文芸船

ペア・ペンダント(下)

 しばらくして自然教徒が立ち上がった。急激な情報遮断に遭ったせいか、目を見開いたり耳の穴をほじったりしている。アンドロイドは蜘蛛の糸を巻き取って声を掛けた。

「今、あなた方が見ているもの、聞こえているものが人間の肉体レベルの情報量です。あなた方は幼い頃からアマテラス・システムの庇護の下にあったのです。わかりますか」

 数人が自分の体を抱きしめて頭を振る。アンドロイドは首を傾げて話を続けた。

「アマテラス・システムが稼働する前、二百年以上昔の人間たちは今の皆さんと同じように世界を見ていました。今の姿が自然です」

 自然教徒のほとんどが身を縮める。だがその中の数人が苦しげに立ち上がった。

「なら、俺たちはアマテラス・システムから独り立ちする。俺たちは俺たちで生きる」

 男たちは接続リングに手をかける。脊髄接続針を引き抜き、人工皮膚で首筋の接続部に封をするとリングを地面に叩きつけた。アンドロイドは小さくうなずき、改めて新伊勢の壁を睨みつけた。次いで自然教徒に先ほどまでと全く違う優しい視線を向けた。

「これから大変ですよ。ひ弱な子供たちだけで生きていけるのか、本当に心配です」

 俺も自然教徒も首を傾げる。するとアンドロイドは小さく笑って言った。

「今の人間たちは皆、アマテラス・システムに守られていたのです。言うなればアマテラス・システムは母のようなものなのです」

 言われて自然教徒の数人が不思議そうに新伊勢を取り囲む壁に目を向けた。アンドロイドは落ち着いた声で彼らに呼び掛けた。

「アマテラス・システムを好きに改変しようと狙う者がいます。母を変える行為です。皆さんがシステムを嫌うとしても、母を好きに変えて良いものでしょうか」

 ここまで言って、いきなりアンドロイドは俺をリニアカーに押し込み、自分も席について操作盤に始動命令を打ち込む。文句を言いかけると、アンドロイドが先に口を開いた。

「やはり、アマテラス・システムが人間に介入し続けてはいけないものなのでしょうか」

「絶対に良いとまでは言えないけどさ、事実俺たちはこういう時代に生きているんだ」

 アンドロイドは表情を曇らせて指先を咥え、俺たち、と戸惑うように小さく呟く。次いで無表情に戻って操作盤に向かい、リニアカーを少し色の鈍い壁に進行方向を合わせた。

「本気で、新伊勢に入るっていうのか」

「いらして下さい。大歓迎です」

 アンドロイドは俺と自身のペンダントを指でつつきながら笑顔を向けてきた。映画で事件に巻き込まれた主人公が、可愛い子にくっつかれている癖に不機嫌な顔をしている理由が今、やっとわかった気がする。

 俺の気分も構わず、車両はそのまま壁へと突っ込んでいく。目を凝らすと壁の一部がぼやけている。扉は開いているらしいが、そこを高精度の立体映像で隠蔽しているらしい。遂に車両が立体映像に突き刺さったが、それもすぐに通り過ぎてゆっくりと停止した。窓の外はかなり広大な敷地で、取り囲んでいる壁の三方は見渡せない。飾り気のない有機コンクリートの無表情なビルが立ち並んでいるのにアンドロイドも人間の姿も見えない。

 リニアカーのボンネットに高天原管理局を示す蜘蛛の巣の紋章が青く浮かび上がった。ネットワーク関係の零細企業で飯を食っている身としては査察官の印という印象なので、自然教徒やリアルワークに襲われたときとはまた違った居心地の悪さを感じてしまう。

 リニアカーは何事もなく進み続け、遂に中央らしき広場前に到着した。広場の中心にはアーチ型の木製らしき橋が見えるが、広場の周囲は透明の柵で囲われていた。

「時別通行許可証を付け、降りて下さい。護衛アンドロイドの登録情報確認があります」

 渡された蜘蛛の巣のバッジを胸にあてると、バッジは服に吸いついた。アンドロイドは俺のバッジを引っ張って確認して先に降りる。俺も慌ててアンドロイドの後に続いた。

 柵の前には一体の護衛アンドロイドが立っていた。一八〇センチメートルほどの長身で、頭部は金属光沢を放つ円筒にカメラが付いている。アンドロイドは護衛に近寄ると急に飛び退いた。護衛アンドロイドは男の声を発した。

「登録情報に支障はありませんが、特殊形状アンドロイドの用件を直接お聞きしたい」

 護衛アンドロイドは人間用接続リングを嵌めた。途端に姿が白髪交じりの男に変わる。

「リアルワークが護衛アンドロイドに偽装とは、ずいぶんと面白いことをなさるのね」

 アンドロイドの台詞に、男は冷たく微笑みながら慇懃無礼な調子で言葉を返す。

「ネオ・アマテラス・プロジェクトを施行するにあたり、妙な動きがあると聞いておりましたので。あなたはいったい、何者ですか」

「無知で無能な癖に他の人間たちより偉いと思っている愚かなお前たちを躾する者です」

 身長一五〇センチメートル足らずのそばかす童顔アンドロイドが、一八〇センチメートルのリアルワークを見上げながら馬鹿にした笑みを浮かべているのだ。俺は胸のペンダントを握りしめたまま、何も出来ずに二人の行方を見守った。

「アマテラス・システムは強情です。ワークネットで働く庶民は今のままで結構ですが、我々リアルワークに恩恵があるべきです」

 アンドロイドは目を細めてリアルワークを鼻で笑うと、道路脇を指差して言った。

「どけ、虎の威を借りた小間使いの神官」

 男が舌打ちして額のダイヤルに手をかけ、次いで人差し指でアンドロイドを指差した。だが、アンドロイドは笑って更に近寄ると、飛び上がって男の額を右手で叩いた。

 何も起きない。男は焦った表情でダイヤルを動かし、立体映像の操作盤を指先に表示すると、操作盤に高速で入力を開始した。だがアンドロイドは笑って俺の傍に寄ってきた。

「この人は廃ビルにいた男の上司です。心配はありません。私と一緒に行きましょう」

 俺は震えながら何度も首を横に振る。だがアンドロイドは俺の手を強く握って告げた。

「ここまで来たら、私と一緒に行く他ない」

 アンドロイドに、いや那美さんに俺は恐怖した。だがすぐに廃ビルで助けられたときのこと、そしておでんを食べられないと言ったときのアンドロイドの表情を思い出した。俺は改めてアンドロイドの手を握り返す。アンドロイドは俺から視線を逸らすと唇を噛んで人間のように頰を染めている。振り返ると、先ほどの男は諦めずに操作盤を激しく叩きながら意味にならない叫び声を上げていた。

 俺たちは柵を開けて中に進んだ。橋は木製だが、表面は柵と同じ材質で覆われており、有機コンクリートより丈夫かもしれない。アンドロイドは少し先を歩いては俺を心配そうに見返して待つ。俺もなるべく息が上がらない程度に早足で後を追い続けた。

 遂に橋の最も高いところに来たとき、俺は息を飲んだ。橋の先が切れており、覗き込んでも真っ暗な闇があるだけだ。俺は慌ててアンドロイドの手を引っ張った。だがアンドロイドは小さく笑って俺の手を優しくひき、片足を闇の中に差し入れた。途端、アンドロイドの足の先が地下へ降りる階段に変わった。

 階段はちょうど二人が並んで歩けるほどの幅だ。階段も壁も全て発光しているというのに、奥はかなり遠いのか、それとも先ほどと同じ技術を使っているのか全く見通せない。

「疲れたら遠慮せずスポーツドリンクなどを飲んで下さい。かなり長い階段ですから」

 目的地までの距離を訊きたかったが、聞いたら余計気が滅入りそうなので黙ってうなずいた。三段降りると背後の照明が消えた。アンドロイドは再び俺の手を引く。続いて降りると、また三段目で背後となった照明が消える。こうして俺たちはひたすら階段を降り続けた。意外にも追手がいなかったおかげで俺は二回ほどドリンクと休憩にありついた。

「人間には入ることなんて出来ませんよ」

 アンドロイドは余裕の笑みを浮かべる。俺は耐えきれず我慢していた問いを発した。

「那美さん、あなたは高天原管理局とどういう関係なのですか。いったい何者ですか」

 アンドロイドは寂しそうな笑みを浮かべて俺の顔をじっと見つめる。次いで俺のペンダントに指を掛け、再び正面を向いて言った。

「このエレベータの向こうで、お話します」

 彼女は行き止まりの壁に手を触れる。すると先ほどの橋と同じように風景が変わり、扉が開いたエレベータが出現した。俺はスポーツドリンクの残りを一息に飲み干し、アンドロイドの手を握りしめてうなずいた。


 エレベータは耳が痛くなるほど深く潜り続けた。何の表示も無いエレベータの中でアンドロイドと二人きり。次第に不安が恐怖に変わっていく。俺はとっくに死んでいて、実はこのエレベータが地獄行きの高速エレベータだと言われてもあまり驚かない自信がある。

 しかし妄想にも終わりが来た。エレベータは静かに停止し、扉がゆっくりと開いた。アンドロイドが先導する。俺はおそるおそる第一歩を踏み出す。扉の目の前には有機コンクリート製の巨大な鳥居が立っていた。内壁全体がぼんやりと青く発光しており、空気までもが青い光で満たされているようだった。漆黒に磨かれた天井は鏡のように床を投影している。鳥居の先には見渡す限り、無数の大きな長方形の箱が整然と並べられていた。

「ここに並んでいる箱が、アマテラス・システムの中枢部を構成するハードウェアです」

 近寄って見ると筐体に製造企業名は全くなく、管理用バーコードのみが記されていた。

「現有筐体は全てアマテラス・システム自身が設計して更新管理を行っているため、筐体に名称を刻む権利は受注企業にありません」

 アンドロイドはそのまま筐体の隙間を歩き進む。俺は慌てて背中を追いかけた。しばらく歩き続けてやっと壁に行き当たると、アンドロイドは中空を見上げて無表情に言った。

「ヨモツヒラサカへの立入許可を申請」

 立体映像型操作盤がアンドロイドの指先に現れた。その操作盤は数百年前に使われていた骨董品を模したような操作盤で、俺にはどれを触れば入力になるのかも理解できない。だが、アンドロイドは慣れた様子で操作盤の上に指を滑らせ高速で入力していく。最後に一つボタンを押すと操作盤が消え、代わりに二つの穴が開いた箱型の立体映像が現れた。

 アンドロイドはペンダントを首から外して箱の片方の穴のある場所にかざした。操作盤が桃色に光る。次いでアンドロイドは俺の胸のペンダントがある辺りを指差す。俺もペンダントを首から外すと、アンドロイドが指したもう一つの穴にペンダントをかざした。立体映像の箱が青く発光して消え、次いで古代人の映画にあるような合成音声が響いた。

『ヨモツヒラサカ、立入を許可』

 目の前の壁が扉に変わる。アンドロイドは扉を開けて手招きした。続いて入ると突然、足元が砂利に変わる。だが砂利は安物のバラスで、そのうち錆びた鉄釘や風化したプラスチックの破片、遺跡にあるような無機コンクリートの残骸が増えてきた。

 問いかけようとすると、アンドロイドは空中に「黄泉比良坂」という文字を表示して薄く笑って沈黙する。俺も沈黙して後を追った。足元の悪さに休憩を取りたかったが、アンドロイドは全く止まる様子が無い。俺は肩で息をしながら接続リングのダイヤルを操作し「黄泉比良坂」という言葉を検索した。いきなり膨大な古代神話の情報が脳へ流入してくる。日常語彙でフィルタリングを指示すると、死の国への入り口だという説明が現れた。

「神話とは、すなわち象徴です。あなたが現実世界に生存していることは保証します」

 声を掛けるより先にアンドロイドは無表情に振り返って告げ、再び歩き始めた。俺はこれ以上の質問を諦め、渇いた喉を唾液で湿らせながら再びアンドロイドの後を追った。

 そして遂に、アンドロイドが唐突に止まった。目の前には表面に何の模様も無い、直径三メートルほどの光沢のある黒色の球体が転がっていた。アンドロイドはそっと優しく球体を撫でる。すると球体はちょうど半径の辺りで割れ、上半分が中空へと浮き上がった。

 下半分の中には、人間の身長より少し大きい程度の白木の木箱が横たわっていた。アンドロイドに腕をひかれたが、俺は足を踏ん張る。アンドロイドを手で遮って何回か深呼吸した。動悸がかなり速い。頭が痛い気がする。改めて深呼吸する。少しだけ落ち着いた気がする。落ち着いたことにする。遂に俺はアンドロイドと一緒に箱を覗き込んだ。

 そこには、アンドロイドと全く同じ容貌の女性が数百年前の服装で横たわっていた。

「有馬那美。アマテラス・システムの中枢開発責任者です。死亡は西暦二〇四一年です」

 那美さんは今から二百年前に死亡していたと。俺はアンドロイドの腕を振りほどいた。アンドロイドから距離を取り、声の震えを必死で抑えながら俺は訊いた。

「だから、あなたの正体は誰なんだ」

 アンドロイドは寂しそうに笑うと、教師のような態度で俺に向き直った。

「ご存知でしょうが、アマテラス・システムは脳細胞間の神経ネットワークを模して構築されたため、起動当初は人間の脳と精神構造を構造モデルとして転写しました」

 言葉を切ったアンドロイドに、俺は黙ってうなずく。アンドロイドは話を続けた。

「私はアマテラス・システム中枢部の特命処理プロセス。そしてアマテラス・システムの起動にあたって、システムの構造モデルとして転写された有馬那美の人格構造体」

 アンドロイドは俺のペンダントを奪い、壁に写しだした。その薄れた画像。こちらに向かって手を振る姿。それは今、俺の目の前にいるアンドロイドと似ているように思えた。

「あなたの先祖である淡路凪は、有馬那美の配偶者となることを予定していました」

 アンドロイドは目を閉じて頭上を指差す。天井に動画が表示された。手術着を着た有馬那美がベッドに座り金属製の輪を頭に付けていた。輪からは光ケーブルが伸びており、先端に針が付いている。接続リングの試作機だろうか。古臭い型の医療用アンドロイドが針を有馬那美の首筋に挿入する。有馬那美は少しだけ顔を歪め、すぐに平静な顔に戻った。

 急に表情が明るく変わった。こちらに向かって激しく手を振る。モニタが反対側を向いた。そこには時代がかった服を着た俺が手に白桃を持って立っていた。いや、俺のはずが無い。これが俺の御先祖様、淡路凪なのだろう。淡路凪は有馬那美の隣に腰掛けると白桃の皮を剝き、医療用アンドロイドから皿とナイフを受け取って切り分ける。有馬那美が頰を赤くしながら口を開けると、淡路凪は白桃を一切れ入れてやる。喉がこくりと動く。次いで有馬那美が白桃を取ろうとすると医療用アンドロイドが時計を指差した。

 有馬那美がベッドに横たわる。二人は互いの首に提げたペンダントをつつき合った。淡路凪が有馬那美から離れた。次いでベッドの上に巨大な機械が覆い被さり、有馬那美は操作盤を手にする。そして医療用アンドロイドが機械の脇にあるボタンを押し込んだ。

 黙って有馬那美を見つめている淡路凪と医療用アンドロイド、そして操作盤の上で指を動かす有馬那美の映像がしばらく続いたが、急に有馬那美が激しく操作盤を叩き始めた。淡路凪が顔色を変えて機械に取りつく。医療用アンドロイドは淡路凪を抑え込んだ。

 有馬那美は操作盤の中で触っていなかった箇所を叩いた。次いで操作盤を取り落とすと手が空を掴んだ。淡路凪が医療用アンドロイドを押しのけて駆け寄り、機械のロックを外して有馬那美の手を握る。だが有馬那美の体は痙攣し、そのまま動かなくなった。医療用アンドロイドが検査を始める。すぐに医療用アンドロイドの頭部に赤いランプが灯り、有馬那美に注射する。背後に立った淡路凪が必死に電話をしている場面で動画は途切れた。

「アマテラス・システムの誕生は、設計上のミスによる有馬那美の死亡を伴いました。しかし、有馬那美は死の直前に自身の機械的復活と淡路凪との再会準備をアマテラス・システムの至上命令として入力しました」

 画面が切り替わった。大量の戦闘アンドロイドが都市へ進軍を始めていた。都市からも戦闘アンドロイドが現れたが、対する戦闘アンドロイドから蜘蛛の糸が降りかかる。都市の戦闘アンドロイドは即座に停止し、次いで反転すると都市へ進軍していく。

 更に画面が切り替わった。怯え泣き叫ぶ乳児に医療用アンドロイドが次々と接続リングを嵌めていく。大人たちも拘束されたまま接続リングを嵌められ、目を開くと全員穏やかな表情に変わっていった。脱走した者は戦闘アンドロイドに執拗に追われ続けていた。

「有馬那美の死亡後、最優先事項の処理を行う上で障害となりえる原始的な社会システムは速やかに除去し、アマテラス・システムを中心とした社会システムに再構築しました」

 俺が習ってきた歴史は嘘なのか。俺の問いにアンドロイドは目を閉じたまま微笑んだ。

「アマテラス・システムは開発者の命令を効率的に優先して実行するよう設計されています。アンドロイド筐体の開発に九十年、精神構造データに沿った疑似人格の開発に百年。アンドロイド筐体に対する疑似人格のインストール及び運用試験に十年を要しました」

 ここまで話した後、アンドロイドは前のめりに倒れる。次いで運動神経の鈍そうな様子でアンドロイドが立ち上がった。閉じていた目が開かれる。理知的な雰囲気に加え、勝気な幼さの混じる、不安げな視線が俺をじっと見つめた。それはもはや、アンドロイドと呼べるような存在ではない。復活した那美さんはゆっくりと近づいて俺の頰を撫でた。

「ねえ凪、逢いたかった。二百年も待った」

 俺の胸にとん、と頭が押しつけられる。普通のアンドロイドのような重量が無い。本物の人間と全く変わらないのだ。桃の香水が鼻腔にふんわりと漂う。だが、抱きしめかけた腕が止まった。俺は二十七歳で二百年なんて時代を生きてはいない。

「俺の名前は宗春だ。凪なんかじゃない。俺はそんな大昔の代用品なんかじゃねえ」

 俺は那美さんを押し返して言った。すると那美さんは俺を睨みつけて叫んだ。

「せっかく助けてあげたのに、君も裏切るの。私のことを、やっぱり拒否するのね」

 俺は今の言葉を聞き返した。すると那美さんは恨みがましい声音で呟くように言った。

「システムが復活させるからと説明したら、死んだ者は還らないと凪が言い切ったの」

 同時に、天井から黄泉比良坂への立入許可の際に発された人工音声が降ってきた。

『特命遂行上、重大なシステム反抗を検知しました。特命処理プロセスを支援するため、緊急支援アプリケーションを起動します』

 壁から蜘蛛の糸が俺へ向かって殺到する。逃げられない。俺は震えながら叫んだ。

「てめえの処理プロセスの都合だけで勝手なこと言ってるんじゃねえ、このポンコツ!」

 次いで那美さんを怒鳴りつけようとした。しかし先に那美さんが中空を向いて叫んだ。

「私が機能を停止しない限り、本件に介入する権限は一般処理プロセスにありません!」

『特命処理プロセスからの支援拒否を受諾。一般処理プロセスの緊急支援を中止します』

 急停止した蜘蛛の糸が巻き取られていく。アマテラス・システム内の争いは那美さんの勝利らしい。再び那美さんは俺に向き直る。だがすぐに彼女は俺から視線を逸らした。

「代わりには、なってもらえませんか」

「お断りだ」

 即答すると、那美さんは肩を落とした。二百年前にアマテラス・システムの中枢理論を構築した有馬那美は、きっと現代ならリアルワークの頂点に立つほどの天才だったのだろう。目の前にいる復活版の那美さんに至ってはアマテラス・システムの中枢部、現代の神だ。だが、俺に言っていることはあまりに稚拙過ぎて。だから逆に妙な親しみを感じた。

「俺だって期待していたよ。アンドロイドにしては綺麗じゃないしちんちくりんだけど、でも毎日通っているうちに話すのが楽しくて。それなのに何だよ、代わりにって」

 那美さんは俺を見上げると、頰を膨らませて拳を握りしめ、俺の胸を叩いた。

「君が凪と一緒だなんて、そんなのあるわけないんだから。凪はもっと落ち着いているし知的だし零細下請け会社でぼんやりと危ない仕事受けたりなんて絶対しないし、それに」

 言葉を切り、唇を噛んで言った。

「私のおでん、食べてくれるはずないもの」

 急に所帯じみた話になり、俺は肩の力が抜けた。だが那美さんは早口で平然と続けた。

「あいつ、私の作るおでんは美味しくないって言い張ったの。なのに君は私のおでん、喜んで食べてるじゃない。どんな具も旨いって言ってる鈍感な君と凪じゃ、全くの別人」

 あまりに酷い言い方に、俺はほとんど何も考えず不用意なことを口にしてしまった。

「アマテラス・システムなら俺の個人情報なんて簡単に閲覧できただろ。コンビニで話したときでもわかったはずだろ。何を今さら」

 那美さんは急に焦った表情になって顔を背け、次いで無感情な顔に変わり、再び感情のまま俺に食ってかかろうとし、また無表情に戻って体を人形のように硬くなって呟いた。

「私は、私は何を守ろうと、しているのでしょうか。私は、誰を好きなのでしょうか」

 那美さんは唇を噛んだ。目を閉じて顔色が一気に青ざめていく。数分の沈黙の後、急にうなずくと目を開き血色が戻った。だがすぐに眉をひそめ戸惑いの声で呟く。

「今、私が進めている行動は本当に、有馬那美の指定した特命処理なのでしょうか」

 中空を睨んで何かわからない言葉を呟いた。最後に大きくうなずくと顔を赤くする。そして、再び甘えた表情で俺を見つめると口を尖らせて幼い声で言った。

「今の気持ちを言えば、私は死んだ人じゃなく、今の君が、好き」

 那美さんは風呂上がりのような赤い顔で俺を見上げた。こんなことのために巨大なシステムが他の人間を犠牲にしてまで二百年間も演算を続けていたのか。神に等しい機械と、その神を生んだ知性にしては馬鹿らしい稚拙さだ。だから俺は感情を殺して訊いた。

「それはアマテラス・システムの判断か」

 那美さんは安置された有馬那美の遺体に畏れるような視線を向け、急に自分の体を抱きしめて泣きじゃくりながら続けた。

「好きだとか言っているこの私は誰なのでしょうか。この体はアンドロイド筐体に過ぎません。この感情もコンビニ店員までの記憶も有馬那美からのコピーのはずなのです」

 可愛い女と会えるつもりで来たら遺体を見せられ、続いて恋愛シミュレーションの代わりの相手をしろとシステムに迫られ、さらに今、私は誰かと問われている。全くふざけた話だ。俺は再び声を荒げかけ、那美さんの着ている服の袖口に目が向いた。

 ほとんど気付かないほどの小さな褐色の染みだ。おでんの汁が跳ねたのだろうか。俺はアンドロイドの那美さんと会ってからのことを思い返した。ワークネット上で顔もわからない上司の下で働き、維持運動を惰性で続けていた中に現れた変わり種のアンドロイド。俺はずっとこのアンドロイドの那美さんと話し、那美さんと笑い、助けられてきた。

 下らないことを訊いて那美さんを泣かせた俺自身を恥ずかしく思った。俺はそっと那美さんの頰を撫でる。この柔らかな感覚に、俺は客観的な事実を無視することにした。

「あなたは今、生きているたった一人の那美さんだ。俺は有馬那美なんて知らない。俺が好きなのも有馬那美じゃなく、那美さんだ」

 那美さんはぼんやりと天井を仰いで、次いでまた半分泣きそうな顔で呟いた。

「私が有馬那美の代替装置ではなく、私は今の時代に生きる、一人の人間。那美、だと」

 彼女は泣き顔を乱暴に手で擦ると、有馬那美の遺体をきつく睨みつけながら言った。

「私はアマテラス・システム。だからこそ、私は有馬那美とは別の存在です。だから淡路凪と大違いのあなたが好きなのです。この気持ちは、アンドロイドの私だけの感情です」

 那美さんは天井を不敵に睨んだ。新伊勢を取り囲んでいる戦闘型アンドロイドの映像が映っている。ここに来る際に押しのけたリアルワークが戦闘アンドロイドに蜘蛛の糸を直結して操作していた。那美さんは鼻で笑って操作盤を呼び出すと何かを入力する。新伊勢の外壁に「ただいま恋愛中」という悪ふざけとしか思えない言葉が大きく表示された。

 天井の表示が俺の見慣れた自宅の部屋に切り替わった。次いでワークチェアに寝そべっている痩せた中年男と、ワークネット上で怒鳴り散らしている龍のキャラクターが表示される。この痩せた男が課長なのだろうか。最後に自然教徒の隊列が映しだされた。接続リングを作業アンドロイドも使わず、自ら握ったハンマーで破壊しては何か叫んでいる。高天原管理局の旗を焼き、ワークネット内で働く人間を嘲笑する演説を行っていた。

「改めて聞くけれど、あなたは恋人候補の機械と平凡な人類、どちらの味方になるの?」

 自然教徒たちを思い返した。今は那美さんの言葉をアマテラス・システム抜きで判断したかった。俺は接続リングのダイヤルをログアウトに合わせた。網膜モニタのオンライン表示が消える。俺は歯を食いしばって脊髄接続針を引き抜き、人工皮膚で首筋の接続口を封じると接続リングを投げ捨てた。

 俺は改めて那美さんを見つめた。那美さんはまた戦闘アンドロイドを使うのかもしれない。でも俺は、世界の救世主になるよりは少し怖い恋人に振り回される方がお似合いだ。

 緊張した面持ちで言葉を待つ那美さんに、俺は当たり前の常識的な回答をぶつけた。

「好きな人以外に、大事なものがあるかよ」

 小さな暖かい笑い声のあと、俺の唇は唾液の無い暖かく柔らかな唇で塞がれた。

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