「遂に、やったんだな」
勇者・龍牙が残心を解き安堵の笑みを見せた。岩雪姫は長く過酷な旅の末でようやく見られた彼の笑みに、幸せを噛みしめる。深窓の姫君とは対極にあるお転婆姫とは言え、勇者と僧侶・遅延僧との三人旅は心の休まることがなかった。
龍牙は二十五歳で騎士としての教養と強さを併せ持ち精悍な顔立ちをしているが、任務に邁進するあまり融通の利かない面がある。まして十八歳の遅延僧に至っては、小太りで人の好さそうな顔をしているが、秘密裏に神術と魔道の融合を謀っていた咎で破門されかけていたところ、魔王討伐を自主的に願い出ることで赦免された人物だ。まだ齢十五の岩雪姫にとって、これら年上男性とともに旅することは、より気の重いことだった。
だが、その苦難の道程も今日で終わる。これからは姫として遅延僧とはお別れし、龍牙とは。
「姫、国に帰ったら大切な話があるんだ」
「どんな話?」
岩雪姫は華奢な胸に手を当て、神妙な面持ちで龍牙を見つめる。龍牙は柔らかく笑って答えた。
「とても大切な話だから、王陛下に成果を報告してからね」
うん、とうなずいた姫の背中を、遅延僧は複雑な表情で見つめていた。
魔王討伐の吉報は全世界の歓迎を受けつつ、王都では到着早々に豪奢な凱旋パレードで入城した。岩雪姫は久しぶりの羽毛ベッドへ横になった途端、深い眠りについた。
翌日は昼まで眠り、目が覚めるとベッドの脇では姉の花咲姫が笑みを浮かべて座っていた。上背で豊かな胸元は旅に出る前と変わらず、ただ柔和だった表情は一本強い芯の通った印象がある。
「全員無事に任務を遂げ、更に無事に生還されました。本当に嬉しいですよ。これから幸せに暮らしましょうね」
花咲姫の言葉に、岩雪姫は黙ってうなずく。ふと、視線の先に子供の頃いつも読んでいた絵本があった。悪龍を討伐した勇者が最後に、姫君へ愛を告白して結婚するお伽話。自分がその姫君になったことを思うと感慨深い。
それにしても妹が先に嫁入りとなれば姉はどうするか。そういえば姉は魔道や武術が苦手でも学問は強かったと岩雪姫は思い出す。国政を分担して過ごしていくのも良い考えだ。
「お姉さま、姉妹で手を取り合ってこの国を護っていきましょう」
岩雪姫の言葉に、花咲姫は美しく微笑んだ。
勝利を祝う舞踏会の中、岩雪姫はベランダに逃げ出した。長い旅路の末、急に宮廷の洗練された流儀に戻るのは難しい。何よりまだ酒をたしなむ年齢ではなく、戦い抜いたとはいえ幼い心には退屈なだけだ。
夜風が心地良い。やっと帰ってきたというのに、何故か魔王城へ向かう道で眺めた美しい星空を思い出してしまう。
「岩雪姫」
背中に待っていた声が聞こえた。くるりと振り向く。はにかんだ龍牙の顔が月明かりに映える。
「大切な話なんだ」
龍牙の言葉に岩雪姫ははい、とだけ答える。龍牙は一呼吸置き、そして言った。
「君と家族になりたい」
再びはい、と言いかけ、思っていた台詞とは少し違う気がした。それでも岩雪姫は健気に笑顔のまま、続くはずの言葉を待つ。龍牙はほっとした表情になって言った。
「今日、王陛下から正式に花咲姫との婚儀を認められたんだ」
「……はい?」
「お伽話のように、魔王を討伐できたら娘をやろうと王陛下から言われていてね。私はずっと花咲姫に焦がれていたんだ。岩雪姫、これからは義理の兄として貴女を護ろう。むしろ私が護られるかもしれないけどね」
いつの間にか花咲姫もベランダに現れ、自然な形で龍牙の隣に立って微笑む。岩雪姫は涙が溢れそうになり、ぐっと堪えて笑みを張り付かせたまま声を絞り出した。
「姉上、そして龍牙、本当におめでとう。妹として、また討伐勇士の一人として嬉しいですよ」
花咲姫は名前の通り花のような笑みで答えた。
「岩雪、貴女は本当に私の自慢の妹。貴女の言葉が私にとって最高の祝福ですよ。嬉し涙を流してくれるなんて、本当に嬉しい」
姉姫に頭を撫でられながら、岩雪姫の初恋は花と散った。
「お久しぶりですわ。ちょっとお話したいの」
ノックとともに、若干幼さの残る少女の声が聞こえる。遅延僧は全身に最大の護法をまとい、右手に武具の聖鋸を握りしめた。
扉が開く。全面が闇に染まり、次いで光弾が十発連続で打ち込まれた。だが遅延僧は高音を響かせ次々と光弾を切り裂き、崩れた光弾は護りの左手で霧消していく。
チッと舌打ちが聞こえ、光弾の消えた先には笑顔の岩雪姫が立っていた。
「ごきげんよう。早朝ですけど、きちんと起きていらっしゃるなんてしっかりしていますわね」
「ええ、せっかく拾った命なんで健康には気をつけているのですよ」
白々しい笑顔のまま岩雪姫は室内に足を踏み入れる。上品に扉を閉め、親指を噛み切ると扉に封印の紋章を手早く描いた。扉を確実に音が漏れないのを確認すると、優雅な笑顔でスカートも構わず床の敷物の上にどっかりと胡座をかいた。
「あんたも警戒心、ほんっとに高いよね」
「僕も貴女の本性は知っているし、花咲姫の婚礼の報道を聞いてりゃ警戒するに決まってるでしょ」
また岩雪姫は舌打ちして、手提げ袋から牛乳を取り出すと堂々と飲み干し、手で口許を拭って叫ぶ。
「どうして姉様なのよ!」
遅延僧はふむ、とうなずくと両手を岩雪姫に向けて掲げ、聖水を発生させて姫の姿を水鏡に映した。
スカートの中が見えそうな胡座をかいて膝に頬杖をつき、眼光鋭く目の下には隈ができ、苦虫を噛みつぶしたがごとく真横に結ばれた口許。まだほんのりと幼い、ぷっくりとしたあどけない頬が余計、近寄り難さに拍車をかけている。
「かわいく優しいお姫様」
ぽつりと遅延僧が口にした言葉に、岩雪姫は慌てて足元を正して俯いた。
「まあ元々、年の差が十歳もある上に花咲姫は長女だし、他にも色々負けてるから無理筋だと思うな」
重ねた遅延僧の言葉に、岩雪姫は憤慨した声を発した。
「その、他にって何よ他にって!」
遅延僧は面倒臭そうに一冊の帳面を岩雪姫の足元に放り出す。岩雪姫は眉を潜めて頁を繰り始め、そのうち捲る指の速さが上がっていく。そして恐れるような表情で顔を上げた。
「この国の金が、全部階層分けされて、その上資産も負債も一目でわかる。これがあれば、私だって父王みたいに大臣と議論できるかもしれない。何なの、これ」
自身が苦手なぶん、その自分が明快に理解できることで凄さが分かってしまう。遅延僧は冷めた視線で静かに答えた。
「僕たちが討伐に向かったあと、花咲姫が寝る間を惜しんで仕上げたんだとさ。僕たちと、あとその後衛で戦っていた兵士たちの戦費調達のため、無駄を削るためにね」
岩雪姫は自身の道のりを思い出した。過酷な旅路ではあったけれど、街にさえ辿り着けば歓待された。田舎の、場合によっては野卑な集まりも多く、塩も無く焼いただけの鶏はもちろん皿いっぱいのカエルが出てきてひっくり返りそうになったこともあるけれど。
でも、その地域なりのやり方ではあるけれど歓待された。それは魔王討伐への熱い期待だと思っていた。
それだけだと思っていたのに。
「ある意味、龍牙含めて花咲姫の手の中の金塊に踊らされたというところでしょうか」
岩雪姫は遅延僧の放った帳簿を胸に抱きしめ、ぐっと黙り込んでしまう。こういう表情なら、むしろ花咲姫よりも魅力的かもしれないと遅延僧は思いつつ、あえて口にはしないでおく。
「でも、花咲姫は軍事が疎いはずよ。私の方が一日の長があるわ」
「それもだね、これ」
また一冊の冊子を遅延僧は放り出す。頁をめくっていき、岩雪姫は苦しそうに呻き始めた。
「古今東西の戦略をまとめた書物。数年がかりで武官、文官両方集めて編纂していたんだってさ」
「これじゃあ私、勝てるのは現場ぐらいかも……」
「現場なら勇者の龍牙ががっちり花咲姫にくっついているでしょ」
岩雪姫は唸りながら指折り武官や貴族の名前を挙げていく。
「物騒なことは考えない方が良いよ。有力者は花咲姫が金と地位の配分で大方押さえちゃってる。変な動きをしたら、一瞬で討伐されちゃうよ」
「じゃあ、一般の騎士以下なら? 私、軍の方には人気あったはずだし、勇者の一人だし」
「僕たちが旅に出る前、騎士たちが当番制でやっていた食事係、今は女性がやっているんだってさ。それも雰囲気が花咲姫に似たような人ばかり」
再び岩雪姫はうなだれて、自身の贅肉のない胸元を撫でる。
「君の方が好きな兵士もいるだろうから、それだけ集める? ちょっと特殊趣味なのは目をつぶって」
岩雪姫はきっとした表情で慌てて首を振り、続けて叫んだ。
「なんであんた、そんなに詳しいの? 私と一緒に旅してきたのに、どうしてそこまで知ってるの!」
遅延僧は窓の外に目を向け、曖昧な表情を浮かべて呟くように答える。
「僕だけ死刑台すれすれにいたわけでね。誰にどう着いておくか、今でも重要なんですよ」
岩雪姫はぞくっと背中に冷たいものを感じ、一歩後ずさる。すると遅延僧はふふっと笑った。
「流石にいきなり裏切って攻撃とかしないよ。でも今話した状況だから、変な話、貴女も下手なことをすると僕より処刑台に近いとこにいるんだよ?」
岩雪姫は再び胸に抱いた冊子二冊を見比べる。魔王のいなくなった今、自分の持つ力はそれほど使い道がないのかもしれない。
「私って、いらない子なんだ」
「それは流石に言い過ぎ」
「でも今、龍牙が王位継承に入っちゃえば、そして王宮の魔道士はほとんどが花咲姫に着くに決まっているし。大人しくしていても、私じゃ勝負にならないし。要らない子なんだよ」
そんなことんないよ、と言いつつ遅延僧も言い訳は無用かと頭を抱える。だが破壊僧ながらも岩雪姫に何か協力したいと思った。
「ねえ岩雪姫、旅に出てみようか」
「帰ってきたばかりなのに?」
「帰ったばかりだから何か発見があるかもしれない。王宮が落ち着くまでのごたごたからも逃げていられる」
岩雪姫は唸りながら改めて遅延僧を見つめる。悪いというか目の前のことを追いかけ始めると周りが見えなくなる人種だ。でも、こんな自身の愚痴につきあってくれる遅延僧がどこか、好ましい気がした。