文芸船

荒ぶる神々

 神殿から届いた奉仕召集の通知を眺め、僕は溜息をついた。男で二十七歳になれば遺伝的な病因体質の持ち主でもない限り奉仕召集がかかることは常識なのだが、こうして実際に通知を手にすると気が滅入ってしまう。

 ネットで「神殿 奉仕」をキーワードに検索すると、小中学校で習った通りの情報が画面に並ぶだけだ。顔を含め全身を覆う奉仕服を眺めて僕はまた眉を顰める。掲示板を探ると「奉仕服を着ずに天罰覿面」というトピックが見つかった。中を読むとなるほど、何人も天罰を受けた人たちやその友人らのコメントが載っており、長く苦しんでいる人や死んでしまったという話もある。読み進めるうちに指先の震えが止まらなくなってくる。僕は考えることも嫌になって掲示板の閲覧を止めた。

 百年ほど前、現在の大神殿に神が突如として降り立ったのだという。それと同時に大災害により政府機能が麻痺、そして神殿革命ときて今に至るそうだ。どこまでが本当なのかわからないが、とにかく荒ぶる神々は神殿に居る。計五十四柱の神々が全国に座し、それらの神殿への奉仕活動が我々神民の義務となっている。

 こう言うとまるで徴兵で戦争に行くかのように聞こえるかもしれない。もちろん規律はかなり厳しい上、とくに奉仕服の着用については極端に厳格だが、作業内容は神殿内の掃除や運搬作業が主で、奉仕服さえ着ていれば殉職はほとんど無いと聞いている。

 だが、ほとんどという言い回しは曲者で、殉職の多くは奉仕服にまつわる内容だという。奉仕服と儀礼について神々は執拗な性格で、少しでも破ると天罰を受ける。即起きる天罰もあれば数年後に当たることもある。

 神々は神託の力を政府に与えているのだという。また神々への奉仕を怠った時期には神罰が神民に下り、政権が転覆したことすらあるそうだ。だが前神殿期、つまり神々が降り立つ以前の時代の話になると情報を検索しても全て記述が曖昧で、まとめられた情報は神殿か政府の関係者にしか開示されていない上、地方に残っているはずの古文書の多くも大災害で散逸してしまったのでほとんど知ることはできない。

 ただとにかく、この百年もの間どんな政権になろうと神殿の力は絶対で、神殿奉仕は不景気だろうが戦争になろうが絶対に続けられてきた。それほど神殿への奉仕はこの国で最も大切な国民の義務なのだ。ネットで検索した情報を見ているだけでも煩わしいとは思うが、親戚が集まる法事の席や上司と話す限り、神殿奉仕を通らないうちは学生に毛が生えた程度にしか思われていないことが言葉の端々に感じられる。

 僕は二度目の成人式に向かうような気持ちで、改めて奉仕召集通知書を机の引き出しにしまい込んだ。


 神殿奉仕の一週間前になり、僕は高校時代から世話になっている先輩の水原さんに声をかけた。水原さんは長身とはいえ細い体型から一見大人しい女性とみられがちだが、実はかなりの男勝りな性質の頑固な人で僕たち後輩は随分と振り回されたものだ。とはいえ頼りになる姉御肌なので、何となく会っておきたくなったのだ。

 水原さんの指定したバーは車道に面した正面がガラス張りで木調のひっそりとした店で、奥で既にカクテルグラスを傾けている水原さんが見えた。扉を押すと、水原さんは緩い笑顔を向けて僕を手招きした。隣に座って神殿奉仕の件を報告すると、水原さんは感動の薄い声で適当な相槌を打ち、神殿で体壊すと大変だよ、と不景気な言葉を最後に付け加えた。当然の不満を口にしかけた僕に水原さんは呟くように答える。

「私は正直、神殿が嫌いだから」

 先輩は大学では歴史学を専攻して前神殿期末期、旧年号で言えば昭和時代末期から平成時代辺りを中心に研究し、つい最近博士論文を書き上げたそうだ。高校で地層辺りの成績が良かったというだけで地球科学の地質学を専攻したら、結局は中古車の営業マンをやっている僕とは大違いだ。先輩の経歴を考えると、先輩の言葉が単純に好き嫌いだけではないように思えて不安が募る。

「先輩が嫌いなのって単純に権力とか、ですよね」

 だが先輩は僕から視線を逸らし、手元のマティーニを一息に呷って言った。

「あんたさ、神殿に参拝した経験ある?」

 参拝と言われて僕は何を言われたのか全く理解できなかった。だがすぐに思い至って吹き出してしまう。

「水原さん、神殿に参拝なんて神官と政府高官以外に認められていないじゃないですか。あるわけないでしょ」

 だが水原さんは未だ真面目な顔で言葉を続けた。

「古代文明からこの方、多くの宗教が現れて広がり、その幾つかは滅びていったよ。でもね」

 言葉を切ると、水原さんは僕のグラスを指差す。僕は慌ててカシスソーダを少しストローで吸った。少しだけ酔いが回る。水原さんは更に視線をきつくして続けた。

「神殿とか仏閣とか、そういった施設への参拝を全く認めない宗教なんて『神殿』以外には聞いたことがない」

 確かにそうだ。僕も前神殿期から続く神社や寺に行くことはあっても神殿に行くことはない。だが神殿に言わせれば、どの宗教への祈りも全ては神殿に通じるということになっているはずだ。

「それが妙だと言っているの。そんな他宗教にただ乗りする宗教なんて過去に全く無いわけ。前神殿期には宗教で戦争すら起きていたのに。神殿って本当は何だろ」

 出かける間際にこんなことを言われるとかなり不安になる。だが水原さんは僕の顔をじっと見つめた。

「君のことが心配だから言っているの。女人禁制とか病人は穢れが混じるから免除とか確かに宗教臭いけど、神殿は絶対に単純な宗教なんかじゃない」

 水原さんは携帯端末を取り出し、画面に数枚の映像を表示した。神殿の写真だ。更にその写真を指でタップしていくと、この百年間で変わってきた神殿の写真がテーブル上に小さく並んで投影されていく。そして水原さんは最後の写真をタップすると三次元映像に切り替えた。

 テーブルに神域のミニチュアが立ち上がる。先輩はその中心に立つ箱を黙って指差した。それはビルと同じぐらいの大きさで、神官しか近寄れない「聖櫃」だった。

「なぜ神々は降臨して即座に何の言葉も無く我々へ天罰を振り撒き、聖櫃に籠ったのか」

 僕はすぐに高校入試を思い出しながら答える。

「我々が堕落していたので聖火により穢れを焼き払い、穢れの残渣を嫌って岩戸たる聖櫃にお籠りになった」

 先輩はいかにも偉そうな態度で頷き、再びマティーニを注文して質問を続けた。

「では何故、神官たちは神々の意向を知り即座に聖櫃とそれを護る神殿を建造し始めたのか」

「それは初代大神官が神託を聞いたから、でしょ?」

 先輩は届いたマティーニのオリーブを口に含んで目をつぶり、僕の頰を指でつついた。

「さすが優等生。本当に優等生な答えね。でも、その全ては神殿が編纂した神代記からの抜粋だけ。他に文献の証拠は何も無いの。反証も無いけど」

 僕は急に喉が渇いた気がして、慌ててカシスソーダを半分ほど飲み干した。アルコールのせいだろうか、少し気分が悪い。だが先輩は携帯端末に映った写真を人指し指で弾きながら話を続けた。

「ここだけの話ね。聖櫃ってまともな建造物と言うより突貫工事のコンクリートの塊に見えるの。それからもう一つ。初代の神官の中で神々と直接交渉する神官たちは全員、神官になる前は科学技術関係者らしいの」

 目の前に表示されている聖櫃が何か黒い靄でも纏っているような錯覚を急に憶える。水原さんは顔をしかめながらマティーニを一息に飲み干し、僕の指先に触れた。

「向こうに行ったら普通に振る舞って。でも、神様だと思って盲信しないで。もし神様だと信じたくても『荒ぶる神々』なんだからなるべく関わらないで」

 きっとこれは水原さんなりの優しさだ。僕は不安を募らせながらも水原さんの指を握り返した。


 朝起きると約束通り、玄関に白い神官服を着た下級神官が待っていた。僕は最低限の荷物を持って神官の後に続いた。三分ほど歩くと商店の駐車場に銀色の大型バスが待機しており、神官の合図でバスのドアが開いた。

 気合いを入れるつもりで勢いよく乗り込むと、肩に提げたバッグをドアにぶつけてしまった。だが普通のバスと異なり、異様に重たく響きが無い。車のドアは中が中空になっており、太鼓とは言わないまでも少しは響くはずなのに、まるで中まで金属が詰まっているようだ。

「神は軽く薄い金属を嫌うのです。そう、軽佻浮薄な者に対する戒めの意思と言えるでしょう」

 神官は言って造り物のような笑顔を向ける。僕は肩をすくめ、気をつけます、とだけ答えて席についた。

 バスは鞄を開ける暇も無く静かに動き始めた。バスの席は三列に分かれており、一人に一席ずつとなっているため隣の席の人と肘がぶつかったりすることもなく案外と快適な席だ。周囲を見回すとほとんどの人が硬い表情で黙っており、他は眠っているようで雑談をできる雰囲気ではない。だいたい、バスガイドのように立っている下級神官も無表情に沈黙したまま、ひたすらこちらを見つめているのだから雑談しようとは思えない。

 仕方なく席の周りを見回すと、前の席の背もたれに神殿の写真が載ったパンフレットが差してあった。中身はやはりネットの情報と同じような通り一遍の内容で、少し違う点は神殿内の居住設備が詳しく書かれていたことと神殿内売店の商品リストがあったぐらいだ。但し売店で買った商品は全て持ち出し不可だというのだから、高価なものは買えないしお土産すらも無理なようだ。僕も周りを真似てパンフレットを戻して目を閉じた。

 神殿の門に到着すると、バスは門の前にある大きな駐車場に入った。僕たちは神官とともに降り、沐浴室と看板の書かれた部屋に通された。

「ここより世俗の服装及び所持品は一切禁止です。個人の常備薬は事前聴取に従って配布します。また、衣服についてはここで配布するものに着替えて下さい」

 バスにいた神官が説明し、待機していた神官が一人ずつ名前を確認しては袋を渡していく。受け取って中身を確認したところ神官服に似た白い作業服と、バッジらしきものが入っていた。神官はバッジを頭の上に掲げて見せると実際に胸に付けながら説明した。

「これは神の怒りを知らせてくれる有り難い神器です。色が変化した際や音が鳴り響いた場合、即座に作業を中止して神官の指示を仰ぐようにして下さい」

 僕たちは作業服に着替え神器を胸に付けると一列に並んだ。神官は全員の服装とバッジを確認してチェックリストに何か書き込んでから奥の壁に手を当てる。壁の一部に数字キーのボタンが現れ、手早く打ち込むと壁の一部が扉になって開いた。軽くこちらの空気が扉の方に吸い込まれていく。扉の向こうは再び壁になっている。

 僕たちは再び神官の後にについて扉の先に向かった。入った部屋は全面が白く塗装されており何も無い空き部屋だ。僕の隣にいた線の細い男が小さく呟いた。

「クリーンルームですね」

 首を傾げて訊き返すと男は緊張した面持ちで答えた。

「私は医者でして、大学では感染力の強い伝染病をかなり勉強していたのですよ。何だかその、菌を逃がさないようにする部屋に似ていると思いまして」

「菌を逃がさない、ですか」

「妙ですよね。我々の方が穢れているはずなのに、神殿の中から外へ何かを逃がさないような構造ですよ」

 男の硬い笑顔を横から眺めながら、バスの中で読んだパンフレットのことを思い出した。神殿内で買ったものは一切持ち出し禁止。神が穢れを嫌うことはわかるし、だから外部の物を持込禁止にすることも理解できる。しかしなぜ、神殿内の物を出さないようにするのだろう。

 神官が硬い表情で僕たちを見つめていることに気付いた。僕は慌てて隣の男から目を逸らす。だが神官は再び造り物の笑顔で説明した。

「皆さんの立っているこの場所、ここは既に準神域なのです。そしてこの扉の向こうこそは誠なる神域。聖と世俗は本来、みだりに交わってはならないのです」

 随分と曖昧で誤魔化しの混じったような説明だが、宗教論なんてどれもこんなものかもしれない。神官は僕たちを見回してうなずくと再び壁の数字キーに番号を入力する。扉がゆっくりと開くとその先には廊下が続いており、そのままバスの扉に接続していた。

 再びバスに乗り込むと先ほどとは異なるバスで、窓ガラスはクリスタルガラスの輝きを放っており座席以外は全てが先ほどより更に頑丈に造られているようだ。僕の会社は中古車ならバスまで扱う会社だが、こんな装甲車じみた車両は神殿の払い下げ品でも見たことが無い。

 バスは一直線の道路を再び進み始めた。道路の周囲には灌木が生い茂っているが観たことのない品種で、木々の間には幾つも若木が立ち枯れている。幾つか花も咲いている木もあったが、いずれも妙に毒々しい赤色をしており幹から直接、茎も無く咲いている。神域だというのに、むしろ禍々しさしか感じられない。

 バスは荒野の中をひたすら走り続けたが、一時間ほど経ってようやく新たな門が見えてきた。門は金属の鳥居に扉が付いたような形をしており、バスが近づくとゆっくりと内側へ開く。門の向こうにはようやく神殿の姿が見えたが、僕はまだ不安しか湧き立たなかった。


 神殿に着くと全員に奉仕服が与えられ、神官から着方や脱ぎ方について細かい指導を受けた。実際に着てみたところ布と布の間には薄い金属板が仕込まれており、少し着ているだけなのに体が蒸れてくる。鏡に映してみると宇宙服に似ているが、口元にはフィルター付きのマスクが付けられている。このマスクも初めて経験するほど息苦しいもので、軽い単純作業でもかなりきつそうだ。

 だが今日は到着日ということもあり、奉仕服はそのまま置いて休憩時間になった。自室に向かう途中、頭に天声器を付けた男とすれ違った。天声器は神代記や神殿教義の学習機械で、小中学校でよく使われている教材の一つだ。怪訝に思って隣の男と話そうとすると、神官がわかっていた様子で言った。

「この場所は神殿内なので、あまりに教義を理解していない方には再学習をしてもらっています。別に試験や罰があるわけではなく、職場研修みたいなものですよ」

 珍しく神官は柔らかい表情で私たちに説明した。だがその態度は逆に曖昧な不安を掻きたててしまう。神官は私たちの気配に少し困った表情で付け加えた。

「あまりに態度の悪い人には罰として天声器学習を受けさせますよ。でも多くは単なる勉強不足ですから」

 勉強不足という言葉と同時に誰かの盛大な溜息が廊下に響きわたる。バスに乗ってから初めて、僕たち奉仕者と神官の全員が一緒に笑いあった。


 先ほど言葉を交わした医師と僕は隣室になった。部屋はかなり広くテレビやオーディオも揃っている。本棚に何冊か入っている本は、全て神殿がまとめた歴史書である神代記とその解説書のみだった。

 僕はベッドに寝そべって明日以降を思い浮かべた。何故かここに来る前に握った水原さんの指先を思い出してくすぐったい気分になり、僕は布団を被った。

「少しよろしいですか」

 急にドアの外に声が聞こえた。起き上がって開けると例の医師が立っている。招き入れると医師はベッドに目を遣って気まずそうな表情を浮かべる。僕は気にしないよう手を振って応え、手近な椅子を勧めた。

「少し、外を探検しませんか」

 僕は首を傾げる。彼は神官と交渉し、この宿舎周辺の散歩見学を認められたのだという。もちろん、例の奉仕服着用の上で、という条件付きだが。それに仕事はかなりきつく、到着後一週間は散歩など無理だという。それなら今のうちにという提案だ。僕も先ほどの妙な感傷を振り払いたくなり、彼の提案に乗ることにした。

 僕たちは奉仕服を着込み、部屋の外で待機していた神官に奉仕服の着方を確認してもらうと、ようやく宿舎の外へと向かった。外の空気を吸って、と言いたいところだが奉仕服はマスク越しなので、室内の空気と何も変わらない。こうして考えると、やはり僕たち穢れから神を護ると言うより、僕たちを神に触れないように遮断しているような気がする。

 僕たちは神官の案内に従って外を歩き始めた。医師は元々アウトドアが趣味だそうで、海か山に行ってみたいとせがんだ。だが神官は渋い顔をして盛んに神殿を眺めたらどうかなどと言う。それでも結局は神官が折れ、山は無理なので代わりに近くの丘へ向かうことになった。

 二十分ほど歩いただろうか、重い奉仕服のせいで僕も医師も息が上がり始めた。神官は笑ってやはり戻ってはどうかと言うが、僕たちは意地になって歩き続けた。

 ようやく丘を登ると、眼下に神殿と宿舎、それに何かわからない幾つかの施設が見える。だがそれ以外はほとんど何も無い荒れ地になっていた。

「聖域の広さに驚きましたか。聖域は神々の庭園なのでそれなりの広さが必要なのですよ」

 神官は庭園と言うが、常識的に言えば荒れ地に悪意を持って妙な植物だけ選んで植えたような土地だ。

 近くに見える灌木はバスから見えた木々と同じく見慣れない品種ばかりで、妙な角度に枝葉が伸びており暗紅色をした八重の花はやはりどれも幹から咲いている。遠くの林は色褪せたような白い葉が密集しており、人工林にしては複数の樹種が混じっており、天然林としてもあまりに乱雑で、童話に出てくる森の魔女すら逃げ出してしまいそうな狂気すら感じてしまう。また、林に向かってコンクリート護岸で囲われた川が流れているが、これも土砂とは異なる蒼褪めた濁りの光を湛えており、到底魚釣りなどする気も起きない。もしこの土地を美しい庭園と呼ぶのなら、ここに座す神は僕たちとは全く異なる感性の持ち主だ。聖なるという言葉が白々しく思え、僕にはむしろ病んだ死の匂いしか感じられない。医師も僕と似た感想らしく不機嫌な表情を浮かべているが、神官だけはあの完成した笑顔を絶やさない。

「あまり見かけない樹木ですね。趣味でハイキングは随分していますが、日本にこんな樹木はあったでしょうか」

 医師の言葉に、神官は全く表情を変えずに答える。

「それこそが神域たる所以ですね。神に選ばれた者たちが住まう聖なる土地に、短期間とはいえ奉仕する名誉ですよ」

 全ては神の御心に、と呟くように言って神官は聖櫃の方向に向かって手を合わせる。だが僕も医師も顔をしかめたまま神官の背中を見つめるだけだ。

 三人の間にある妙な空気は更に気まずくなってきた。何より奉仕服の暑さは異常だった。丘の上は何の遮蔽物もなく、降り注ぐ陽光で暑さが酷くなっていく。

「そろそろ帰らないと熱射病になるね」

 医師の言葉にうなずき、僕は足を踏み出した。ほんの少し歩いただけで動悸が激しい。頭痛がしてくる。医師の言うとおり熱射病になったのだろうか。

 危ない、と神官が叫んだ。僕はいきなり足を踏み外し、丘の道を外れて小さな崖を転がり落ちた。だが幸い崖は僕の背丈ほどしか無かったうえ、奉仕服の厚さのおかげかほとんど痛みも無く地面に辿り着いた。

 神官は上から不安そうに安否を呼びかけてくる。僕は立ち上がると両腕で大きく丸を作って答えた。神官は安心した様子で、自力で上がられそうか訊いてきた。

 僕は登られそうな箇所を探して崖を眺めた。小さな崖の割に地層がはっきりと見てとれ、学生時代に地質学をやっていた身としては何だか興味が湧いてくる。僕は登り口を探しながら地層を観察し始めた。一分ほど観ているうち、この場所は切り開いたり風化したりして現れた崖地ではなく、過去に大地震でずれた断層の一部だということに気付いた。

「この場所って昔、大地震があったんですね」

 僕の何気ない質問に、神官の態度が豹変した。

「何を見ているのですか。今すぐ登りなさい!」

 僕は腹立ち紛れに崖を蹴り、神殿を睨みつけた。仕事ではなく一応は奉仕活動なのだから、少しぐらい面白みがあっても良いはずだ。崖を観察しながら僕は学生時代の実験を思い返した。そういえば、初めての年代測定実験も似たような場所の土壌だった。放射線同位体の名前は何だったろう。営業マンが長すぎて細かいことを忘れてしまっている。

 ふと何かが引っ掛かった。改めて崖を見る。次いで神殿に目を向ける。放射線。大地震。外界と遮断された聖域。コンクリートで出来た聖櫃。元科学技術者ばかりの神官。天罰という名の大災害。奇妙な木々と不気味な川。

 僕は胸の神器に触れた。これは本当に神器なのか。何かの検出器ではないのか。そういえば、年代測定の基礎教養で教授が掲げていた検出器は神器と同じような形をしていた。先ほど思い浮かんだ幾つかの言葉が一つの黒い線で結ばれていく。もし、聖櫃の中にいる「神」が放射線事故を引き起こす何か、巨大な装置だとしたら。

 何故か水原さんの焦った声が聞こえた気がして、僕は慌てて崖を仰いだ。だが崖の上に医師の姿は無く、天声器を掲げながら歯を剝きだして笑う高齢の神官と無表情の屈強な神官たちが僕をじっと見下ろしていた。

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