文芸船

グラス一杯の虹

 何気なく足を踏み入れた街路は人通りも少なく、閑散としていた。ついこの間まで枝だけを揺らしていた街路樹は豊かに緑をまとい、葉の表面に残る雨粒が強い日差しを反射していた。スズメの鳴き声がいつもより耳に障る。靴底を叩く砂利が騒々しい。道路のアスファルトは黒すぎるような錯覚を憶える。舌先に残る緑茶の風味は苦みだけが主張を続け、鞄は自分でも中身を疑うほど肩にのしかかるのだった。いつからだろうか、僕の胃には重苦しい塊が居座り続けている。店頭から流れる流行りの歌声も塊を揺することはなかった。名作と言われた小説も、むしろ塊を強固にしただけだ。目の裏に刺さるネオンは無意味な残像を垂れ流すだけで、胸の鼓動は静まったままだった。

 ふと、奇妙な光が突如として目の隅に爪をたてた。それは窓に塡められたステンドグラスから漏れる光だった。扉には小さくショットバーとだけ書かれており店の名前はない。それでも僕は集蛾灯に寄せられる虫のように扉を押した。

 からっかん、と竹製の鳴子が鳴る。奥にグラスを磨く女性のバーテンダーが目に入る。店内には大小様々な電灯が置かれており、ステンドグラスの傘が掛けられている。滲み出る光は柔らかく、人工の光なのに静かに思えた。この空間だけ夜を含んだままのようだ。店内にはバーテンダーが一人いるだけで、僕はカウンターの奥から二番目の席に腰を下ろした。

 バーテンダーはメニューを黙ったまま差し出した。清潔に切り揃えた爪はむしろ艶めかしい。蝶ネクタイにスーツという姿に艶やかさが漂う、そんな人だ。メニューにはとてつもない数のウイスキーが並んでいた。飲み慣れているわけでもないのに、なぜかこの膨大なウイスキーに惹かれた。昼間から酒を口にすることへの抵抗は、ステンドグラスが幻惑の底に沈めてしまったようだった。

 お迷いですか、とバーテンダーが口を開く。意外な低音はかすかに胃の奥の塊を揺り動かした。彼女は、珍しい銘柄ですが、と言ってメニューの一行を指さした。エンジェル・ティアーと書いてある。覚えのないウイスキーだ。首をかしげると、地酒のようなウイスキーだという。

 彼女は棚に並んだ瓶から一本を選び出した。それはステンドグラス製の酒瓶だった。うっすらと通る光がテーブルの上でにぎやかに踊る。ステンドグラスで描かれた涙を流す天使の姿は、再び僕を揺り動かした。目の前に磨かれたショットグラスが置かれる。鮮やかに栓が開かれた。琥珀色の液体が注がれる。すっと手先が止まり、最後の一滴が瓶の口から落ちた。

 グラスに口をつけた。微かに塩分を含んだ、癖の強いウイスキーだ。独特の香りはどこか清潔さを思わせた。アルコールは舌を焼き、次いで胃につかえていた異様な塊をわずかに柔らげたようだった。

 いつの間にか、グラスは空になっていた。目を上げるとバーテンダーが微笑む。僕は急に気恥ずかしくなって、カクテルメニューに視線を落とす。だがこちらはウイスキーにも増して多くのメニューが並んでおり、何を選べば良いのか見当もつかない。

「オリジナルにしてみます?」

 彼女は微笑んで三角のカクテルグラスを僕の目の前に置き、先ほどと同じ絵柄の空き瓶を取り出すといきなり空き瓶をハンマーで叩き割った。声も出ない僕に構わず、彼女は平然と瓶の破片を乳鉢で細かく、細かく砕いていく。ついに砕かれたガラスは色だけを留めたまま小さなガラス鉢へ移された。

 続いてエンジェル・ティアーを注ぐと、ガラス粉と触れたウイスキーが光を放った。虹色の光がテーブルに流れる。光は椅子の下に回り、店全体に広がり始めた。光に触れた他のステンドグラスからも光があふれ始める。ついにその光は天井に集まり、再びシェーカーに注ぎ込まれた。

 全ての光を吸い込んだシェーカーからグラスへ液体が注ぎ込まれる。光に染まった、あらゆる色を発する液体。液体になった光。ステンドグラスから絞り尽くした光は最後の一滴までグラスへと移された。

 僕は震える手で光の液体を手にした。冷え切ったカクテルは涼しげな明かりを漏らしている。そっと口をつけた途端、あり得ないような爽快な香りが鼻を通る。透き通る刺激が喉を駆け抜けた。胃に滞留する巨大な塊が身震いし、形を崩していく。風景が僕の肉体と接続し、脳の隅に押し隠した記憶が姿を取り戻し始めた。冷めたはずの情熱は再び炎を灯していく。バーテンダーの素敵な笑顔が僕を覆った。

 舞い戻った夢を思わず抱きしめてみる。僕には描きかけの絵があった。あと一筆、そんなところまで迫っていた。しかし完成直前、僕は筆を折った。モデルだったあの人が去っていったから。他の誰かに同じ服を着てもらっても駄目だった。姿は頭に焼き付いているはずなのに、記憶は磨りガラスの向こうに隠れてしまうのだ。思い出そうとすると、それはデフォルメされた写像に変わっているのだ。

 いつの頃からか、絵筆さえもが憎悪の対象と化していた。彼女が去ったのは自分のせいなのに、その不満をキャンバスにぶつけた。そうやってでき上がった画面は、ただ僕に嘔吐感を与えるだけだった。しかし今なら描けそうだった。キャンバスが急に懐かしく感じた。久々に絵の具のオイルの匂いを嗅ぎたい。ペインティングナイフの冷たい感触を味わいたい、そんなことを思った。

 既に杯は空になっていた。でもこれ以上は杯を重ねる気にはなれなかった。とにかく早く家に帰って絵を描きたい、それが今の気分だった。バーテンダーは黙ってうなずくと一枚の紙を差し出した。そこにはただ「涙を二筋」と書いてあった。

 彼女はお代、いただきます、と言って僕の顔の下に漏斗をつけた透明な瓶を差し出した。途端、僕の目から涙があふれ出た。涙腺が崩れたように流れ続けた。でも怖くはない。むしろ良い心地だった。彼女は微笑んで言った。

「いつでも、当店はあなたのそばにいますから」

 先ほどの瓶を一振りする。すると涙が七色の光を発して瓶の壁面に染み込んでいく。染み込んだ色は絵柄を描き始めた。そう、ウイスキーの絵柄、涙を流す天使。バーテンダーの背に純白の翼が広がる。飛散した羽根が店中を真っ白にする。最後に涙を溜めたバーテンダーの容貌が目の端を掠め、暴風が僕を弾き飛ばした。目の前は白く包まれたまま、果てのない空間をさまよう。

 そのうち体に重力が戻った気がした。ゆっくり目を開くと、そこは見慣れた僕の荒れ果てた部屋だった。隅のイーゼルが僕を呼んでいた。


 今日、僕は大賞を受賞した。油絵の作品「エンジェル・ティアー」。虹色のドレスを身に纏い、朱鷺色の翼を持った女性が涙を流しながらストレートのウイスキーを口にしている絵だ。二度と行けなかったあのバーが、今日は開店していそうな予感を感じていた。

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