最近、本当についていない。先々月は呆けた婆さんが運転する車に追突された。この婆さん、保険に入っていないわ半呆けだから話が通じないわ、病院代どころか車の修理代すら未だ解決していない。さらに続けてアパートの壁のコンクリートが頭の上で剝がれ落ちた。上手く避けたせいで肩に軽く当たった程度で済んだが、それでも今も痛みが残っている。婆さんに追突されたむち打ちのせいもあるようだが医者は完治だと言いやがった。
先月は近所のバツイチ女が飼っているシェパードに追いかけられて足も挫いた。首筋まで牙が迫っていたが、幸い買い物帰りだったので手持ちのソーセージを投げたらそっちに気を取られて何とか助かった。バツイチ女はちょっと露出の際どい服を着て、お詫びにと手作りカレーを持って来てくれたので喜んで食ったところ、これが酸っぱくて丸一日腹痛で七転八倒した。
その上、先々週は現場が狂った案件を持ち上げてきた。どう見ても原料価格が不安定なのに仕入先とは全く打ち合わせもせず、それなのに取引先へのプレゼンは終わったとか無茶なことを言っている。なぜかそのぐちゃぐちゃになった状況整理を俺のいる企画部に社長が丸投げしやがった。結局それ以後ほぼ徹夜続きで、ユンケル黄帝液最高の三千円級を飲んで何とか倒れずに凌いだ。
正直、殺されそうな勢いだ。世界が総掛かりで俺を殺そうとしているんじゃないか、そんな妄想にすらとりつかれそうになる。それでも何とかふざけた仕事も片付いてこの土日はゆっくり休めるのだ。とはいえ既に土曜日は半日を終えてしまっている。壊れかけの肉体が睡眠を求めているので、目が覚めたらもう昼なんてとっくに過ぎていたのだ。
とりあえずトイレに行く。寝汗をかきながら寝ていたせいか、濃厚な小便が少量出るだけで尿道に軽く沁みる感じがする。冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出すと一息に呷る。五百ミリリットルの冷水が一気に胃に染み通っていく。そのままペットボトルを床に転がすと布団を引き寄せて潜りこみタブレットを操作する。ツイッターやら何やら適当に見て回り、個人メールに溜まっているポイントサービスをチェック、再びタブレットを床に投げ出して天井を仰いだ。
今日はもうどうでも良い。とにかく怠惰で過ごさせてくれ。まともな社会人なら規則正しい生活を、なんて言っている輩がいるが、真面目な社会人なら規則正しい生活で仕事が終わるものか。そんな役立たずが真面目の代表のような顔をしやがるこの世界なんて爆発してしまえば良いのだ。規則正しいという名の怠惰で諦めの多い前例踏襲主義の浅慮な仕事で偉そうな顔をしている下衆どもに俺の部屋の怠惰さを批判される謂れはない。
もっとも、俺の部屋で怠惰さが見えるのは床に転がったペットボトルとタブレット、そしてキッチンに軍隊よろしく整列しているユンケル黄帝液の空き瓶程度のものだろう。洗濯はしないと出勤できないし、私服なんて袖を通す暇すらない。食事に至っては作るどころか朝昼晩が外食かコンビニ弁当ときている。トイレすら朝と寝る前の二回しか使う暇もない。これでは部屋が汚れたり散らかったりする要素がない。嗚呼なんと狂った充実の毎日なんだ。こんな腐った日々なら、先々月の婆に轢き殺されていた方がましかもしれない。
頭の中で月曜日からの案件の処理順を整理する。間違いない、まだ間に合う。日曜に休日出勤しなくても大丈夫だ。俺は独りへらへら笑いながら起き上がるとカーテンを細く開けた。外は明るくドライブ日和の天気だ。修理して以来、乗る暇のなかった車でどこか出かけようか。思った途端、瞼がうっすらと重くなってくる。駄目だ、これでは確実に事故を起こす。バッテリーが上がりそうで不安だが、この際は開き直って放置だ。
テレビをつけると家庭物ドラマをやっていた。家庭問題を取り上げたリアルな作風が売りだそうだが、夕方に帰宅して家族と揉める若い父親とか、どこのファンタジーだと言いたくなる。家庭でぐちぐち喧嘩する暇があるなら出勤しろこの無能男は。もちろん、テレビに文句を言っている俺の現実がおかしいのかもしれないが、こっちは現実を打ち壊せとかいう革命家ごっこをするほど暇じゃない。
チャンネルを替えると、今度はアニメの主人公が性格のきつそうな少女を守りながら、幻想を打ち壊せとか叫んでいた。いやもう現実は十分だから幻想だけでも今は欲しい。
じゃあ地下鉄に乗ってどこかで豪勢な食事でもしてやろうか。他には温泉も良い。夜にはガールズバーにでも行ってみようか。もう半日しか残っていないというのに、長い労働のせいか財布の中身も気にせず無茶苦茶なことを考え始める。
とにかく、このまま家に閉じ籠っていると気持ちが果てしなく鬱屈してしまいそうだ。仕事と自宅とトラブルの中をぐるぐると巡り続けるなんて冗談じゃない。これもストレス解消だ。俺はようやく久々の私服に着替え、髭が伸びたままで外出しようとした。
だがドアを開ける直前、俺は嫌な予感がして、体を出さずドアだけを勢いよく開けた。何かがドアとぶつかる鈍い音がして、次いで床に倒れる音が続く。俺は体を出して様子を確認すると、若い女がおろおろしながら金槌を拾って頭をさすっていた。
服装はユニクロの毛羽立ったフリースに、裾が擦り切れ色褪せたデニムと安物のスニーカーで、セミロングの黒髪がぼさぼさになっている。体形は褒め言葉を使えばスレンダーだが、身長の低さと相まって貧相で、子供体形と言ってもまだ悪口ではないだろう。
白い肌と切れ長の目鼻立ちは、本来なら人並み以上の顔立ちかもしれないが、目の下の黒い隈のせいで一重瞼の目元がむしろ野暮ったい印象だ。彼女はどろんとした瞳にうっすら涙を浮かべ、やっぱり失敗だ、と呟く。
だがすぐに険しい目つきになると、俺を上目遣いに睨みつけ、怪しく含み笑いしながらゆっくり金槌を振り上げた。
俺は慌てて後ずさる。彼女は振り上げたまま停止し、またぼとぼと泣き始めた。やばい危ない人だ。俺はこっそりスマホを探る。だが彼女は意外と綺麗な高い声で言った。
「通報でも何でもして下さいよ。どうせ人間に捕まる程度の無能ですから」
恐怖していた俺の脳が、無能という言葉に反応する。理性は駄目だと言っているのに、俺は感情のまま女に言葉を投げつけた。
「無能が何かをやると、ますます余計な仕事が増えて迷惑なんだよな」
女は肩を震わせ、俺を再びどろんとした目で仰ぎ見る。しまった、と内心後悔した。幾ら相手が不審者だとはいえ言って良いことと悪いことがあるし、何か金槌より危ないものを持っているかもしれない。俺は後ろ手でこっそりと自分の部屋のドアノブを探る。すると女は目に波を浮かべて再び口を開いた。
「何で私、あなたにまで莫迦にされなきゃならないんですか。担当の人間にまで莫迦にされるだなんて、末代までの恥ですよ。いえどうせ私なんて末代でしょうが!」
いきなり意味不明の不満を俺にぶつけてきやがった。せっかくの休日が頭のおかしな女に消耗されていく。俺は苛立ちながらもなるべく穏便に声をかけた。
「いや、まあ先ほどは言葉が過ぎました。私は急ぎますので失礼しまして」
「いえこちらこそいきなり叫んで申し訳ありませんでした。せっかくなのでどこかお食事でもご一緒しませんか」
何だろう、キャッチ詐欺だろうか。この手の詐欺はグラマーでかわいい女の子が来ると聞いていたが、運の悪い俺の所にはその落ちこぼれが来たというところか。
「落ちこぼれとか失礼なことを考えないで下さい。確かに落ちこぼれですが詐欺師ではありませんから。せっかくなのでお話とか」
落ちこぼれ、と声に出してしまったのだろうか。そもそも何がせっかくなのでなのかわからない。それにこの身なりでどこへ行くつもりなのだろう。近所の食堂で飯でも奢ってくれるのだろうか。まさか俺に飯をたかるつもりだろうか、援助交際とかいう奴か。
「あの、あまり、手持ちがないので、あそこの弁当屋さんが結構美味しい上に夕方になると一割引になるんで。列に割り込むとパートさんにつまみ出されるから要注意ですが」
駄目だこいつ。詐欺だか宗教だか知らないが情けない奴だ。少なくとも援助交際や詐欺師とは違う方向で駄目な人だ。俺が冷たい視線を向けると、彼女の腹が小さく鳴った。彼女はにへら、と笑って頰を赤く染める。
「……ホームレス?」
俺はぽそりと呟いた。彼女はまた涙を溜めて必死に頭を振る。俺は溜息をつき、このおかしなホームレスもどき女を連れてとりあえずアパートから外出することにした。
「で、ここが市役所だから生活保護とかさ」
とりあえず手近なファミレスに行って、飯の勘定は持ってやると言ったら子供みたいに必死でメニューを睨み始めたので、俺はスマホで検索した市役所福祉課の電話番号を示した。すると彼女は頰を膨らませて言った。
「私、お給金が少ないというか仕事のミスで減給されまくっていますけど、別にホームレスとか失業者なんかじゃないです」
こんな状態になるまで減給されるぐらいならさっさと転職しろ、と声が出かかったが、こんな奴を雇う物好きな会社なんてあるわけがないかと思い直して言葉を飲み込む。むしろ転職させて下さいアルバイトでも良いですむしろ永久就職とかどうですか、とか言って食いついてきそうで、さらなる厄介事からは全力疾走で逃げておきたい。だが厄介事の種が、勝手に機嫌を直して俺を見つめてきた。
「でも生活保護とか言ってくれる辺り、親切ですよね。あなたと会えて良かった」
女性からこういう素直な反応をされてしまうと、どうにも強く出にくくなる。彼女は隈のできた目をこすりながら言った。
「そう考えると、ずっとあなたについて行きたいって思いますよね」
「とりあえず、断りもなく一目惚れするのは止めてもらえますか」
すかさず俺が口走ると、彼女は口を尖らせて偉そうに言った。
「いえ、あなたにはしばらくついていましたけど、一目惚れするほどの外見も優しさもないと思いますよ、客観的に正直言いまして」
「とりあえずここは割り勘にしようか」
「いえあなたかわいいし男前だと思います道行く女性も惚れ惚れですよ恋しちゃいます」
棒読みながらも態度を豹変させつつ、いつの間にか店員を呼んでカツ丼とチョコレートパフェを頼んで俺にメニューを回す。
俺も面倒なのでとりあえずカレーライスを頼んだ。カレーは良い食事だ。忙しいときにもすぐ出てくるし、流し込めるからすぐに仕事にかかれる。だが俺の思いに気づかないのか、彼女はほんわかした表情で呟いた。
「甘いものは久しぶりです。まともなお食事も二日ぶりなんです、実は」
もう口を開くな恥ずかしい。わざと無視してメニューを眺めていると、カップル向けでハート型になったストロー二本刺しのカクテルが目に入った。間違ってもこれだけは追加注文させないようにしようと心に誓う。
とりあえず話題、と思って嫌なことに気づいた。さっきこの女、何て言った。しばらくついていた。もしかしてストーカーか。
「ストーカーじゃないですよ。きちんとついていただけなので」
さっきからこっちの思うことを見通すこの眼力を転職に使えないのだろうか。まあそこは置いておいて、俺は冷たく答えた。
「つきまといはその時点でストーカー」
「だから、つきまといじゃなくついていたんですってば。んーと、通じないかな」
彼女はグラスの水に人指し指を浸し、その雫でテーブルの上に「憑」と書いた。
「私、先々月からあなたに憑いている福の神見習いなのです」
幾ら言い訳だとしてもさらに無茶苦茶を言い出したこの女をじっと見つめた。
「最近、もの凄くついてない俺に『福の神が憑いています』はないだろう」
「だから減給されて、お米どころか激安の怪しい中国産パスタも買えないんです」
福の神というオカルトは突飛だが、理屈は合ってはいる。たしかにこいつが俺の幸福担当なら不幸になっても全くおかしくない。それどころか、こいつが人を幸福にするという仕事を一つとしてこなせるとは思えない。
すると彼女はまた俺の思考を読んだかのように文句をつけてきた。
「一応、これでも仮免許中なので厄を避ける資格は持っているんです。それにこっちが適職だと言われて移ったわけですし」
面倒なので俺も彼女に話を合わせておく。
「で、移る前は何だったと言うわけよ」
「死神です」
真顔で言うこいつから、さすがに俺は身を引いた。すると彼女は慌てて続けた。
「いや、死神って言っても見習いのうちに止めちゃったので。ドジなので取り返しの効かない死神は無理って師匠に言われまして」
「それで失敗して、福の神が俺を不幸にしていたとか言う気かお前は」
「不幸になんかしてません! 降りかかる不幸を排除する能力が著しく低いだけです」
「だからお前は無能自慢するな」
嘘にしても無能自慢する奴には腹がたつ。だが感情的になってもろくなことはない。俺は自分に論理論理と言い聞かせて訊いた。
「仮にお前が福の神だというのを事実だとしよう。お前の言葉によれば、年中不幸って降りかかっているものなのか?」
「そんなわけありませんよ、あなたは今、不幸特別大セール中なだけです」
「そんな迷惑なセール販売は頼んでいない」
屁理屈にもならないおかしな話で押し通すつもりらしい。どう矛盾をついて化けの皮を剝いでやろうかと思っていると、カレーとカツ丼がようやく出てきた。
彼女はいただきます、と手を合わせて意外に綺麗な礼をする。俺も持ちかけたスプーンを慌ててテーブルに置き、いただきます、と言ってから食べ始めた。彼女は飢えた口ぶりだったわりに、大口ではあるが上品に満面の笑みで食べていく。カツの上に乗せた三ツ葉も器用に摘んで食べている。実は俺はきちんとした箸の持ち方ができないし左利きのせいもあり、少し彼女を見直す気持ちになった。
そういえば名前を聞いていなかった。
「君、名前は」
「お互い自己紹介しますか。それよりカレーがついてますよ」
顎を指差されて慌ててナプキンで取る。彼女は笑顔のまま言葉を続けた。
「クツナヒメノミコト、長いのでクツナ様とでも呼んでください」
「私は弥生茂人だ、よろしくクツナ」
「今、さらっと敬称を抜かしましたね。さん付けすらしないんですか無礼者」
「カツ丼とパフェをたかる神にさん付けする義理はない。カツ丼を神棚にはあげないぞ」
クツナはさらに反論を言いかけたが、言葉を飲み込み再びカツ丼に箸を向け、先ほどより速めに箸を動かす。食欲に負けたようだ。
俺はスマホでクツナを検索する。古語で朽ち縄で、その外見から転じて蛇を指す、と出てくる。注連縄も蛇と関係があるらしい。一応は神話の設定を踏まえているようだ。面倒臭いがまあ、出会い系で女の子を引っ掛けたことにするか。引っ掛けるなら別の子にするだろうし、そもそも引っ掛けたことも引っ掛ける暇もないのだが。
「その辺は安心ですよね。そもそも暇があっても軟派なことをする性格ではないでしょうし、襲ったりするのは野蛮で嫌いでしょ」
また考えを読まれた。何でこんな間抜けなのに一部だけ妙に勘が鋭いのだろう。
「そこはほら、朽ちても神様なので」
「ああ、女の勘ってやつか」
俺とクツナの声が重なる。するとクツナは鼻で笑って言った。
「仕事は当然、私よりできるのでしょうが、女性に対していきなり『女の勘』なんて言っちゃう時点で女心がわからない人ですよね」
「俺も出会って初日にファミレスのカツ丼とパフェに心躍らせる女は初めてだからな」
カツ丼が片付いたのを店員が察知し、ベストタイミングでパフェが運ばれてくる。クツナは恨みがましい視線をすぐに蕩けさせてパフェにスプーンを差し込んだ。
こんなことをしているとせっかくの休みと金がクツナに浪費されてしまう。豪華な食事も温泉もガールズバーも。
そう考えかけてふと思う。独りで豪華な食事をするよりも、今だらだらと食っているカレーで十分かもしれない。温泉はともかく、ガールズバーの女の子とクツナだと、向こうの方がグラマーで綺麗な服を着ているぐらいの差だろうか。ガールズバーで働いている子相手なら間抜けな神様設定なんて抜きで普段の話はできるが、だからと言って俺の趣味と合う話ができるとは限らない。何しろ、テレビもネット配信もほとんど観ていない俺の場合、共通の話題を振れるか自信がない。
まさかクツナはそういう人向けの。
「私、寂しい人向けの押し売り営業とかの怪しい仕事じゃないですよ。安心してくださいというか、さすがにそれは傷つきそうです」
「いや、そんなつもりじゃなくて」
「私は思考が見えるのですから、言葉の誤解のように見誤るなんてありえないです」
ごめん、と小さい声で謝りながら、本気でクツナは思考が読めるのかと思う。確かに間抜けなのにここまでびったりと重なるとそう思いたくなってくる。
手元のカレーがもう残り少ない。コーヒーが飲みたい。だが薄く苦いだけのコーヒーではなく、例えばエスプレッソのような。
「店員さん、彼にエスプレッソを一つ」
当然のようにクツナは勝手に注文してパフェを食べ続ける。俺が、エスプレッソを飲むのは生まれて初めてなのに。
「俺が、エスプレッソを飲むのは生まれて初めてなのに」
一字一句違いなく俺の思考に重ねてクツナは言って、勝ち誇った笑みを浮かべた。
口元にソフトクリームをつけたままで。
「ここまでくると『悔しいが、クツナはやはり神様のようだ。平凡な俺がなぜこんなことに』とか思うのが普通だと思いますが」
「そんな普通は、世間知らずの学生とスイーツ女子会とか言っているふわふわした女たちとカルト宗教や政治運動にはまる間抜けな奴とオレオレ詐欺に引っかかる高齢者だけだ」
「それ足し上げると、日本社会の大半を占めている気がするんですがどうですかデータ好きで自称客観主義で頭の良い茂人くん」
「莫迦ばかりの社会なんて糞食らえ」
「莫迦相手にお仕事してご飯を食べさせてもらっている茂人くんが言っちゃメッですよ」
「まず俺に食べさせてもらったお前が」
「今日は本当にご馳走様でした、次はどこに行きましょうか。憑いていきますよ」
いきなり態度を豹変させた。というかついてくるのか。まあさっきも憑いていると言っていたし。試しに男子トイレと男性サウナとその他男性専用店に籠ろうか。
「思いきってゲイ男性の同性愛専用店に篭ってみてはどうですか。男子トイレと違ってこちらも外野として楽しめますし」
食事を済ませたせいか、クツナの軽口が格段と増えた。というか、クツナはこれが本性なのかもしれない。
「本性は蛇神ですよ。観たいと言うのか?」
急にクツナの口調が変わった。どこまでも芝居がかった奴だ、と思ったが、クツナの表情が消え、細められた目が全く何を考えているかわからなくなる。最初に会った際の金槌姿の方がまだ人間らしい。悪寒が走る。
ふっとクツナが息を吐き、先ほどまでのぐでっとした間抜け顔のクツナに戻った。
「論理攻めで生きているつもりのあなたも、結構感覚で生きているじゃないですか」
ああ、と俺は生返事をしかけ、すぐに金槌のことを思い出した。
「忘れていたけど、金槌は何のつもりだ」
「いえ、あの、殴って怪我させて、私ももうこのまま神格取消になって討伐されちゃおうかなとか破れかぶれで。今は止めましたが」
よくわからないが、結局は通り魔か。俺はもしかして、通り魔をカツ丼とパフェで更生したのか。せっかくの休日をボランティアで潰してしまうとは悔しい話だ。
「ボランティアをやって悔しいとか、人として大概ですよあなた。社会規範に反していなくても、魂は地獄行きっぽい性格ですね」
「元々が死神だけにわかるのか」
「免許取消なので勘ですけど。というかやっと神様だと納得しましたか。ライトノベルの主人公ならとっくに納得しておりますのに」
「話を合わせてやっているだけだ。それに俺は純文学が好きな知的青年だからな」
「あの谷崎潤一郎とか渋澤龍彦とか変態な本を愛好する痴的青年十八禁ですか。私、そちらの方は恥ずかしくて苦手です」
谷崎は名前だけ教科書で覚えた程度が普通で、変態と言ったり渋澤龍彦を持ち出したりする時点でクツナも読んでいるのだろう。思考を読めると言ったくせに大雑把な奴だ。俺が思っている文学と言えば三島とか。
「ああ『仮面の告白』とか『禁色』とか『潮騒の少年』とかですか」
すらすらとゲイ文学を並べやがった。
「さっき思考が読めると言っていたな」
「嫌ですねもう。わかっていて言っているに決まっているじゃないですか」
そうだろそうだろう、さっきから表情が悪戯娘という感じだ。でも蛇神の話をしたときの無表情よりはずっと良い。
俺たちは繁華街の大通りに向かって歩いていた。とりあえずクツナを振り切るのは諦めた。諦めたというか、面白い映画をやっているわけでもなく、それほど行きたい場所があるわけでもない中、下らない話を続けているのも悪くないと思い始めたからだ。
大通りは冬には雪まつり、夏にはヨサコイソーラン祭りと何かと催し物をやっていることが多いのだが、今日は何もやっておらず焼きとうきび売りの屋台があるだけだった。
「何もないな。円山動物園で何か動物でも見れば良かったか。大蛇とか」
「蛇神が蛇を見てどうするんですか。というか、あっちは怖いものが在るから嫌です」
「マングースか? 蛇の天敵といえば」
クツナは莫迦にした表情で首を振り、だがすぐ真剣な顔で囁いた。
「大きい神社があるでしょう。本部に出頭なんてしたくありませんよ」
北海道神宮のことか。何とも情けない話だが、無能クツナには本部が刑務所に見えるという話なのか。俺は話を切り替えた。
「焼きとうきび、食べる?」
「さすがに入りません。元々の霊体も蛇なので少食なのですよ。次の機会にしましょう」
前提の仕組みをろくに説明しないくせに、名前や食事の設定だけはいちいち細かい。こいつの言う福の神の仕事について矛盾を指摘してやろうかと思ったが、読心術の正体が未だに不明だし、そもそもこいつの場合、本当にその辺の店でアルバイトしていたってまともに説明できるのか怪しいので、嘘だという証明にはなりえない。
「私を罠にはめないところは嬉しいですが、その理由が凄く無礼千万ですよね。事実を突きつけられると傷つきます」
「さらっと事実だと認めるのか無能だと」
「だって、無能ですから」
俯くと、擦り切れたデニムに落ち着きなく手を擦り付けた。噛んだ唇に血が滲み、すんすんと洟をすする声が聞こえる。俺はそっぽを向いて、思いつきを迷いながら言った。
「お前さ、ドジ踏んでるって言ってるだろ。さっきから聞いている話、要領を得てないんだよな。論理がない、訴求力がない、経緯も目標も手段も何も見えない」
「それが何だと言っているんですか」
「だからお前は莫迦だと言っている。先輩や上司からの助言は受けないのか」
俺の常識的なつもりの質問に、クツナは当然のように呆れた答えを返した。
「師匠は、仕事は見て盗めが信条で秘密主義者なので訊いたら怒られます。何より神というのは初めて在った時点で即戦力なので」
「元は蛇だろ。蛇仲間や親戚はどうなんだ」
「蛇は子育てしませんよ。親も知りませんし仲間なんてもの、いませんよ」
全くの行き詰まりだが、クツナはそれが当たり前だと思っているらしく、悲しそうな素振りも見せずに淡々と答えた。何かできること。俺ができるとすれば週一回程度、仕事の客観的な分析ぐらいだろうか。
クツナは開きかけた口を閉じ、俺を上目遣いで見上げて言った。
「本当に、これから毎週、私の仕事を分析してくれるんですか」
「そんなこと、一言も言ってない」
言おうか迷っていた話をいきなり言われてとっさに否定する。だがクツナは身につけている中で唯一真新しく清潔そうなハンカチで目元を拭って言った。
「よろしくお願いします」
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