文芸船

紅い月鏡

 姿見と大きな鏡を捨てた。

 単純には自分の容姿が嫌いだったからだ。チビで足は短い癖に胴だけは長い。その上肌は浅黒いとくる。わざわざそんなものを毎日鑑賞するなんて悪趣味極まりない話だ。でも私は意地悪だから、他人に鑑賞させることには大して悪いとは思わない。ただ、私自身が見えなければそれで充分な話なのだ。

 そしてもう少し複雑な話をすると、私は私自身を決めたくないのだ。友人が貸してくれた科学本の中で、観測されて初めて世界が確定する、という話があった。だから自分で自分を観測するのを止めようと思ったのだ。

 私は自分で自分に責任なんてとりたくはない。無責任だと言われるかもしれないが、事実そう思うのだから仕方が無い。そんなことを思う無責任な自分が観測して、自分の今を決定してしまうなんてある意味莫迦らしい。他人が決めたのならまだ他人のせいになる。しかし鏡の無い場所なら私は私を見ることが無い。私の見る世界には私がいない。

 仕事をしていようが映画を観ていようが食事をしていようが、自分がここにいるという事実をやたらと意識するようになった。そのくせ私を欲する人なんているとは思えない。実際、私は独りで行動してばかりだ。だからこそ私は私自身を目障りに感じるのだ。

 遠距離ドライブをしたところで、自分の前から自分がいなくなるなんてことは絶対にない。とにかく常に傍にいる奴。そんな奴は普通は邪魔に決まっている。だからとりあえずそれを見ないことにしようと思う。私は私が確かに存在していることを忘れたいのだ。

 私は、消え去りたいのかもしれない。


 夜十一時を回った頃、私はよく街に出る。まだ寝るには早すぎて、だが何となく部屋でテレビを観ている気にもなれないとき、行くあてもなく街を歩くのだ。幸い、コンビニはもちろん最近はスターバックスなど遅くまで営業している喫茶店もある。

 今日もそんな気分で街に出てみた。同じ時間に歩いていると、そのうち見慣れた顔に出会うことがままある。もちろん会話なんて交わしたことはないけれど、でも同じ顔と同じ場所を見ると何となく安心する。もしかしたら、夜に飲み騒いでいる男たちも案外私と似たようなものなのかもしれない。

 多くのスナックが入店している雑居ビルの下に立って行灯を見上げる。会社の飲み会で入ったことはあるが、今まで個人で入ったことはない。だが私はよくこの通りに立って看板を見上げる。各店が自由に飾った行灯が、一枚の看板のようにまとまって光る色が私は何となく好きだ。好き勝手な感情が一枚の看板に巻き取られている、そんな風景に私は惹かれてしまう。

 目を下ろして通りを眺める。雑居ビルの谷底から電飾の星々を見上げながら鏡のない自室へと歩いていく。ビル陰にかすかな不安を感じながらもビルの光に酔いそうになる。

 文明を持つ前の遠い先祖たちが夜に森の中を歩いて巣に戻るとき、きっと同じようなことを思っていたような気がする。だから私も夜を歩きたくなるのだ。都会のビルには光が溢れるのだ。

 ふと空を見上げると、かろうじて月光だけが街の光に負けず射し込んでいた。


「泥、ついてるぞ」

 箱石さんが私の顔をハンカチで拭おうとした。私は首を背けて彼の手から逃げようとする。だが箱石さんは、良いから動くな、と笑って私の頰と額を少し強めに拭い、綺麗になった、と言って泥のついたハンカチを見せる。そのまま箱石さんは無造作に鞄に放り込む。洗いますよ、と言いかけたが、もう鞄の中に入れた物をまた出させるのも気がひけるので、結局は口をつぐんでしまう。

「あんまり気にしないのな、お前」

 箱石さんは豪快に笑う。気にするよ、私。だが泥がついていたことではない。私が私自身の顔を意識してしまったこと。それが気に障る。不快になる。膨れっ面するな、と箱石さんはまた笑って、作業服のポケットから喉飴を取り出すと子供に与えるように私の手の平に載せた。

「現場で汚れるのは仕方ないからな。案外、お前みたいに少し無頓着なぐらいの方が仕事は出来るかもしれねえや」

 でも彼氏出来ないぞ、と言ってまた楽しそうに笑う。箱石さんの結婚が先じゃないですか、と私も珍しく茶々を入れると、じゃあ俺の嫁になるかと言ってますます笑う。本当に箱石さんはよく笑う人だ。

 私の会社も含め環境調査業界では、最近は増えたとはいえやはり女性社員は少数派であることは変わりない。そうすると自然に女は事務所仕事担当になりがちなのだが、私の会社はまだ設立間もないので手が足りなければ女でも駆り出されることがある。私は大学時代に生態学が専門だった上、とくに今回の調査で重要なヤマベは私の専門だったおかげで箱石さんと二人で現場に放り出されたというわけだ。男女二人でというのは少し問題が有るはずだが、私の色気のない雰囲気と、箱石さんの真面目さで大丈夫ということになったらしい。まあ課長は、間違いがあったらあったで独身同士だし、などとセクハラ紛いのことを口走っていたが。

 そんなことを別にしたとしても、箱石さんはよくわからない人だ。今日みたいに現場に出ると現場主義みたいな顔しているくせに、事務所に戻れば理屈こねたり堅苦しかったり。理屈屋と肉体派の双子が上手く入れ替わって仕事を進めているんじゃないかと本気で思ってしまいたいときすらある。

 箱石さんはノートパソコンを開くと私を座らせ、取ったデータを読み上げ始めた。私はなるべく急いで、でも打ち間違いがないように慎重にデータを入力していく。環境調査と言えば何だか高尚な印象を抱く人もいるようだが、実際には山歩きやら投網やらの世界。その上会社となると経費の問題もあるから、帰ってきて計算してみたらおかしいのでもう一度出張を、なんて言える筈が無い。

 ようやく打ち込み終わって計算結果を確認すると、そこそこまともな値が出ていた。箱石さんはうなずいて手の平を打ち合わせる。空を見上げるともう夕暮れが近づいていた。

「上流の調査点まで行くにはちょっと遅いな。今日はここまでにするか」

 私はうなずいて荷物をまとめ始めた。


 こんな環境調査の対象になる場所といえばだいたいが田舎で、田舎だということは当然ホテルなんて洒落たものがあるわけはない。そうするともちろん旅館だ。それも今回はちょうど地元の花フェスティバルとやらと重なったせいで、佐藤旅館といういかにも大して考えずにつけたような名前の、まあよく言えば家庭的な旅館に泊まることになった。

 山でついた泥と汗を風呂で流す。せっかくの出張なのだから大きな温泉にでも入りたいのだが、温泉はおろか大きさも一人用には心持ち大きい程度の風呂だった。それでも汚れを落とし、作業服を浴衣に替えるだけでもかなり爽快になった。だが、風呂場を出ようとするとき、改めて帯を直そうとして姿見の前に立つとおそろしく不快な気分に染まりそうになる。とはいえ、まさか宿の鏡を破るわけには行くまい。私は帯にだけ目をつけて直すと急いで鏡から離れた。ふと、自分の映った顔の傍らに何か別な影が見えた気がしたが、見直すこともなく風呂場を出た。

 風呂を出ると、既に料理がテーブルに並べられつつあった。この旅館は宿の主も客も一つのテーブルで一緒に食べるらしい。もう民宿というより合宿とか下宿のようだ。私は苦笑し、テーブルに並んだ皿に目を移した。

 味噌汁や漬物は当然だが、目を奪われたのはぜんまいのおひたしや地元の舞茸を使った炒め物、ヤマベの焼き物などふんだんに山の幸を使った料理の数々だった。

「ここは山奥なのでね。せめてここらしいものを出そうと思って」

 人の好さそうな初老の女性が皿を並べながら言った。この民宿の主人は彼女で、たった独りで切り盛りしているのだと言う。ほっそりと痩せているが、腰周りなどを見れば、私たち以上に山歩きをしてきた人だと感じられる。私は彼女に魅かれた。食事があらかた終わり、出された緑茶を飲んでいると、宿の主人が呟くように言った。

「ツキカガミの話、知っています?」

 私も箱石さんも首を傾げる。彼女は秘密を明かすように身を乗り出して続けた。

「月の鏡で『月鏡』。お客さんたちが調査している沢にまつわる話でね」

 彼女は伝承を語り始めた。それは日本の伝承としてはどこか奇妙で、むしろ都市伝説に近いものだった。

 私たちの調べている沢の上流に深い淀みがあるのだと言う。そこに満月がかかる夜、鏡を淀みに合わせると『鏡の者』が姿を現し、あらゆる望みを叶える代わりにその人の最も大切なものを一つ奪うのだという。

「その、『鏡の者』ってのはなんです?」

 箱石さんの問いに、彼女は首を傾げて小さく笑いながら答える。

「さあ。私が聞いたのもただ名前と、全身が鏡のようだという話。月のお使いだとか、月と鏡の合わせ鏡から出てくる悪魔だとか」

 悪魔って、と私が眉をひそめると、その予想をしたのは小学生の頃の私の娘だもの、と笑う。彼女も地域の伝説というよりは噂話程度にしか思っていないのかもしれない。

 ふと窓の外に目をやると、空にちょうど満月が昇ろうとしていた。


 元々寝つきは良い方なのだが、今夜に限って全く眠れない。カーテン越しに感じる月光が、眩しいわけでもないのに気に障るのだ。月鏡の話などを聞いたせいかもしれない。私は作業着に着替えると、ヘルメットやライトを持って玄関に向かった。管理人室の前をなるべく足音を立てないように注意しながら通り過ぎる。ランドクルーザーのキーを回してとりあえずセブンイレブンを目指す。

 大好きなピーチジュースを買って車に戻るとゆっくりと飲む。優しい甘さが喉を潤す。これで少しは眠気が来るだろうと願った。だが、なぜか気持ちのざわつきは止まらなかった。車窓に射してくる月光が私の乱れる感情を嘲笑っているような気がした。私は再びコンビニに戻ると、今度は旅行用グッズセットの前に向かった。ヘアブラシとセットになった小さな手鏡が目に入る。私はそれをレジに持っていく。こんな夜中にこんな物を買っても、コンビニだと全く怪訝な顔もされない。まるで自販機で買っているようだなどとアルバイトの男を見ながら失礼なことを思う。

 車を沢に向けて走らせ始める。夜中の上、田舎なので信号もなく沢へと近づいていく。本当にこんなことをしていて良いのだろうか。いや、まだ車を走らせているだけだ。箱石さんに気づかれたら、どうしても眠れなかったのだと正直に話してみよう。あの人ならきっとわかってくれる。そんなことを思いつつ、遂に車ではこれ以上進めない場所まで到達してしまった。月明かりだけの暗闇を一人歩くなんて危険極まりない。熊が出たりしたら絶対に助からないだろう。だが、そんな常識的な考えも今の私にはなぜかどうにも瑣末なことにしか思えなかった。

 ヘルメットに付けたヘッドライトを点灯する。一歩ずつ慎重に、慎重に登る。背後でランドクルーザーが闇に溶け込んでいく。脇に流れる沢の水音は昼間よりはるかに際立って聞こえる。そのうち自分が流れの中に置かれている錯覚を憶え、自分の体を抱き締めてはごわついた作業服の手触りに安堵する。後悔しつつも、それでも私は強情に歩を進めた。

 二十分ほど歩いただろうか。急に木々が開けた。砂防や魚道施設ではない、天然の淀みが眼前にあった。ライトを当てると、水面の流れがぬらりと輝く。大きさはわかりにくいが、向こう岸まで飛び越すことは到底無理だろう。深さは全くわからない。ただ、その淀みの中心には話のとおり、月がぽっかりとやけに明るく浮かんでいた。

 遂に来てしまった。何故かそんなことを思う。だが私はそれでもコンビニで買った手鏡を取り出した。何を莫迦なことをしているのだろう。これでも大学では生態学を学んだはずだ。こんな非科学的な話に振り回されるほど愚かではないつもりだ。だが私は愚かであろうとした。とにかく伝承に従いたいという欲求で胃が焼けるようだ。遂に、私は手鏡を淀みに映った月に向けた。

 三十秒、一分、二分。何も起こらない。私は安堵の溜息をついた。鏡の者なんてあるわけがないのだ。私は独りで笑った。笑って、普段ならするはずもない行動に出た。水面に映った月に鏡を放り込んだのだ。

 鏡が水音を立てた。先ほどと違って現実的な罪悪感に囚われそうになる。だが、背後に異様な光を感じた。振り向けない。声を出せない。足が竦んで動けない。背中の気配がまた近づいてくる。

 そして気配が声を発した。

「望みを言え。模造品よ」

 振り向きたくないのに体が勝手に振り向いた。そこには人型をした銀色でのっぺりした何かが立っていた。

「鏡の者を喚起した模造品よ、望みを語れ」

 声が出せない。まさか、『鏡の者』なんてあるはずがない。それに模造品って。

「鏡の者はお前の目の前に在る。これは事実だ。そして模造品というのは」

 鏡の者は目も口も無いくせに私を哂った。次いで私の頰に手を伸ばして続ける。

「お前たち生物は全て模造品だ。親から子へ継代を繰り返し、原初と全く似ても似つかぬものになったお前らは粗悪な模造品だ」

 何を言っているのだ。進化のことか。鏡の者は私の心を読んだように話を続けた。

「お前らは進化と呼ぶのだな。だがこの複雑化した肉体、道具が無ければ死に絶える種族。そんな不恰好なものは進歩ではない。お前らはただ原初を複雑化した最低の模造品だ」

 鏡の者は私の頰を両手で撫で上げると、一転して優しい声音で言った。

「お前はその模造品どもの中ではまだましな方だな。自己の醜さを知り、鏡を破壊する姿はむしろ高貴ですらある」

 なぜそれを知っている。

「鏡を通して私は世界を視る。お前とて例外ではないさ」

 鏡の者は沢の淀みを思わせる冷たい手で私の頭をそっと撫でながら言う。

「だから望みを言え。模造品のお前を、一つの初源に作り変えよう」

 当然のように語る鏡の者に私は叫んだ。

「原始細胞生物になんてなりたくない!」

 だが、鏡の者は臆することなく続ける。

「お前はお前自身として初源となるのだ。姿も脳も好きに出来る」

 姿も、好きに。私は自分の理想を思い描いた。それは卑近なことに何人かのタレントや女優の姿と、私には到底似合うはずのないドレスだった。

「決まったな、初源となりえる者よ」

 鏡の者の全身に月光が集まる。光が私を包み込む。喉からつま先まで内部が焼かれるように熱くなり、皮膚が凍りつく。止めて、と声を発しようにも喉が見えない腕で押さえ込まれていた。ここで死ぬのか。この何者かわからない化け物に殺されるのだろうか。

 だが、急に全ての痛みが去った。倒れそうになった私を鏡の者が受け止める。

 鏡の者は自らの腹部に手を差し込むと、ポスターのようなぺらりとした姿見大の鏡を私の目の前に捧げた。鏡の中に美しい女が立っていた。小柄だが色白でほっそりとした、そう、私の理想の姿の女性が不安そうに私を見つめていた。リボンを多くあしらい、大きく膨らませたスカートと細くウェストを絞ったモノトーンのドレスを身にまとい、鏡のように磨かれたチョーカーを首に下げている。

 覗き込むと首筋で金属の擦れる音が聞こえた。手で確認すると、鏡の中と全く同じチョーカーが私の首にかかっているのだ。鏡の中の女は私同じ動作を行う。それはまるで。

「お前の姿だからな」

 鏡の者が当然のように言う。私の、姿。自分の頰を覆おうとすると小さくて細い手が目に入る。これが、私の手。

 鏡の者は私の肩をそっと撫でながらまた自分の腹部に手を入れる。今度は鏡のように輝く小さな短剣が現れた。彼は私の右手にそれを握らせて耳元で囁く。

「まだ求める物があるはずだ。欲しいものを獲るのだ。望みのままに刈り取れば良い」

 短剣なんて、と呟くと彼はいきなりその短剣で私の胸をついた。

 だが刺さるどころか痛みすら感じなかった。

「この短剣はお前の望むものだけが斬れる。だから望んでみろ。自身の左手の小指の皮だけを小さく切り裂けと」

 痺れた脳は彼の言葉をそのまま繰り返す。すると左手の小指の先から血液が滴った。私の血が鏡の者を濡らす。赤い滴が鏡を彩る。

「どこに行きたい」

 鏡の者の問いに私は笑顔で応えた。もっと、私は美しい滴を見たい。鏡の者は黙ってうなずくと、私の手を取り空中に浮かぶ。そのまま私たちは真っ直ぐに民宿へと空を駆けた。


 窓から箱石さんの部屋に忍び込む。ドレスは動きにくいとは全く感じられなかった。

 布団をそっとめくり箱石さんの両頰に口づける。次いで唇を舐めるように口づける。浴衣をはだけると程よく筋肉のついた胸が見える。私は彼の胸に頰を寄せた。軽く汗ばんだ胸は広く、温かかった。

 彼の心音が聞こえる。彼の温かい鼓動が頰を繰り返し叩く。

 独占したいと思う。

 私の欲しいもの。

 私はためらわず、彼の胸に短剣を突き刺すと彼の心臓を抉り出した。血液は少し流れただけで心臓が私の手の中にあった。両手で掲げると鼓動が私の上で踊る。

 心臓の周りに滴った血液に舌を這わせる。一滴ずつ丁寧に、丹念に舐め取っていく。甘い彼の血液に喉が笑う。

 喉が渇いていた。


 なぜこんな簡単なことが出来なかったのだろう。空を駆けるだけで街に到達するというのに。私の住んでいた街が眼下に広がる。

 星々を剽窃した数々のネオン。古木のように林立するビル街。模造品の森が本当の森を侵食している。タイヤを履き眼を輝かせた模造品の獣どもが模造品の森を疾走する。

 不安が私を襲った。数知れぬ模造物たちの無意味な増殖に恐怖した。模造物が全てを侵蝕して在るべき居場所を、姿を奪い去っていく。何者かが私を模造して私を侵食する。

 心臓を掲げて口づける。頰にあてて温かみを確認する。途端、私は激しい渇きに気づいた。剣でそっと彼の心臓に傷をつけ、急いで口を当てる。喉を鳴らして溢れ出す血を飲む。何より甘い、彼の血を飲む。だがこれでは足りない。彼の、あの安堵できる温かみが欲しい。初源となった私には、逆に頼る過去も仲間もないのだ。その事実に私は慄然とした。

 私は慌てて彼の心臓の傷をこじ開けると。大量に溢れた血液をドレスに浴びた。

 モノトーンのドレスが血に染まっていく。月光が血を和らげ、ドレス全体に染み渡らせる。ドレスが染まっていく。真紅のドレスに衣替えだ。彼に全身を包まれる。紅く紅く、私の白い肌を優しく包み込んでくれる。

 ふと、彼の名前を思い出せないことに気づいた。だがそんなことは構わない。私は彼に包まれているのだから。

 傷口を絞り再び血を啜る。喉が歓喜する。私の焦がれたものが私の喉を潤す。私を包んでくれる。それでもまだ喉が渇いている。

 月光の中に鏡の者の哄笑が聞こえた。

 私は渇いている。

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