今どき月三万円以下で食事付きの下宿を探そうだなんて無茶な話だと思う。間違いなく無謀なのだが、とにかく金がないのだ。パチンコは嫌いだし煙草は喘息を起こすし酒も大して飲まないし車に至っては自転車すら持っておらず、お陰で貢ぐ女の子もいない。それでも今の僕は絶対的に金がない。
とりあえず就職はできた。否、できたはずだった。ちょっとだけ給料支払いがのんびりの会社だと自分に言い聞かせていた。確かに就職の頃を思い返せば妙な点はあった。この不況で就職のエントリーシートを書いても公務員試験を受けても絶望全戦連敗中だった僕なのに、さっくりと書類審査を通過して面接も穏やかな感じに進むだなんて、今になって振り返るとおかしい話だったのだ。面接の待合室に僕しかいなかった時点で怪しむ余裕のなかった自分が恨めしい。あの頃は社長の夜逃げなんてネットやテレビで見るだけの他人事だとしか思っちゃいなかった。
だが、その他人事が現実となった。僕の住んでいた社宅代わりのアパートも社長の副業だった上、会社の運転資金は危ない筋からまで借りていたらしい。豪勢に黒く輝く高級車がアパートの前に止まり、いかにも背中に日本の色鮮やかな伝統イラストを背負っていそうな黒服のお兄様方が管理人さんの部屋に向かったところでもうアウト。
転職先は取引先のお情けでアルバイトを紹介して貰ったものの、黒服お兄様から野性的なモーニングコールをしてもらいながら出勤とか橋桁の根元の段ボールハウスで作業服着てとかどっちも冗談ではない。とりあえず今のバイト代から逆算すれば、食事代も込みで月三万円が限界だ。他のアルバイトを探そうにも今の不況とちょうど大学生のアルバイトが安定した時期で、おまけにこの中途半端な田舎街では空きなんてあるはずがない。
不動産屋を三軒も回ったがお茶すら出されず相手にされず、今は存在を知りつつ全力で避けていた四軒目の不動産屋の前にいる。不動不動産という、書き間違いのような語呂の不動産屋だ。だが書き間違いではない証拠に看板には不動明王の絵がこれ見よがしに描いてある。窓のサッシは錆だらけで、ガラスはろくに清掃していないらしく衝突した蛾の羽が体液で貼りついたままになっていた。
おまけに流行にでも乗った気でいるのだろうか、ペンキが剝げかけたドアにはメイド服を着た下手くそな不動明王のイラストが描いてあって「おかえりなさいませ仏様」と書いてある。お客様は神様ですとかいう洒落を効かしたつもりだろうが、店に入ったら仏様にされそうだ。ただでさえ今も家に帰ったら社長の巻き添えで仏様にされかねないのに。
「いらっしゃい、まいどっ! みんなのアイドル不動不動産がお待ちかねっ!」
一歩遅かったようだ。ドアがいきなり開かれ、つるっ禿げの若い男が僕に期待に満ちた熱い視線をぶつけてきた。
「色々取り揃えてますぜ旦那。一戸建てなら即入居可能な建て売り住宅、ピアノ好きなお子さんも安心のアパート。学生さんに大人気オール電化セキュリティ安心ワンルーム。今流行りの耐震避難室付きなんて物件も!」
いきなり押せ押せの勢いにたじろぎながらも、僕は今日四回目の台詞を絞り出した。
「お金なくて、激安下宿かアパートを」
途端、男は遠慮のない失望した顔になり、禿げ頭を撫でながら低い声で言った。
「激安、ねえ。ま、中にどうですか?」
僕は肩を丸めて店内に入る。店内は今までの立派な不動産屋と違い、コンクリートの壁には老朽化の割れが見える。パイプ椅子もぎしぎし鳴るし、もう一つ余ったパイプ椅子の座席はガムテープで補修してある。奥に見える事務机には神社仏閣のミニチュア食玩が並んでいて、いかにもアットホームというか公私混同な弛み具合が見て取れる。こんな店でセキュリティ安心と言われても家主のチワワが番犬代わりだとか言いだしかねない。だが男は僕の気も構わずへらへらと笑いながら首をかしげた。
「かなり激安じゃないとヤバい系?」
無礼な物言いにむかついたが、僕は堪えてうなずく。男はまた首をかしげて言った。
「事情あるんでしょ。話してみて」
男は給湯ポットを手元に引き寄せ、薄く茶渋が残ったコーヒーカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、どばどばとお湯を注ぎこんだ。僕は香りが飛んで苦いだけのインスタントコーヒーを啜りながら事情を話した。
全てを話し終わりコーヒーが空になったところで、男は少し難しい顔をして言った。
「月の家賃が二万円、敷金礼金保証人全部不要ってアパートがあるんだわ、これが」
まさかと笑う僕に男は真顔で続ける。
「お節介焼きのお嬢さんが管理人のアパートでね。ただこのお嬢さんが変人なんだな。面接して気に入れば入居可。ただ、この面接が曲者でさ。まあ駄目元で受けてみたら?」
僕は話に乗りかかり、自分の服装に目を向けた。ジーンズによれたシャツ。印象最悪。
「ちょっと家に戻って着替えてきます」
「駄目駄目。間違ってもあんたみたいなのがスーツ着て行ったら玄関開けて即アウト」
僕は首をかしげる。男は禿げ頭をつるっと撫でると溜息をついて言った。
「言ったはずだよ、変人だって」
この話に乗るべきか迷う。だがこの物件以外にあてもない。まあ、大学時代にかなり変な先輩と付き合いがあったので変人耐性はわりとあるはずだ。僕は黙ってうなずいた。
極楽荘。二万円と言うわりにはきちんとしたコンクリート製の建物で、遠目には各部屋のドアも錆や歪みはないように見える。近づいて見ても階段の手すりは光っていて、酷く老朽化している感じはなかった。
「ね、良い物件なんだわこれ。大家とか諸々の問題がなければ、なんだけどね」
「『とか諸々』って、何かあるんですか」
「そこはほら、変人が選抜した変人選抜村だから色々とね。ま、強面のお兄さんはいないから安心して大丈夫」
「大丈夫って言っておいてさ、ゴミ屋敷とかカルト宗教とかじゃないよね」
「大丈夫。カルト教団なんて逆に全身お札貼って一目散に遠回りして避けちゃうほど」
余計に不安になったが、不動産屋はへらへら笑って一番手前の部屋の前に立つ。大家だからか、この部屋だけアパートには似つかわしくない重厚な木の扉だ。不動産屋は慣れた調子で呼び鈴を押した。
「お嬢さん、お客様ですよ」
不動産屋の声の後、細くドアが開いた。何か不動産屋は姿の見えない大家さんと小さい声で話す。続いて扉が大きく開いた。
「部屋を借りたいのは、あなた?」
十代後半の女だ。黒いドレスに赤い逆十字をあしらった黒フリルのスカートを履き、手には薄手の白い絹手袋。頭には黒と紅の薔薇を飾ったヘッドドレスが載っており、カラーコンタクトをしているのか紅い瞳でもう、完璧なゴシックロリータの少女だ。この手の服はどうもちぐはぐな子が多いのだが、古屋敷さんはかなりの色白で目鼻立ちのはっきりした顔立ちをしており、珍しいことに普通に似合っている。男たちが殺到するのが邪魔だから奇抜な服装をしている、と言われても納得してしまうかもしれない。
茫然とした僕を彼女は手招きして、少し棘のある高音の声で言った。
「じゃあ、駄目元で面接してみよっか」
部屋の中はやはり黒と赤を中心とした装飾が中心で、異様にステッチを強調したピンクのウサギや北欧神話の置物が置いてある。パソコンの壁紙はヴィジュアル系のライブ映像だ。机の脇に湖の写真が飾ってあるが、これも何かそういう類の場所なのだろう。
「私は大家の古屋敷です。花の高校二年生なので余計な気を起こす男はお断りです」
女子高生ってこんな単刀直入な物言いをしていただろうか。いやこんなもんだろゴスロリとか今時きっと沢山いるんだこの子は普通の人ですよ、と自分に言い聞かせる。古屋敷さんは首をかしげると僕に顔を近づけた。
「まあ、むっとしたり怒ったりしない辺り、とりあえず一次試験クリアみたいな?」
なかなか良い性格をしている。不動産屋は僕の背中で声を殺して笑っていた。舐めんな女子高生と腹の中で思っても、口に出さない辺り僕も大人だ。僕も成長しましたよ。
「まあ、段ボールハウスがかかっているとなればやっぱり大人しくなっちゃうわよね」
「あの、ですね。僕もさすがに」
流石に僕も少し声を大きくする。古屋敷さんは肩を竦めて口の端を小さく吊り上げた。
「からかい過ぎたかな。でもうちの住人は一癖あるから耐性ないと駄目なの。あとね」
古屋敷さんは目を細める。なぜか視線が遥かに年上のように思える。本当にこの赤い瞳はカラーコンタクトなのだろうか。彼女は僕の目をじっと覗き込んで言った。
「みんな、色々と事情があるの。だから細かい事情は無視。とにかく仲良くして」
僕は黙ってうなずく。すると彼女は僕の額に人差し指を当てて少し考えてから言った。
「あなた、まだその黒服とかと縁は切れないけど、困ったら周りに相談すると良いよ」
首をかしげると、彼女は吹き出した。
「だからね、周りの住人に相談すれば良いってこと。うちに棲みつくんだから」
彼女の言った意味が咄嗟には理解できず、僕はただ彼女の顔を黙って見つめた。彼女は少し頰を赤らめ、じれったそうに叫んだ。
「だ、か、ら、合格なの、あんたは!」
言って古屋敷さんは僕の背中を乱暴に叩いた。僕は立ち上がって礼を言い不動産屋を振り向いた。すると不動産屋は僕の肩を叩くと今までになく真面目な顔で言った。
「強く、生きろよ」
また何か不安になってきた。
僕の部屋は一階の三号室に決まり、すぐに古屋敷さんは二号室のドアを乱暴に叩いた。
「ねえ七尾ちゃん、手伝って!」
ドアがゆっくりと開き、面長のひょろりとした男が姿を現した。古屋敷さんと対照的に平凡なチェック柄のシャツとジーンズ、髪型もナチュラル系で、少し年上のお兄さんという風情だ。第一印象は良いけれど、入社後三日間は名前なんだっけ、と訊かれそうな印象を受ける。だがぼんやりした雰囲気は今の僕には何だか安心できた。
「古屋敷ちゃん、どしたの」
「七尾さんの隣の部屋、この人を入居させたから。荷物運び手伝ってあげて」
七尾さんはぼんやりと僕を見る。僕は慌てて頭を下げて挨拶する。
「山花浩太です。よろしくお願いします」
「浩太さん、ですか。何歳なの」
「二十三歳ですけど」
七尾さんは驚いたように首をかしげると古屋敷さんに向き直った。
「こんな子供なのに、ここに来たの?」
いきなり古屋敷さんの表情が険しくなり、人差し指を口元に立てる。次いで古屋敷さんはへらへら笑った。
「あのね、七尾さんってわりと若造りなの。あとほら困った人ばっかり入れるでしょ、うちのアパート。だから」
何だろうこの焦り。やっぱり怪しい気がする。だが七尾さんもまた呑気な顔で笑った。
「私もぼんやりさんだからさ。変なこと言ってごめんね。お近づきの印にお昼ご飯でも一緒にどうかな。独りで食べるのも寂しいし」
七尾さんは意外に強い力で僕の手首を掴んで部屋の中に引きずり込んだ。部屋の中はやはり古屋敷さんと違って平凡な部屋で少し安心する。奥にある小さい古ぼけた神棚は似つかわしくないが、ゴスロリ部屋を見た後ではむしろ懐かしいような気分にもなる。
七尾さんは台所からお盆に幾つか皿を載せ、お椀に味噌汁を汲んできた。
「大してお構いできなくて恥ずかしいけど」
出されたものはまず、お稲荷さん。続いて菜の花と油揚のおひたし、それから蕗と巾着餅のおでん、最後に油揚の味噌汁。
「また油揚げばっか食べてるの?」
「だって、好きなんだし」
古屋敷さんの文句に七尾さんはまたぼんやりとした答えを返す。なるほど、やっぱり少し変わった人なのかもしれない。一方、古屋敷さんはポケットから薬ケースを取り出し、中から一粒取り出すと口に含む。すると僕の方まで仄かに薔薇の香りが漂った。
「私はロリータさんなので、お食事には薔薇の蜜を食べるのです」
古屋敷さんは言ってまた一粒、口に含む。カプセル薬を模したキャンディのようだ。
「油揚げはタンパク質が豊富だよ。古屋敷ちゃんはロリータって歳じゃないでしょう」
ぎろり、と音が鳴りそうな勢いで古屋敷さんが七尾さんを睨みつけた。途端、七尾さんがへたり、と壁に背中をつけて座り込む。
「七尾さん、私は誰だっけ?」
「古屋敷ちゃんは、ロリータな生き方を貫徹する素敵系の乙女な大家さんです」
凄い力関係が見えた気がした。古屋敷さんは僕を振り向くと、小さな子供に言い聞かせるような口調で告げた。
「私はロリータな生き方を貫徹する乙女なのです。断じて怖い大家さんとか、古屋敷の代わりに朽ちかけた扉とか古びた廃村とか、そういうものでは断じてありません」
はあ、と僕は背筋を伸ばして答える。古屋敷さんは目を細めて更に言った。
「うちのアパートはわりと好き勝手を許していますけれど、もし私に先ほどのようなことを言うと凄いことになります」
「凄いことって?」
「ヤクザ屋さんも赤ちゃん並みに泣いて土下座しちゃうかもしれません。乙女ですから」
乙女だからか。乙女だと何でヤクザ屋さんが泣いてしまうんだ。でも古屋敷さんの不敵な笑みを見て、僕はこのことを深くは訊くまいと心に決めた。そして、心に決めたことの多くを大体は後悔してきたという事実は、このときも思い至らなかった。
何だかんだ言いつつ、結局は七尾さんのお陰で昼飯にありついた。不動不動産の人も案外と良い人で、軽トラックで荷物を運んでくれたお陰で引っ越し荷物もすぐに運び込み、何とか僕は極楽荘の住人になった。ありがとう極楽荘。さらば黒服軍団のお兄様方。
申し訳なかったが、七尾さんは気にするなと言って荷物運びを手伝ってくれた。以前は力仕事もしていたそうで僕よりも体力があったかもしれない。とはいえ細かい整理まで頼むわけにもいかず小物や本、旅行の記念品をまとめてゴミ袋に放り込んだ。今はそんなものに拘っている暇はない。それ以上に記憶の匂いが強いものは今、ひたすら捨ててしまいたかった。あの会社にいた嫌な記憶ごと、ゴミ袋に詰め込んで追い出したかったのだ。
大物の荷物を据え付け、後は段ボールに詰めた本や食器を並べ直すだけとなったとき、七尾さんはおずおずと小さな声で言った。
「ご両親は、どうしたのかな」
僕は肩を竦めて窓の外に目を向ける。すると七尾さんは慌てて頭を下げた。
「お聞きして悪いこと言ったんだったら、ごめんね。うち難しい人、多いんだった」
僕は慌てて七尾さんに向き直った。少しだけ迷い、僕は正直に話すことにした。
「実は僕、親と喧嘩して都会に来たんです」
七尾さんは首をかしげる。僕はもう少し話すことにした。
高校時代、僕の成績では地元の私立大学しか入学できなかったのだが、そこではレベルが低過ぎて就職できそうもなかった。当時先輩から聞いた話だと、毎週のように東京へ面接に出かけ、面接費用だけで数百万円もかかるという話だったのだ。だがうちは両親ともバブル世代で、おまけに地方の会社にいるせいか現実なんて見えてなかった。そこで地元から通う場合と同額の援助を上限とする代わりに東京の大学に進学したわけだ。
でも、結局は何か凄い資格を取れたわけでもないしスポーツ推薦で大学入学する奴らのような実績も当然ない。一応はサークル活動を探したが、テニスサークルだのサッカー部なんてマネージャーの輝く笑顔がむしろ怖くて逃げ出して、そうかと言って演劇部は上演場所を争って大学当局と戦うぞとか時代遅れの物騒なことを喚いているし、文芸部に行ってみたらプルーストのフーコー的解釈だの村上春樹のテクスト論的分析だのと宇宙人の言葉を喋るばかりでどうにもならず、結局は履歴書に書きたくもない超自然同好会で遊びつつ部屋でごろごろしていただけだ。
結果としてはこんな有り様だ。格好悪くて親になんて話したくない。会社を代わったことすらまだ、打ち明けていない。窓の外に目を向けると飛行機が見えた。あれに乗って実家に帰りたい。だが帰って本当の話をする気には未だならない。
七尾さんは僕の話を黙って聞いてくれ、最後に目を細めて静かに言った。
「もし話しにくいなら、そのうち一緒に行ってあげても良いよ」
意外な申し出に僕は言葉を失った。会ったばかりでこんなことを言われても流石に嬉しいとまでは言えない。だが、妙に静かな七尾さんの視線を受けていると迷惑とも思えないのだ。あの女子高生大家に好きなようにされている人の好さは、今の僕には心地良い。
ここまで思って、僕は奇妙なことに気付いた。古屋敷さんの一人暮らしだ。
「古屋敷さんは大家って言っていますけど、それこそ親御さんはどちらにいるんですか」
七尾さんは僕から目を逸らし、かなり困ったような表情で答えた。
「それは秘密なんだ。とにかく、アパートの大家を娘にさせられるような人ってことで」
考えてみれば古屋敷さんの部屋に転がっていた山ほどのグッズの中には、単なるゴスロリ趣味のレプリカには見えないものもあった。きっと親が資産家か何かなのだろう。
ふと昼食のことを思い出した。ロリータだからと言ってキャンディで食事を終わらせる古屋敷さん。今時の女子高生と言ってしまえばそれまでだが、思い返すと不健康という以上に何か妙な薄寒いものを感じた。
七尾さんは正面からじっと僕を見つめる。相手は男性だというのに、なぜか色素の薄い瞳が妙に魅力的に映る。七尾さんは仮定の話だと断った上で妙なことを尋ねてきた。
「もし古屋敷ちゃんが、この世界に絶望していたとしたら助けてあげたい?」
この世界。ずいぶんと大きく出たものだ。ただ自分の高校時代を思い返せば、そんな大仰なことを思った時期もあった。何か思い切り恥ずかしいことを思い出しそうになり、浮き上がりかけた記憶に慌てて踵落としを食らわせて再び記憶の底に沈めてやる。
無表情を通したつもりだったが、七尾さんは気付いたらしく薄ら笑いを頰に貼りつけていた。僕は気づかないふりをして答える。
「せっかくのアパートを追い出されたらたまりませんし、一応はこれでも大人なんで」
七尾さんは喉で笑い、僕の背中を叩いた。
引っ越しがようやく完了しあらためて古屋敷さんの部屋を訪ねると、古屋敷さんは相変わらずロリータ服のまま僕を迎え入れた。
「このアパート、他にもう二人住人がいて、一人は不動産屋の不動さんです」
最初から教えれば良いのに、やっぱりあの不動産屋は変な奴だ。僕が不満な顔を露わにしても古屋敷さんは無視して続けた。
「もう一人が最も厄介な人です。私のような常識人には困ったものです」
変な奴ばかり集めていると不動産屋は言っていたのだが。自分で常識人を堂々と名乗る人間の中でまともな奴に会ったことがない。そもそもゴスロリ女子高生なんて珍獣を世間では常識人と呼ばなかったはずだ。そういえば夜逃げした社長も社会常識だの社会人の常識だのとよく怒鳴っていた。僕は慌てて頭を搔いて嫌な記憶を削り落とす。
「私のような常識人には困ったものです」
古屋敷さんが苛立った調子で繰り返した。僕は慌てて大嘘つきの頷きを返す。ようやく古屋敷さんは納得した様子で微笑んだ。
「その厄介な人がそろそろ帰宅してきます。貧乏暇なしで休日も働いているんです」
よほど嫌いなのか、単にゴスロリ大家の口が悪いのか。古屋敷さんに睨まれると厄介なので、僕はとりあえず愛想笑いを浮かべた。
「そう、帰ってくるわけです」
さっきから回りくどい。少し苛立ったところで、彼女は嫌な笑みで僕の手を取った。細い指先は意外にマニキュアをしておらず、幼児の手のように暖かかった。
「ということで滞納金回収がてら、あなたを紹介してあげようと思います」
「いきなり印象悪いじゃないですか!」
俺は慌てて反駁する。だが彼女は俺の手をがっちりと握り込んで放さずに続ける。
「初日から借金回収に来る新入り。最高に第一印象がしっかりついて私も圧迫しやすくて一石二鳥の素晴らしい計画です」
「僕にとって最低です」
「私にとって最高なら良いんです」
これか、不動不動産の頑張れという言葉の意味は。俺は紅い古屋敷さんの瞳をじっと見返した。ふとまた、この鮮やかな紅が本当にカラーコンタクトなのか不安になる。
彼女は目を細め、子供をあやすような調子で僕の手を上下に振った。僕も結局は投げ遣りな気持ちで彼女にうなずいた。
古屋敷さんに手を引かれ、一番奥の部屋に到着する。中から何やらお経のような声が聞こえてきた。今までならこれでもう逃げるところだが、流石に不動明王、ゴスロリ女子高生とくればお経の小部屋なんてジャズの流れる小洒落た喫茶店ぐらい気軽なものだ。
「もう馴染んできましたね、この人間」
ぼそりと呟き、古屋敷さんはドアをノックした。慌てた声が聞こえ、次いで転んだような音が響く。少し経ってようやくドアが細く開けられた。すると古屋敷さんは爪先を黒服のお兄さん並みの速さで差し入れた。
「家賃二ヶ月分。せっかく新入りの紹介に来たんだから、少しは良いとこ見せてごらん」
僕に古屋敷さんの根性があったら良い営業マンとして転職できる。絶対に無理だけど。僕の存在を無視して二人の押し問答が続き、遂に先方が折れたようだ。
部屋の主が奥に向かう気配があり、次いでドアが大きく開かれる。そこには手に一万円札を四枚握りしめた、かつての超自然同好会で一緒だった幸先輩がいた。
「何、してるんっすか」
「君こそ、普通の社会人になれたものと」
僕たちが見つめ合っている隙に、古屋敷さんは一万円札を回収して百円ショップで売っている領収書に金額を書き込んでいく。古屋敷さんは書き上がった領収書を一万円札の代わりに幸先輩の手に押し込んだ。
「何だ、駄目人間同士で知り合いなの」
僕はやっと頭の回路が繋がる。穏やかな微笑みを浮かべ、さらさらの長髪とジーンズが似合う、色白で小柄な。
男性の先輩。はっきり言って存在自体が詐欺だと思う。そして学生時代と変わらぬ懐かしい調子で口から怪電波を垂れ流した。
「良かった。私と一緒に駄目人間街道を歩んでくれる人が見つかってとても心強いな」
「僕は今、凄く古屋敷さんの味方です」
先輩は直前に口走った台詞とは全く似合わない温かな笑い声を上げた。このおかげで第一印象では人を惹きつけるのだから本当に性質が悪い。僕が一方的に先輩を睨みつけていると、背中から七尾さんの声が聞こえた。
「幸くん、就職は決まったの?」
幸先輩は外面の良い声で、見習い試験に合格したのだという。七尾さんは感心したような悲しいような表情でうなずいた。古屋敷さんはさっきのお金を財布へ乱雑に押し込みながら冷たい視線を向けつつ言った。
「じゃ、再来月から通常家賃取りますから。払い込まないと乙女の怖い目に遭わせます」
幸先輩が素直にうなずく。学生時代には見たことのない姿だ。再び古屋敷さんが何者なのか気になるが、幸先輩が絡んだ時点でもう詮索はしたくない。というか関わりになりたくない。だが厄介事の種は真っ直ぐ僕の肩に手を置いて真剣な眼差しで僕を見つめた。
「本当に君と会えて良かった。だから君のこと、絶対に絶対にだよ」
幸先輩は濡れた瞳で真剣に見つめると、僕の手をぎゅっと握った。
「絶対、不幸にしてあげる」
僕はうなずきかけ、慌てて先輩を見つめ直した。あの今ですね何て言いました。だが先輩は恥ずかしそうに首を振り、僕の頰をつんつんしながら繰り返した。
「できる限り何でもしてあげるよ。だから君のこと、絶対に不幸にしてあげる」
僕は恐る恐る言葉を返した。
「幸先輩、僕に何か、恨みでも」
「ないよ。私のことを忘れないでいてくれた君のことだからね。で、私にできる限りのことをしてあげようと思ったんだ」
先輩は腕組みをして偉そうにうなずき、すぐに自分の頰を平手で打った。
「そうか。別れてからの話とか今の仕事とか全然教えてなかったんだったね」
先輩は慌てた調子でジーンズのポケットから真新しい黒革の名刺入れを取り出した。先輩はぎこちない仕草で僕に差しだした。
「今の私の仕事だ。よろしく」
横書きの名刺で、周りは黒く縁取りされていた。真ん中には当然、北林幸の名前。左上の会社名は株式会社奈落召喚と胡散臭い。更に先輩の肩書は、三級疫病神補。
「私は疫病神の見習いなんだ。神様だよ」
遂に先輩が壊れた。超自然同好会だから、軽いところではコックリさん、大げさなところではUFO召喚の儀式だの色々やっていたけれど、ここまでくると最早妄想の域だ。僕は先輩の手を再び握り直した。きっと色々ときついことがあったのだろう。だが僕の表情に先輩は不機嫌な顔になった。
「あのね、これでも一応は神様見習いだよ。畏れる人も敬う人もいないからお賽銭もなくてコンビニバイト週三回入れないと食費がつらいとか思い切って派遣に切り替えた方がアパート代踏み倒した上で綺麗な部屋に逃げ出せるかもなどと考えるけれど」
古屋敷さんがヒールで幸先輩の脛を蹴ったが、表情を変えずに僕をじっと見つめる。僕は握っていた手を離して一歩退いた。先輩は一歩だけ僕に詰め寄る。僕はあらためて二歩下がる。先輩はまた一歩だけ詰め寄り、怪しい笑みを浮かべた。
「では奇跡を起こして見せます。君を今すぐ不幸にしてあげます!」
先輩は両手を振り上げると風を送るように腕を振り下げた。僕は身を硬くする。二秒、三秒、四秒。何も起こらない。僕は溜息をついて先輩に歩み寄ろうとした。
と、古屋敷さんの装飾だらけの鞄に膝がぶつかりよろめいて転んでしまう。
「これが神の力だよ」
僕は憮然とした表情で先輩を睨みつける。何が神の力だ。完全にただの偶然だ。もし偶然ではないとしても、これでは街角の八卦よりも低レベルだ。
すると先輩は表情を曇らせてうなずいた。
「やはり、君もそういう目で見るんだ。良いさ、そのうち君もわかる」
幸先輩はうなだれたまま部屋に入ると、そのままドアを閉じて冷たく鍵を下ろした。
文芸船 — profile & mail