俺は魔法で炎の玉を放った。だが魔人の障壁ではね返された。衝撃波が襲ってくる。魔人の背後には一つ目巨人や小鬼が居並び、俺を指差してはやし立てていた。
死の顕現、悪夢の現出。
影帽子のように漆黒で、背中にはまだら模様の膜翼を生やしている。手脚は人間よりはるかに長く、アシダカグモを思わせる。何より特徴は邪悪な魔法だ。やつが一歩を踏み出すたび、草は枯れ木の枝は堕ち、硫化水素が漂い臭う。俺たち冒険者にとって、魔人は最悪の敵だ。
この村は三年前から、魔物が多く住みついていた森を焼き払い、沼を干拓してできた村だ。この一年は平穏が続いていたところ、村外れに小鬼が現れたそうだ。
大したことはないと踏んでいたが、着いてみたら小鬼を操っていたのが魔人だった。報酬は高めに吹っかけていたが、相手が魔人では割りに合わない。絶体絶命だ。
俺は懐に手を入れる。依頼主の村を出るとき、村長の娘が渡してくれた護符だ。大切な犠牲と引き換えに偉大な魔法が使える、記憶の護符と呼ばれる宝具だそうだ。
俺が来る少し前に、数百年前の型のドレスを着て二頭の動物を連れた魔女が現れ、冒険者の助けになるはずだと渡されたそうだ。まあ、村長が見栄を張りたかっただけの偽物だろう。平凡な開拓村に、そんな伝説の勇者を救うような都合の良い話なんてあるわけがない。
だが、魔人の前に立っては。
魔人がしししし、と嫌な声で嗤う。両手の爪先からどろりとした毒液が流れる。俺が倒した魔物たちは、毒液を浴びて腐臭とともに白骨化していく。
しししし、と俺を嗤う。俺に指先を向ける。
俺は護符を握り、村娘に言われたとおりに破った。とたんに女児のような甲高い声が脳内に響く。
『力がほしいか? 代償を払ってでも?』
「ほしい。今のやつを滅ぼす力を」
俺は即答する。声は答えた。
『では力を与えよう。代償は記憶だ。良いかな』
「好きにしろ!」
何が護符だ。悪魔じゃないか。だが今は力がほしい。記憶を奪う悪魔の物語はよく聞く話だ。その悲劇も。だが俺は天涯孤独だ。記憶なんて好きにすればいい。
魔人が手を振り上げる。俺の両手に、唐突に膨大な熱量が集中した。なぜか一瞬で使い方を理解できた。
俺は一息に剣を振るう。剣は爆炎を生じ、魔人はもちろん背後の魔物も含めてなぎ払った。
全ての魔物が消え、荒涼とした大地へと変貌した。
全ての魔力を使い果たし、大地に突っ伏した。脳に何かが入り込んでくる。何が奪われるのだろうか。考えても仕方ない。どうせ忘れることだ。
唐突に、優柔不断で嫌い、と好きだった近所のお姉さんに振られた場面をまざまざと思い出した。
「いや、なんでこんなことを思い出すんだっ!」
思わず独りで叫ぶ。と、先ほどの声が聞こえた。
『いや最高っす、君。その反応がほしかったんだよね』
俺は慌ててがばりと顔をあげた。
「おいどういうことですか力をくだされたくそ悪魔」
『ほめるかけなすかどっちかにしなさいよ優柔不断』
「だからそれを今、言うなっての!」
『うんやっぱり反応が良いわ』
だめだこいつ。冷静さを失うと喜ばせるだけだ。俺は深呼吸して、体力がきついのもこらえて座り直す。
「で、何なんだ。これから貴重な記憶を奪うのか悪魔」
『まず私は神で、悪魔じゃないよ。あとね、君たち人間族が大切な記憶とか言っているもの、どいつも同じ過ぎてつまらないんだよね。型抜き菓子みたいで飽きる』
「人様の人生を型抜き菓子って」
『こっちは永遠の生命なので見飽きているわけよ。で、面白いことを思いつきました。忘れたい過去を思い出させてその反応を見る! これがまあ大当たり』
「悪趣味極まりないな」
『みんな、忘れると困るっていうし、思い出させてあげるだけでしょ。大きなお世話って楽しいでしょう』
「ほんとにそれでも神様かあんた」
『一応は神ですよ。邪神様と呼んで。よろしくにゃん』
邪神といえば、おとぎ話に出てくる存在だ。魔王が神に成り上がった存在とも、神々の中で罪を犯した者だとも、単純に素行や思考回路がおかしい神だとも。
たぶん最後のやつだなこいつ。
「とりあえず助けてくれてありがとうございました。先ほどの記憶回復で代償も捧げましたしお疲れさまです」
『なんだ君、水臭いじゃないか。大地をこんなにしておいて、世間様がただで済ませると思っているのかな』
俺は魔人のいた場所に視線を向ける。大きくえぐられ砂漠化した土地。魔人討伐の代償ですと言っても、俺みたいな一介の冒険者がやったなんて知られたら、魔王崇拝者ではないかと疑われたり、ろくなことにならない。
『今だけ特別割引で、今後とも仲良くしてくれるならこの跡地、無償で直してあげても良いかなー、とか』
こうして俺は、邪神様と取引する羽目になったのだ。
「俺に、魔王軍の傘下に入って冒険しろだって?」
珍しくもうかる仕事が当たり、依頼された薬草を摘み始めると、邪神様がとんでもないことを言いだした。
俺はちょいと小鬼を狩ったり、古代遺跡探索で遺物を売ったりするしがない冒険者がお似合いなのに。よりもよって魔王軍に入って人間と戦うとか頭がおかしい。
『だってつまらないでしょ、薬草摘みなんて地味だし』
「地味にこつこつ冒険していくのが俺の主義なんで」
『それが通じるなら、世の中も楽なもんだけどねえ』
なんだこの何か起きそうな言い方。と、正面に濃密な危険の気配がした。俺は剣を構えて後退しようとする。だが足元が急に動かなくなった。
慌てて見ると、先ほど摘んだ薬草の切り口から太い蔓草が生え、俺の足首に巻きついていた。俺は慌てて、かばんに常備している魔物携帯図鑑をめくった。
つるつる魔草。葉は高価な回復薬になる。葉を刈り取ると、刈った者を蔓草で捕まえて地中に引き込んで肥料にする。奴隷が禁止される以前は、おとりが引き込まれたあとで葉のみ回収することが多かった。
「俺はおとりか」
脳内でげたげたと嗤う邪神様の声が聞こえる。
『やっぱり最高。今の気分を歌で歌ったらどんな曲?』
「今は忙しい黙ってろ邪神様」
俺は必死になって短剣で蔓草を切っていく。だがそれを超える速さで蔓草が伸び、ついに俺の胴体を巻き始めた。蔓の一部は土を掘り返している。ちょうど俺の身長ぐらいだ。草のくせに脳みそでもついているのか。
『土の中って暖かいらしくて眠るにはよさそうね。永遠の眠り、なんて言ってみたり』
「笑えねえよこの邪神。俺をはめたのか?」
『一応はこれでも神様なので、はめるようなことはできません。ちょっと黙っていただけ』
もうわかった。要はあれだ、助けを乞えと。わかっていますよこの危機的な状況は。俺は肚を決める。
「邪神様、お力をお授けくださいな」
『まいどありがとうございます冒険者様』
途端に俺の体に力が満ちあふれ、両手に暴風の魔法が宿った。俺は一息に短剣を振るい、つるつる魔草を土中の根元から全てを刈り取ったのだった。
俺はその場に倒れ込む。頭の中で荒い呼吸音が聞こえる。本当に邪悪で下品な神様だなこいつ。
唐突に記憶がよみがえった。それは四歳の頃、果物と間違って胃薬のゴシュユの実をつまみ食いした日。あまりの苦さにもだえて転がり、皿を割って一晩飯抜きにされたという、また違う意味で苦い思い出だ。
味まで鮮明に思い出し、俺はその場に転がった。
『大人になっても転がるとか、ちょっとかわいいわね』
「大の大人がかわいいと言われるのは恥ずかしい」
『穴があったら入りたい? ちょうど穴はあるけれど』
また邪神様がげたげたと笑う。本当に面白くないわ。と、俺はふと気になったことを聞いた。
「邪神様ってもしかして、女神様なのか」
俺の言葉に、邪神様は急に笑いを止めた。
『なんでそんなことを言うのかな、この面白人間は』
「声が高いし、言葉遣いが女っぽい感じがするぞ」
俺の言葉に邪神様はびたりと黙り込む。あまりに急な沈黙で不安を感じ始めた頃、邪神様は声を発した。
『君のそういうとこ、嫌いなんだよ』
今までにないほど真面目な声に、俺は返す言葉が見つからず黙り込む。顔が見えないぶん、そっぽを向くこともできず逃げられない気分になる。
逃げられない。
なぜ逃げられないと思った。邪神様から。今の重い空気から。いや、違うもっと何か、大きいものから。
俺はもっと大切な何かを、忘れている気がした。
邪神様に懐かしい何かを感じた。
なぜこうなった。俺は頭を抱える。腕を包む白色の衣と右手に握った聖杖に、俺は現実感を感じられない。
「魔人討伐の成果はまさに、聖騎士にふさわしい。これからも魔人討伐に注力していただきたい」
厳かな音楽が演奏される中、司教様が言葉をかける。何が聖騎士だ。こっちは地味でも自由な冒険生活を過ごしたいんだ。聖騎士なんて固っ苦しいのはまっぴらだ。
だが、そんなことを言えるはずがない。国教の女神真教に逆らうなど、貴族様でも尻込みするようなことだ。
俺というか邪神様による魔人の討伐成果は、どういう流れか女神真教の本山にまで話が及び、俺はめでたくも聖騎士とかいう地位に叙勲されてしまった。邪神様のくれた魔法が、女神様の奇跡と似ているらしい。
司祭たちは村人たちに、魔物の居住範囲を焼き払って開拓するよう勧めて歩いている。そのくせ、最近の教会は魔人討伐実績が芳しくない。さらにあくどいことに、最近は俺ら冒険者にまで魔人討伐経費として喜捨を半強制してきやがっていた。俺も酒の席では、聖騎士ならぬ贅騎士とか言って冒険者仲間と怒っていたもんだ。
で、女神様の奇跡と似た魔法で魔人討伐ってことで、新しい目玉となる英雄のできあがりって寸法だ。
『いや、どうしようね。魔王討伐軍で頑張る? 応援はしてあげるけどさ。多少は記憶の割引してあげるけど』
邪神様がこらえきれない感じで脳内で笑う。俺は邪神様を無視して、事前に言われていたとおりに剣を捧げて司教様に頭を下げた。司教様は頭のうえに聖水をふりかけてうなずき、ゆっくりとまた言葉を発する。
「魔人討伐に向け、軍にて訓練を積まれるかな?」
冗談じゃねえ。たしか聖騎士様って言えば、貴族様の三男坊だの、神官になったものの儀式が嫌いで体力自慢のやつだのが集まっているとか聞いている。
俺みたいな庶民の元冒険者なんてろくな扱いされないに決まっている。俺の父なんて。
思って首をかしげる。父の仕事って何だったか。つか自分の生まれた村のこともよく思い出せない。急に不安になったけれど、今はこの司教様への答えが先だ。
「俺はその、冒険者の生き方が性に合うんで、なんとか今までどおりにやれないもんっすかね」
「それなら自由聖騎士はいかがですかな。聖騎士の身分はありつつも、ご自身の裁量で討伐を進められますよ」
司教様はにまあ、と穏やかに見せたふりで灰色の笑みを浮かべた。こちとら長年の冒険者稼業だ、偉そうなやつの笑みの裏はそれなりに読める。
『それなりじゃなく、具体的に読ませてあげようか』
この邪神様、腹が立つほどかゆいところに手が届く。俺が同意すると、途端に司教様の思考が流れ込んだ。
『報酬が高くなると思っていたが、自由聖騎士なら見込みより安く済む。差額は私の昇進に向け、大司教様への贈り物に使えるな。なんと善き日だ。神に感謝しよう』
すげえな司教様。灰色どころか腹ん中真っ黒だった。まあこっちは頭の中に邪神様を飼っているけれど。
『ちょっと私、君のペットじゃないんだけど』
反論する邪神様を無視して、俺はあらためてうやうやしく頭を下げ、今日の儀式をやり過ごしたのだった。
『さあて今日のお楽しみです』
いきなり記憶がよみがえる。父の長剣を持ち出して遊んでいたら、間違って肥だめに落としてどやされた日だ。烈火のごとく、という言葉の意味を初めて理解した日とも言う。俺は臭い剣で追いかけてくる父から逃げ惑い、その日から三日間、肥だめの世話係をやらされた。
母ちゃんも全くかばってくれず、むしろわざと俺のことを臭いとか言いやがった。まあ俺が悪いんだけどさ。
身分は違うのに、そんな俺と一緒にいたずらをして、けれどいつも優しかった***のことが懐かしい。
「何だ今の記憶」
恥ずかしい記憶の終わりに、うさぎとくまのぬいぐるみを抱いた、ドレス姿の女の子が見えた。だが、顔が見える前に記憶の再生が唐突に打ち切られた。
『面白い反応に、邪魔なものは見せないもーん』
邪神様がけたけたと笑う。その笑い声には、ほんのかすかに陰があって。でも、その指摘はまずい気がして。
俺はあえていつもどおりに邪神様へ文句を言った。
「さすが邪神様は極悪だよな。あくまで思い出したくないことだけきれいに切り取りやがるんだから」
『邪神たるもの、自分の欲求に正直なのですよ』
はぐらかされた。でも相手は人違いならぬ神様違いとはいえ、教会もその力を認めたじゃ邪神様なのだ。俺が問い詰めてどうにかなるわけがない。それでも、あなたはいつまで何を隠しているのだろう。
何で俺は今、この邪神様を「あなた」なんて、なれなれしく思ってしまったのだろう。
悪口ですらない、いかにも親しいような。
昔から知っているような。
昔から、親しかったような。
昔は、覚えて、いた、ような。
邪神様、あなたは。
俺はあなたのことを。
忘れたくなかったのに。
忘れてはいけなかったのに。
あなたは俺の。俺の、誰だったんだ。
『まあた、おさぼりかな』
「俺は激務が嫌いなんだよ。前から言ってるだろ」
俺は討伐を避け始めていた。邪神様の力を使えば魔人討伐の成果でもうかることもわかっている。もうけ話なのだから、冒険者の俺が戦いを嫌がるはずはないのに。
いや、うっすらとわかっていた。昔の魔王軍は人間の国々を襲撃して略奪を働いていた。でも今の魔王軍は違う。魔物ごと森を焼き払った開拓村や、それを勧める神殿だけを襲っている。そして何より、逃げる村人たちと子どもたちを襲わない。はぐれた子どもに食事を置いていったなんて話まである。だから気が進まないのだ。
戦うにつれ、聖騎士の肩書が目障りになる。俺は酒店で、だらだらと酒を飲みながら店主にこぼした。
「魔王軍は、魔物を守っているだけじゃないか」
すると、俺よりずっと年上の店主が首をかしげた。
「魔王軍が開拓村だけを襲うのは、昔からだろう」
「そんなことはないぞ。俺は都市防衛戦でも……あの都市、なんて名前だったかな」
額をたたいて思い出そうとしていると、隣りに座った白髪の老魔導士が苦笑して言った。
「都市防衛戦を知っているとは、戦士のわりに君は学があるのだな。最後の都市襲撃は百年も前の話だよ」
店主は俺の話を冗談だと思ったのか、大声で笑う。だが俺は、うっすらと覚えている。都市防衛戦に俺は参戦した。なんとかそれも勝ち抜き、また旅を続けたのだ。
だいたい俺なんて冒険者になって、ずっと長い旅をしてきた。長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い時間。
俺は椅子から転げ落ち、膝をついた。
俺は何年、冒険者をやっていた。
俺は何十年、冒険者をやってきた。
僕は何百年、あなたから。
この何百年もの間、あなたから逃げて。
「なんであなたは、邪神様だなんて名乗ったんだ!」
僕は叫ぶ。思い出した。
絶対に忘れてはいけなかったことを思い出した。
『久しぶりに、ちょっとだけ意地悪したかったんだよ』
泣き虫だったあなたの声が聞こえる。
姫殿下の声が聞こえる。
神託の勇者として旅立った僕は当時、十二歳だった。
幼少の頃、姫殿下の学友として過ごした。姫殿下は聡明ながらも冒険物語を好み、下々の者とも分け隔てなくふれあい、そしていたずらの大好きなお方だった。
その姫殿下が、唐突に魔王に誘拐されたのだ。姫殿下の奪還を誓約した出立の日、僕は自らの魂に不死の呪詛を刻み込んで魔女の館を探し続けた。
何年、何十年、そして何百年。
唐突に俺は姫殿下の探索から逃げだした。果てのない魔王城の探索から逃げて自分の名を隠して、面倒を忘れて楽しく過ごそうと思った。全てを忘れることにした。
そしていつのまにか、自分の名前すら忘れていた。
『それで良いのです。君は壊れる寸前だったの。だからひそかに魔法で背中を押したの。全てを忘れるように』
甲高いようで甘くて懐かしい、姫殿下の声が響く。意地悪な邪神様の仮面を捨てた、優しい声が僕を誘う。
『もう逃げなくて良いのですよ。探さなくて良いのですよ。だから私と、魔王軍で一緒に過ごしましょうよ。君だって、とっくに人の道から外れてしまったのだから』
急がなくて良いからと姫殿下は言うけれど、僕はすぐに城下町を後にした。姫殿下のいたずらっぽい声が俺を導く。歩みを進めるたびに記憶が戻ってくる。
山を越え、毒沼すら踏破した。そしてついに、僕は巨城の前に立っていた。これが伝承にある魔王城か。
だが、禍々しいはずだった魔王城の前には桜と水仙が咲き、漆黒でありながらも曲線で構成された、むしろ神殿よりも優しい印象の城だった。何より両翼には、桜色のかわいらしいうさぎとくまの彫像が座っていた。それらは、姫殿下が好きだったぬいぐるみとそっくりで。
ゆっくりと門が開いて、魔王が姿を現した。
一日たりとも忘れてはいけなかった顔。
夢の中ですら追い求めた人。
僕が救いたかった。
僕が守れなかった。
僕の大切なお姫様の、ちょっとたれ目で泣き虫の顔。
「なぜに姫殿下が、魔王に」
「私を誘拐した魔王がね、気まぐれで私に魔法を教えてくれたの。私は魔法使いの才能があったの。でも、魔王城からは逃れられなかった。私は齢をとらなくなっていたの。だから百年前に、私が魔王の跡目を継いだの」
「僕が遅かったばかりに」
お姫様は小さく首を振ると、僕の頬をそっとなでる。
「そんな風じゃなく、昔みたいにお話をしましょうよ。ねえ炎龍。私の大切な、この世界でたった一人、昔のままのお友だちの、炎龍」
僕のことを炎龍って呼んでくれる人なんて、今はもう誰もいないのに。僕自身も忘れていた名前なのに。
なのにお姫様は、僕のほっぺを子どもみたいに両手で挟む。ぐにぐにと優しくもみ動かしながら、いたずらっぽい笑顔を向けてくれた。
「お姫様、つらくても僕はあなたを忘れたくなかった」
「私も、君に忘れられたままは耐えられなかったの」
僕たちの思い出の時間が、またゆっくりと始まる。
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