文芸船

龍姫

 生まれて以来、ずっと平凡という名の飽和した時間が僕を包囲していた。僕の村は王都のような華やかさはないが、その一方で叛乱のような騒動もない穏やかな村だ。僕は何の変化もない、退屈な毎日の繰り返しに抵抗もせず飲み込まれていた。そんな変わりばえのしないある日、草を踏み分けながら山菜を採っていると、草むらに動く何か見慣れない白いものに気づいた。兎より遥かに大きい何かだ。僕は鎌を握るとそれにゆっくりと近づいていった。

 一歩、二歩と慎重に近づいていく。草むらに身を隠し、こっそりと生い茂る隙間から姿を覗いた。白いものの正体は、真っ白な服を着た一人の少女だった。

「助けて下さい!」

 少女はいきなり僕の方を振り向いて懇願の声を発した。十六歳ほどだろうか。腰まで垂らした漆黒の髪は純白の衣に美しく映える。だが折角の衣は擦り切れ、血の滲んだ小さな裸足はあまりにも痛々しい。少女は裾の破れを隠しながら僕を見上げた。

「お願いですから、助けて」

 少女は繰り返し、怯えた瞳で僕を凝視した。どこの娘なのかもわからない。だがその必死な目に僕は惹かれてしまった。しかし手当てしようと手を伸ばすと、少女はまた怯えた視線を向ける。だが僕の手に薬瓶があるのを確認すると安心した吐息を吐いた。

 一応の手当てを施し、頰にへばりついた泥も拭って水を飲ませてやると、少女はようやく僕への警戒を解いてくれたようだった。僕は慎重になるべく優しい声で、蒼夜だ、と名乗る。彼女は数瞬逡巡してから口を開いた。

「私は『りゅうき』と申します」

 首をかしげると、少女はちょっと考えてから言い直した。

「龍の姫で『龍姫』なんです」

 僕は怯えさせないよう気をつけながら、どこから来たのか更に尋ねる。すると彼女は小さく、王都、と答えた。王都といえば馬車でも数日かかるほど遠い場所だ。そんな長い道のりを、この少女はたった独りで歩いてきたというのか。

 だがそれを尋ねた途端、龍姫は再び口を閉ざしてしまった。訊かないで欲しい、そんな言葉を視線に託して僕を凝視する。僕はうなずいて質問を変えた。

「君、これから行き先はないんだろ?」

 龍姫は黙ってうなずく。僕は少女の手をとって微笑みかけた。

「僕の家に来ないか? このままだとつらいだろ?」

 龍姫は少し逡巡し、それでもいじらしいほど弱々しい力で僕の手を握り返しながらようやく首を縦に振る。行こうよ、と呼びかけて手をひくと、龍姫はまたこくっ、とうなずいた。

 僕の家、と言っても村に連れていけば騒動になるに決まっている。この娘も好奇の目に晒されるのは本望ではないだろう。だから僕は山小屋に連れていくつもりだった。あそこなら炊事道具も一通り揃っているし、不便ながらも生活はできる。

 暫く歩いてやっと山小屋につくと、龍姫はまた不安そうに山小屋を窺った。僕が微笑んでみせると、龍姫はようやく安心した表情に戻る。僕は龍姫を招き入れて事情を説明した。

「ここ、僕の山小屋なんだ。一応は生活できるはずだから。村に行くと面倒だろうから落ちつくまでここで生活すれば良い」

 龍姫は大きな目を見開き、そして言った。

「ほんとに、申し訳ありません」


 「蒼夜さん!」

 山小屋の戸を叩いた途端、龍姫が飛び出してきた。もう一週間が経ち、すっかり僕に馴染んで明るい声で話すようになった。それでも龍姫は未だ自分の素性を明かそうとはしない。その話になると決まって堅く口を閉ざしてしまうのだ。その点には何となく不満ながらも、僕はなおさら龍姫に惹かれていた。

「蒼夜さん、お昼食べて行きますよね」

 龍姫は鍋を食卓に置くと、食器を当然の顔で二組並べて微笑む。こんな様子をみると、このまま村に連れていっても大丈夫なようにも思える。しかし龍姫自身、あまり人とは関わりたくないようだった。恐らく僕にさえも明かしてくれない素性の秘密に関わっているのだろうが、詳しいことは未だ謎のままだ。

「どうしたんですか? そんな恐い顔して」

 龍姫はご飯を噛むのを止め、不安げな目で僕を見つめた。僕は首を振って安心させる。すると龍姫はまたさっきの明るい表情に戻り、ふと僕の頰についたご飯粒をつまんだ。

「おべんとつけてる。蒼夜さんったら子どもっぽい」

 言ってから急に龍姫は頰を染める。うつむき、そして何かを決心したような表情に変わると一気に言葉を吐きだした。

「蒼夜さん、目をつぶっていただけませんか?」

「龍姫?」

「いけませんか?」

 返事の代わりに目をつぶる。龍姫の呼気が頰を拭い、すぐに柔らかな感触が唇に触れる。と、かすかな痛みが唇を刺した。

「ごめんなさい。痛かったですか?」

唇を離した龍姫は上気した顔で僕を正面から見つめる。僕は首を振って龍姫の肩に手を回そうとした。しかし僕のささやかな勇気は突如乱入してきた破壊音に破られてしまった。

「見つけたぞ! こんなとこに潜んでやがった!」

 戸が蹴破られ、兵士がなだれ込んだ。僕と龍姫を取り囲む。

「何なんだ? お前ら」

 僕はいつになく声を荒げた。だが兵士は龍姫に剣を向けたままだ。そして先頭に立った隊長らしき男が口を開いた。

「気高き魔龍族のお嬢様がこんな辺鄙な所で何をなさっているのです? お迎えに参上しましたよ」

「嫌よ! 何がお迎えよ! あんたたちなんて大っきらい!」

 龍姫の答えに、男は態度を豹変させた。

「穢れた魔族の分際で偉そうな口を利くな! もしお前が秘薬を創る能力を持たぬのならとうに処分しているはずなのだぞ!」

 驚きの目を向けると、龍姫は泣きそうな顔で僕の手を握った。

「ね、あの隊長の話って」

「ほんとよ。でも魔族なんてのは人間の間違い。私たち魔龍族は神を信じないだけ。それに私、あの人にさらわれたのよ!」

 男は夢中で主張する龍姫を鼻で嗤い、龍姫の話を茶化した。

「よほど頑張ったんだろうな。幼い魔龍族は人間界では力を発揮できないからな。だからわざわざ迎えに来たんだろうが」

「あんたたちなんて大嫌い!」

 龍姫は叫んで僕にしっかりと腕を絡める。男は龍姫の叫びを無視して背後の兵に声をかけた。

「雌龍を捕縛しろ! それから秘密を知ったこの村人は消せ!」

 僕があらぬ叫び声をあげた途端、龍姫の腕が強烈な高熱を迸らせた。

「私は良い! でも蒼夜さんを殺そうだなんて私、許さない!」

 男は小娘のくせに、と鼻で哂う。しかし、龍姫は男を真正面から見据えると大声で叫んだ。

「もう子どもじゃないわ。蒼夜さんと婚約しちゃったもの!」

 男の表情が一変し、ずっと無視を決め込んでいた僕に怯えた視線を向けた。そして確認するようにゆっくりと問いかける。

「お前、まさか龍姫の唇を奪ったのか?」

「違うわ。私がこの人を選んだの!」

 隊長は憎々しげに僕を睨み、そして命令を繰り返した。

「あの男を殺して龍姫を捕縛しろ!」

 剣が僕たちに突進する。刹那、龍姫は絶叫した。龍姫の姿が消え、次の瞬間には美しい純白の龍が僕の傍らに現れる。変身を遂げた龍姫は大きく息を吸い、強烈な風を兵に吹きつけた。

「つかまれ! 何でも良いからつかまるんだ!」

 隊長が必死で兵士に声をかける。僕は龍姫の巨大な手の中で彼らのもがく様を眺めていた。遂に兵士たちが力尽きそうになると、龍姫は吐息を止めて喉から笛のような高音を発した。

 途端に空が曇り、紫電が兵士を襲う。僕が恐怖の目を向けると、龍姫は笑って兵士たちを指さした。あらためて見直すと、いかにも龍姫らしく兵には一撃も当てていない。だが兵士たちは完全な恐怖に染まり、その場から一歩も動けなくなっていた。

 龍姫はまた大きく息を吸うと、今度は強烈な火焰を吐いた。僕が慄えると再び龍姫が喉で笑う。炎の過ぎたあとの兵士を見ると、全員髪の毛だけ焼かれてすっかり丸坊主にされていた。

「再び私たちを襲うのなら、今度は髪の毛では済みませんよ」

 龍姫の言葉に、兵士たちは呆けた表情のまま、ただうなずくだけだった。


 龍姫は僕を手の中に包み、兵士を置いて空に駆け昇った。ついに山奥に着くと、龍姫は元の少女に戻って僕の前に立った。

「ごめんなさい。人間のふりしてました」

 僕は黙って首を振る。龍姫は初めて逢ったときのような孤独そのものに顔を曇らせてさらに言葉を続けた。

「婚約の破棄しちゃっても良いです。まるっきりの騙し討ちみたいなものだし、それに龍の女なんて気持ち悪いですよね」

 僕の沈黙に龍姫の顔が哀しげに歪んだ。僕は無言で龍姫を抱き寄せて唇を合わせる。瞬間、龍姫の息が止まり、それでも軽く唇が開けられる。そのまま暫く僕らの周りは時が凍った。

 唇を離すと、龍姫はおずおずと言葉を発した。

「蒼夜さん」

 僕の名前だけ呼んで言い淀む龍姫に、僕は無理に平静な声で訊く。

「魔龍族の婚約って、これで成立したのかな」

 途端、龍姫は顔を輝かせる。だが、また落胆の色を浮かべると僕の手を取って言い足した。

「でも、ごめんなさい。人間の王家がまた狙ってくるから、私は一緒に暮らせません」

 うつむいた彼女に、僕はそっと声を掛けた。

「二人でどこか遠い所へ行こうよ。ずうっと遠くへ」

「ずうっと、遠く」

 龍姫は僕の言葉をなぞり、次いで顔を赤らめる。僕がうなずいてみせると、龍姫はいきなり僕の胸に飛び込んで叫んだ。

「ずっと、ずっと遠くへ、二人で!」

 むせび泣く龍姫を抱きながら、僕はそっと彼女の長い髪を弄んだ。龍姫は涙を拭ってもう一度ゆっくりと僕と唇を重ねる。天を仰ぐと、空を飛んでゆく仲睦まじい小鳥のつがいが視界の隅に眩しく映った。

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