文芸船

ペア・ペンダント(上)

 勤務時間終了のサインが視界の中心に表示された。俺は課長と同僚に退勤挨拶のメッセージを送り、頭に嵌めた接続リングに手を伸ばした。額のダイヤルをログアウトに合わせると、仮想空間が次第に色を喪っていく。俺は目を閉じてダイヤルを押し込んだ。

 ゆっくりと目を開けると、俺はワークチェアから立ち上がった。軽く立ちくらみする。部屋の隅に飾ったサボテンに目を向けて頭を落ち着かせた。腰を伸ばして首筋を揉みほぐしていると、次第に現実感覚が戻ってくる。現実世界ではワークチェアに座ったままなのに、脳だけは仮想空間で働いているという今の仕組みは無理のある形だと思う。とはいえ仮想空間の仕事量を現実世界でこなすとしたら寝る暇もないだろう。特別な才覚のない俺が、現実世界で働く超エリートのリアルワークになるなんてどう考えてもありえない。

 部屋の中央に「明日を楽しむ維持運動」というメッセージが浮かんだ。毎日飽きるほど届く健康省からの広告メッセージだ。俺はリニアカーを起動しかけ、今日はまだ運動センターの予約時間まで余裕があることに気付いた。歩けば維持運動の時間も短縮できる。

 久しぶりに階段を歩くと膝が軽く震えた。しばらく維持運動の時間を最低にしていたせいだ。仕事中はずっとワークチェアに座っているが、睡眠時間は古代人と変わらない。おかげで維持運動を行わないと肉体が衰え、現実世界に戻っても歩くことも出来なくなる。子供の頃からしつこいほど教えられているが、それを全て守るほど真面目にはなれない。

 アパートを出ると、歩道を数人の集団が汗びっしょりで歩いていた。全員同じ赤色の運動服を着ており、接続リング以外の電子媒体を一切身につけていない。仮想空間と関係を薄くすることで、現実世界を祝福する神の国に迎えられるとかいう教義で、最近になって急に流行りだした新興のカルト教団だ。

 彼らが通り過ぎるのを待ちながら周囲を見回していると、道路の向かい側に見慣れない看板が見えた。いつの間にかコンビニエンスストアが開いたようだ。電子通販で注文すれば自宅に一分もあれば必ず届くのに、よくこんな住宅街にコンビニを建てたものだ。

 自然教徒が遠ざかったので俺は再び歩き始めた。首筋に熱が溜まってくる。首から汗が伝い落ちてペンダントを濡らした。俺はペンダントを取り出してボタンを押した。こちらに手を振る若いセミロングの女性が空中に投影される。機器劣化のせいで顔立ちはわからない。古い機械なので、濡れたりすると心配になっていつも作動を確認してしまう。

 俺の遠い先祖の兄に大物の計算機科学者がいて、その科学者が造ったペンダントだそうだ。見た目は藍色で古代の絵に描かれている魂のような形をしており、動画の再生機が組み込まれている。地磁気発電式なので電池交換も不要で、その代わりどこにも継ぎ目がなく、誰も中身を分解して見た者はいない。

 この大物科学者は一生独身だったそうだ。投影画像は大物科学者の元恋人なのかもしれない。とにかく詳細不明の骨董品なのだが、亡くなった父から継がれた形見のせいか、身に付けず出歩くことには抵抗を感じるのだ。

 家から五分も歩いて既に汗まみれなのに、まだやっと運動センターの屋根が見えてきた程度だ。先ほど見たコンビニはかなり近づいていた。看板にはストア・イザナミという見たことのない名前が掲げられている。接続リングに触れ、網膜モニタを展開して時刻を確認する。店に寄っても予約時間には間に合う。俺は道路を渡ってコンビニの前に立った。

 額の汗を手で拭い、息を切らせたまま店内に入る。いらっしゃいませ、という声に振り返り俺は目を疑った。レジには奇妙なアンドロイドが立っていたのだ。セミロングの女性の姿で身長は一五〇センチメートルそこそこだ。人工皮膚や顔立ちの設計は二十歳代だろうが、胸の膨らみはろくにないし顔立ちもごく平凡な人間のようで大して美しくもなく、そのうえ頰にはうっすらとそばかすが浮いている。

 俺は近づいて接続リングを確認した。間違いなくアンドロイド用の赤いリングで、正常通信を示す緑色のLEDが点滅している。対面販売用アンドロイドは普通に既製品を発注するだけで絶世の美女か美男子が手に入る。人間なら平凡な顔かもしれないが、アンドロイドとなれば醜悪と言っても良い。こんな小柄でそばかす顔で、おまけに貧弱な体格のアンドロイドをわざわざ特注で造って店に置くなんて悪趣味の領域だ。

 俺は店頭カウンターの三次元バーコードを接続リングで読み込む。過去に行った店の商品リストとの比較差分リストが網膜モニタに展開された。だがリストには数えるほどしか商品が表示されない。落胆しながら俺は好物のピーチ・ネクターを探してレジに置いた。

 アンドロイドはいらっしゃいませ、と明るい声を発してほほ笑む。さすが特注品なだけあって、完成された笑みではなく人間らしさのある自然な笑みだ。レジチェックは普通に瞬間で終了し、支払いを終えると袋を手渡してくれる。指先にまで熱源があるのか、アンドロイドの冷たさがない。ふと、このアンドロイドに声をかけてみたいと思う。だが、やはりこの妙な趣味の店で声を掛けて逆に厄介事に巻き込まれるのも不安に思う。

 俺は商品を受け取って店を出ると、コンビニの視覚記憶を自宅の電子メモに転送した。


 気が付くと俺はストア・イザナミの常連になっていた。通っているうちに俺の他にも何人か客を見かけたが、アンドロイドの姿をまじまじと見つめて首をかしげている人がほとんどで、好意的に捉えている客はいないようだ。これで店長に、お前も趣味が一緒か、とか言われたら釈然としないが、でもなぜか俺はこの店に足が向いてしまう。

 店に通い始めて、今日でちょうど二週間が経っていた。珍しく俺はカウンターにあったおでんを注文してみた。がんも、のし鳥、ちくわぶ、と注文していく。アンドロイドが器用に箸で具を取ってはプラスチック容器に移していく。具を取る作業なんて自動化すれば良いような気もするが、目の前でアンドロイドが取った方が余計な商品を買ってしまうので売上が伸びるそうだ。アンドロイドに乗せられるというのも全く馬鹿げた話だと思う。

 適当に六個ほど具を入れてもらって注文を止めた。アンドロイドは湯気の立つ汁をお玉で器に注ぎながら、ふと俺の顔を見上げた。

「おでん、好きなのですか」

 俺はアンドロイドの顔をじっと見つめた。どうしてこんな日常会話を振ってくるのだろう。たじろぐ俺に、アンドロイドは申し訳無さそうな表情を浮かべて言った。

「ワークネットの中にいても暇なもので」

 俺は苦笑した。この接客アンドロイドを制御している社員が暇潰しに話しかけてきたのか。俺はやっと警戒を解いて雑談に応じた。

「こんな郊外にコンビニなんて珍しいですよね。接客アンドロイドも特注みたいだし」

「ここは実験用店舗です。だからアンドロイド筐体も実験機で、遠隔会話も使えますし」

 一般に店舗用アンドロイドは自動制御なのだが、この実験機アンドロイドは半自動制御らしい。営業用や医療用、精密技術用ロボットの改造型機種なのだろうか。アンドロイドはおでんの汁をかき回しながら話を続けた。

「毎日来られるお客様なので気になっていたのです。私もおでんは好きですよ、昔から」

 俺も好きだよ、と答えてアンドロイドからおでんパックを受け取ろうとする。するとアンドロイドが俺の胸元をじっと見つめた。

「懐かしい、ペンダント」

「これってかなり古いものなんですけど」

 俺は先祖のペンダントを手に取って首をかしげる。アンドロイドは慌てた様子で答えた。

「学生時代に計算機科学史を専攻していたので、古い型式の機械類を見ると懐かしくて」

 随分と変わった分野を専攻したものだ。まあ、だからこんな物好きな実験に関わっているのかもしれないが。アンドロイドの向こうにいる担当者ともっと知り合いたくなった。

「俺は淡路宗春です。近所に住んでいます」

「ごめんなさい。今は特殊な実験業務ですので、担当者個人の名前は教えられません。あと、私の自宅は新伊勢の方、でしょうか」

 アンドロイドは申し訳無さそうな表情を浮かべて頭を下げる。俺は肩を落とした。おまけに新伊勢はワークネット基幹部分の所在地だ。実験室だというのならともかく、自宅というのはありえない。アンドロイドはまた慌てた様子になり、頭を搔きながら言った。

「代わりに一つ秘密を明かします。このアンドロイド筐体は私自身がモデルなのです」

 へえ、と俺はアンドロイドをあらためてじっと見つめる。そう言われると、人間にしてもあまり美人ではないアンドロイドが案外とかわいく見えてくるのは不思議なものだ。俺はやっとおでんパックを受け取ると店を後にした。


 先月受注したシステム整備がやっと終わり試験部門に送信したところで、いきなり課長が機密回線経由でメッセージを送ってきた。

「お前、何か新しく信仰でも始めたのか」

 俺の会社には本来なら優秀過ぎる人なのだが、こんなメッセージを見るとなぜこの会社止まりなのかがよくわかる。俺は何もない、と端的にメッセージを返した。すると少し時間をおいて再びメッセージが届いた。

「最近、君が歩いて帰宅しているという噂を聞いた。何かそういった関係かと心配した」

 誰かが余計な噂を流したらしい。俺はまた短く、健康に気をつけています、と返す。すると俺の仮想空間領域に課長の仮想キャラクターが割り込んできた。現実世界では課長と会ったことがないので実体は知らないが、課長の強引さにぴったりの龍だ。俺は龍の座標から少しずらした空間にテーブルと椅子を設置する。次いで俺のキャラクターのウサギを課長の向かい側に座る形で表示した。

「妙な噂がある。内密に調査して欲しい」

 課長は言って俺に顔を寄せてくる。龍の髭が俺の頰をちくちくとつついた。ワークネットは無駄な点までやたらと現実的だと思う。

「高天原管理局内でアマテラス・システムの更新を検討しているらしい。そのために、現実世界で何か調査をしているらしいのだ」

 俺は思わず笑ってしまった。民間企業用のワークネットや役所関係のガバメント・ネット、それに維持運動の個人別管理などあらゆるシステムの基礎にあるアマテラス・システム自体を換装するなんて無茶な話だ。

 人間の思考は脳細胞間の神経ネットワークが支えているが、アマテラス・システムはこの現象を基礎に開発された自己組織化能力のあるネットワークシステムで、二百年前から一日も休みなく稼働しており、機械部品のような静的な構造ではない。アマテラス・システムという名称も日本のシステムの根幹という意味と、この自己組織化ネットワーク理論を構築した天才女性科学者を記念して、最高位の女神の名前を与えられたそうだ。

「アマテラス・システムは新伊勢に政府管理の中枢部がある。そこを更新するらしい」

 それならわかる。ペンダントを残した先祖もアマテラス・システムの開発に関わっていたと父から聞いていた。妙な言い回しだと思っていたが、中枢部のことかもしれない。

「私だってうちみたいな零細が神託を直接受けられるなんて思ってはいないさ。ただ、神官がばらまくおこぼれは魅力的だろう」

 高天原管理局はアマテラス・システムを管理する政府機関だが、システム自身が自己組織化プログラムで構成されているため、アマテラス・システムの発注計画案のままで入札まで進むことも多い。そんなわけで、俺たちは書類をトンネルしているだけの役人たちを神官、発注仕様を神託と陰で呼んでいる。

「君、最近よく現実世界でも二本の足で歩き回っているそうじゃないか。そんな君なら現実世界での調査も可能だろうと思ってね」

 俺は返答しなかった。アマテラス・システムが稼働を開始したとき、反対派によるテロで多くの死傷者が出たという。自然教なんて奴らもいる今、アマテラス・システムの大更新に関わるのはどうも気持ちが悪い。だが課長は俺の沈黙に勝手にうなずいて続けた。

「今日は表向き三時間早退したまえ。実際には残った三時間は現実世界を調査してくれ」

 課長は空中に手を伸ばした。近所にある繁華街の地図が表示される。地図の背後に街路動画が重複表示され街の風景がわかる。

「この辺は普段も買い物に行っているはずだが、奥にある休業ビルの中を確認してくれ」

 カメラが一棟のビルを映した。ビルの看板は剝がれ落ちかけており、壁には幾つものひび割れが見えた。玄関口は流石に破れてはいないものの、人気は全く感じられない。

「高天原管理局のリアルワークがこの建物に入る姿を見た者がいる。急に立った妙な噂と同じ時期に超エリート様が似合わない場所に来るというのは、かなり気になる話だ」

 俺は息を飲み、課長の髭を両前足で引っ張りながら顔を近づけて睨みつけた。

「リアルワークの確認って、この案件は本当に大丈夫ですか。犯罪関係はお断りですよ」

「立入禁止の場所に侵入しろとか言っているわけじゃない。簡単な状況確認だけだよ」

 課長は髭を前足から引き抜いて笑い、俺の前に擬装用の早退届を表示して電子署名欄を指差す。俺はしぶしぶ了解すると、早退届に電子署名を焼き込んでログアウトした。

 目を開けて部屋を見回す。何度か首を回しているうちに現実の肉体が馴染んでくる。窓のカーテンを開けてみると太陽が眩しい。俺は現実離れした課長の命令をあらためて思い返した。同窓生で学年トップだった奴がリアルワークになったと聞いているが、それ以外にリアルワークなんて想像も出来ない。俺のような零細企業の社員に手の届く存在ではない。

 首のペンダントに手を伸ばした。アマテラス・システムの構築に関わった御先祖様。今の時代に生きていれば、不出来な子孫の俺と違ってリアルワークになっていたはずだ。

 スポーツウェアに着替え、リュックにネットノートを放り込むとネットノートと接続リングをデータリンクする。これで俺の視覚、聴覚情報と思考情報は接続リングからネットノートに蓄積される。続いて汗拭き用のタオルを入れ、最後にスポーツドリンクの買い置きがないことに気付いた。俺は接続リングから通販店舗に接続しかけ、ストア・イザナミを思い出した。イザナミも神話にある名前だし、店も実験店舗でアンドロイドも特注だ。まさか、今回の案件に関係があるのだろうか。

 だがすぐにそばかす顔のアンドロイドを思い出して吹き出してしまった。おでんをきっかけに話して以来よく雑談しているが、俺の下らない冗談に笑ってくれる、アンドロイドの顔立ちにぴったりの子供っぽい操作者がリアルワークのような異能者だとは思えない。

 平日のストア・イザナミはどんな様子なのだろうか。先ほどまでの張りつめた気分が薄れてきた。俺はのんびりした気持ちで靴を履くと、ストア・イザナミへと向かった。


 ストア・イザナミは相変わらず客の姿はなく、いつものアンドロイドが独りで店番をしていた。ちょっとした変化でもないかと期待したが、あまりに普段通りで拍子抜けした。俺はピーチのスポーツドリンクをカウンターに置き、黙ったまま代金を支払おうとした。

「こんな平日なのに、珍しいですね。今日は何か、特別なことがあるのですか」

 いつもの人が操作しているらしい。アンドロイドは疑うような表情で訊いてきた。俺は別に、としらばっくれる。するとアンドロイドは俺の接続リングに右手で触れた。網膜モニタに大きく「那美」という名前が表示される。アンドロイドは俺の手を取って言った。

「困ったとき、呼んで下さい。助けます」

 俺はアンドロイドの微笑みに何度もうなずき、表示された文字をそのまま電子メモに保存して網膜モニタの隅に貼り付けると、妄想を膨らませながらビルへ急いだ。

 ビルに到着するまでは十五分もかかってしまった。ビルの玄関先に立って呼吸を整え、買ってきたスポーツドリンクを口に含む。ビルは長期間放置されていたらしく、壁の表面を有機コンクリートが自己修復を行っている。だが、あまりにも壊れた箇所が多過ぎるせいか、補修機能が暴走気味で壁面を大量の蛇が蠢いているように見えてしまう。玄関には立入禁止の掲示もなく、プラスチック製の窓の向こうに見える廊下にも人影は見えない。さすがに廃ビルなだけあって、玄関のマットを踏んでもドアが動く様子はない。

 だが、ドアに手を掛けて横に押すと軽く開いた。敷居を観察すると周辺だけ有機コンクリートが真新しい光沢を放っている。俺はさらに息を殺してビルへ足を踏み入れた。一歩進むたびに足音が建物内に響く気がする。こんな気を使って歩くなんて大人になってからは初めてだ。背中に嫌な汗が流れてくる。首筋にかいた汗が鎖を辿りペンダントを湿らせる。いつもの癖で確認しかけ、この建物を調べ終えるまでは我慢しようと思い直す。

 五階建てだというのに奥までエレベータはなく、いきなり階段が現れた。俺は溜息をつきながら階段に足を掛け、すぐ動きを止めた。エレベータが止まっているのではない。この建物は老朽化どころか、建てられた当初からエレベータは設置されたことがないのだ。なぜ。エレベータを使わない人間のビルだから。それは自然教徒、あとはリアルワーク。

 俺は上りかけた階段から足を下ろした。まずい。この建物は初めからリアルワーク専用の建物だったのかもしれない。いや、そもそもここは廃ビルなのか。本当に休業なのか。

「回転が速いですね、電脳労働者のわりには」

 背後から声が聞こえた。振り返ると、三つ揃えのスーツを着込み接続リングを頭に嵌めた長身の男が立っている。彼の襟には高天原管理局を示す蜘蛛の巣の紋章が輝いていた。

「そんな顔は止めて欲しいですね。私たちリアルワークもあなたと同じ人類ですから」

 男は接続リングのダイヤルを回す。すると四方の壁から蜘蛛の糸のような光ファイバー線が現れ、接続リングへと吸い込まれた。

「あなたは自身の視覚、聴覚情報を全てネットノートに記録しているのでしょう。ただのバッグにしては内部が無駄に高温です」

 既に俺の情報が読まれて解析されている。俺は男に向かい合ったまま、体を少しずつ廊下の方にずらしていく。だが男は嫌な笑みを浮かべてまた接続リングに手を伸ばした。

「立入禁止の看板がなくても、勝手に立ち入るのは不法侵入ですよ。まあ、入ったことを忘れてしまえばなかったことになりますが」

 俺の頭に蜘蛛の糸が襲いかかった。振り払っても男は面白そうに俺を眺めるだけだ。糸が俺の接続ダイヤルに触れた。頭の中から爪で引っ搔かれたような激痛が走る。俺は拳骨を握りしめた。だが男は余裕で俺の拳を片手で包み込み、小馬鹿にした調子で言った。

「すぐに終わります。大人しくワークネットの中で真面目に生きていれば良かったのに」

 視界が歪み、風景が赤く変色していく。記憶が消されるというのか。それともまさか、殺されるのか。だったらせめて、アンドロイドではない本物の那美さんに会いたかった。

 那美、と俺は初めて名前を呼んだ。すると男は怪訝な表情を浮かべ、そして急に目を見開くと俺の背後に目を向けた。桃の香りが部屋に漂う。痛みが抜けて目の前が再び有機コンクリートの色に戻る。俺は膝を折ったが、這いずって男から離れると玄関に向かった。

「間に合いましたね」

 頭の上から聞き慣れた声が聞こえる。コンビニの制服の袖が視界に入った。顔を上げると、いつものアンドロイドが微笑んでいた。アンドロイドは俺を跨いで手を男に伸ばす。男は逃げようとしていきなり倒れ込んだ。アンドロイドの右手から、男が放ったものと同じ蜘蛛の糸が男に向かって吹き流れていた。蜘蛛の糸は男の頭を包み込み、小さな呻き声が聞こえ、男はそのまま動かなくなった。

 途端、それまで蠢いていた有機コンクリートの動きが停止した。アンドロイドは急に表情を喪うと俺の肩に腕を差し入れて体を引き上げ、やっといつもの微笑みを向けた。

「話は後で説明します。逃げましょう」

 言われて俺はうなずく。アンドロイドなのに人間並みの体温が俺の胸を温めてくる。首筋からはほんのりと桃の香水が香った。本当にこれはアンドロイドなのだろうか。あらためて頭を確認した。やはり人間ではなくアンドロイドの接続リングが輝いている。それでもアンドロイドから伝わる体温のせいか、俺は開き気味の襟元を覗き込んでしまった。

 しかし期待を忘れさせる物が胸元にあった。俺のものと同型で桃色のペンダントが首に掛けられていたのだ。アンドロイドは見透かしたように笑いながら玄関のドアを開けた。

「まずはリニアカーに乗りましょう」

 俺は玄関にあったリニアカーに押し込まれる。次いでアンドロイドが隣の席に座る。アンドロイドは操作盤に触れ、リニアカーが走りだした。振り返ると先ほどのビルが小さく粉塵を飛ばしながら崩壊し始めていた。


 リニアカーはすぐに長距離走行に入った。バッグを開けてみるとネットノートは完全に沈黙していた。たぶん先ほどの会話も全て消されているのだろう。アンドロイドはそんな俺の膝に、おでんのパックを置いて言った。

「とりあえず、お疲れ様でした」

 俺はうなずいたが、そのまま沈黙する。アンドロイドは俺をじっと見つめて言った。

「おでんは好きでしたよね」

「そうじゃなく、あんたも奴も何者だ」

 アンドロイドは人間のように溜息をつくと俺をじっと見つめて言った。

「あの人はネオ・アマテラス・プロジェクトを推進している高天原管理局のリアルワークの一人です。そして私は、対立者です」

「あんたも、正体はリアルワークなのか」

「むしろ全く逆の存在です。私自身にとっては、現実世界などというものは存在しない」

 アンドロイドは力なく首を振る。那美さんは病気か何かで体を動かせないのだろうか。

「たぶん、あなたの想像の外。そして、それは口で説明しても理解してもらえません」

 俺はおでんを手に持ったまま曖昧にうなずいた。確かに助けては貰ったけれど、このタイミングの良さとアンドロイドの特殊性を考えれば、さっきの男と仲間かもしれない。だが、すぐに俺は笑いたくなった。もしそうだとしたら、開店当初から俺がスパイになるとわかっていたというのか。だが俺の課長は陰謀なんてできる人間じゃない。善人と言うよりは、陰謀を巡らせている間に綻びを出して露見する種類の人間だ。そもそも、これだけ大掛かりな罠に嵌めて確保するほどの価値が俺にあるなんて思い上がりに近い。

 アンドロイドが再び俺の手元を見つめていた。俺は仕方なくおでんパックを開ける。中には店にあるほとんどの種類が入っていた。

「ちょっと多くないか?」

「嫌いな物があっても良いように多種類で。運動量に合わせ少しカロリーを上げました」

 合理的なようで大ざっぱな答えが返ってくる。俺は苦笑しておでんを食べ始めた。襲われた直後だったせいで少し胃に堪えるが、ただのコンビニおでんのはずなのにやたらと旨い。蕗の歯応えがうろたえてばかりの脳を落ち着かせてくれた。巾着餅を噛みしめ、口の中に広がった熱い汁が喉を通っていくと、今の生きている時間を実感してしまう。先ほどの男から受けた頭痛を思い出し、嫌な記憶を頭の隅に追いやって器の汁を必死で啜る。

 横からの視線に気づいた。無表情のアンドロイドが俺をじっと見つめているのだ。何、と俺は声をかける。アンドロイドは呟いた。

「羨ましいな」

 アンドロイドの視線がおでんパックの方に向いた。おでんパックを俺から受け取り、口元まで持っていって口を開け、首をかしげる。

「今度会うとき、那美さんに持って行くよ」

 俺は少し格好つけた気分で言った。だがアンドロイドは冷たい表情のまま言った。

「私の体は、おでんを食べられない」

 俺は慌てて窓の外に目を逸らした。そういえばさっき、私にとって現実世界は存在しない、と言われたばかりだ。やはり那美さんは病気なのだろうか。だが、それにしては妙に怪しげな陰謀に関わっている。俺は疑念を脇に置いて外の風景を眺めた。おでんを食べている間に速度が緩んだ様子はない。それどころか、操作モニタの目的地表示欄は未定のままで、アンドロイドも手動操作は全くしていないのに、迷いもせず走行しているのだ。

「私が、私のいる場所まで直接誘導しています。厳密に言えばその場所でも存在するとは言い難いのですが、便宜上は私の場所です」

 首をかしげる俺に構わず、アンドロイドは胸元からペンダントを取り出して続ける。

「あなたの持っているペンダントについて、あなたの先祖から伝わっている話は」

 俺はただ、大物の電子計算機学者だった先祖の話をした。アマテラス・システムの構築者の話だ。アンドロイドはうなずいた。

「淡路凪ですね。疑似人格のシミュレーションについて多くの論文を発表していました」

「詳しいね。さすが計算機科学史専攻だね」

 驚きの声を上げると、アンドロイドは小さく笑ってから表情を戻し、唐突に告げた。

「私はネオ・アマテラス・プロジェクトの対立者ですから、今より新伊勢に入ります」

 確かに、リニアカーのモニタはぽっかりと黒く塗り潰された新伊勢へ突き進んでいた。日本は地震が多いため、政府は最も耐震性の高い地区にアマテラス・システム全体の中でも分散処理が困難な中枢部を据え、アマテラスにちなんで新伊勢と名付けている。だから新伊勢は立入禁止で地区内の地図すら国家機密だ。俺は焦って操作盤に手を伸ばす。

「大丈夫です。この車両には既に新伊勢への臨時通行許可を発行しています」

 アンドロイドは小さく笑うと窓の外を指差した。行く先の信号は全て青色を点灯しており、前を走行していたリニアカーが次々と道を譲っていく。新伊勢に近づくに従って現れるゲートはリニアカーが近づくだけで開放されていく。

 車両が速度を緩めた。行く先には高い壁が聳えており、中を窺うことはできない。だが車両は壁に向かって突き進む。壁は真新しい有機コンクリートだが入り口は見当たらない。

 壁の周囲には赤色の運動服を纏った集団が寄り集まって看板を掲げながら何か叫んでいた。看板は古代人のように手書きの文字で、補助アンドロイドすら傍らに置いていない。

「自然教徒が取り囲んでいるぞ。どうする」

「そんなに自然に帰りたいなら、自分で畑を耕せば良い。自ら病気を施療すれば良い」

 アンドロイドは乱暴なことを呟いて沈黙する。こんな独り言まで送信するなんて馬鹿げたシステムがあるのだろうか。本当にこのアンドロイドは半制御型なのだろうか。

 アンドロイドはリニアカーの操作盤に手を伸ばした。自然教徒なら駆け寄れるほどの速度に緩んだ。アンドロイドは俺のペンダントをつつくと薄い笑みを浮かべる。壁を前にしてリニアカーが停止した。アンドロイドはリニアカーから降りる。俺も転げるように降りると、アンドロイドの後に続いた。

 自然教徒が焦点の合わない視線で俺たちに振り向いた。掲げていた看板を俺たちに向ける。太い腕は日焼けしており、看板を握り直すたびに筋肉が膨らむ。補助装置もなく大きな荷物を持ち上げていた。普段なら原始人だと笑い飛ばしている対象が、鈍器を持って俺たちを取り囲んでいた。だが、アンドロイドはその屈強な者たちの先頭に立つ男を指差して告げた。

「高天原の神官も愚かですが、アマテラス・システムを否定する者も半端者たちですね」

「我々の修練が半端であると申すか」

「言いますよ。あなた方が毎日行っているトレーニング計画は、誰が策定していますか」

 男は目を逸らして沈黙する。アンドロイドは自分の額にある、アンドロイド用の赤い接続リンクを指でつつきながら言った。

「これは筐体制御用のリングです。皆さんは逆に、アンドロイドや電子機器を制御できる接続リングを頭に嵌めていますね」

 全員が顔を不安げに見合わせて額に手を当てる。アンドロイドは小さく笑って続けた。

「でも今、あなた方はワークネットに接続するでもなく、リアルワークのように外部から機械を制御するわけでもなく、情報取得のためにのみ、接続リングを頭に嵌めている」

 俺は手を伸ばした。だが止める間もなく、アンドロイドは教徒に言葉を投げつけた。

「何かを制御することもなく、アマテラス・システムと教祖から与えられた情報で動くお前たちなど、この完成された筐体以下です」

 アンドロイドは誇らしげに薄い胸を張り、小さい体の癖に彼らを見下ろす仕草をした。一瞬の沈黙のあと、教徒が俺たちに一斉に襲いかかってきた。だがアンドロイドは俺を左腕で抱き、空いた右腕を振り上げる。胸から桃の香水が強く香り、次いで右手から現れた大量の蜘蛛の糸が自然教徒に襲いかかった。

 次々と接続ダイヤルが強制切断側に回される。俺はアンドロイドを突き飛ばして逃れようとした。だが俺の腕力では外せない。自然教徒たちが半狂乱になって転げ回る。俺の腰に回された左腕が小刻みに震えていた。

 アンドロイドが声を殺して笑っていた。

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