文芸船

僕は泣けない

「会おうね、ここで」

 約束して別れた。今から三年前。でも、もう会えない。

 ほんの一瞬だった。車が接触して宙に浮いて。

 それっきり。

 でも、僕は葬儀すら終わっても最後まで泣かなかった。泣けなくなっていた。涙を忘れた。泣き方すら思い出せなかった。

 僕は泣けない。


 康夫は帰省の切符を眺めながら、三回忌か、と呟く。智が交通事故で亡くなって既に三年だ。康夫は当然のように、三回忌に行くのか訊いてきた。僕は忘れていたように曖昧に首を傾ける。康夫は少し苛立った声で繰り返した。

「だから、三回忌。行くのか」

 それでも僕は曖昧にしか答えを返せない。康夫は、本当にお前は、と呟いて溜息をついた。たしかに康夫の言うとおりだ。僕は智が亡くなったとき、最後まで泣かなかったただ独りの人間だ。でもそんな僕なのに智を忘れられない。もちろん他の娘に興味がないなんて言ったら嘘だ。けれど智はそんなんじゃなく。

 やっぱり、智は智だ。

「最期に一緒だったの、お前だよな。なに話したんだっけ?」

 また会おうねだった、と僕は答える。康夫は頰を歪めると再び溜息をついた。

 そもそもこの三年間、色々と理由をつけて実家には帰っていないのだ。とくに家族と仲が悪いわけではない。むしろ自分でも、反抗期のほとんどなかった方だと思うし、両親にも申し訳ない気はする。でも、僕は実家に帰りたくないのだ。故郷に帰れば馴染んだものが沢山あるだろう。懐かしい仲間たちにも会えるのだろう。それにはどれも、智の匂いがするはずだ。でも、そこに智だけはいない。いないことを突きつけられるのが怖いのだ。智にいて欲しい。いるはずだと思いたい。そんな僕には、故郷の風景はあまりに残酷だと思う。

 たぶん、心療内科などに行けば何か対応をしてくれるのかもしれない。実際、心理学専攻の友人は僕に簡単な検査を行って助言を与えてくれた。だがそれも、僕にとってはむしろ負担になるだけだった。もしあのとき、ちょっと声を掛けていたのなら。違う場所で会っていたのなら。だが、そのような仮定の話など何の役にも立たない。

 時折、夢の中で智に会うことがある。また会おうね、そう言って、テレビのスイッチを消したように智の姿が消える。そして僕は飛び起きる。それでも僕は泣けないのだ。僕は智のために、泣く資格すらないのだ。それでも僕は。

 僕は智を過去にはできない。


 それでも結局は僕も帰省の切符を買った。この点は康夫に感謝したいと思う。もし康夫が僕と同じ大学に進学していなければ、僕はきっと三回忌に出ようとしなかったから。

 大学が平地の多い土地柄のせいか、以前なら簡単に駆け上がった坂がつらく思える。わずかな時が僕をよそ者に変えていた。でも、目に映る風景には何も変化がない。立ち食い蕎麦よりも速く蕎麦が出せることだけが自慢の不味い蕎麦屋も、庇に小さな破れが出来ただけで健在だ。僕らが通っていたゲームセンターは、不景気に空咳をしている男が相変わらずカウンターに座っている。小学校の頃に敵の基地に見立てた木造の廃屋も、さらに傾いてはいるもののそのままだった。

 だから、三回忌はまるで同窓会だった。おそらく僕以外のみんなも、多かれ少なかれ僕と同じように風景や友達が懐かしかったのだろう。でも。智と話す奴なんて誰もいなかった。智は皆が集まるための口実でしかなかった。誰一人泣いたり悲しそうにしたりしなかった。

 智はかわいそうだったな、と康夫たちは沈痛な表情で言ったりしている。でもそんなことを言っている彼らにとって、智のいないここの風景は当然の馴染んだ風景のようだった。もう智は風化しているのだ。

 僕でも風化しているだろうか。違うと言い切れないもどかしさ。胸がちりっとした。それでも酒席は華やかさを増していく。

「さ、これからが本番だ!」

 康夫が叫んだ。一斉に声が挙がる。僕はそっと抜けだす。もう沢山だ。場所を変えたかった。いや、彼らのいないとこならどこでも良かった。

 夜の街をふらつく。高校以来離れたせいで、実家のくせに馴染みの店なんてあるわけがない。しかし、一見で入るには心の敷居が高すぎた。あてなんてなかった。ただ闇雲に歩き回った。

 ふと一軒の店に目が止まる。「チャイルド」というカクテルバー。一度だけ来たことがある。高校も卒業だからと、思い切って背伸びして智と入った、再会予定の店。そのくせ真面目な智はノンアルコールカクテルを飲んでいた。そして翌日、智が逝ったのだ。

 窓を覗いてみた。あの日と同じマスターが独りグラスを磨いている。そっとドアを押した。カラン、と乾いた鈴の音が鳴る。端の席につく。マスターがカウンターに敷物を敷き球形の氷を浮かべた水を置く。メニューを差し出し、再びグラスを磨き始める。

 静かだった。音楽もかけていないすっきりとした店だ。暫くメニューに見入った。

「当店オリジナルは如何ですか」

 僕はちょっと考えてうなずく。マスターは手早くシェーカーを振り、カクテルを出す。桜色のカクテルだ。

「まだ名前がないんですよ」

 マスターの言葉に軽くあいづちを打って口にした。きついようで柔らかな、不思議なカクテルだった。でも、気がつくと簡単に飲み干してしまった。また一杯、テキーラサンライズを注文する。底に紅い酒が沈み上に白い酒がある、二層式のカクテルだ。

「日の出に似せたからサンライズ」

 突然の声に店内を見回すと、奥に年下らしき女が座っていた。顔は暗くて見えない。彼女はシンデレラ、と慣れた様子で注文を発した。僕は驚かされる。こんな馴れた声を出す人がノンアルコールのシンデレラを飲むだなんて不思議だったから。彼女は笑って答えた。

「まだ十八歳だから」

 独りでカクテルバーに来ている癖に、妙なところは堅い娘だ。ふと、お茶目なくせに変なところは堅物だった智のことを思い出してしまう。彼女は悪戯っぽく笑って続けた。

「でも、毎日来てるからカクテルの名前覚えちゃった」

 僕は毎日、と聞き返す。彼女はますます嬉しそうに待ち合わせなの、と答える。僕が首を傾げると、彼女はぽつりと言った。

「三年もだよ」

 まさか。だって智は。でも、この声と態度。それに、三年前。

「やっと来てくれたね」

 彼女は隣の席に座った。顔を寄せ。目が合った。そう、智。十八歳のまま。今の僕には子どもっぽい。けど、智。怖い気持ちが急に消え去った。

「逢いたかったの。約束したでしょ」

 僕は自然にうなずいた。智は新しく出されたカクテルをいつもの悪戯っぽい視線で僕に回した。一口だけ含んでみる。酔った体に心地良い。傍らには、僕を見つめる智。

「今日、私のこと仲間だって思ってくれてたの、あんただけだった」

「そんなのわかるの?」

「当然!」

 悪戯っぽく笑う。僕は黙って杯に口をつける。智はまた静かになる。

 話したいこと、もっとあるのに。けど黙っているのも素敵だ。ちょっと話し、黙って見つめる。そんな時間が過ぎていった。そしてマスターがラストオーダーを告げた。智は当然の顔で言った。

「吉井君、帰ろ」

 智は急ぐ様子で僕の手を引っ張る。僕は逆に智の手を抑えた。

「どこかもう少し違う店に行こう」

「これでおしまい」

 智は淋しそうな声で頭を振った。僕は諦め、椅子から立ち上がる。

「あ、その前にプレゼント忘れてた」

 智はポケットから小瓶を出して僕の体に中身を振りかける。

「何だい?」

 涙、と短く智は答えた。体が熱くなった気がする。でも、智はお構いなしに僕を引っ張ると店のドアを押した。


「吉井、吉井」

 呼ぶ声で意識が戻ると、目の前に康夫の顔。見回すと駐車場だった。何をやっているんだ、という康夫に、僕はチャイルドにいたはずだと答える。だが、康夫はさらに怪訝な声で答えた。

「チャイルドなんて三年前に潰れたよ。ここはその跡地だ」

 僕は何となく納得でき、黙って笑う。でも。頰を流れる、止めどなく溢れる涙。どんなに泣きたくても泣けなかった僕が泣いている。ただ内側から流れ出ていく。

「普段泣かないぶん泣き上戸か」

 納得する康夫に、僕は首を振った。

「智からのプレゼントだ」

「はあ?」

 康夫は首を傾げる。でも、僕はこれ以上何も答えず泣き続けた。

 僕は泣き続ける。

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