文芸船

青いヴァカンス(下)

 列車に乗ってからは桑の実ジュースを飲んだり弁当を食べたり太田さんの寝顔を眺めたりと、それなりに長く乗っているわりには楽しい時間を過ごした。ここだけの話だが、太田さんは意外に穏やかな可愛い寝顔なのだ。時折何やら口をもごもごと動かしてふにゅふにゅと言うのは面白いというか可愛いというか。とはいえ携帯で写真でも撮った日には当然に変態と呼ばれてしまいそうので、さすがにそんな暴挙はさすがにしなかったが。

 八戸駅で降りると新幹線に乗り換え、そのまま僕たちは新花巻駅に着いた。列車を乗り継いだせいで気づかなかったが、北海道と異なり、肌に粘りつくはるかに濃密な暑さだった。太田さんは憂鬱そうに空を見上げた。

「雨が欲しい。雨が降れば涼しくなるよ」

 僕は首筋に溜まった汗を手で拭きながら、湿気で余計に蒸すだけだと反論する。太田さんは返事もせず虚ろな目でペットボトルを逆立ちさせ、水を一息に飲み干す。僕もお茶を数口飲んで暑い太陽を恨みがましく仰いだ。

 そうやって二人で暑さに負けかかった頃、ようやく宿へのバスが到着した。僕たちは急いで乗り込むと車内の冷房で一息つく。太田さんは襟を人差し指で引っ張りかけてから、僕の方を見てにやついた笑みを浮かべた。

「危ないな。君は私の寝顔を嬉しそうに眺める変態くんだということが今日わかった」

 僕は背もたれに預けきっていた体を慌てて起こした。太田さんは僕の顔を覗き込むと、歳の離れた姉貴分のように悪戯っぽく笑う。

「変態くんは冗談。だがお灸はいるよね」

 相変わらず太田さんは笑顔のままだ。どこまでが本心なのか、男としては笑っている方が逆に怖い。そんな僕の気持ちを見透かしたのか、太田さんは僕の頰を優しくつついた。

「帰りの列車は私が起こしてあげるから安心して良いよ。君の可愛い寝顔が楽しみだ」

 今回の旅では、しばらくこの話題で玩具にされることが決まったようだ。


 花巻駅から遠ざかるにつれ、周辺が水田地帯に変わってきた。広い水田の中に小さな林がぽつぽつとあり、その林の中に住宅が建っている。来る前に調べた話では、この地方の農家は防風林を家の周りに配するそうだ。

「狭いところにずいぶんといるものだね」

 太田さんの疑問に、水田と防風林を合わせれば充分広いだろうと答えると、彼女は家ではなく神社を指差した。確かに農家の防風林より少し大規模な林が幾つもあり、それらの林の隙間からは小さな神社の姿が窺えた。

「ほら、ここにも神社があった。太田神社なんてぽつんとして寂しいものだけれど」

「ぽつんというより完全に山の頂上だろ」

「そのぶん海がよく見通せる。良い山だよ」

 何とも理不尽な太田理論が展開される。僕は苦笑して窓から外を眺めた。北海道より温暖な気候であるせいか、植物は全体に穏やかな雰囲気に見える。瓦屋根の家が多く見られる点も本州にいるのだと実感させられる。

「やはり北海道は気象が厳しいようだね」

 僕の呟きに太田さんはまた反論した。

「そんな北海道でもあれしか神社がないよ。穏やかな場所に沢山の神はいらないよ」

 太田さんはまだ神社の数にこだわりがあるらしい。続けて太田さんは物覚えの悪い生徒に説明する先生のような口調で言った。

「神なんてものはね、自然を上手く循環させていれば充分なものだと思うよ。人間だって自然の一部だから、そんなほんの一部だけ特別扱いするなんておかしいじゃないか」

「だけど、神様に祈るのは人間だけだろ」

「祈られたから働くなんて、まるで商人じゃないか。神は商売で動くものではないよ」

 僕はでも、と言って言葉を続けられなくなる。太田さんの言っている方が筋は通っている感じがする。というか僕は無宗教に近い人間なのだからこんな論争に大して興味はないけれど、この言い負けた感じは嫌だと思う。だからちょっと意地悪なことを言った。

「でも世界は神様が作ったとか言うだろ。僕はそんなことを信じていないけど、でも神様が作って人間がこれだけ繁栄しているなら、えこひいきだってしていそうじゃないか」

 太田さんは今までにない冷たい視線を僕に向け、呆れた声で言った。

「この世界を作った神なんて壮大な馬鹿がいるなら私は会いたくないね。他の生き物を殺して食わないと生きていけない。そのくせ死ぬときは苦しいとくる。そんな世界を作って喜ぶような神は悪趣味な奴に違いないさ」

 どの宗派だろうが、宗教が好きな人が聞いたら怒りそうなことを平然と言い放つ。いつも神社を待ち合わせ場所にしているくせに。いや、ここまで言い放ってしまう人だからこそ神社を気軽に目印にするのかもしれない。

 と、いつの間にか僕たちの後ろの席に乗っていた年配の男が話に割り込んできた。

「中には人間に肩入れする神がいて構わないと思うがね。建物の神や薬の神、道路の神など神なんて世の中に沢山いるだろうが」

 男は結婚式の帰りなのだろうか、羽織袴姿で、酒臭くはないがかなりの赤ら顔だ。太田さんは傲慢な笑みを浮かべ、男が視線を向けていた道路工事現場を指指して言った。

「道路、道路ね。人間の作った道だね。獣道より人間の道路が大好きな神もいるね」

 男は工事現場からは目を離さず、高い鼻を搔きながら不機嫌な声で言い返した。

「自然に根ざした神が古い神だからと言って偉いとも思わないがね。だいたいその神々も自然を守りきれていないではないかね」

 神様論争が妙な方向に進み始めたと思う。だが何故か僕は口を挟めなかった。さらに男は僕を指差して太田さんに言った。

「例えば彼が自然を循環するのに邪魔になるということでこの辺のどこかの神が彼を襲ったら、あなたはその神を許せるのかね」

 太田さんが拳を強く握りしめる。僕は慌てて太田さんの手を掴んで男を睨みつけ、なるべく感情を抑えて低い声で訊く。

「なぜ私たちにそうやって絡むのですか」

 男は窓の外を眺める。空に浮かんだ雨雲に顔をしかめ、再び太田さんに視線を向けた。太田さんは表情を緩めながらも男を再び睨みつける。男は溜息をついて肩を竦めた。

「興味があったからだろうが。だからあなたたちの後ろに来て話しかけたのさ」

 話のためにわざわざ席まで移ってきたというのか。ずいぶんと面倒な酔っ払いだ。だが男は妙に澄んだ視線で僕に話しかけた。

「君には難しいよ、彼女は。本当に難しい。君は彼女のことをどれほど知っている。儂との話にすら割り込めなかった君に、果たして彼女の思いを理解できる自信はあるかね」

 太田さんは僕の肩を押して前を向くように促す。僕もこれ以上この男とは話したくなくて一緒に前を向いた。運良く下車する停留所が次だったので、ほんの数分後に僕たちは男には挨拶もせずにそそくさと下車した。下車した後にすぐバスの中を覗いたが、男は腰でも曲げているのか、その姿は見えなかった。


 下車した場所は農村の田舎の風景で、真向かいには例によって小さな神社が、少し先には鉛温泉の立看板が見えた。道路を横断すると、太田さんは神社に走って行って鳥居の前で片手を上げて会釈する。僕が何をしたのか訊くと、太田さんは当然のように答えた。

「挨拶だよ、ただの」

 さっきの仕草はどう見ても友達か後輩に挨拶しているような態度だ。黙って通り過ぎた方がまだ罰が当たらないで済みそうだと思う。無宗教のつもりが、太田さんといると逆に神様とかを意識してしまうのは何だか悔しい気がする。でもそんな太田さんの態度は不思議と自然で、魅力的に感じてしまうのもまた事実なのだ。太田さんは僕の戸惑いを構わず、むしろすっきりした様子で僕をせかすと先頭に立って温泉宿への道を降りて行った。

 一人一部屋という条件では旅館部は宿泊出来ないため湯治部で予約していたのだが、案内された部屋は予想していた以上に老朽化していた。畳も何だか少し柔らかいし出入り口の建てつけも悪い。廊下の床も古めの学校か役所の廊下のような雰囲気の造りとくる。

 だが太田さんはさっさと浴衣に着替えると僕の部屋に上がり込んできて言った。

「思ったより女々しいね、君は。自分で言っていたじゃないか、北海道に湯治型の温泉は少ないから、古くても良い機会だって」

 太田さんは明るく笑って窓を開けた。窓の下には大きい川が轟々と鳴っていた。天然の川石が敷き詰められた河川敷を勇壮に流れる大量の川水は透明で、雨雲の隙間から洩れる夕日を浴びた、川面に覆い被る木々は暗緑色の影を淀みの奥へ落としていた。

 太田さんは水面を下流から上流に向けて指で辿り、ぼんやりした調子で言った。

「山は好きだけどね、水がないと落ち着かないんだよ。大量の生きた水が身近にないと、私は耐えられないほど寂しくなるんだ」

「寂しく、なる」

 訊き返すと、太田さんは口を尖らせた。

「面倒な奴だと思っているかもしれないし、手間のかかる場所でしか会わないけれど、これでも意外に私はかなり寂しがり屋だよ」

 太田さんは頰を赤くして、卓袱台に置いた僕の腕時計を慌てるように掴んで見た。

「名物の湯が女子専用の時間だ。行く」

 ぶっきらぼうに背を向けると、太田さんは湯へ走って行った。その背中はかすかに、いつもより小さく見えたような気がした。


 太田さんは僕の部屋に戻るとすぐに部屋の畳に転がった。眠るわけではなく、だが黙ったまま両目を閉じている。僕も何となく声を掛け難くて何も話しかけられずにいた。

 バスの中での会話を思い返す。僕はどれほど太田さんを理解しているのか。そもそもまだ会って三回目なのだから、そんなに何もかもを理解できるはずはない。とはいえ、彼女が時折発する奇妙な発言には僕も戸惑うことが多過ぎるような気もした。非常識の多い彼女と一緒にやっていけるのだろうか。バスの中で繰り広げた神様論争のとき、何かの宗教の信者よりも遙かに遠い人に思えた。ほんの少しだけ、妙な怖さすら感じてしまった。

 だが太田さんの沈黙した顔を眺めているとまた不安が小さくなっていく。彼女は非常識なところはあるけれど、他人に迷惑をかけるわけではない。むしろさっきの男の方が酷いと思う。そうだ、きっと嫉妬されたのだ。

 僕は何だか穏やかな気持ちになってそっと声をかける。太田さんは片目を開け、良い湯だったよ、と小さな声で答える。僕はまた理由のわからない不安が大きくなって、太田さんに体を寄せる。太田さんはようやく起き上がると窓の向こうに目を向けて言った。

「立ち湯はかなり気持ちよかったよ。くり抜いた岩の中にね、ぼんやりと立ったまま湯に包まれているとなかなか安らぐものだ」

 でもね、と言葉を切り、バッグから取り出した桑の実ジュースを一口飲んで続ける。

「身長ぐらい深くて底まで全て岩なんだよ。その上透明な湯だ。だから湯が青くてね」

 湯が、青い。太田さんの言葉を僕は鸚鵡返しに呟く。太田さんは再び両目を閉じた。

「磯場の浅海のように湯が青すぎるんだ。海藻の枯れてしまった、麓の海のように」

 どこの山の麓だろうと一瞬思い、すぐに太田神社の真下の海のことだと気がつく。僕はあの南海の海のように真っ青な日本海と、太田神社に繁る緑の対比を頭に浮かべた。

 太田さんは僕にタオルを投げると再び卓袱台の僕の時計を見て、もう男湯の時間だよと告げる。たぶんその湯に入ってこいと言いたいのだろう。部屋を出ようとすると、太田さんは僕の背中に向けて小さく声をかけた。

「君なら、私をわかってくれるのかな」

 僕は返事が出来ないまま湯へと向かった。


 扉を開けると急な階段があり、吹き抜けの底に小判型の湯船が見下ろせた。湯船を含めた床は少し青みがかった灰色の石床で、体を洗う蛇口の類は一つも付いてない。湯船には中年の先客が二人、黙ったまま入っていた。

 僕は小判型の湯船から桶で湯を汲んで何度か湯をかぶると、そっと湯の中に降りた。湯船の縁は少し浅くなっていて座るのに都合が良い。中心はさらに一段下がっていて立ったままでちょうど肩までの深さがある。それほど熱くはないのだが、段を降りて中心に向かうと水圧のせいか胸の辺りにほのかな圧迫を感じる。だがその圧迫感が逆に心地良い。

 しばらく中心に立っていたが、湯あたりしそうなので湯からあがると、足だけを入れたまま湯船の縁に腰かけた。座る位置を変えただけで入り口から見下ろしていたときと全く別な風景に見えるのだから不思議なものだ。

 床とほぼ同じ高さの水面の向こうに、掘り残した石の塊が光の加減で妙に白っぽく見える。湯を手にすくってみるとほぼ透明で、再び湯を湯船の中に返してやる。再び湯をすくいかけ、太田さんの言葉を思い出した。たしかに石風呂の中で湯をすくっていると、夏に岩場の海で遊んでいるような雰囲気だ。

 顔を上げ、浴槽をぼんやりと眺めた。窓から漏れる光を吸った湯は淀みない海のように水色の輝きを返しているのだ。だがそれは沢山の生物が棲む磯場ではなく、ただひたすらに青いだけの閑散とした岩場の海だった。太田神社の麓で、太田さんが海水を飲んで薄すぎると呟いた太田さんの姿が唐突に目に浮かぶ。僕は太田さんを放置してはいけないと閃いた。

 僕はすぐに浴槽から上がると浴衣を着込んで部屋に真っ直ぐ戻る。太田さんは雨の降り始めた窓の外をぼんやりと眺めていた。背中にそっと声をかけると、太田さんはゆっくり振り向いて、わかったかな、と呟くように訊いてくる。僕は黙ってうなずいた。太田さんは少しだけ緩んだ表情を浮かべて言った。

「昔はあんな何もない透明な青じゃなかったんだよ。全て枯れてしまった。なのに私は、ぼんやりと青い湯の中に立っていたんだ」

 太田さんの言うことはわかる。悲しい気持ちもわからないでもない。でも太田さんがそんなに悲しむ理由がわからない。だが僕が慰めの言葉を考える前に、太田さんは諦めたような表情になって、大雨が降っているというのに窓を完全に開け放って言い捨てた。

「人間の君には、わかるはずがないよね」

 一粒の雨も部屋の中に入って来なかった。いや、入って来ないのではなく。太田さんが後ろに広げた手の平を中心に雨が跳ね返されているのだ。次いで太田さんは窓の外に右手を突き出すと何かを掴むような仕草をした。何度か雪玉を握るような仕草を繰り返しているうちに、彼女の手の中で何かが部屋の明かりを反射した。そして部屋に戻した右手の中には透明な水晶の玉のようなものがあった。

 太田さんは茶櫃からグラスを取り出し、その水晶玉を入れる。そしてグラスの縁を指先で弾くと、水晶玉は破裂して透明な水で満たされた。太田さんは黙ったままグラスを僕の口元に持ってくる。僕はこわごわ中身を飲んでみる。それは本当に鮮烈な名水だった。

「オオタカムイは、海を見下ろす山に鎮座する海の守護神だ。大海の神だから当然、こうやって全ての水を簡単に支配できる」

 太田さんは言って僕の頭を優しく撫でる。オオタカムイ。麓の看板にあった、太田神社が創建される以前の土着の神様。だから。だから毎回僕に神社まで迎えに来るように言うし態度もずいぶんと尊大だし、それに。

「神は自由に土地を離れるわけにはいかないのだよ。誰かが連れ出してくれるまでは」

 だから僕に腕を引かせたのか。だから今回の旅は太田神社から遠く離れた場所だから、引っ張るのに力が必要だったのか。

「やはり君もそんな目で見るのだね。悔しいが、あの厭味な道路神の勝ちなのかな。論争に負けたことよりずっと悔しいよ、私は」

 何も答えられず言葉に迷っていると、彼女は僕の方を向いたまま窓枠に右足をかけた。

「これまで本当に楽しかった。でも私は海と山を守りに帰った方が良さそうだと思う」

 なぜ、と僕は問いかける。彼女はゆっくりと雨で増水した足下の激流を指差した。

「この川にも川の神がいて、川に住む生き物を守っている。今も沢山の生命があるのは私にもわかる。でも私は、あれほど私の海から生物を減らしてしまったんだ」

「環境が変わったのだし、僕たち人間も」

 オオタカムイは恐ろしいほど冷たい視線を向けつつ、諭すような静かな声を発した。

「人間が悪いのなら早いうちに退治するべきだった。でも私は、私の役割を果たしていない。人間を追い払おうとしなかった」

 何にも縛られず、自由に動ける人間に生まれた僕自身が唐突に恥ずかしく、そして孤独に思えて僕は再び沈黙した。オオタカムイは僕から視線を逸らして唇を噛む。それでも僕は敢えて目の前まで歩み寄って反論した。

「オオタカムイは、捻挫をした僕を放っておけないほど優しすぎる神様だから。でも、そんな優しさが僕は好きだよ」

 オオタカムイは俯いたまま何事か呟くと、残していた左足も窓枠にかけ、身を空中に躍らせた。僕は慌てて窓に飛び付き、そのまま何も考えずに窓の縁に両足を掛けた。と、雨で足が滑る。真下は岩だらけの川だ。僕は。

「君は馬鹿だ。本物の大馬鹿者だ!」

 目を開けると僕は雨雲に支えられて宙に浮いていた。雲を作りたての綿飴のように引き寄せてオオタカムイは言った。

「君は、君は下らない過ちで私に二回も私の主義を曲げさせたね。親しくしたとか、少し気になるからなんてつまらないことで私は特別扱いなんてする神では、そんな神では」

 オオタカムイは涙を溜めて僕を睨む。バスの中の神様論争を思い返した。僕はよくわからない話とだけ受け取っていたけれど、彼女は大切な譲れない主義を主張していたのか。

 僕は黙ったままの彼女を見つめる。彼女は僕を部屋の中に戻そうとした。でも彼女の零れた涙と震える指先はあまりに寂しげで、そして僕にとっては神様であるより前に可愛い太田さんで。僕は必死で身を乗り出した。

「危ないと何度も言っているのに!」

 僕は雲から身を乗り出したまま叫んだ。

「君が凄い神様で構わないし、主義を曲げてくれて助かったし、それにやっぱり君と」

 思い切って言おうとした言葉を一瞬だけ飲み込んでしまう。それでもやはり言った。

「君ともっと旅に出たい。一緒にいたい」

 彼女は頰を膨らませ、真っ赤な目をしていつもの太田さんの口調に戻って言った。

「本当に馬鹿だよ。忘れられないほどね」

 それでも僕はそのまま部屋の中に戻され、太田さんはそのままうっすらと雨に溶け込むようにして姿を消した。


 オオタカムイ、いや太田さんは朝になっても戻らず、僕は二人分の料金を払って宿を後にした。人のいない場所で太田さん、と声を出しても太田さんは戻ることはなかった。

 結局、僕はその後の日程を中止して北海道に帰った。携帯電話を調べても太田さんの番号は消えてしまっており、パソコン内のバックアップにも全く何も残っていなかった。

 太田さんの寂しさを知りたいと思い、だがもう手が届くはずもないと諦める、そんな後ろ向きの毎日を過ごしているうちに九月の連休が近付いていた。でも今は一人旅を楽しむ気にはなれなかった。それでも連休間近の休日、結局は旅行雑誌に目が向いてしまった。

 東北地方や岩手県を避け、他の地域を適当に手に取る。そこにあったのは一泊の道内小旅行の企画だ。札幌から函館まで沿岸を走り続けるドライブコースが案内されていた。

 途中に太田神社があるな、と思った途端、呼吸が苦しくなる。それと同時に僕は決心して雑誌をレジに持っていく。そのまま自宅に戻ると服装を着替えた。虫除けスプレーやペットボトル、岩を歩ける靴と軍手を揃え、僕はすぐに太田神社に向けて車を走らせた。

 太田神社の麓は少し秋めいただけだった。僕は太田さんが待っていた石段に足をかけ、太田さん、と叫んでみる。何も反応はない。僕は構わず準備した身支度を整えて石段を登り始めた。今度は怪我なんてしない。もう太田さんには主義を曲げさせたりしない。

 階段を登りきると次は山道だ。山道の途中に生える木々が風で騒がしいほどに揺れる。太田さんが木々に監視させているのではないかなどと妄想しながらさらに歩き進む。

 捻挫をした場所ははるか後方になり、小さな祠の前も通り過ぎ、ようやく本殿の鳥居が見えた。ネットの案内によれば、この先は橋と鎖を登って祠に繋がるのだという。僕は前回通り持参したお茶を飲んで気合を入れる。

 雨が降り始めた。僕は曇り空を見上げて逡巡する。それでも僕は鳥居をくぐった。さらに雨足が強くなってくる。雨具を被り木陰に身を寄せる。冷たい雨に体温を奪われる。

 人影はなく鳥の声も聞こえず、ただ草と雨具を叩く雨音だけが聞こえる。この静けさの中で太田さんはどれほどの時間を過ごしてきたのだろうか。僕たちの先祖が広がっていく姿をこの頂上から眺めていたのだろうか。

 僕は太田さんの何を知っているのだろう。僕自身の自由さを当然だと思い込んでいた僕には、やはり太田さんの寂しさを理解できるはずがない。それは僕が自由な人間にすぎないから。だからこそ僕は身勝手に叫んだ。

「オオタカムイ! 太田さん!」

 僕は両方の名で呼びかけると、鳥居に腰掛けて背負ってきた旅行雑誌を取り出した。

「九月はまた連休があるんだ。道内なら日帰りで行ける場所もある。でも道内の知らない場所を走るなら、独りだと道に迷うかもしれないだろ。ほら、僕は間が抜けているから」

 奇妙に強い風が耳元で吹き始めた。だが誰も僕に言葉を返す者はいない。それでも僕は諦めずに雑誌をめくりながら続けた。

「カーナビって知ってる? 道順はわかりやすいけど、あれ積むと高いんだよね。とくに先日の岩手の旅費、二人分払ったからさ」

 背中に当たっている鳥居が少し熱を持った気がする。僕はさらに一人芝居を続ける。

「長距離運転だと居眠りが怖いんだよ。飲み物を差し出してくれる人が一緒にいてくれると安心だけど、肝心の相手がいないし」

 声とともに木の器が差し出された。中からはほんのりと懐かしい桑の実の甘い香りが漂った。

「まずこの山で怪我をしない方が先だね」

 振り返ろうとすると、僕は宙に浮き上げられて背中が本殿に向いた。次いでその背中に暖かくて細い背中が当たった。

「君のような男に飲み物を差し出してくれる人間なんてそういるわけがないじゃないか。君もずいぶん妄想が酷くなっているね」

 太田さんは言葉を切り、隣に回り込んだ。

「神なら、いるかもしれないが」

 僕は彼女の手に掌を重ねて言う。

「じゃあ、また麓の階段で」

 寂しがり屋の神様が小さく吹き出した。

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