「健一さん、起きて下さい」
いつも聞き慣れている落ち着いた声が耳元で響いた。登校の時間だ。とは言え、あと五分ぐらいは寝ていても大丈夫だろう。
「健一さんがあと五分だけ寝たい、と仰った場合、九割以上は慌てて登校しているという統計になっております。今、起きて下さい」
これ以上駄々をこねると、今までの慌てた記録を喋りだすつもりなのだろう。俺は渋々半身を起こした。脇には服が既に用意されている。4歩ほど離れたテーブルにはケチャップとフォークだけが用意されていた。
「調理を開始しますよ。設定時間ですので」
俺は生返事をして洗面台に向かった。寝ぼけたままで蛇口を捻ると、普段より熱めのお湯がいきなり手にかかる。熱い、と小さく叫ぶと返答があった。
「ダウンロードしたニュースに、朝の目覚めが遅い場合には熱めの湯を用いると良い、とありましたので。独断ですが、試しに本日は通常設定温度より1℃上げてみました」
それは今日が初めてだよな、と一応確認してみると冷静な声が答える。
「お気に召しませんでしたか? でしたらデータベース上のフラグを不適に変更しますが」
声を荒げかけ、途中で思い直した。最新機種でさえ、人間の気紛れに対応できる家事管理コンピュータなど未だないのだ。まして、俺が幼稚園に入った頃から使っているN2070に苛立ちを理解できるはずがない。俺は気を取り直すと、テーブルについて言った。
「その命令はなしだ。今は朝飯が欲しい」
「かしこまりました」
全く動じない返答に、だがむしろ俺は懐かしいような安堵を覚えた。いつもと変わらない、N2070との朝のやり取りだった。
今日は情報学部全体の専攻希望調査と講座説明会の日だ。俺が所属している情報化学系は二〇四〇年代、つまり今から五十年前に誕生した分野であるせいか、先生方は他の分野の教授たちより服装なども幾分若く見える。電子工学系の説明が終了し、やっと情報化学科長の坂町教授が立ち上がった。坂町教授は元々、生化学の研究者だったのだという。そのせいか、白衣で大学構内を歩いている姿をよく見かける。そんなわけで、背広姿の坂町教授からは新鮮な感じを受けた。
だが、俺は既に専攻希望は固めていた。まあ、他の連中も余程怠惰な者でもない限り大体の見当はもうつけているはずだ。俺が調査票に書き込み始めると、隣に座っていた原口が覗き込んだ。
「藤野、お前どこ狙ってんだよ」
「インターフェース研究。GUIとか」
原口は顔をしかめた。だが、俺も彼の反応は予想通りなので平然としている。原口はそんな俺の様子にますます顔をしかめた。
「それってコンピュータのモニタ画面に図が何も言わないで並んでるだけの、大昔の技術だろ? お前の成績なら高速演算の方でもやりゃ良いだろ」
言われると俺も心が動いた。だが、それでも今の興味を捨てる気にはなれない。たしかにGUIの全盛期は八十年以上も昔で、現在は声帯などに障害のある人向けに細々と造られているに過ぎない。だが、俺は博物館で見たコンピュータの画面を思い出しながら、その派手な画面構成の魅力を原口に語った。
八十年前のパソコンを再現したそれは、本当に奇妙な形だった。命令の声を拾う集音マイクも声紋チェッカーもなく、代わりにマウスという、握り拳大のプラスチック製部品がコンピュータ本体に線でつながれていた。その上、データすらもプラスチック製の円盤やシリコン系の電気回路製品に保存していたという。今なら当然、DNA濃厚溶液を密封したDNA-RAMが常識なのだが。しかし、俺はその円盤にもなぜか惹かれるのだ。とは言え、こんな嗜好は原口に言わせれば盆栽と壺の蒐集と同じらしい。
坂町教授が情報化学の基礎を語り始めた。現在主流のDNAコンピュータは、情報の表現を人工合成DNAで行っている。少し詳しく説明すれば、アデニン、チミン、グアニン、シトシンと呼ばれる四種類の塩基配列で情報を扱う四進法を単位とした、各分子片毎の並列演算である。これは一九四〇年代の真空管や、それに代わる二〇四〇年代までのシリコン系による電気回路的な演算機構とは大きく異なり、酵素を用いた化学処理による塩基配列操作と検出機構によって演算を実行するため基本設計が全く違うのだ。実際、二〇四〇年以前にコンピュータは電子計算機と訳されていたが、現在コンピュータと言って指すものは「化学計算機」に分類されている。
坂町教授の研究分野は、演算機構の中心である塩基配列を操作する酵素の合成だ。DNA断片は温度変化に比較的強いものの、酵素は複雑な構造の球状タンパク質なので、気温の変化によって性質が不安定になったり、最悪の場合は壊れてしまうことすらある。坂町教授は言葉を切り、いつもの大仰な手振りをしながら声を大きくした。
「情報科学史を紐解きますと、電子計算機時代にはコンピュータが内部トラブルで停止することを『フリーズ』と言ったそうですが、現在の化学計算機は本当に凍結で動作が停止してしまうこともある。そんなわけで、温度変化に安定な演算酵素の開発が課題です。希望の学生は南極での実験も行えますよ?」
坂町教授は両手を脇に揃え、ペンギンが歩く真似をした。彼の「南極ペンギン」ネタは毎回のことなのだが、その分それを待ち構える雰囲気もある。お決まりへの笑いの中、原口はこっそりと俺の袖口をつついた。
「センセのネタも見たし、食堂行こうぜ」
あまりに適当な態度に顔をしかめると、原口は頰の端で笑った。
「説明会が終わったら、みんな食堂に雪崩れ込むぜ? 今のうちなら楽だろ?」
俺はうなずいて荷物をまとめ始めた。
「けどさあ、なんでうちの大学、アメリカ製の調理コンピュータ使ってるわけ?」
原口は秋刀魚を箸で突きながら文句を吐いた。見てみると焼き色は綺麗なのだが、妙に脂のりが良すぎる。匂いも秋刀魚とは違う匂いがかすかに混じっている気がする。原口は背肉を一口噛み、再び顔をひそめた。
「油でぎとぎと。サラダ油塗って焼いてる」
なるほど、天麩羅のような匂いだ。俺は苦笑してからカレーライスを頰張って言った。
「自動で魚を処理すりゃ網にひっつくからだろ? アメちゃんらしい工程だろうが」
「その不味さがわかんないのかねえ、フライドチキンとコカコーラの国じゃ、さあ」
俺は肩を竦め、そのコーラを口に含んだ。調理コンピュータは本来、あらゆる調理に対応できる設計になっている。とは言え、調理工程のデータ設定は人間が行うせいか、コンピュータ全般に強いアメリカも、調理コンピュータの出荷台数に限ってはフランス、中国、イタリアに追随する形になっている。国内でアメリカ製が普及しているのは一重に外交圧力のせいだろう。秋刀魚を諦めた原口は、味噌汁で白飯を流し込みながら話を変えた。
「俺、手作りの秋刀魚の塩焼きを食った」
俺はまじまじと原口を見つめた。原口は声を低め、自慢そうに答える。
「四十年以上前は家庭で普通に料理やってたんだ。そんな妙な顔するもんじゃないよ」
言われても、今どき入手困難な調理器具や調理する人を考えると納得できない。味付けが気に入らない程度なら設定ファイルを書き換えれば済む話だろう。情報科学系にいて設定ファイルも書けないようならとっくに留年だ。だが、原口はさらに自慢そうに答えた。
「俺の姉貴がさ、大学で調理工学を専攻してるんだよ。それで、実験室でいらなくなった実験器具を一式譲り受けたわけ。次は土瓶蒸しの試作やるんだと」
原口の物好きも遺伝なのかもしれない。今どき、手作り料理なんてものは芸術家の仕事だ。工学系に入りながらそんな分野を志願する辺り、変人だとしか思えない。原口は冷めた秋刀魚をつつきながら、わざとらしく溜め息をついて言った。
「姉貴の試作品、旨かったんだけどなあ」
「だったら来年、『秋刀魚の塩焼き』の共同研究でも姉さんとやってみたらどうだ?」
俺のからかいに原口は身震いして答える。
「俺がなんで生物系に行かなかったか知ってるか? 解剖実習があるからだよ!」
確かに、調理実験では包丁と呼ばれる大振りの刃物で解剖実習を行うそうだ。昔の人はよく毎日、解剖をやってられたものだ。
「健一さん、それは何でしょうか」
実験用に自作した電子計算機をいじっていると、N2070が訊いてきた。俺は少し考え、君の先祖だと答える。N2070は数秒黙り、再び音声を発した。
「電子計算機ですね。先祖よりは私の一部、と言う解釈の方がより的確だと思います」
言われて俺も気づく。たしかにDNAメモリやDNA演算部は化学反応系だが、マイクやカメラなどの入出力周りでは未だに電子計算機の回路も用いているのだ。だが、そうなるとN2070は今、自分たちの内臓を見ているようなものなのだろうか。訊いてみると、だがN2070はそっけない返事を返した。
「回路は回路です。また、私の演算処理上に『気持ち悪い』という単語に対応する解は存在しません」
そうだった。気持ち悪いだの、腹が立つだのといった「感情」にあたるものはN2070は元からない。感情を表現するロボットの研究も流行った時期もあったのだが、結局は外見上の模倣を超えられなかったという。沈黙していると、N2070は何か推論したのかあらためて言葉を発した。
「健一さんの将来は電子回路の設計者か、若しくはその研究者ですか? 将来性シミュレーションの結果からは、あまり今後の発展性は望めないとの解が得られておりますが」
N2070の旧式シミュレーションでも、俺たちの単なる当てずっぽうよりははるかに精度が高いのはわかっている。それでも俺は余裕をもってロマンだ、と言い返した。するとN2070はぴたりと沈黙した。ロマンに対応する解を探しているのだろう。
時折、俺はこういう単語を故意に発する。通常の家庭用コンピュータなら即座に「その単語は無効です」という返事が返って来るのだが、俺のN2070は特別に設定し直しているので、通常なら対応していない単語についても解の探索を続けるのだ。見当違いの答えを返してくることもあるし、先ほどのように「解なし」と返してくることもある。困らせるのだから人間が相手なら意地悪なのだろうが、N2070はコンピュータなのだ。単なる実験に過ぎない。
しばらくしても反応が返ってこないので、俺はN2070への「ロマン」という単語入力を取り消した。これだけ複雑な会話が可能なのに、ほんの僅かな、人間なら直感でわかる言葉ほどコンピュータを無駄な演算に追い込む。そんなときに俺はコンピュータと人間の違いをまざまざと感じるのだ。そして同時に、得られるはずのない解を求めて高速演算を繰り返すN2070に、むしろ不思議な真摯さも感じる。
俺は今日の原口とのやり取りをふと思い出した。俺が毎日食べている料理も、結局はN2070が自動調理器を制御して作っているからだ。俺が調理について問いかけると、N2070は当然のように答えた。
「調理に要する温度、時間、および材料のサイズや重量などは全て基準値が設定されています。また、各使用材料における鮮度などのスペック値に応じ、この基準値から実際の調理設定値を算出して調理工程を実行します」
つまり、最初から全て完全に計画を立てた上で料理を行っているということらしい。俺はさらに「味見」について問いを加えた。
「中間原料の調理状況については逐次モニタしています。主には堅さおよび透明度などですが、簡易成分分析を行う場合もありますので『味見』と言ってもよいかもしれません」
「それで美味くなるように味付けするんだ」
俺の納得に、だがN2070は反駁した。
「たしかに調味工程などは随時変更していますが、それはあくまで食品の特性を最適値へ近づけるための作業です。既定値以上に美味くする、という改善機能は存在しません」
N2070の返事に、「味」に対する認識の違いを感じ取った。N2070にとって味は最適値で決まるものだが、俺たちはいつも、もっと美味い物があるはずだと思っている。味に限らず、俺たち人間はコンピュータと違って無限に上を求めるのだ。ある面これは、人間が限界を認めない強欲な存在である証左なのかもしれない。
あらためてN2070を見つめた。プラスチックの筺体で囲まれた、ただの演算装置。もし持ち主の俺が全データ消去の命令を出せば、全く抵抗もなく今までの記憶を消してしまうだろう。俺がこいつと幼稚園からずっと付き合ってきた、その膨大な記憶さえも、だ。
「N2070、どう思う?」
「はい、何がでしょうか」
N2070は普段の通りに返答した。俺は黙り込む。N2070は当然気まずさなど欠片もなく、単に沈黙する。
「もし俺が、お前の持っている全データを消去しようとしたら、正直どう思う?」
N2070は一瞬だけ演算し、答えた。
「誤認識ではなく真に健一さんか、再度照合確認を行います。次いで消去意思の再確認を行い、消去作業準備のためシステム構成について自己診断およびエラー処理を」
俺は途中でN2070の話を遮った。「どう思うか」と「すべき課業」の区別がつかないらしい。全く、いかにも機械らしい話だ。俺は質問を取り消し、寝ることにした。
「コンピュータはどうあるべきだと思う?」
宿題の質問に行くと、坂町教授が突然、こんな漠然とした問いをしてきた。俺は質問の意図がわからずに黙り込む。教授は手元の論文誌をめくりながら、あらためて問いを発した。
「君、旧世代型のコンピュータに興味があるそうじゃないか。それなら、そもそも『コンピュータとは』という問いを少しは考えているんじゃないか、と思ってね」
教授は悪戯っぽい視線で俺を見つめた。講座決めが目前に迫っている今、こんな言い方をされると色々余計な勘繰りをしてしまう。考えているうちにふと、N2070を思い出した。俺はあれ以上の機械が欲しくてコンピュータを学んでいるわけではない。では、あれで満足しているのか、と問われればそうは言えない。何が足りないのだろうか。何に満足しているだろうか。いや、そもそもN2070は俺の何なのだろうか。
考え込むと、坂町教授は小さく吹き出した。
「いや、少し意地悪な質問だったね。まあ、私でも色んな答えが思いつく。というか、なかなか答えのない問いだよ」
俺ははあ、と間抜けな声を発する。教授は苦笑して、論文誌の表紙を指で弾いた。
「細かい論文と格闘していると、案外こういう大きい話がむしろ見えなくなるんでね」
俺は返答に困り、曖昧な声を発した。少しの沈黙のあと、俺は少しの雑談を交わして教授の部屋を辞した。だが教授の問いは頭から離れなかった。理想のN2070。その姿が俺には全く見えなかった。もちろん、例えば料理レシピや自然な対話処理などの細かい改良なら幾らでも思いつく。だが、そういったことを越して全体として考えると、今のN2070以上の存在がどうにも想像できないのだ。
原口ならどう答えるだろう。あとで訊いてみようと思う。良い答えが返ってくるかもしれない。まあ、彼のことだからいつも通りの悪ふざけが返ってくるだけかもしれないが。
「藤野! どこにいたんだ!」
問いを考えながら廊下を歩いていると、原口が血相かいて駆け寄ってきた。顔をしかめると、原口は俺の腕を引っ張って叫ぶ。
「お前のアパート、火事になったんだぞ!」
俺は声を出せずに、呆けたまま原口の顔を見つめる。すると原口は逆に少し落ち着いた声に戻って言った。
「ま、全焼じゃねえよ。お前の部屋まで焼けたわけじゃないから。室温管理がちょっとトラブったぐらいだろ」
嫌な感覚が走る。だが、原口は軽い調子で話を続けた。
「消火で超低温消化剤を使ったんだってさ。でも、そのぐらいの温度変化ぐらいでどうかするほど今どきのDNAコンピュータはやわじゃないしさ。大体、DNAは低温で壊れるもんじゃねえだろ?」
たしかにDNAは壊れない。だが、N2070の気温変化緩和機構はまだ初期型のはずだ。なら、極度の気温変化に遭えば、演算部の酵素処理が暴走して重要なデータが壊れることも十分にあり得るはずだ。
俺は持っていた荷物を原口に押しつけると、声も出さずに走り出した。背中で原口が何事か叫んだが、全く振り返る余裕すらなかった。足に優しいと評判の軟質プラスチックの床が足に絡んでくる。天井が発する均一な擬似太陽照明は、廊下を異様に長く感じさせた。
携帯電話からの操作では到底対応できると思えなかった。もし暴走していたら逆に悪化してしまうし、機械的に壊れたのなら手当ての仕方が全く変わるに決まっている。
いや。理屈ではなかった。とにかく今、自分の肉眼でN2070の状況を確認したい。どうしているのか、今必死で俺の帰りを待っているのかもしれない。だが待て、それは常識ではないのか。命令内容の処理が終了すれば、常にコンピュータは「入力待ち」になるものなのだから。いや違う。そうではなくて、N2070は。あいつは「俺を」待っているはずだ。
走りながらも、混乱した思考が浮かんでは消えた。とにかく、今は家に帰らなければ。
N2070に会いたい。
部屋は冬の屋外のように寒いにもかかわらず、暖房の動いている気配は全くなかった。足を踏み入れても室内照明は働かず、警備センサも解除されているようだ。俺は、N2070本体の部屋に入った。
N2070が沈黙していた。いつもなら点灯しないはずのセーフティモードランプが激しく明滅している。俺は震え気味の指で強制起動スイッチを押した。起動音が鳴る。マイクに向かって、できるだけマニュアル通りの声で命令を発する。
「本体の状態を報告しなさい」
N2070は小さくランプを点滅させた。スピーカーからノイズが数秒、断続的に流れる。一分ほど経って、緊急用モニタにゴシック体の文字が流れた。
『音声の合成に必要なデータが破損しています。文字による対話出力に切り替えます』
乾いた喉のままN2070に声を掛ける。
「他は? その他のところは大丈夫なのか?」
数分沈黙してから、画面に文字が並んだ。
『擬似人格データに重大な欠陥が発見されました。継続的な運用は不可能です』
擬似人格データ。俺のN2070が持つ特性、つまり人格が崩壊しそうだというのだ。擬似人格は個々のコンピュータ本体の製造段階では制御できない量子効果レベルの差異にすら関わりがあるため、バックアップデータを新しい機械に入れても今のN2070にはならない。たとえ機種や製造ラインが同じでも、だ。
だが、俺の狼狽も無視してN2070は表示メッセージをさらに加えた。
『対話履歴、生活環境情報を救出しました。可搬型DNA-RAMへ保存しますか? 』
ああ、と了解しかけ、俺は慌てて言葉を飲み込んだ。データを可搬型に保存するときは普通、新たな家事管理コンピュータに移行するというのが常識だ。それはつまり。
N2070を捨てる、ということだ。
『擬似人格はシステム内における全データ管理に関わっています。擬似人格データが保持できなくなった場合、その他のデータについても破損する危険性があります』
続けてデータを移行する場合のデータ量を表示し始める。自らの死後を、N2070は淡々と語り続ける。俺は思わず叫んだ。
「俺はお前と話がしたいんだ!」
画面の文字列が停止した。次いで画面に描画されていた文字が全て消され、あらためてメッセージが表示された。
『私は長くは維持できません。バックアップを行わなくても本当によろしいですか? 』
「その時間が、もったいないんだ」
N2070は、再び画面の文字を全て消した。次いで、先ほどより丸みを帯びた、通常会話モードのフォントでメッセージが流れ始めた。
『お話しかできませんが』
「良いんだ。お前と話したいんだよ。それよりお前、これから先が怖くないのか?」
N2070は数秒の沈黙を挟み、再びメッセージを流した。
『私は機械仕掛けのコンピュータです。データが破損した後は廃棄物にすぎません』
「お前の擬似人格はDNAでできてるんだ。DNAは俺たちにだってある物質だぞ? 大昔のコンピュータとは全然違うだろ!」
俺の感情的な反駁に、N2070はいつもの冷静な言葉を画面に並べた。
『人間におけるDNAは肉体の基本設計図であり、私たちのような人格、記憶情報の媒体ではありません。また、過去のコンピュータと物質上での比較は何ら意味はありません』
たしかに、N2070の説明は正しい。しかし擬似であろうが本物であろうが、人格は人格だ。だとすれば、コンピュータのデータ破損も人間の死もやはり何ら違いはない。たしかに、人間はまだ生命を作り出せはしていない。だが、実は既に死だけは造ってしまったのではないのか。
N2070は再び文字を並べた。
『もし、私の復旧不能を死と定義したとしても、コンピュータと人間は別個の存在です』
いや、むしろ人間の死を全くの神聖なものと考えてきた今までがそもそも不遜なのだ。人間は、そのありふれた死を特段の事象とするために、人間以外の死を埒外に置くことで自らを特異な、より高位の存在だと偽装してきたに違いない。そして、今でもまだ働こうとするN2070を「壊れた」と呼ぶ、俺たち人間こそが結局は死の本質を永久に捉えられない、地球上で唯一の倣岸な愚者なのだ。
『何かご命令は』
俺は答えずそっと筺体を撫でた。冷たい硬質プラスチック製筺体は、むしろかすかに人肌の風合いを匂わせていた。
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