文芸船

不幸にしてあげる(下)

 幸先輩と別れると、古屋敷さんは僕の部屋に付いてきた。まだ散らかったままの部屋に堂々と入り、断りもなく堂々とベッドに腰を下ろす。僕は諦めて丸椅子に座った。

「厄介なのね、幸さんは」

「何かのカルト宗教ですか」

 古屋敷さんは冷たい笑みを浮かべて力なく首を振り、天井を仰いだ。

「カルト宗教なら、救出のNPOがある」

「では、いわゆる」

「病気なら病院で治療すれば良い」

 古屋敷さんは正面から僕を見つめた。それは今までのどこか小馬鹿にした生意気な女子高生でもゴスロリの変人でもなく、どこか僕より年上の女性のように思えた。

「一人宗教というか一人芝居というか一人遊びというか、そんなの」

「君のゴスロリだって」

「私は生活を犠牲にしていません。大家としてもきちんと務めています。むしろ、あなたより遥かに地道な生活をしています」

 かなり腹が立ったが、手の中にある先輩の名刺に目を落とすと感情が冷めていく。もう僕たちはとっくに学生なんかじゃない。遊ぶ時間は終わったはずだ。

「幸さんはバイトで生活しています。でも、この極楽荘に現れたとき、既に疫病神に就職すると語っていました」

 だから入居させたのだという。ただ、その言動は日に日に進んでいるのだという。

「幸さんは何処へ向かっているのでしょう。そもそも、幸なんて名前で疫病神とか」

 しばらく僕たちの間に沈黙が降りた。大学入学のときに母から貰った置時計が静かに時間を刻む。古屋敷さんはそれこそフランス人形のように微動だにしない。

 遂に僕は口を開こうとした。だが古屋敷さんは僕の言葉を塞いだ。

「私は、あの人をあなたが背負う必要なんて全くないと考えています」

 今までとは全く相容れない流れに僕は面食らった。古屋敷さんは目を細めて続ける。

「極楽荘は、色々なものを抱えた人が多いのです。その人に望みがあるなら、それを邪魔立てすることはおかしいと思います」

 古屋敷さんの影がなぜか、大きくなった気がした。僕は操られたように呟く。

「幸先輩が、希望しているなら、良いと」

 古屋敷さんは微笑んで僕の言葉を繰り返す。

「幸さんが、希望を抱いているなら良い」

 うなずきかけ、何か僕は引っ掛かった。ほんの小さな言葉遊びに近いけれど。それは僕には全く違うことに思える。古屋敷さんは大人びた笑みを向けた。

「幸さんが何か、希望を抱いている?」

 僕は幸先輩のことを思い返した。学生時代と変わらぬ声色、変わらない服装、変わらぬ穏やかさ。本当に何一つ変わっていない。

「変わっているはずです。絶対に」

 古屋敷さんは僕の気持ちを読むように僕の目をじっと覗き込んだ。表情の曖昧な紅い瞳が僕の気持ちを波立たせ、喉がやけに渇いてくる。僕は慌てて視線を天井に逸らした。

 確かに、正確には変わった。だがそれは変化というより悪化としか言えないだろう。そんなものを変化とは呼びたくない。

「本当に全てが悪化したのでしょうか」

「僕たちはもう社会人ですよ。あんなの悪化以外の何物でもないでしょう。あなただって困った人だと言っているでしょう。現実から逃げても仕方ないですよ」

「私にとって困った人であることと、本人にとって悪いことが一致するとは限らない」

 僕は溜息をつく。所詮はゴスロリ高校生、屁理屈で年上を捩じ伏せたいお年頃だ。だが彼女は穏やかな声で続けた。

「それに現実を事細かに見つめることが良いことだなんて思えない」

 僕は声を荒げかけ、際どい所で抑え込む。彼女はベッドから立ち上がって言った。

「あなたはここに来る前、社会的にまともな人間だったのですか。胸を張れますか」

「それは社長が逃げたせいで!」

「社長が逃げるような会社にしか就職できなかったのは、あなたの責任でしょう。そして会社が怪しくなっても住む場所すら早めに手を打つこともせず、極楽荘に夜逃げ同然に転がり込んだ。まず、これがあなたの社会的な現実。あとはどんな現実を見つめたいの」

 思わず手が出そうになる。だが急に七尾さんの「古屋敷さんがこの世界に絶望していたら」という言葉を思い出した。大げさで思わせぶりな台詞が今は僕の頭を冷静にさせた。

 確かに僕だって本来なら問題児なのだ。家賃の支払いだって客観的に見れば危ない部類だろうし、保証人すら不要で入居できた。でも古屋敷さんは、高校生の癖に僕を受け入れている。そして僕から切り出すまで、この辺りの事情はほとんど触れずにいた。触れられないことを良いことに説明を避けていた。

「あなたは社会人です。でも、まだ子供」

 また子供だ。七尾さんも僕が入居する際に言っていた。古屋敷さんは僕の膝にスカートが触れるぎりぎりまで近寄って言った。

「あなたは、あなた自身が幸せなら良いの」

 それだけ言って古屋敷さんはドアを静かに開けるとゆっくりと出ていった。彼女の座ったベッドのへこみには、ほんのりと薔薇の甘い香りが漂っていた。


 一つ。いきなり先輩に直接突撃して訊く。二つ、大学時代の他の先輩方を経由して情報を集める。三つ、先輩の行動を調査する。

 とりあえず考えられる選択肢を紙に列記してみた。楽しいというのは言い過ぎだが、何とかしてあげようという悲壮感よりは前向きになった気がする。三つのうち、前二つはあまり意味がないように思えた。むしろ下手に先輩に話を聞いたら、逆に僕が丸めこまれて一緒に疫病神を目指してしまいそうな気もする。古屋敷さんとの話が胃の辺りに残っていて、どことなく自分に自信が保てない。そうかと言って行動調査だの尾行だのというのも厄介だ。だいたい僕は明日からまた勤務が始まるのだ。いつまでも遊んでいられない。

 僕は吹き出しそうになった。先輩を助けようと思っていたはずなのに、遊んでいられないとは不謹慎だ。社長が行方不明になり黒服軍団が現れて以来、久々に笑った気がする。だがきっと、この不謹慎さが僕なのだ。

 ふと、僕は疫病神という言葉の意味が根本的に気になり、携帯で検索してみた。世の中に病気をもたらす悪神。本来は抽象的な不幸や迷惑の元という神様ではなく、あくまで病魔的な、ウイルス的なものだ。この辺の詰めの甘さはやはり幸先輩らしい。逆に先輩らしさが観て取れ、変な団体とは関係ないという自信が持て安心な気もする。

 僕はとりあえず先輩の部屋に向かった。直接訊く気はないが部屋の近くまで行けば何か手段の閃きは得られるかもしれない。

 平凡な扉、表札のない部屋。僕の部屋と何も変わらない。むしろ高屋敷さんの方が妙に立派な扉にしているぶん怪しい感じだ。

「山花、どうしたの」

 いきなり背中からの声に飛び上がりそうになった。幸先輩が背後で微笑んでいる。

「ま、上がっていけば良いよ」

 仕方なく僕は先輩の部屋に上がり込んだ。玄関は埃もなく綺麗に清掃されており、間取りは全く同じだ。部屋の中は奥まで綺麗にしており、ベッドもきちんと整理されている。寝たら最後、シーツの乱れも落ちた枕も次に寝るまで放置している僕より遥かにきちんとしているぐらいだ。本棚には最近流行りの漫画と先日の本屋大賞で入賞したとかいう小説、その他パソコンの雑貨が置いてあった。

 勧められるまま卓袱台の前に座ると、先輩は紅茶のティーバッグとティーカップを用意した。不動産屋で飲んだコーヒーを思い出し、やはり先輩の方がまともだと思う。

 僕は先輩の淹れてくれた紅茶をゆっくりと口に含む。香りが胸に広がる。僕がコーヒーや紅茶の香りに気付くようになったのも、幸先輩が学生時代に教えてくれた紅茶のおかげだった。先輩は完璧に健全だと思う。先ほどまでの気負いが緩み気だるくなってくる。

 先輩は学生時代の思い出を語った。所々で彼らの近況を情報交換し、近所の美味しい店や安売りの店を教えあう。だが先輩自身の近況は語ってくれず、更に僕自身も訊かれたくないので切り出しにくくなる。

 結局は他愛のない話だけを二時間ほど続けてから立ち上がり、部屋の中をぼんやりと眺めた。なぜか無性に違和感を抱き、慌てて僕は部屋の中を見回した。だがやはり奇妙なものは何一つない。何が違和感を与えたのだろう。唇を噛んで考えたが答えは出ない。僕は大人しく先輩の部屋を後にした。


 部屋に戻る途中、七尾さんに出会った。七尾さんは頭に白い狐のお面を斜めに被り、藤色の折り畳み傘を持って空を眺めていた。

「そろそろ、雨が降りますよ」

 首をかしげると七尾さんは薄笑いを浮かべながら携帯を取り出し、天気予報のサイトを僕に示した。天気雨、にわか雨に注意とある。

「部屋に戻らないんですか」

「天気雨は狐の嫁入りがありますから」

 それで狐のお面か。最初はまともかと思っていたが、この人も極楽荘の変人面接を通過しただけはある。そう言えば昼食もずいぶん油揚げばかり食べていた気がする。僕が静かに部屋に戻ろうとすると、七尾さんは狐のお面を被ってケン、と狐の鳴き真似をした。

「たまには素顔を被らないと疲れますよ」

 素顔は被るものじゃないでしょう、と反論すると七尾さんはお面を被ったまま、険のある陰に籠った笑い声で言った。

「素顔は被るものですよ。最近は女性の間でも流行っていますよ、ナチュラルメイク」

 僕は少しずつ後ずさる。七尾さんは再び小さく笑って続けた。

「古屋敷ちゃんは私を村から連れ出してくれました。だから素顔を剝いでお面にしました。だから、たまには素顔を被るのです」

 村、と訊き返したが七尾さんはゆらゆらと首を振るだけで何も答えない。あり得ないのに、狐の面が不機嫌な表情を浮かべたような気がして背筋が寒くなる。

「私の素顔は狐です。山花さんの素顔は何ですかね。帰省の際は何を被りますかね」

 ふざけた話なのに喉が妙に渇く。帰省の際に何を被るのかだと。怒鳴り返したいのに、むしろ不安が湧きたってくる。今は帰省できない。帰省するとしたら僕は。僕はどんな顔で親元に立って境遇を打ち明けるのか。そのとき僕は、今の僕ではなく偉ぶった何かを演じるのかもしれない。最初に言われた、子供という台詞が耳に刺さる。

 雨が降り始めた。七尾さんは腕だけを動かして藤色の傘を静かに広げてくるりと回転させる。霧雨の中でアパートが希薄な淡色に変わっていき、七尾さんの姿だけが妙にアパートの前で浮き上がって見えた。

 僕は挨拶も抜きに七尾さんに背を向け、自分の部屋へと駆け込んだ。


 僕は部屋に戻るとすぐ、引っ越しの段ボールを開けて卒業アルバムを手にした。学生時代の顔ぶれを眺める。彼らには今の僕の惨状は見せたくないと思う。

 ばらばら捲っていくうちに、超自然同好会の写真を見つけた。当時と比べると、少し幸先輩は瘦せただろうか。それにしても雑多なものに溢れた小汚い部室だ。幸先輩は綺麗好きだから一応片付けてはいたけれど、山ほどの変なグッズは絶対に捨てなかった。

 僕は思わず立ち上がった。何なのだあの部屋は。普通に紅茶が似合うまともな部屋は。清潔で整頓されていてどんなに紅茶が美味しくても結局は変な部屋、それこそが幸先輩の部屋だ。あんな健全な部屋にいる幸先輩なんて不健全だ。

 無茶苦茶を言っていると思う。だがそうなのだ。無菌室に疫病神が棲んでいるのだ。あの部屋はもっと精神的に汚染された、偏執的な部屋であるべきなのだ。

 僕はあらためて部屋の中を見回した。数々の段ボールが並んでいるが、このほとんどは生活必需品で満たされている。趣味の道具も怪しげなグッズも、今回の夜逃げ同然の引っ越しでは箱に詰める余裕もなくひたすらゴミ袋に詰めてしまった。今、ここに残った生活必需品を誰かにこっそり違う商品と交換されたとしても大して気にしないだろう。これではホテル住まいと何も変わらない。

 僕は僕だけの捨て損なった記憶を抱えて部屋の隅にうずくまる。前の会社の記憶と一緒に僕は何を捨てたのだろう。何を捨てたのかさえ思い出せない。僕はもう僕の家には帰れない。ここは僕の体臭がない無菌室だ。

 僕は部屋の真ん中に大の字に寝そべった。天井を眺めているうち、不幸にしてあげるという幸先輩の言葉が胸に火を灯す。こんな無臭の部屋より厄病神が纏わりついた思い出のある部屋の方が遥かに魅力的だ。ふと、幸先輩の中で起きた何かが見えた気がした。

 僕はゆっくりと起き上がると再び部屋を出て古屋敷さんの部屋に向かった。既に雨は止み、七尾さんの姿はなかった。今は幸先輩のことより、僕自身の不安に突き動かされていた。外聞も無視して年下の生意気な大家さんに頼りたくなっていた。

 豪勢な扉の前に立った途端、扉が小さく開いて隙間から紅い瞳が僕を見つめた。僕は構わずゆっくりと扉の前に近寄る。古屋敷さんは扉を開いて姿を現すと僕を見上げた。

「僕は、思い出や趣味のものを全部捨ててきました。ろくな目に遭わなかったあのアパートも好きだったかもしれません」

 古屋敷さんは何もかもわかったような表情で分厚い扉を優しく撫でた。

「それなら今から自分の部屋を造り上げたら良いでしょう、私たちと」

「ここの、無茶苦茶な人たちと?」

「あなたも含めた無茶苦茶な人たちで。それとも私の個性では思い出に足りないかな。私を忘れてしまうかな」

 古屋敷さんは自分の体を抱きしめ、爪を二の腕に食い込ませながら真剣な眼差しで僕を紅い瞳で見つめてくる。この人こそが本物の疫病神なのかもしれない。七尾さんが狐だというのも本当のような気がしてくる。もしそうなら黒服だって撃退できるはずだ。

 あり得ないことを思いながらも、それを完全に否定する気にもならなかった。それ以上に、今はこの絶望していると七尾さんが言う古屋敷さんと過ごしたいと思った。

 疫病神になりたい先輩は駄目人間だけど、でも古屋敷さんよりもずっと大丈夫だ。僕たちと一緒にいれば、そのうち自分の部屋に戻れる。戻れないとしたら、僕もまた疫病神になるしかないのだ。僕は目の前に立つ、きっと本当は平凡な古屋敷さんに声を掛けた。

「ゴスロリなんて止めてもっと普通の服装でも、僕たちは古屋敷さんを忘れませんよ」

「私は変な服装なんてしていません。私は常識人の若々しい乙女なのです」

 古屋敷さんが頰を膨らませながら笑って扉に背中を預けると、薔薇の香りが古びた建物全体から漂った気がした。


 色々考えた末、先輩は放置ということにした。つまらない結論だが、つまらないことを決断するのが大人なのだ。そう思わないと、僕が耐えられない。そんなわけでなるべく顔を合わせないようにしていたのだが、一週間が過ぎて幸先輩が鍋を抱えて現れた。

 部屋に招き入れると先輩は靴をきちんと揃え、静かに座布団に腰を下ろした。先輩は鍋を開け、僕の食器に中身を分けていく。銀杏切りの大根と秋鮭の身が透明な汁に浮かび、塩気を含んだ鮭の香りが部屋に漂い始めた。

「実家から鮭が送られてきたものでね。君と食べようと思ったんだ」

 礼を言うと幸先輩は穏やかな笑みを浮かべ、僕の鼻先に人差し指を向けた。

「君、笑みが荒んだようだね」

 また、いきなりの言葉だ。だがこのアパートに来て以来、無茶を言う人には僕もかなり慣れてきたつもりだ。僕はさらっと、そうですかと流して器を受け取った。幸先輩はその先を何も言わず、普通に食べ始める。僕も余計なことを言ってしまいそうで話題を振ることもできず、ひたすら石狩鍋を平らげる。少し塩分が強い気もするが、鮭の脂と大根から出たほんのりとした甘みでご飯がよく進む。

 茶碗三杯目に行くか迷ったところで、幸先輩は箸を置くと正座して言った。

「私は立派な疫病神になれそうもない」

 僕も箸を置き、先輩に合わせて身を正す。先輩は足を崩すように言いながらも、自分は正座したままで話を続けた。

「私は君の幸せそうに食べる姿が好きだ。古屋敷さんが新作のボンネットを被ってにやにやしている瞬間が好きだ。七尾さんが油揚げを袋いっぱいに詰めてスーパーから帰ってくる姿が好きだ。不動さんが契約書を片手に焼酎ボトルを提げてくる日が好きだ」

 僕は先輩の言葉に黙ってうなずく。このまま先輩が疫病神という妄想を捨ててくれることを祈りながら続きの言葉を待った。だが、続いた言葉は全く異なるものだった。

「だから私は立派な疫病神になりたい」

 論理の飛躍に僕は危うく石狩鍋をひっくり返しそうになる。だがやはり、僕は古屋敷さんの話を思い出して言葉を飲み込んだ。

「私はね、私を助けてくれた女の子を助けるため疫病神になる必要があるんだ」

「それって、恋愛ですか」

「私とは歳の離れた女の子だよ。恋愛ではない。恋愛であってはならない。それに私との恋愛に身を焦がすような愚かな人ではない。君より賢いぐらいだ」

 急な比較に嫌味を言いかけ思い至る。紅い瞳が僕の貧弱な脳を見透かしていた。古屋敷さんには確かに僕は完敗したままだ。

「その賢い人が、奇抜な服装をして他人と合わせることもなく全部を敵に回している。だから僕は疫病神を目指したらどんな末路なのか、教える必要がある」

 二人ともなぜ下らないことをしているのか。どうして正面から話さないのだろう。

「下らないと言われただけで引き下がるかい。私たちの超自然同好会は周りからそう言われても続いていたのではなかったかな」

 喉が激しく渇くがお茶は手元になく、残っていた石狩鍋の汁を喉に流し込む。塩分が強いと思ったはずなのに、今は何も感じない。先輩は淡々と静かに話を閉じた。

「彼女にとって人生の悪いサンプルが必要なんだ。だから私は疫病神であり続ける」

 僕は先輩の話を否定しようとした。先輩と古屋敷さんの過去を訊こうと思い、だがそれを知って否定できる何かを掴める自信が僕には全くないことに気付いた。それでも僕は何かをしなければならない。

 だがいきなり、部屋の扉を激しく叩く音が考えを中断した。狐の面を頭に被った険しい表情の七尾さんが飛び込んでくる。

「古屋敷ちゃんが、消えたの」

 古屋敷さんの部屋に行くと、例の重厚な扉に大きな傷が付けられていた。七尾さんは狐の面を顔に被り、何事か独り言を呟いている。不動さんも駆けつけてきて扉の状態を確認して陰鬱な表情で足元を見つめていた。幸先輩はすぐにどこかへ駆けだそうとしたが、七尾さんに片手で押さえつけられてしまった。

 少し経って不動さんが顔を上げ、入居したときには想像もつかない低い声音で言った。

「山花さん、幸さんはお嬢さんを追って下さい。俺と七尾さんは敵討ちしてくる」

 前のアパートに来ていた黒服たちが目の前に現れた気がして僕は深く訊かないことにした。七尾さんは更に別な次元で危険な感じがして、話しかけることすら怖い気がする。不動さんは車の鍵と懐中電灯を僕に放り、顎で玄関の錆びた軽自動車を指した。七尾さんは一言、ケンと狐の鳴き声を上げる。

 僕と幸先輩は小走りで軽自動車に乗り込むと、幸先輩が指示する方向へ走りだした。


 真っ暗な細い道を走り続ける。学生時代、北斗七星とプレヤデス流星群で精霊と交信できるという怪しげな話を幸先輩が仕入れて来て夜中に走り回ったことがあったが、今日の幸先輩の焦りは比べ物にならない。僕は急かす先輩をなだめながら必死に車を進める。

 アスファルト舗装が途切れて砂利道に入った。サスペンションがおかしいのか喋られないほど車が揺れるが、それも構わずできる限りスピードを上げる。夜中の興奮と揺れが脳をおかしくしているのか、意味不明の笑いが込み上げてくる。鉄鋼製の吊り橋を渡ると何か看板が見えたが、目を向ける余裕もなく走り続けた。更に道が狭くなり、対向車が来たときを思い背中に冷や汗が流れる。

 三十分ほど走っただろうか、急に道が開けダムの看板が現れた。車を停止させると、先輩は懐中電灯を点けて車から降り、真っ直ぐに歩を進める。僕は先輩の後に黙って続いた。懐中電灯で照らした範囲しか見えないものの、ダムの展望台に向かっているようだ。

 先輩は歩みを止め懐中電灯を消した。道の向こうに小さく赤い光が見える。脇に立つ先輩の浅く速い呼吸が緊張を強いてくる。先輩は僕の手を取ると暗闇の奥へ進んだ。

 赤い光がゆっくりと立ち上がった。先輩も合わせたように懐中電灯を点灯する。光の向こうに赤い瞳が浮かび上がった。だが、瞳以外は初めて見るジャージ姿で頭にはキャップを被っており、視線には全く覇気がない。

「古屋敷さん、帰りましょう」

 嫌、と古屋敷さんは短く答え交通整理用の棒を振り回す。ゴスロリの古屋敷さんと今の古屋敷さんが頭の中でつながらない。

「私の大切な扉が傷つけられた。村に帰る」

「帰る村は、今はもうありませんよ」

「沈んでいても、私の村に帰るの」

 古屋敷さんは叫んで赤い棒を指した。棒の先は何も見えない暗闇だが、上がってくる冷気と小さな波音からダムの水面だとわかる。何も見えないというのに、空中の闇よりも濃厚な闇が沈んでいるように思えた。先輩は絞り出すように低い声で呼びかけた。

「あなたの、今の家は極楽荘です」

 古屋敷さんは僕たちへぼんやりとした視線を投げかけながら答えた。

「あなた方は何かを捨てて極楽荘へ逃げてきたのかもしれない。私は水に沈んだ村を片時も忘れないように扉も写真も持っています」

 古屋敷さんの机にあった湖の写真だろうか。だが確かめる間もなく先輩が反駁した。

「私も山花との学生時代の思い出までは捨てていません。でも学生には戻りませんよ」

 古屋敷さんは視線を逸らし、暗闇へとゆっくり歩き始める。先輩は右手を伸ばし、だが足を踏み出せずにいた。僕は叫んだ。

「一緒に、僕の部屋を造ろうって言ってくれたじゃないですか!」

 古屋敷さんの足が止まり、僕に軽蔑の視線を突き刺してきた。それでも僕は古屋敷さんの迫力を恐れずに続ける。

「僕は入居して一週間しか経っていない。君のこともわからない。僕は君の言うとおり、胸を張れるような生き方をしていたとも思わない。それでも君を忘れたりしないし、これから極楽荘で、僕は僕の部屋を造っていくのに、大家さんの君は欠かせないんだ」

 大家さんなんて、と呟き僕を睨みつける。先輩の照らす懐中電灯のせいで古屋敷さんが何か恐ろしい存在のように見えてくる。だが急に古屋敷さんは肩の力を抜いて呟いた。

「この疫病神どもが」

 僕と先輩は顔を見合わせる。古屋敷さんは初めて会ったときの笑みを浮かべ、僕たちの方へ突っ込むように寄ってきた。

「極楽荘の出鱈目な思い出に私を組み入れたいなんて、あんたたちは本物の疫病神だ。みんなみんな、常識なんて通じないんだ」

 先輩は唇を噛んで言葉を返した。

「村に帰るとかロリータでいようとか、それも非常識だろう」

 古屋敷さんは鼻で笑うと僕と幸先輩を交互に見比べ、幸先輩の脛を蹴り上げる。

「ロリータな乙女の私だから、あの極楽荘の大家ができるの。あんたたちのような疫病神を飼っておけるのは私だけでしょう。だから村には今、帰るわけにいかないわ」

 先輩が変な笑い声を上げた。古屋敷さんは僕に交通整理用の棒の電源を切って僕に押し付けると、先輩の懐中電灯を空に向けさせた。

「こんな格好で帰られないから、回れ右!」

 慌てて後ろを向くと、古屋敷さんがジャージのファスナーを下げる音が聞こえた。


 帰りは以前の調子と服装を取り戻した古屋敷さんが、後部座席にふんぞり返ってドレスに落ち葉が絡んだとかネット限定ライブ映像を早く観たいとか、むしろダムの中に置いて帰りたくなるようなことを言い続けていた。幸先輩は疫病神を続ける必要がなくなったはずだが、古屋敷さんに疫病神認定を貰ったせいで、まだ疫病神を続けるようだ。

 先輩と古屋敷さんの過去については先輩が話を逸らすので結局あまりよくわからなかったが、村で超常現象を調査していた際に、ダム反対運動をしていた古屋敷さんと知り合ったようで極楽荘も補償金辺りと関係があるらしい。だが、そんな過去は他人が知る必要のない話だ。僕だって転職をまだ親に打ち明けられずにいるのだ。とにかくゴスロリの魔女様と僕たち魔女の疫病神は真っ暗な夜道を行きと同じ速度で極楽荘へと戻っていった。

 極楽荘に着くと見慣れてしまった黒服が四人整列して玄関に立っており、背広を背中に掛けた不動さんが咥え煙草で立っていた。

「お嬢さん、お待ちしていましたよ」

「煙なら上品な香りだけにして。臭いわ」

 情け容赦ない言葉だが、不動さんは表情を変えることなく整列した黒服軍団に視線を向けた。途端、黒服の背筋がぴんと伸びた。

「お嬢さんの扉は弁償できないし、ダムの底へ代わりの何か探しに行かせましょうか」

 不動さんの物騒な台詞を無視して、古屋敷さんは目を見開いて黒服全員を見つめた。

「私の村に廃棄物を捨てられては迷惑です」

 黒服が一瞬表情を変えたが、不動さんの一睨みで黒服は元の怯えた表情に戻った。僕は何が起きているのか理解を拒否して集団から視線を逸らす。不動さんは古屋敷さんにうなずいて、散れ、と叫んで車の鍵を塀の外へ投げた。途端、黒服たちは車の鍵を拾い、どこかへと走り去って行った。

 不動さんはだらしなく緩めたネクタイをいじりながら極楽荘を親指で指差して背を向けた。ワイシャツの背中から不動明王の彫物が見えた気がしたが、古屋敷さんがピンヒールで僕の向う脛を思い切り蹴ったので記憶が飛んだことにする。アパートの空き地には、学生時代に幸先輩が勉強していた呪術よりも遥かに複雑な模様が描いてあり、その中心には狐の面が立てられていて暴風が吹いたような跡があったが、これも古屋敷さんが僕の頭を叩いたので忘れたことにした。

「お疲れさま。稲荷寿司と油揚げの味噌汁を用意していますよ」

 屋根に登った七尾さんが手を振って笑っている。古屋敷さんは扉の傷を指でなぞると静かな笑みを浮かべ、ただいま、と叫んだ。

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