与しつつ本社の指示を伝書鳩して高給もらっている本社脱落組社員みたいなウサギ? ずっと昔、お父さんがバカにしていた」

 もう親の顔が見てみたいわ。なんてひどい家庭教育をしていやがるんだ。

「いやもう細かいことは後で説明するけど。衣服が魔法の衣に変わり、ウサギの跳ねる神力で四階までひとっ飛び。現実を認識して」

 彼女は半眼で鞄からタブレットを取り出し、がつがつと簡易図を書いて続けて数式を書く。何だこの式。体重かける重力加速度かける高さ。四階まで跳ぶ計算か。

「変態ウサギ。私の体重を覗かないで」

「いや僕の説明でいきなり力学の計算を始める方が不思議でしょ?」

「だってどれだけ不思議なことが起きたのか定量化したくなるじゃない! この私、理科部部長としては!」

 ばさりとマントのように白衣を翻して怪しいポーズを決める。これから僕の言わなきゃならない台詞、この子に言いたくないなあ。でも僕はまた気を取り直して必要な台詞を告げる。もう神の力を使ったことだし、小学生を助けようとする強い優しさはあるのだし。

「私は、小学生を助けた君の心の強さを信じたい。だから君には、世界を救う魔法少女になって欲しいのだ」

 彼女は眉をひそめてぽつりと言った。

「不思議な話は置いてもね。中学生になって魔法少女なんて、ちょっと恥ずかしいよ」

「大丈夫。魔法の力で顔はばれないから」

 よくある抵抗なのですんなりと想定問答。するとさらに彼女は恥じらいのあるかわいらしい表情で続けた。

「それに科学の力で世界征服する方が私の性格に合うような気がするの。友だちにも溜息つきでよく言われる」

「世界征服とか本格派の悪の結社かよ! それ友だちも呆れているだけだから」

 駄目だこいつ魔法少女以前に何か違うレベルで再教育が必要だ。でもそんなことを思うと、何とかこの子を立て直してやりたい気もしてくる。この年齢にして何をどうしたらこんな人格形成がされるんだ。昭和時代の魔法少女なんてそれは素直なもので正義のためなら身を滅ぼしてまで突撃したものなのに。

 僕は数十年前の戦いを思い出して暗澹とした気持ちになりかけ、慌てて気を取り直す。僕は聖なるウサギ。僕のやっていることは聖なる務め。必要な犠牲は最小限。

 最小限にしたんだ、僕は。

 今回だって最小限にするんだ。きっと。

 麗華ちゃんに悟られないよう高速で口の中で想いを繰り返し唱えて冷静さを取り戻す。僕はまた厳かに聞こえる声音で語った。

「さあ少女よ。神と正式の契約を結び、正義のために魔法を揮うのだ」

 小学生ならこれで契約に進んでくれる。麗華ちゃんは中学生、それも部長と言っているから年齢的に少し面倒かもしれないが、十五歳までは僕も契約の経験はある。大丈夫なはず。だが麗華ちゃんは再びタブレットを指先で叩いて眉をひそめ、また何かがつがつと書いて考え込んだ。そしてぽつりと一言。

「契約内容の分からない契約なんてできるわけがないでしょう。契約書を見せて」

「神との契約は古来より、神の言葉にて」

「旧約聖書にあるモーセの十戒は石板を与えられているんだって。ほら」

 すごいな今どきの中学生は。いきなり神話を検索しやがった。僕は渋々、毛皮の奥に魔法で隠していた契約書を取り出した。彼女はむしり取るように受け取り、タブレットの上に置いて読み始める。難しい用語はタブレットで検索して鼻歌を歌いつつ読み進める。

 そして鞄から赤ボールペンを取り出すと、いきなり何かを書き込み始めた。

「何しているの? 契約書だよ!」

「私が納得してサインするまでは契約書案でしょう。私が納得できるように直しているの。魔法少女の名前を付けて契約完了なのね? これなら大丈夫。安心して」

「安心できないよ! 先に修正を確認……」

 跳び上がった僕を素早くかわし、麗華ちゃんは怪しげな笑みで叫んだ。

「じゃあ契約開始! 我が衣装を変更!」

 清楚でかわいらしかったフレアスカートとブラウスが消滅し、代わりに漆黒のタイトスカートとジャケット、足元はブーツに変わり、そして再び白衣を羽織る。

 さらに彼女は叫んだ。

「我は契約し、魔法少女となる! 我が名は『魔法少女ワーク・ライフ・バランス』!」

 天が一気にかき曇り、次いで雷光とともに契約書が輝いて声が響く。

『鬼塚麗華の追記内容を確認し、正規の契約として受諾された。契約はここに成立する』

「異議あり! 異議あり!」

 僕は叫んだけれど、契約書は語る。

『神と魔法少女の直接契約に、神使の介入は認められない。契約は成立した』

 契約書は青い炎をあげて僕の毛皮と麗華様の右腕に小さな紅い三日月の印として焼きついた。契約の証だ。僕は慌てて魔法で出力した契約内容を読んで愕然とする。

「あの、麗華様。っていうか僕の言葉遣いを契約書に入れちゃったんですか」

「魔法少女と言えば『ちゃん』づけで呼ぶ変なマスコットが付きものでしょう。でも私、もう中学生だから子供扱いされたくないの」

 仕方ない。昔はお姫様と契約したこともあったし、言葉遣いぐらい小さなことか。他は何を書き換え……。

「あの『労働三法等、現代労働者の保護に準じた取扱いを要する』って何でしょうか」

「テレビアニメを見ていると、魔法少女ってブラック労働でしょう。そういうの嫌い」

 この魔法少女、労働運動しちゃうのかよ。僕、そのうち団体交渉を受けたり労働基準監督署に呼び出されたりしちゃうんだろうか。いや待って僕も管理職じゃないけど。そして僕は気になっていることを恐る恐る聞いた。

「それで、あらためて聞きたいんだけど、魔法少女の名前、何でしたっけ、麗華様」

 彼女は初めて見たときの印象の笑顔を僕に向け、きれいな英語の発音で告げた。

「魔法少女WORK LIFE BALANCE[ワーク・ライフ・バランス]。私生活を犠牲にせずやり甲斐のある仕事をこなす魔法少女だよ」

 僕はこれからの戦いを想像できず、耳が地面につくまで這いつくばる。麗華様はそんな僕を膝の上に載せて悪役っぽく笑った。


 昨日は家までついて行ったら、麗華様がきつく睨んでくるので麗華様宅の玄関に待機し、登校を待って合流した。ちなみに僕は麗華様以外には姿が見えないようにできるので、怪しいウサギが教室に紛れているなんて騒ぎにはならない。というか麗華様には玄関で会った途端に両耳を掴まれて吊るされ見つからないよう言われた。魔法少女ワーク・ライフ・バランスは僕のワーク・ライフ・バランスも配慮して欲しい。

 麗華様の制服は紺のブレザーで、銀ボタンと胸のエンブレムに校章が入っている。校章は三枚の柏の葉と延齢草の花をあしらった図案で、柏の「勇敢、独立」と延齢草の「奥ゆかしい美しさ」という花言葉を表すそうだ。麗華様曰く、自身がその体現者だと。自分で言った時点で奥ゆかしくないと言ったら耳を掴まれて吊るされた。

 一時限目が終わった途端、隣の席の女子と後ろの席の男子が麗華様に声をかけた。

「ドクターごめん、これ教えてよ」

「ドクター頼む、宿題忘れた」

 麗華様は小柄だけれど実は中学二年生で、ほんの一時限、数学の授業の様子を見ただけでもわかるほど見た目通りの優等生だった。ちなみに麗華様のあだ名は、医者の方ではなくいわゆるハカセ。本人は「子供っぽいあだ名よ。でも本物にはなりたいわ」なんて少し恥ずかしそうに僕に囁いてくれた。

「山本は後。忘れた方が悪い」

 隣席の女子は男子に冷たく告げ、ノートを開いて先ほどの数学の問題を指差した。彼女は佐藤陽奈さん。名字が平凡なうえに名前まで誕生年の人気の名前という、いかにも埋もれそうな名前の子だ。勉強も並みの中学生という感じで、僕たち魔法少女の事件には幸か不幸か巻き込まれず、平凡に生きていける子だと思う。だが顔立ちは麗華様と比べてなら当然、他の女子と比べても大人びており、ほんのりとリップも差しているし身長や胸周りの体形、身につけたアクセサリーからも高校生と言われて信じてしまいそうな雰囲気だ。

 麗華様は消せる赤ボールペンを取り出すとすぐに佐藤さんの間違いを指摘し、落ち着いた態度で先ほどの先生よりもわかりやすく解説した。

 次いで山本翔太くん。麗華様よりは高身長だが、男子全体から見れば小柄な方だ。頭も悪くはなさそうだが、見るからに落ち着きがなくその場の思いつきで動いている。顔立ちも悪くはないが制服を着崩すことはなく、かと言ってとくに真面目に規則を守っているという気負いも感じられない、こちらも平凡な男子の印象だ。

 山本くんは麗華様から理科のノートを借りると必死で書き写す。その背中を麗華様は右の拳でこづいた。

「丸写しはやめて。私も先生に叱られちゃう」

「分かってる。あとお礼は」

 言葉を切り、素早く麗華様に何か紙切れを握らせた。麗華様は一瞬だけ頬を染め、だがすぐに平静な表情で彼の手元を覗き込む。

 山本くんは、一気に書いているわりにはきれいな文字で、むしろ麗華様の方が癖の強い文字だ。ただ山本くんは中身を理解しているのか少し危うい感じがする。他人の宿題を書き写している時点で予想はできるけれど。

 それにしても黙って彼の手元を見つめる麗華様。紙片をこっそりだなんて、麗華様も普通の思春期か。少し安心した気持ちになる。

「普通のご飯が食べられそう」

 麗華様はぼそっと呟いて口の端を拭った。何かまた僕は見誤っている気がする。この子に限って、下手な常識で考えると必ず期待を裏切られる気がしてきた。


 短い休み時間を終えると、実験のため理科室に移動した。眠そうな顔でだらしなくシャツの胸元を開けた猫背の教師が頭をかきながらぼんやりと壇上に立っており、机ごとに温度計とビーカーと天秤、それに薬包紙と小瓶が二本ずつ置いてあった。片方の雪のような結晶は塩化アンモニウム、もう片方の溶けかけた砂糖菓子のような物は水酸化ナトリウムと書いてある。

 麗華様の号令で礼と着席。そして麗華様は当然のように白衣をまとい、教壇に上がった。

「じゃ鬼塚、頼むわ」

 先生は言って脇にあるパイプ椅子に腰を下ろした。麗華様は淡々と今日の実験の説明を流暢に始める。何だよこの教師。案の定、ひそひそと声が聞こえた。

「さすがナマは怠けるレベルが違うな。授業を鬼塚に丸投げしやがったぜ」

 山本くんが口をとがらせて隣の男子に声をかける。ナマというのはこの教師のあだ名のようだ。隣の男子は小さく笑って答えた。

「でもナマの授業わかんないし。ドクターの方が良いだろ。山本って、鬼塚のああいう雰囲気が好きだしさ」

「好きとか、そんなんじゃねーよ!」

 山本くんの声が高くなり、即座に麗華様が怒鳴った。

「山本、そこに立ってろバカバカバーカ!」

 クラス全員に笑いが広がり、だが麗華様の形相でまた笑いが収まっていく。それでもひそひそと山本くんに佐藤さんが囁いた。

「ドクターって案外こういうの弱いよね。バカバーカ、とか言っちゃってかわいい」

「お前、そういうとこ性格悪すぎ」

 山本くんの冷たい答えに佐藤さんは小さく舌を出して微笑む。将来は小悪魔系になる素質が大な気がする。うちの魔法少女は大悪魔になる素質がありそうだけれど。

 麗華様は二人の囁きに気づきながらも、あえて無視する態度で実験の説明をまとめた。

「要は吸熱反応と発熱反応を観察するわけ。あとは塩化アンモニウムと水酸化ナトリウムの反応も観察し、生成物を確認します。そこのバカ二人のようなバカはバカな失敗をするかもしれないので、あらためて正しい操作をするようバカ丁寧に言っておきます」

 酷い締めだ。だが生徒たちは麗華様の口の悪さに慣れているのか、平然と実験の準備に入る。ナマ先生もようやく立ち上がって片手を揚げて伸びをし、また猫背でのそのそと各実験台を見回した。っていや、見回しただけかよ。麗華様の方が真面目に指導している。麗華様は実験しなくて良いんだろうか。

「私は昨年の部活でこの実験やっているから今さらやる必要ないもの。私、高校入試の理科の模試をやってみたら余裕で満点だったし。大学入試も少しはいける」

 麗華様、本当に優秀だな。今まで会ったどの魔法少女よりも頭は良いかもしれない。人格はどうなのか今でも不安なのだけれど。

 山本くんが薬包紙に目分量で塩化アンモニウムを乗せてそのままビーカーに移そうとした途端、山本くんの頭に麗華様の教科書の角が食い込む勢いで打ち込まれた。

「角はないだろ、角は!」

 山本くんの声に、麗華様は無表情で山本くんの頭をさらに打とうと爪先立ちする。

「いや確かに秤を使うのさぼった俺も悪いけどさ、いきなり叩くなよ暴力ドクター」

「バカなワンコは叩かないとわからない」

 麗華様は表情を変えず酷いことを言う。

「なるほど山本はドクターの飼い犬、ペットちゃんなんだ。まあ幼なじみの仲良しだし」

「「仲良しじゃない!」」

 佐藤さんの何気ない言葉に、麗華様と山本くんの声が見事に重なり、慌てて二人は顔を見合わせてそっぽを向いた。やっぱり麗華様も年頃か。というかこの辺は少し幼いぐらいかもしれない。少なくともにやにやしている女子高生風中学生の佐藤さんよりは。

 麗華様はふん、と踵を返すと他の生徒の指導に移る。それにしてもナマ先生は本当にろくに仕事をしない。ただ不思議なのは、このナマ先生の指示にあの麗華様が普通に従っていることだ。今までの動きを見る限り、麗華様なら逆らいそうなものだけれど。教師や大人の権力には案外と従順なのだろうか。

 ふと、ナマ先生が窓から何もない曇り空を見上げた。視線は焦点が定まらず、だが何かを見ている。僕のひげに嫌な気配を感じる。

「なんか寒くない?」

 佐藤さんが呟き、緩め気味のリボンを締め直した。他の女子もうなずいてブレザーの袖を手元に引っ張ったりしている。暑がっていた男子までブレザーを着始めた。

「吸熱反応だから寒くなったんじゃない?」

「相変わらずバカね。山本みたいに全員が山盛りに試薬を使っても室温を下げるほど吸熱するわけがないわ。計算すればわかるよ」

 麗華様は素早くノートに計算式を書いて山本くんに示した。それ中学二年生の範囲をとっくに超しているんですけど。でも山本くんは素直な笑顔で答えた。

「やっぱドクターは頭良いよな、昔から」

「私だって、昔からとかじゃなく!」

 不機嫌な声で麗華様は反駁し、そして眉をひそめて自身も自分の肩を抱きしめた。

 ふとまたナマ先生に視線を巡らせる。先生は猫背を伸ばし、薄ら笑いを浮かべて教室を見回していた。そしていきなり麗華様は白衣を脱いで天井に放り上げつつ、僕の両耳を掴んで引っ張り上げると叫んだ。

「神力をこの身に宿せ! 魔法少女ワーク・ライフ・バランス!」

 麗華様が光に包まれ、黒のタイトスカートとジャケット、ブーツに変わり、そして落ちてきた白衣を羽織る。僕と麗華様以外は動けない空間になったはずなのに、ゆらり、とナマ先生が動いた。

「やはり何かおかしいと思っていました」

「鋭いね。なぜわかった」

 ナマ先生の口から別人のようなしゃがれた声が発される。だが麗華様は冷静に返した。

「ナマ先生にしては働きすぎです」

 あれで働きすぎかよ。普段どれだけ働かないんだよ給料泥棒だろ。僕の内心の叫びと耳の付け根の鬱血に気づいたのか、麗華様は僕をようやく床に解放して呟いた。

「今は働かなくてナマケモノのナマ先生だけど、仕方ないんだよナマ先生も」

 優しい声音に、僕は麗華様、いや、魔法少女が気迫負けしたのかと不安になる。でも魔法少女は不敵な笑みを浮かべると手元の秤を鷲掴みにして握り締め、一瞬で鉄粉に変える。そしてその粉末をナマ先生に殺到させた。

「鉄粉よりそのまま秤をぶつけられた方が、はるかに痛いんだがね」

 ナマ先生、否、先生にとり憑いた魔の者が嘲笑う。だが魔法少女はさらに水道の蛇口を捻って水を吹き上げると、塩化アンモニウムと水酸化ナトリウムの瓶を全て魔法で持ち上げて割ってしまう。途端、それらが反応して酷い刺激臭に見舞われた。

「ちょっと乱暴だよ! 魔法少女あのさ」

 魔法少女は僕の注意なんて無視して笑みを浮かべたまま、ナマ先生も自身の周りに魔法で舞う鉄粉に怪訝な視線を向けつつ嘲笑う。

「こんなガス程度で魔の者が祓えるものか」

「でも貴方、冷気が好きなのだから、熱いのは苦手なのでしょう」

「ああ苦手だがそれがどうした」

 言った途端、鉄粉がナマ先生に張り付いた。

「熱い! 何しやがった魔法少女め!」

「先ほどの授業を忘れたかしら。塩化アンモニウムと水酸化ナトリウムの反応では塩化ナトリウムを生成。塩と鉄と水があれば、素敵な使い捨てカイロの出来上がり」

 何だこの戦い方。あまりに予想外で僕もどう対応すべきか見当もつかない。だが魔の者も予想外なのか、苦悶の声をあげる。

「畜生、魔法じゃないのか! 魔法じゃないならこの熱から逃げられない」

「どうせそんなことだと思っていたわ」

 苦悶に混じり、気怠げなナマ先生の声が聞こえた。

「予定外の実験が好きですね、鬼塚くんは」

 魔法少女は自信たっぷりに叫んだ。

「そう大好き! だって私は誇り高き理科部長だもの」

 そしてナマ先生が崩れるように倒れ込み、魔の者の脅威は去ったのだ。


 あれから麗華様は魔法少女を解除して授業に戻った。当然、全員の記憶は不自然にならないよう僕の方でちょちょいと幻惑。不足した試薬は麗華様が山本くんを手下としてこき使いながら再配布して授業を終えた。

 帰り道、僕と麗華様は並んで歩きながら今日の事件について話していた。

「結局ナマ先生のナマケモノは魔の者とは無関係だったのか。魔の者の方が少しは授業やる気を出していたとかおかしいだろう」

「でも、ナマ先生は好きに実験させてくれるよ。私にとっては最高の顧問なの」

 麗華様を野放しにする顧問ってそれ、かなり問題あると思う。それに自由とはいえ、麗華様なら不満や軽蔑を抱きそうなものだけれど。僕の疑問に気づいたのか、麗華様は今までになく優しい声音で語った。

「ナマ先生は、東京の忙しい職場で科学を使った海外との難しい交渉を続けた末に、心を痛めてしまわれたんですって。本当は中学校の先生をされる人ではないの」

「だから、ワーク・ライフ・バランス?」

 僕の質問に麗華様は視線を合わせず、吐き捨てるように言った。

「心を痛めていても、ナマ先生は私の実験を見守ってくれるの。私、そんな人に向けて嫌味の名前をつけない」

「その名前、嫌味なんだ?」

 僕の質問がいけなかったのか、麗華様は無言で僕の耳を掴んで顔の高さに引き揚げ、知らない、とだけ呟くと再び僕を地面に投げ出した。

 麗華様は何か、難しい子だ。

 変な子だと思ったけれど、それ以上にこの子は。

 だが、僕の思考は曲がり角を折れた途端に打ち切られた。山本くんが待っていたのだ。

「遅いぞ、麗華」

「翔太が早すぎるんだよ。そんなに私のことを待ちかねていたのかしら」

「んなわけねーだろ、お前みたいな」

「「腐れ縁」」

 二人の声が重なり、二人ははにかむように笑う。そして麗華様はあらかじめ用意していたらしき紙片を僕の目の前に落とした。

『勘違いしないで。ただ幼なじみで食料庫ってだけなのだから。ギブアンドテイクだし』

 紙片には変な言い訳が書いてあった。確かに甘酸っぱい幼い恋といった雰囲気は感じさせず、今も麗華様は山本くんが授業で理解不足だった箇所を説明している。

 十分ほど歩き、二人は麗華様の隣の家に着いた。表札には「山本」となっている。

「ただいまー。母さん、今日は麗華も一緒」

 玄関を開けると純朴そうな太めの中年女性がエプロン姿で出てきた。どことなく山本くんと目元が似ている感じがする。いかにも優しいお母さんといった風だ。

「麗華ちゃんいらっしゃい」

「申し訳ありません、いつもお世話になって」

「いいのよ、うちのバカ坊主の姉みたいなものだと思っているし」

「俺、弟かよ!」

 山本くんの文句にお母さんは快活に笑う。麗華様も慣れた調子で家に上がり、爪先が玄関に向かうよう並べると、逆向きになっていた山本くんの靴も並べ直し、山本くんの頭を後ろから背伸びしてこづいた。うん、姉だ。

 山本くんのお父さんは帰宅していないけれど、山本くんとそのお母さん、さらに自身の食事を麗華様が台所から運ぶ。席も迷わない辺り、これが日常だとわかる。

「貴方の食事は」

「魔法の生物だから食べなくても大丈夫」

 こそっと麗華様が囁いてきたので、僕も魔法の力で周りに聞こえないよう答えを返す。麗華様は安心の吐息とともに、美味しそうだね、と山本くんと笑いあい、手を合わせていただきます、と言って食事を始めた。

 今日の夕食はオムライスと海藻サラダ、それにじゃがいもの味噌汁で、麗華様のオムライスは山本くんより小ぶりだ。麗華様がオムライスにスプーンを入れると、中から爽やかな香りの湯気が立ち上がった。チキンライスに緑色の破片が混じっている。これはローズマリーとバジルの葉だ。それらのハーブが鶏肉の香ばしさをより引き立てて格別のチキンライスにしていた。

「麗華ちゃんがネットで見つけたレシピ、使えるようになったの」

「さすがはおばさん、お料理が上手ですね。私は情報を探すしかできませんもの」

「うちの坊主は食べる以外やらないけどね」

「母さん、俺をいちいち比べるなよ」

「比べられたくないなら、身長と誕生日以外に何でも良いから麗華ちゃんに勝ってみな」

 なかなか山本くんのお母さんは辛辣だ。というかひいき目に見ても、麗華様相手に何でも良いから勝てと言われるのはかなり厳しい。だが山本くんもそこで勝てるわけがないと認める気はないのか黙り込み、それでも麗華様に学校やスポーツの雑談を振っていた。

 食事を終えて食器を洗ったあと、麗華様は山本くんの家をあとにした。すぐに麗華様の玄関に辿り着き、僕は麗華様を見上げる。麗華様は一瞬考え込み、そして僕を抱き上げるとタブレットを操作する。すると家の鍵が開錠された音がした。

「お母さんですかね」

「タブレットでも家の鍵は開けられるのよ」

 僕の問いに麗華様は平板な声で答え、ドアノブを回した。真っ暗な廊下に電気を点けて家の中に進んでいく。先ほどの鍵も磨き上げられた床材や靴箱の上に飾られた花瓶からも、いずれも山本くんより裕福な家であることが随所で明らかにわかる。

 そして居間に着くと、映画館とまでは言わないまでも巨大なテレビと七つのスピーカーが部屋の奥に配されていた。手前には木製の簡潔な欧風のテーブルが置かれており革製の重厚なソファもある。モデルルームのように整えられた部屋だった。

 そう、モデルルームのように完璧に整えられ、山本くんの家にあったような読みかけの新聞や使い込まれた急須、雑多な文具の入った缶やティッシュ箱といった、生活臭のするものが何一つない部屋だった。

 麗華様は床に鞄を置いてソファに座り、タブレットで動画を観始めた。

「あんな大きなテレビがあるのだから、あのテレビで観た方が良いのではないかね」

「独りで見るには大きすぎるもの」

 麗華様は不機嫌に答えてまたタブレットに視線を戻しかけ、あらためて僕を見ると顔の横に僕を抱いてタブレットを見せてくれる。

「間違ったわ。今日は一人と一羽だったね。でもやっぱりタブレットで十分でしょう」

 感情のない声で言って麗華様はニュースをじっと見つめる。本当にこの動画を見たいのか疑わしいけれど、それに触れてはいけない気がした。結局、麗華様が眠りにつくまで、麗華様と僕はソファに区切られた小さな空間の中から動かなかった。

 そして朝まで、帰宅する者は誰一人いなかった。

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