文芸船

ウサキネを探せ

 がばりと起き上がって置き時計を見るともう出勤時間だった。僕は慌てて身支度を整えかけ、改めて時計を見直す。カレンダーの表示は土曜日だ。今日は休みじゃないか。僕は布団の上で脱力した。

 脱力したまま昨日の記憶を辿る。一ケ月激務のプロジェクトが終了し打ち上げで飲みに行き、「プロジェクトリーダーはうさを晴らせ」という掛け声に悪乗りしてビールはもちろんのこと、ウィスキーやらワインから滅茶苦茶にチャンポンして上司の首根っこ掴まえて三次会に、で、だ。うん。記憶が完全に途絶えている。今回のプロジェクトはやたらに現場は多いわ調整相手は多いわで自棄酒かかっていたかもしれない。

「ま、きつかったから仕方ないか」

「そうだね、仕方ないと思うよ。お寝坊さん」

 わかる子はわかってくれるもんだ。って、わかる子? 僕は慌てて部屋の中を見回す。僕の目の前で純白のうさぎが飛び跳ねた。うちではうさぎなんて飼っていないのに。だいたいアパート暮らしで動物を飼うなんてそう出来る話じゃない。って、それよりも今の高めで甘い女の声は。

「おはようの返事は?」

 うさぎは可愛い声に似合わず不躾な口調で当然のように言うと、首をかしげて僕を見上げた。僕は二日酔いで気持ち悪いのというのに後ろへ飛び下がってうさぎの口元を見つめた。うさぎは心外だという声で再び喋る。

「嫌だな、うさぎは鳴かないって嘘だよ」

 いやそれ以前にうさぎ喋らないから。オウムだってこんな流暢に喋らないし。

「君は失礼だね、鳥頭のオウムと哺乳類のボクを一緒くたに話すとかありえないし」

 ボク、という一人称だけが妙に取ってつけたような言葉に聞こえる。うさぎは飛び跳ねると僕の膝の上に乗る。細長い後ろ足の裏側から体温が伝わってくる。僕はおそるおそるうさぎに手を伸ばした。うさぎはぴくっと体を震わせたがじっとしている。そっと背中を撫でてみる。しなやかで柔らかな毛が掌に心地よい。胴体に両手で触れると、小動物特有の小刻みな鼓動が掌に伝わってくる。

「膝の上に座ったボクも悪いけど、いきなりレディの体に触る君もひどいよね」

 僕は慌ててうさぎから手を離すとトイレに駆け込んで鍵をかけた。朝一番の小便をしながら考える。一つ、僕はまだ夢を見ている。二つ、頭がおかしくなった。三つ、昨日飲んだ酒に麻薬か何かが入っていた、四つ、機械工学に進学した同期が新開発のロボットを作って置いていった。

 夢が一番ましな想像だ。でも頰をつねるのは敢えて止めておこう。最近の漫画だと「あ、痛い!」とか言ってろくでもない方向に話が転がり始めるし、何かの本でそもそも痛い夢もあると聞いたことがある。小便が止まっても俺はそのまま便器に座る。踏ん張ってみるが出る様子がない。部屋に戻るしかない。いやもう思い切って着替えて即、駅とか外に出てみようか。外にうさぎがと沢山歩いていたらもっと嫌だけど。とにかくトイレの鍵を外し、匂いを嗅がないように口から深呼吸をしてドアを開ける。

 入り口にうさぎが座っていた。うさぎは小さく溜息をついて言った。

「起きがけの野菜が欲しいところだよね」


 頰がむず痒い。目を開ける。何だ、夢だったんだ。僕は寝ていただけか。

「夢だ夢だ! 朝だ朝だ!」

 思いきり怒鳴ってのびをする。

「いきなり起きるな! ボクがせっかく介抱してあげたのに」

 声のする方に目を向けたくない。だが声の主は僕の視線の前に回り込んだ。

「いきなり倒れたから、ボクがこの小さな体で君を運んだんだよ。重いし咥える場所もないし本当に大変だったんだから」

 うさぎ。うさぎがいる。つまりこれは何と言うか夢とか何とかじゃなく。

「君は著しく現実を受け入れる能力が足りないようだね。まあ女にもてないくせにまだ諦めるわけでもなく絶望もせず生きていられるのはその鈍感力のおかげかな」

 可愛いさぎが滅茶苦茶に僕の自尊心を前足で踏みつけにしてくる。僕は溜息をついて布団の上に何となく正座した。もうこうなりゃ現実逃避。ええ僕は現実逃避が大好きですよ就職氷河期に巻き込まれて何とか卒業間際に就職見つけてそれがへなへなしちゃうようなヤバい会社だと入社してわかって慌てて転職先探すにも第二新卒は山盛り沢山でやってられんと吠えながら何とか再就職したらそこの上司が変てこりんなバブル世代でそんな現実毎日見つめて生きてられるかと。

 それでも僕は何とかやってきた。僕の周りには、そんな無茶な中で壊れてしまった人すらいるけど、僕は何とか正気で生きている。いい加減な僕なんかよりも、正義感も行動力も自我も強いあの人が普通に生き延びてくれた方が世の中のためかもしれないのに。ああ暗黒青春の独白終了。

 と、うさぎが僕の頰をぺろりと舐めた。

「気にしすぎでしょ、少しの言葉で」

「少しの言葉でって、お前」

「お前呼ばわりされるのは腹が立つな。ボクも『キミ』と呼んでいるわけだし」

 紅い瞳にじっと見つめられて何だか手の中が汗ばんでくる。相手はうさぎなのに。

「それにボクにも名前はあるんだし」

 うさぎは僕の手に前足を重ねた。手の甲に直接伝わる体温に何故か逆に僕は安心してしまいそうになる。

「ボクは『月見雪』という名前だ。よろしくお願いします」

 月見雪は前足をぴしっと揃えると耳が床につくまで深々と頭を下げた。僕も慌てて頭を下げて名乗る。

「僕は北原雄二。よろしく」

 言ってからふと、フルネームで自己紹介して良かったのかと迷う。だがうさぎは笑って答えた。

「個人情報は大切に、だよ。気絶しているうちに免許証を見ようと思えば簡単だけど」

 僕が目を向くと、月見雪は愉快そうに余裕のある声で答えた

「しないよ。しないことが信用の第一だ」

 月見雪は当然のように答え、再び思い出したように言った。

「元の話に戻るけど、いい加減ボクは野菜が欲しいところなんだよね」

 僕は溜息をついて台所に立った。考えてみればまだ僕も朝食を食べていないのだ。冷蔵庫を開けると一袋残った焼きそばと安いからと買いすぎて手余し気味のキャベツが見えた。月見雪にキャベツを見せると耳が地面につきそうな勢いで首を縦に振る。僕は焼きそばに入れる分をむしって残りを適当にぶつ切りにして大皿にキャベツを盛って月見雪に差し出した。次いで焼きそばを作りながら様子を見ると、月見雪はキャベツに口をつけずに僕の方をじっと見ている。

「食べないのか?」

「だって君の食事の準備が出来ていないだろ?」

 なかなか行儀の良いうさぎのようだ。僕は焼きそばを皿に盛ると、焼きそばを持って月見雪の前に座った。月見雪は丁寧に挨拶してキャベツを食べ始める。もごもご口を動かす姿はどこから見ても普通のうさぎだ。

「独りで食事するより、一緒に食事する方が楽しいと思わないかい?」

 月見雪は少しご機嫌な声で語ってくる。僕はまあ、と言葉を濁しつつうさぎでも良いかな、とも思い直す。そして月見雪は残り一枚になったところで顔を上げ、僕をじっと見つめた。

「杵を探しているんだ」

 唐突な話に僕は意味がわからず首を傾げる。月見雪は話を続けた。

「月の国の民が大切にしていた杵が盗まれてね。たぶんこの近所にあるんだ」

「十五夜の満月にうさぎがお月様で餅つきしている、っていうあれか?」

 僕は眉を顰めて答える。月見雪の存在自体だって胡散臭いのに、さらに月の杵なんて子供騙しの話じゃますます怪しんで当たり前だろう。というか月とうさぎと杵とかどこの童話から適当に拾った話だか。だが月見雪は平然と答えた。

「ま、その伝承関係の類だね。餅つきとはだいぶ違うんだけど」

 僕は箸を咥えたままパソコンの電源を入れる。焼きそばを食べながらブラウザを立ち上げ、Googleに『月 うさぎ 杵』と打ち込んで検索した。ずらりと並んだサイト一覧の中から杵の販売サイトをクリックし、出て来た画像を月見雪に指さして見せる。すると月見雪は僕を見つめ返して偉そうに言った。

「ただの杵なんて探すはずないでしょ。それにただの餅つきが古代からずっと伝説に残るはずもない」

「ただの、餅つき?」

 月見雪は小さくうなずくと、体を小さく震わせる。すると毛の間から何か小さな金属の塊が転がり落ちた。銀色で重量感のある金属で、だが鉄や銀とは違うようだ。月見雪はチタンだよ、と言って僕のチタン製の腕時計を前足で指した。たしかに似通った輝きのような気もするけれど自信をもってそうだろうと頷く自信もない。だが月見雪は構わずに続けた。

「月の岩石にはチタンが多いんだ。ボクら月の種族は古代からチタンを鍛造する技術を持っている。で、そのチタンを精錬するのに使う霊器がボクらの杵なんだ」

 何だか急に科学チックになってきたし。月見雪は僕の反応にやれやれ、といった感じに長い耳を揺らした。

「君たちのご先祖は大好きだったようだね、チタン製の刀剣を与えると神剣だと喜んで受け取って、ボクたちの先祖を神様と敬って同族殺しを嬉々としてやっていたそうだし」

 何だそれは。僕が気色ばむと月見雪はうつむいて言った。

「そんなお互い馬鹿な先祖がいたから碌でもない目に遭ってるんだけどね、ボクも」

 それは、と僕が問いかけようとすると、月見雪は立ち上がって言った。

「放置できないんだ、杵を。杵探し、手伝ってくれるだろう?」

 あまりに身勝手な言い草にさすがの僕もかなり不機嫌になる。だが月見雪は反論せずに僕の顔をじっと見つめて僕の手の甲に体を摺り寄せてくる。ふわふわとした体毛が心地良い。僕は違う視点で問いを発した。

「なぜ僕なんだ?」

「何となく、君を信用してみたくなった。言うなれば一目惚れかね」

 なっ、と声を上げると月見雪はくくっ、と笑って言った。

「君は本当に女性への耐性がないね。ボクみたいな男の子っぽいうさぎにも赤くなる」

「いや、オスっぽい以前にうさぎと人間じゃ大違いだろ」

 僕の当然の指摘にも月見雪は動じるどころかからかう調子で言い返してくる。

「そのうさぎと普通に話している君は何だろうね。例えば友達に相談してみるとか他の対処もあるでしょ」

 それは。言いかけて口ごもる。職場の仲間にこんなことを話して万が一仕事の評価が下がるような事態は避けたいと思う。学生時代の友達はずっと遠く離れているし、とくに仲の良かった友達は。我儘で身勝手なことを言う癖に、本当に悪どい感じのすることが大嫌いだった、本当なら一番信用出来るはずのあの人は、今。

「今は、逢えない」

 僕より先に、月見雪が僕の言いたかった台詞を口にした。僕は不満を口にしかけて、でも月見雪の赤い瞳に全くからかいの色が無いことに気付いて。その、いつも意地悪を言っているくせに僕が本当に困っているときには本気で心配してくれたあの人と、そっくりの瞳で僕を見つめていて。

「奈、美?」

 幼馴染みの名前を口にする。月見雪はふっと溜息をついて言った。

「ボクは、月見雪だ。ボクは、奈美さんじゃない。君の友達の奈美さんは」

 いったん月見雪は口を閉じ、そしてゆっくりと言葉を続けた。

「ボクを信じてくれる人なんて滅多にいない。信じられない者なんて存在しないと同じだ。幽霊みたいなもの」

 僕はわかるようなわからないような、半端な気持ちでうなずく。月見雪は僕の反応を見ながら続ける。

「だけど偶然逢った奈美さんはボクを信じて君を紹介してくれた。もちろん彼女が僕を信じてくれた理由は」

「言うな」

 僕は荒い息で月見雪の話を打ち切った。今の奈美のことを、こんな付き合いの短い奴にとやかく言われたくはない。たとえ、奈美が昔のように笑えなくなっているとしても。僕の言葉に月見雪はいたわるような視線を向けた。僕は何だかそのいたわりの視線が奈美を汚すような気がして視線を受け止めずにわざと逸らす。

 僕と月見雪の間に沈黙が流れた。だがもう、なぜ月見雪が僕を選んだのかわかった。あとは月見雪をどこまで信用するかだけど。僕は奈美と似た視線を持つ月見雪を信じてみようと思う。とはいえ、その杵を捜索するにも手掛かりがなければどうしようもない。月見雪が言うには、杵は普通の人間に操れるものではなく、むしろ有害だという。それも放射能で体に悪いとか持ったら怪物に変身してしまうとかいったものではなく、心に影響するのだという。

 僕たちはとりあえずインターネットで異常な事件を色々と検索してみることにした。何を異常とみるかは難しい部分で、そこは月見雪のセンスに頼るほかない。ニュースサイトで重大犯罪を検索すると、画面上にこのところの猟奇事件がずらりと並ぶ。だが月見雪は一瞥して笑った。

「君たちによくある事件ばかりじゃないか」

 膝の上で笑う月見雪のことが腹立たしくなって払い落とした。だが月見雪は余裕の調子で返す。

「ボクらは君たちの戦争を沢山見てきた。君たちは昔からずっと残虐だ。君たちの殺し合いは本能だろ」

 月見雪はいやらしい声で笑う。こんな酷い奴と奈美を一瞬でも重ねた自分に失望してしまう。だが月見雪は一転して真面目な調子になって言った。

「一人、おかしな奴がいる」

 月見雪が前足で指した事件は、むしろほのぼのとしたものだった。

『町の猫たちを救う女性』

 膝に猫を沢山乗せてほほ笑む、僕と年齢の大差ない感じの女性。捨て猫を集めて自分の家で保護しているという。仕事はOL。細身に長髪、緑のサマーセーターを着ている。

「人間は単純に優しいことなんてそう簡単に出来るはずがない」

 それってあんまりな偏見だろ、と文句を言うと月見雪は金、と呟く。

「お金がどうしたの?」

「保護したらお金がかかるけれど、そのお金はどうしているの?」

 言われて僕は記事の中身を読む。確かに「餌代が苦しい」としか書かれていない。猫を一匹飼うだけでもそれなりに餌代はかかるはずだ。そう考えるとたしかにおかしい。月見雪は低い声で言った。

「この人の笑顔が、ボクは嫌いなんだ。本当にいつも『捨てられた』猫を保護しているだけなら、むしろ笑顔じゃなくって」

「捨てた飼い主への怒り、とか?」

 月見雪はうなずく。でも日本人ならカメラを向けられたらとりあえず微笑んでおこう、的な部分はあると思うけど。僕の指摘に月見雪はうなずいて僕の膝から飛び降りた。

「議論していても仕方ない。パソコンを捨てよ、街へ出よう」

 何で妙に僕たちの文化に詳しいのか。僕が苦笑すると、月見雪は誇らしげに言った。

「なるべく、君と一緒にいたいからさ」

 僕は唾を飲んで月見雪をじっと見つめる。月見雪はくく、と小さく笑って言った。

「今のは、冗談だし本気でもあるよ」

 月見雪の言葉は本当に難しい。


 隣の席に初めて乗せるのは恋人にならないことぐらい覚悟してはいたけれど。さすがに初めての乗客がうさぎだとは思わなかった。信号待ちの間、助手席で呑気に耳の毛をグルーミングする月見雪をぼんやりと眺めながら、僕は強引な月見雪に不満を洩らした。

「いきなり現場に急行とかさ、僕は探偵でも戦士でもないただの事務屋なんだけど」

「心配ないよ。スパイダーマンなんてゴシップ写真屋じゃないか」

 月見雪は当然のように言って、ほら青信号だよ、と僕をせかした。結局僕たちはあのあとすぐに例の記事の元である女性の家に行くことにしたのだ。僕はかなり嫌だったのだけれど、月見雪が行くと言ってきかないのだ。幸いほのぼの記事だったおかげか地域の詳しい話も出ていたし女性の「桜庭」という姓もわかったので、あとは図書館でゼンリン地図で確認したら住所まで一発で調べられたというわけだ。

 隣町なので一時間もあれば余裕で家に到着する。僕たちは家に到着する前にコンビニに寄ることにした。僕はなるべく店員に怪しまれないよう月見雪を腕の中に抱いて店内を歩きながら月見雪に小さな声で相談する。

「何か買っておくものは? 武器とか?」

「今の時代は武器がこういう店に売ってるものなのかい?」

 月見雪の厭味っぽい指摘に、僕は口をつぐむ。月見雪は店内を眺めて言った。

「水を買って。ペットボトルの二リットルの奴」

 僕が首を傾げると、月見雪は良いから良いから、としか言わない。納得できないながらも僕は一番安い二リットル入りペットボトルのミネラルウォーターを一本買って店を出た。再び車に乗ると目的の家に向かう。隣町だとはいえ、配達の仕事でもしていない限り住宅地の中など歩いたことはないから家を探すのは難しい。結局、僕たちは商店街に戻って車を置くと住宅街の中を歩くことにした。とはいえうさぎが放し飼いで歩くのは不審だ。そこで僕は商店街で偶然見つけたペットショップで小物を買って月見雪に変装するよう勧めた。

「ボクにこれをつけろと」

 冷たい視線を向ける月見雪に、僕は視線を合わせずに答える。

「ほら、捜査とか調査には変装がお決まりだろ? で、君はうさぎだからさ」

「別にボクを見て月うさぎだと簡単に見破られるとは思えないんだけど」

 月見雪は僕が手に持った、ペットうさぎ用の細い首輪と革の綱を憎々しげに見つめる。ご機嫌とりに買った人参は即座に取り上げられてとっくに月見雪の腹の中だ。僕らは数分睨みあったあと、月見雪はふう、と溜息をついて言った。

「まあ、人間の世界を歩くには仕方ないかもしれないね。でも」

 僕が首輪をつける準備をし始めると意地悪な声で続ける。

「君がボクに首輪をつけたがる趣味があるだなんて知らなかったよ、全く」

 なっ、と僕は声を上げて首輪を手から落としてしまいそうになる。次いで、なぜ自分はこんなに慌てているのだろうと自問する。月見雪は見透かしたように言った。

「君は本当に惚れっぽいね。ボクみたいな可愛いうさぎは君みたいなオオカミには本当に用心が必要だ」

 月見雪を抱きあげると、月見雪はそっと首を僕の方に伸ばしてくる。僕は何だか厳粛な気持ちになって、なるべく痛くないように緩めに首輪をつけてあげる。月見雪は二、三回首を振ると、うんとうなずいて言った。

「ところで、月うさぎにとって首輪を付けるというのが、君たちの婚約指輪だという話はしたっけ?」

「まさか。嘘だろ?」

「嘘だよ」

 あっさりと月見雪は言って、でも優しげに僕の鼻先をぺろりと舐めた。


 図書館の地図は古めだったうえ、僕は元から方向音痴だし、月見雪はうさぎの低い視線だからなかなか家は見つけられなかった。だがそれでも、住宅街をさ迷っているうちに次第に見当がついてくる。

「今度は三毛」

「これで黒とブチとペルシャ猫、だっけ」

 次第にうろつく猫の数が増えてくる。おまけに不気味なことに、次第に猫が一方向に集まっていることがわかってくる。脇を通った猫が唸り声を上げたけれど、月見雪が耳を揺らして睨んだ途端に逃げ出した。やはり野生は月見雪が普通のうさぎではないことに気付くようだ。

 月見雪は疲れた、と言って急に立ち止まる。僕は仕方なく月見雪を抱きあげた。ずっしりと重たいけれど、ふわふわとした毛が心地良くて思わず頭を撫でてしまう。月見雪はいやいやをするように頭を振る。でもそれは緩やかな頭の振り方で、僕は再び頭を撫でる。月見雪は、だからさ、と言いつつ僕の胸に頭を委ねてくる。僕が少し抱きしめるような形になったとき、月見雪が真面目な声で囁くように言った。

「危険を感じたら必ず逃げて。一緒に探してとは頼んだけど、危険に遭わせて良いとは思っていないから」

 僕はさっきまでの少し甘い気持ちを吹き飛ばされて体を硬くする。だが月見雪の言葉に何となく納得できないものを感じて少し強い口調で答えた。

「好き勝手言っていたくせに急に他人行儀じゃないか。僕は一緒にやるさ」

 月見雪は僕を見上げて言った。

「生真面目さは自分を傷つけるよ。奈美さんみたいに」

 僕は月見雪の耳を引っ張ってやろうかと思う。だが唇を噛んで言葉だけで抑える。

「奈美は、関係ない」

「関係あるさ。『うさぎの杵』を流通に乗せた張本人なんだから」

 え、と僕は月見雪を見つめ直す。月見雪は言いにくそうにしながら続ける。

「奈美さんがインターネットの中古販売仲介会社に勤めていたことは知ってるだろ?」

 僕は黙ってうなずく。小規模な会社で販売システム管理をしていたこと。胡散臭い商品を扱うのがシステム担当とはいえ嫌だとこぼしていたこと。夜中まで勉強して既存と違う遊びのある販売システムを作って独立すると夢を語っていたこと。僕みたいな事務屋にはわかるはずがないのに言語仕様なんか喋っていて。まあ奈美と話すのは楽しいから、と思っていたけれど、その言語仕様の話が次第に素人目にも異常な感じになってきて。

『何で私が販売もしているんだろう。いや販売も覚えなきゃね。販売するなら大きいものだよ。ねえユウちゃんも、会人になったら社会倫理とかいらないとか思うよね』

 正義っ娘の奈美とは思えないことを言い出して一ケ月後、奈美は会社を辞めた。そして事故があって今は。今は僕とすらまともに意思疎通出来ない。

「神社の御神体になっていた杵を盗んで奈美さんの会社に売った奴がいてね」

 だから。杵の力で奈美は。

「違うよ。杵は持ち主同士で移送された。現物は会社を通らずどこかに転売されてしまったんだ」

 酷い視線を向けてしまったのだと思う。月見雪は僕の頰をそっと舐めた。

「君は正気で生き延びなきゃならない。ボクが杵の盗難を防げなかったから。だからボクは一生、杵を追わなきゃならない」

 月見雪の赤い瞳を覗きこむ。月見雪の上から目線の言葉の陰にある、この厳しすぎる使命感は何だろう。ねえ奈美。奈美が僕を月見雪に紹介したのは、もしかして。追い詰められた君に助けの手を伸ばせられなかった僕に、もう一度機会をくれたのだろうか。僕は再び月見雪を抱きしめる。意外だったのか、月見雪はきゃっ、と初めて女の子らしい声を上げる。それでも月見雪は意外にも怒らず、ただぽつりと言った。

「行こう、一緒に」


 桜庭の門柱の奥から騒々しいほどの猫の鳴き声が聞こえる。玄関先は猫特有の臭いが漂ってくる。親と同居しているにしてはカーテンを閉め切っており、人の気配を感じない。猫の気配がうるさ過ぎるだけかもしれないけれど。庭の草花も覗き込んだ限りではすっかり猫たちに遊ばれたうえにすっかり共同トイレと化しているようだ。僕は呼び鈴を押した。一回、二回。そして最後の三回目。

 一人の女性が出てきた。猫たちが兵隊のように彼女につき従う。スレンダーというよりはやせ細った印象で、櫛を通せばさらさらと流れそうな長い黒髪は互いに絡みあって、抱いたブチ猫に遊ばれている。服は薄汚れた青いスウェットスーツをだらしなく着ており、胸元には少し歪んだ形の十字架の銀のアクセサリを下げていた。

 彼女は沈黙したまま僕たちを睨みつける。幾ら見知らぬ相手とはいえ、あまりの態度に僕は言葉を継げなくなる。彼女はふと僕の胸に抱かれた月見雪に目を止めた。

「うさぎ?」

 ええ、と僕はやっときっかけができたと言葉を返しかける。だが彼女はにやにやと笑って言った。

「シチューにしたら猫ちゃん喜ぶわね」

 家の中から一斉に猫が声を上げる。足元に集まった猫が背中の毛を立てる。

「雄二、綱を外して!」

 慌てて僕は月見雪の綱を外した。猫が一斉に飛び掛かってくる。月見雪は僕の胸から飛び出すと家の中に突入しようとする。女は胸元のアクセサリを握った。途端、アクセサリが膨張して槌の形に変わる。初めて見た僕にも、それが目的の杵だと一目でわかる。僕は月見雪をかばうようにして引っ掻き噛みつく猫たちを振り払い続ける。月見雪がぽそっと「ごめん」と呟く。そのごめんが僕に対してだったのか、それと他の誰かだったのか。

 女が杵を振り下ろした。月見雪は僕の買ったペットボトルを蹴り飛ばして水を撒き散らす。水は丸く鏡のようにまとまって月見雪と女の間に浮かび上がり、満月の光を放って杵を押し返した。

「不要なものを消して欲しいものを潰してまとめるのが杵」

 月見雪は言って女を見つめる。女は杵を振り上げると、軽く自分の頭を杵で叩く。彼女はほわり、と幸せそうな表情になる。

「嫌な記憶を消して潰して。猫たちの飼い主の記憶も消して。あんたに残ったのは」

 月見雪の呼びかけに女は答える。

「恋人も仕事もいらない。猫ちゃんだけいれば、あとは何もいらない」

 ぎにゃあ、と猫が嫌な声を上げる。僕らを餌のように見る。月見雪は相変わらず女と向かい合ってじりじりと互いの出方を待つ。

 嫌な記憶を消して潰して。女の言葉に、ふと僕は思う。もしそれを使えば奈美は。昔に戻れるんじゃないか。僕だって嫌なことを忘れて今の仕事だけに。

 僕は女に突進した。女は僕に杵を振り上げる。僕は打たれるのも歓迎だとばかり速度を緩めない。と、杵が僕の頭を打つより先に月見雪が間に飛び込んだ。

「月見雪!」

 跳ね飛ばされた月見雪を抱きあげる。女は腹立たしげに僕らを睨みつけると女は自身の頭を打った。

 と、彼女の表情が一転した。女は叫び、のたうち回る。月見雪は女に飛びついて杵を奪い取ると、周囲の猫たちに向かって杵を振る動作をする。受けた猫たちは妙な鳴き声を止めて次第に屋敷から一匹、また一匹と出ていく。女は柱に掴まったまま嗚咽を続ける。だが月見雪は冷たく言った。

「どんな道具も使う者を守る仕組みがある。私を打ったから、あんたに今までの記憶が戻っただけ」

 嫌な記憶の渦に女は落ち込んでいく。月見雪は僕の手の甲を軽く噛むと言った。

「事件は解決。帰ろ」

 僕は曖昧にうなずくと一目散に車へと駆け戻る。運転を始めると、月見雪は再び僕の手の甲を噛んだ。

「君、悪いことを考えたでしょう」

 月見雪はいつもより丁寧に、だが厳しい調子で言う。答えないと月見雪は続けた。

「自分も嫌な記憶を消したいとか、あと誰かのためとか考えたんだろうけど」

 『誰か』とぼかしてくれる月見雪に内心感謝する。月見雪は左手の噛み跡を今度はそっと舐めて言った。

「記憶なんて片方じゃ駄目なの。例えば君、ボクのことは好き? 嫌い? 答えられないだろ」

 だから、と説明を続けようとした月見雪の言葉を僕は遮って言った。

「僕は月見雪のことが、好きだよ」

 月見雪はう、と言葉に詰まる。僕は元通り小さくした杵をぶら下げた月見雪の首輪をつついて言った。

「たしか、婚約指輪代わりだったっけ」

「それは嘘だと!」

 慌てる月見雪に僕は笑った。

「ところで月見雪、君はこれからは?」

 月見雪は毒気を抜かれた表情で窓の外に目を向ける。空には薄い月が見え始めていた。月見雪は僕を見返す。赤い瞳がいつもより赤く充血している。

「ボクに帰る場所は」

 月見雪は月を見上げ、胸元の杵を前足でいじり、今度はいつもの表情に戻って当然のように言った。

「君の留守中は不用心だし、食事は独りで食べるより一緒に食べると楽しいよね」

 僕はうなずいて、人参が美味しいと評判の農協直販店へとハンドルを切った。

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