文芸船

青いヴァカンス(上)

 車を降りた僕は太田神社の鳥居から登り口を見上げて思わず溜息を洩らした。登り口の脇に建っている道南霊場という物々しい石碑も目の前の階段には嫌なほど釣り合っている。観光雑誌の記事にはきつい階段を登る神社と書いてあったが、これはきつい階段という範囲だろうか。道路の反対側から離れて眺めると山の中腹付近まで階段が続いている様子が窺え、また登り口から仰ぐと普通の神社の倍ほど急峻な階段が連なっているのだ。

 登り口に建つ大鳥居の奥にはさらに二つ鳥居があり、その先は木陰に隠れて窺うことはできない。階段の両脇に手摺り代わりに縄が張られている辺りは一応の親切心なのだろうが、むしろ逆に覚悟した奴だけ来いと言われている感じさえ受けてしまう。階段が設置されている点さえ除けば、実態はもう登山初心者大歓迎といった悪ふざけも言いたくなる。

 せっかくの休日なので旅行雑誌を眺めていたところ、記事の隅に載っていたせたな町の太田神社を思い出して、足を伸ばしてみただけなのだ。途中で妙に細い道路になったので不安になったが、再び立派な道路に戻って安心し、その短い安堵も「太田より先は行き止まり」という不穏な看板に突き崩されつつ到着してみれば、この山伏御用達の階段だ。

 目の前の階段を登るのが億劫になり、周囲を見回した。すると道路を挟んだ向かい側の平地にもう一つ神社らしきものが見える。僕は徒歩でその建物に向かった。寄ってみるとこれも太田神社の施設のようで、神社の成り立ちを書いた看板が建っていた。その看板によると太田神社は今こそ猿田彦を祀っているが、元々はオオタカムイというアイヌの海の神様らしい。おまけに頂上の洞窟が信仰の対象だとか普通とは一味違う神社のようだ。

 足元を再確認する。夏に入って以来スポーツサンダルでばかり歩いているが、今日はランニングシューズにした。僕は改めて太田神社の鳥居を仰ぐと、リュックにペットボトルのお茶を放り込んで靴紐を締め直した。


 汗を吸ったシャツがべっとりと体に張り付いて風が通らない。階段は途切れてしまい今は獣道に近い山道になっている。かなり登ったはずなのにまだ頂上は遠いようだ。生来の運動嫌いに喘息持ちも重なって、あまりに運動不足だと今頃になって反省してしまう。

 地面に腰を下ろすと背中のバッグを道端に放り出し、ペットボトルのお茶を一口含む。もう中身は半分しか残っていない。先の道のりを考えると心許無い。襟口を引っ張って風を通そうとしたが、欝蒼と繁る森が邪魔になり麓からの潮風もろくに通らない。襟を何度か往復して汗の湿気を逃がすのが精一杯だ。

 気合を入れて立ち上がった。と、投げ出していたバッグのバンドに左足がとられ、脇の縄に掴まって立とうとして嫌な音が足から背中へと走った。顔から大量の汗が噴き出す。背中まで冷たい汗が流れ、悲鳴にすらならない声を上げて倒れるようにうずくまった。

 一分ほど経過した。ようやく激痛だけは弱まったが、見えないほど動かすだけでも激痛が走る。骨ではないだろうが酷い捻挫だ。首だけを動かして階段を見下ろす。先ほどまでは疲れるとはいえ難なく登ってきた階段が、今は遠くの急峻な崖のようにも見える。救急車を呼ぶか。そもそも携帯は通じるのか。

 痛いぞ、と怒鳴ってみる。だが前後には誰もいなかったので無駄だろう。ゆっくり這ってでも降りるしかないのだろうか。頭から転落する事態を想像して背筋が寒くなる。

「怪我したのか」

 唐突に背中から声が聞こえた。振り向くと黒の長髪にジーンズ姿の女性が立っていた。僕はとりあえず必死で首だけ振って自分の足を指差した。彼女は僕より下に降りると僕の靴をそっと脱がす。足首を少し捻られただけで恥も外聞もなく悲鳴を上げてしまう。

 歳は二十代中頃、僕と同い年ぐらいだろうか。色の抜けたジーンズと男女どちらでも着られそうなシャツ、それに背中の登山にも耐えられそうなバッグは口調にぴったりなのだが、色白な丸顔のうえに甘く高い声で話すせいか、むしろ逆に子供っぽく見えてしまう。

 彼女に足首を動かされるたび、激痛に涙を浮かべる。彼女はへえ、と呟くと背中のバッグから手拭いのような白い布を取り出した。

「固定した方がまだましだね。あと、急いで冷やさないと駄目なのだけど」

 言ってすぐ立ち上がると木々の間を睨む。次いで僕に何やら妙な笑みを浮かべた。

「君、私を海に連れて行かないか」

 僕は意味がわからず首を傾げる。彼女は僕の左足の腿を優しくさすりながら言った。

「漁港に行って海水で冷やせば良い。歩くのに肩も貸そう。さあ、私を連れていくか」

 連れていくか、と言われてもむしろ連れて行ってもらうのは僕の方だ。もしかしたら漁港の場所をわからないということだろうか。だが少なくとも今、余計なことを言って彼女の機嫌を損ねるのはあまりに危険すぎる。

「連れていくよ、海に」

 必死で答えを絞り出すと、彼女は途端に子供のような可愛らしい笑みを浮かべた。


 結局、僕は彼女の肩を借りて一時間ほどかけて下まで降りた。意外に体力のある人らしく、僕が途中で力尽きかけて体重をかけてしまっても平然としていてくれた。やっとの思いで下まで降りると、彼女は車を運転できないと言う。僕は泣きそうになりながら自分で運転して漁港まで車を走らせた。怪我をしたのが左足で、おまけに車がオートマチック車で本当に助かったと思う。

 船揚場に降りると、彼女は背中のバッグから桶を取り出した。この辺は温泉が多い地域だから温泉道具も背負ってきたのだろうか。彼女は桶に海水を汲むと僕の左足を取って入れる。ひんやりと痛みが鈍くなっていく。

 彼女も海水に手を入れると、口調に似合わず甘い歌声で歌を口ずさみ始めた。テレビでも全く聞いたことのない響きの言葉で、高く低く波が寄せて返すような不思議な旋律が長く続く歌だった。外国の歌ですか、と訊くと彼女は鼻で笑って首を傾げる。

「おまじないの歌。怪我の治るおまじない」

 何だかはぐらかされたようだ。だが彼女は再び歌いながら海水を入れ替える。彼女の歌を聴いていると、海水も薬湯のような気分になってくる。三回目の入れ換えの後、彼女はバッグから朱塗りの椀を取り出して船揚場から海水を汲むと口をつけた。僕は慌てて海水だよ、と注意する。彼女はうなずいたが、椀に両手を添え、一息に飲み干して言った。

「薄くなったね」

 僕は痛みを忘れて彼女の口元を見つめる。彼女は僕を見返すと溜息をついて言った。

「この海は全てが希薄過ぎるんだよ。だからこれほど青い。これは空虚な青さなんだ」

 彼女は両手を広げて海に顔を向ける。僕も左足を押さえて海を眺める。そこには南海の海のように透明な青い海が広がっていた。

「こんな広い海だというのに、肝心の棲む生き物が本当に少なくなってしまっている」

 彼女は悔しそうに言う。そういえばこの近辺で漁獲量が非常に下がっているという話を聞いた覚えがある。彼女は何者だろうか。そういえば農学部や水産学部の学生はフィールドワークとか言ってやたらと海や山に行く子が多かったけれど、山登りや海が好きなことを考えれば、彼女もその類かもしれない。

 彼女はふっと肩の力を抜き、僕が足を入れたままの桶に目を向けた。いつの間にか随分と足の痛みが鈍くなっている。僕はなるべく動かさないようにして桶から左足を抜く。

 改めてお礼の言葉を口にしかけると、彼女は言葉を遮っていきなり僕の名前と連絡先を訊いてきた。僕はどう反応すれば良いかわからず彼女の口元を見つめる。彼女は悪戯っぽく僕の顔の前で指を回しながら言った。

「女性は簡単に連絡先を教えないよ」

 僕は納得して自分の電話番号や名前を手持ちのメモ帳に書くと破って渡す。彼女は満足そうに受け取り、ポケットにねじ込んだ。

「私は太田だ。そのうち連絡するよ」

 彼女はまた悪戯っぽい笑みを浮かべて僕を見つめる。太田神社で会った太田さん。まあ今の時代、警戒されても当然かもしれないけれど。とはいえ恩のあるのは僕の方なので文句も言えずに黙っていると、太田さんは桶の海水を捨てて無造作にバッグに放り込み、僕を置いてさっさと歩いて行ってしまった。

 僕は少しの間茫然とした後、車に乗り込んで痛みをこらえながら街に向かった。病院に行ったところ、幸い骨には異常が見つからず強めの捻挫ということで固定をしてもらい、痛み止めだけで済んだ。とはいえ、単なる捻挫の強いものだったせいか、結局は一ケ月も当て木と補助具で固定する羽目になった。

 その間、太田さんからは全く何の連絡もなく、お礼も何も出来ないままになっていた。否、単にお礼をしたいのではなく、何よりもう一度、彼女に会いたいのだった。


 休みだからと浮かれてまた怪我するなよ、と帰りがけの上司に背中を叩かれた。やっと捻挫の固定が取れた週末の金曜日となれば、こんなことを言われてしまうのも仕方ない。僕は苦笑しながら会社の門をくぐった。

 と、携帯が無登録者からの着信音を鳴らした。開けてみるとやはり覚えのない携帯番号だ。誰か勝手に僕の番号を取引先にでも教えたのだろうか。もしもし、と名前を名乗らず出ると、落ち着いた女性の声が聞こえた。

「そろそろ怪我は治った頃だよね」

 慌てて僕は声を高くして、太田さんに先日のお礼を言う。太田さんはたいしたことではないと笑う。だが、次いで僕が以前に言ったことを確認するようにゆっくりと言った。

「君、今週末の予定は空いているかな。お礼をしたいと言っていたよね。私をどこか、少し旅行にでも連れ出してくれないかな」

 いきなり旅行、と言われては僕も戸惑ってしまう。だがすぐに、近所をドライブしたい程度の話なのだろうと思い直した。

「ドライブなら別に良いですよ。多少遠くても迎えに行きますよ。家の近所まででも」

 太田さんは傲慢に当然だね、と言い放つ。けれど今回の恩と、何より太田さんの悪戯な顔を思い出すと怒る気にもなれない。そして彼女はわかりきったことのように言った。

「待ち合わせ場所は、太田神社の階段で」

 確かに僕たちには最もわかりやすい待ち合わせ場所だが、家まで迎えに行くと言った上で指定されるとは思いもよらない辺鄙な場所だったので、僕はしばらく声が出なかった。

「良いよね。太田神社の階段で、朝方に」

 あの太田神社に、しかも早朝に行くのか。朝のうちに着くには普段の出勤時間よりも早く家を出発しないと到底間に合わない。

 とはいえお礼はしたいし、何よりもう一度太田さんに会いたいという気持ちは止められなかった。とてつもない美人というわけでもなく、物言いだってこんな素っ気ないというのに。怪我で弱っていたときに助けてもらったせいだろうか。抵抗を諦めて、朝九時に迎えに行くと答えると彼女は満足そうに答えた。

「連れて行ってもらえるのは楽しみだよ」


 服装に迷ったが、結局はジーンズに適当なシャツで済ますことにした。太田さんもまさか神社の前で可愛いリボンの付いたワンピース姿で待つような人でもないだろう。

 先月と同様、太田神社の駐車場に車を止めて鳥居から階段を見上げた。すると長い階段を太田さんが呆れる勢いで駆け下りてきた。

「来てくれたね」

 太田さんは最後の段に両足を揃えて立って満面の笑みを向けてくれる。予想のとおり、彼女も動きやすそうな服装なので安心だ。

「そんな速さで降りたら危ないでしょう」

「君のような抜けた失敗はするはずないさ」

 ずいぶんな自信だが、そこは敢えて言わず僕はそのまま車に向かおうとした。すると太田さんは僕の背中に焦った声をぶつける。

「君、ずいぶん冷たいじゃないか」

 彼女は子供のように頰を膨らませ、階段に立ったまま僕に向かって手を伸ばしている。僕は何となく気恥ずかしくなって周囲を見回し、誰も見ていないのを確認して彼女の手を取った。太田さんは思った以上にひんやりとした細い手で僕の手を握りしめてくる。手を引っ張ると、彼女は僕の隣に跳ね降りた。

「さて、行こうか。場所は君の案内で」

 何だかな、と僕は独り言を呟くと彼女を助手席に乗せて南下し始めた。

 走り始めてから僕は彼女にペットボトルのお茶を勧めた。太田さんは一口飲んで苦いと文句を言う。確かに濃い茶を買っておく僕は相変わらず気が回らないかもしれない。彼女は自身のバッグから木目の水筒を出して旨そうに飲み、蓋に中身を入れて僕に渡した。

 僕は道路を見ながら上の空でその飲み物を口にした。口の中に甘酸っぱい味が広がる。今まで全く飲んだことのない飲み物で、だが百パーセント果汁のジュースにありがちな、濃厚なしつこさはないものだった。

「最高に新鮮な良い水で、桑の実の汁を水で割ったもの。私の最も好きな飲み物だよ」

「最高に新鮮な水、ですか」

 窓の外に視線を向けると、岩肌を流れ落ちる小さな滝が目に入ったので納得しかける。だが太田さんは違うと笑った。

「最高の水は湧水じゃないよ。雨の日に、晴れ上がる直前の最後の数滴を集めるんだ」

 思わず笑うと彼女は真面目に反論する。

「普段、君が飲んでいる水だって雨水をきれいにしたものじゃないか。降り始めの雨は空と土地の埃を吸って汚れているし」

 確かに、降り始めの雨を浴びた車にうっすらと雨の跡がついて落胆したことは覚えがある。太田さんは当然のような声で続けた。

「やっと君もわかったね。そんなわけで、雨の日に降り終わる最後の数滴だけを集めると最高に美味しい水になるんだよ」

 僕は雨空を睨んでいた太田さんが先日の桶に必死で雨水を集める姿を想像して吹き出してしまう。太田さんも一緒に笑い出した。

 笑いながらも僕は実は困っていた。これからどこに連れて行けば良いのだろう。太田さんの雰囲気だと街に行って買い物だとかお洒落な喫茶店でお茶を、とか言っても逆に不機嫌になってしまいそうな気がする。

 と、太田さんは急に外を指差してこれは何だろう、と言った。指差された看板には山荘と書いてある。僕も一瞬迷ってスピードを落とし、さらに先の方に同じ山荘の看板を見つけた。そちらには温泉、と書いてある。

「温泉、どうですか。行ってみませんか」

 彼女は外国人のようにオンセン、と言って少し考え込み、行ってみようと笑う。幸いこの近辺は温泉だらけだ。ただし高級大型温泉や、本州のような伝統の温泉宿があるわけではない。僕は以前に読んだ温泉の紹介記事を頭の中で広げ、太田さんを連れて行っても問題のなさそうな日帰り温泉を選んでハンドルを切る。太田さんは呑気な声で呟いた。

「熱い湯もたまには良いね」


 女湯に向かう太田さんを見送ると、すぐに男湯に入ってさっさと温泉に浸かった。ぼんやりと温泉に浸かるだけで、普段の煩雑な仕事の記憶がぐずぐずと溶け流れていく。

 暑くなって湯船から上がると、洗い場の椅子に座ってぼんやりと天井を仰いだ。何となく太田さんの姿を思い浮かべる。いや別に変なことを想像するわけでもないのだけど。

 逆に想像しない、と意識した途端、彼女の言動が頭の中で巡り始めた。本当に変わった人だ。でも本当にそれだけだろうか。海水で足を冷やしてくれたときの不思議な歌。珍しい飲み物と雨水の話。そして何より、活発な人なのになぜ僕に連れて行ってと頼むのだろう。運転免許が無いからか。いつも愛想の無い物言いだが、実は僕に一目惚れしたとか。

 いや、一目惚れは幾ら何でも思い上がりだろう。だが今日は気軽に僕の助手席に乗っている。警戒心が薄いだけなのだろうか。確かにあの神社の崖のような階段を駆け下りてくる彼女に腕力で勝てるとは到底思えない。ふと彼女が神社の妖精みたいなものだろうかと思う。だが、しっかりと僕の手を掴んだあの感触はやはり夢のようには思えなかった。

 ただ、彼女の素性を陰で調べたりしたら簡単に姿を消してしまいそうな気がした。一目惚れも運転免許も妖精も全部胡散臭い理屈だが、素性を追いかけて彼女が僕の前からいなくなるようなことだけは避けたいと思う。

 太田という偽名のような本名のような苗字にしても、もっと仲良くなれば下の名前と一緒に改めて説明してくれるかもしれない。考えてみれば、今日は初めて会ってからたったの二回目だ。納得できないことがあったとしても全く不思議であるはずがない。何が一目惚れされたかも、だ。一目惚れしたのは完全に僕の方じゃないか。僕は急に気恥ずかしくなり、湯船に再び戻ると深く体を沈めた。

 十五分ほど湯船の中に沈んだ後、僕は風呂から上がった。休憩室に目を向けると、太田さんの姿が見えた。彼女のまだ少し湿ったままの髪を眺めていると、視線を感じたのか僕の方を振り向く。彼女はすぐ立ち上がり、上気した頰に笑みを乗せて駆け寄ってきた。

「良いね、温泉は。ここは気に入ったよ」

 僕も温泉はかなり好きだと前置きして、これまでに入ったことのある変わった温泉の話をする。山の中に掘っただけの野湯や目の前を白鳥が泳ぐ温泉などの体験を話していき、今年は岩手県方面を狙っていると語った。

 太田さんはあまり岩手県の想像がつかないらしくぼんやりと首を傾げた。だが次いで、そうだそうだそれが良いやはり私は賢いな、と何とも不安になる独り言を口にした。

「君、どうせまた独り旅だろ」

 言い返しかけると、彼女は黙って首を傾げた。嘘をついてもわかるんだぞ、と言いたげな顔で僕をじっと見つめてくる。それでも僕が返答を言い淀んでいると、太田さんは顔を近づけて最後の駄目押しをかけてきた。

「今日の旅行でわかった最も大切なことはだね、君と歩くのは楽しいってことだよね」

 太田さんは正面から僕を見つめながら、平然と気恥ずかしくなるようなことを告げる。完全に太田さんの手の中で踊らされている。僕は降参するように両手を挙げて言った。

「じゃ、次の旅行は太田さんを誘うよ」

 太田さんは満足げにうなずいた。


 次の旅行に誘うと言ったとはいえ、泊まりがけの岩手県旅行に女性の太田さんを誘うというのはかなり乱暴な話だ。僕は初め、旅行経路をネットで調べては予定をパソコンに打ち込んでみた。大まかに考えるのなら簡単に楽しめそうな予定なのだが、気が付くと二人一部屋なら安上がりだなとか、さすがに太田さんと一緒の部屋はあり得ないだろうとか色々と独りで悩んでは消す作業を繰り返していた。

 携帯電話を取り出して太田さんの番号を探す。かかってきた番号を登録しておいたはずだ。見つけた番号を押そうとし、だがパソコンの画面に目を向けると躊躇して携帯を閉じようとする。その途端、後ろで覗いていたかのように太田さんの番号で携帯が鳴った。

「そろそろ私のために旅行の予定を考えてくれているのかなと思ってかけたんだけど」

 いきなり可愛い声でひどく図々しいことを言う。間違いなく太田さんだ。僕は観念して画面上の資料を辿りながら岩手県旅行の計画を説明すると、太田さんはあっさりと岩手県なんてよくわからないと答える。僕は宮澤賢治記念館や盛岡冷麺など、手元の旅行雑誌に載っている観光スポットや特産料理を一通り紹介した。そして最後に、今回計画した旅行の大目的である鉛温泉について説明した。

 鉛温泉は一軒宿で、開業から二百年以上も経つのだという。昔に大物作家が宿泊して有名な心中物を書き上げたとか、くり抜いた岩の中に立ったまま入浴する白猿の湯が有名だとか、色々と紹介記事の内容を話した。

「君はもしかして、猿関係が好きなのか」

 説明を一通り聞いた太田さんが発した最初の言葉がこれだ。僕は意味が分からず黙り込んだ。すると彼女は笑って言った。

「君と会った神社は猿田彦とかいう神様がいることになっているじゃないか。で、白猿の湯がお薦めだなんて言うものだから」

 僕は少し呆れてそんなことはないと笑う。と、ふと太田さんの物言いが気になった。猿田彦が「いることになっている」とは何となく奇妙な変な言い方だと太田さんに言う。

「だって私は、山の中でも頂上でも猿田彦に会ったことは一度もないよ。会ったこともないのにいるかどうかなんてわからないよ」

 いや、だって相手は神様でしょ。僕の疑問に太田さんは、神様でも挨拶ぐらいするはずだよ、とさらに無茶を言って笑いだした。

 太田さんの笑いが止まるのを見計らって旅館と予算について説明する。太田さんは全て君に任せるよ、とあっさり丸投げしてくる。僕は了解してから、女性の太田さんと一緒に宿泊旅行に行くことがどうか迷っていることを、なるべく慎重な言い方で話そうとした。だが太田さんは叩き斬る勢いで遮った。

「男女で旅行するからと言ってわざわざ意味を与える必要があるかい。私は君と旅行することが楽しい。それだけじゃ、駄目かな」

 いつもの突き放す言い方が影を潜め、静かな声でゆっくりと問いかけてくる。僕は太田さんの言葉をゆっくりと噛み締める。

 僕と旅行するのが楽しい。今は、今はそれだけで充分かもしれない。僕は何を焦っているのだろう。考えてみれば、まだ会ったのは二回だけだ。まだ太田さんの家だってどこにあるのかさえも聞いていないというのに。

 それで良いよね、と僕が答えると太田さんは安心した溜息を発した。次いで太田さんは全く予想もしていないことを言った。

「じゃあ、また太田神社で待ち合わせね」

 また神社か。まず僕が迎えに行くだけで面倒だ。僕はせめて近くの駅まで来るよう告げた。すると太田さんは一転して不機嫌な声で太田神社でなければ絶対に駄目だと言う。

「少しは太田さんも融通してよ。必ず神社で待ち合わせだなんて神様でもあるまいし」

「だって私、神様だもの」

 太田さんはいつもより一際甲高い声で言った。だが、口を尖らせてむくれた太田さんの顔が思い浮かんでしまい、僕は思わず吹き出してしまった。笑ってしまってから僕の負けかなと思う。ここは負けておきたいと思う。

「お迎えに行きますよ、神様お姫様」

 僕の言葉に太田さんはやっと恥ずかしそうに笑う。女の子という生き物はずいぶんと得なものだ。こうやって結局は負けて甘やかして逆に喜んでいる僕も僕なのだけれど。


 岩手への旅だというのに、太田さんは前回と同じ大きさのバッグだけを背負って石段に立っていた。着替えは大丈夫なのか訊いても心配はないとバッグを叩き、また石段に立ったままで片手だけを僕に差し出してくる。

 前回と同じく太田さんの手を引っ張ると、何か引き戻されるような感触がした。力を緩めそうになると太田さんはひどく不機嫌な顔になったので慌ててまた力を込める。

 太田さんは前回と同じように僕の隣に跳ね降りると、満面の笑みで勝手に助手席のドアを開けて乗り込んだ。僕は一緒に運転席に乗ってから、手を引っ張ったときに何か引っかかったような気がしたことを話した。すると太田さんは、背中の辺りに枝がかなり伸びていた、と何でもないことのように答える。確かに、枝が伸びていたのは本当だけれど、でも僕は妙に気になった。とはいえ何も原因が思い浮かびはしないうえ、何より愛想の悪い太田さんが今日はかなりのご機嫌なのだ。わざわざ水を差すほど僕も馬鹿ではない。

 僕たちは前回と同じ道筋を通り、さらに南下すると北海道から本州への玄関口、木古内駅までやってきた。実は他にも近い駅があるのだが、太田さんと二人きりになれるドライブを長めに取りたい気持ちがあったのだ。

 木古内駅は青函トンネルを通る各種列車が北海道側で最後に停まる駅なので、鉄道好きなら必ず知っている有名な駅だ。とはいえ多くの乗客は終着駅の函館で乗降するせいか、駅周辺と駅舎の外観は特急など通過してしまうようにも見えるほど小さな駅だった。

 僕は車を駅の駐車場に停めると、予め買っておいた往復切符を太田さんに渡した。太田さんは切符を裏返して眺めたり指で弾いたりしながら、やたらと機嫌良さそうに笑う。

 僕たちは早めに改札をくぐり、停車位置に向かった。プラットホーム内には幾つも鉢植えの花が置いてあり、パンジーらしき花が咲いていた。太田さんはしゃがみ込んで花をじっと見つめると、眉をひそめて言った。

「こんな狭い場所だと花は窮屈だろうね」

 確かに隙なく並べられていて窮屈かもしれない。太田さんは僕の顔を見上げて言う。

「山で好き勝手に咲いている花が一番だね。岩の隙間から無理矢理咲いているのもあるけれど、あれはあれで頑張って周りに敵無しで咲いているから良いものだと思うよ」

 僕もどちらかと言えば山や野原で咲いている方が好きだ。そしてそれを持ってきて植える人の気がしれない。僕が黙ったままうなずくと、太田さんは遠くを眺めながら今度は全く逆に近いことを呟くように言った。

「でも結局、生えた場所からは一生動けないんだよね。自分の生まれた場所から、ずっとずっと、永遠に離れられないのだよ」

 僕が首を傾げると、太田さんは小さい声を上げて自分の頰を叩いた。次いで活発な声で函館方面を指差すと僕の袖を引いた。

「ねえ君。私たちはあれに乗るんだね」

 八戸行きの特急が近付いていた。

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