「テルア、酒」
ミナが空になった杯を突き出す。テルアはちょっと戸惑い、結局手元の酒瓶を手にした。初めてワインを口にしたときの後ろめたさをミナはもう欠片も感じていない。テルアが注ぐのもテキーラ。荒くれ者の酒だ。ふと剣を振り回したい衝動に駆られる。それが怖くて杯を一気に飲み干した。
もう駄目かな、とテルアに聞こえない声で呟く。嘔吐しそうな笑いがこみ上げた。不快さにまた杯を重ねた。喉の焼ける感覚が遠い。もう酔いは回りきっている。これ以上飲んだら倒れることはわかっているのに、まだ杯を干すのはやめられない。剣しか取り柄のない自分を見ているテルアの視線が恐ろしい。不愉快な酔いから逃れようとまた杯を空ける。
そんなミナへ斧を腰に下げた男が寄ってきた。彼は二人が南方に流れ着いたとき以来の友人だ。テルアの力にも薄々気付いてはいるが、南方は王家の力が及ばないので気にはしていない。
「おいミナ、また飲んでるのか」
「うるさいな。私がどう飲もうとあんたに関係ないでしょ?」
「俺はねえけど、テルアには大ありだろ」
男はテルアの肩を叩く。でもテルアは肩をすくめるだけだ。彼がいつもミナを心配していることはミナ自身もわかっている。だからなおさら杯から離れないのかもしれない。
「よく三年も男女のくせして何もないよな、お前ら」
「違うよ。もう二十年さ。ガートン、あんたにゃわかんないね」
自嘲気味に笑って杯をテルアに突き出した。でもテルアは注がない。ミナは腕を伸ばすとテルアから酒瓶を奪おうとした。しかしガートンの手がミナを押さえる。
「もうよせ。こいつは本気で心配してんだから」
「テルアのことは私が一番知ってんだから口挟まないで」
「だったらなおさらだ。飲むのはやめろ」
テルアに目をやる。胸が苦しくなる。きっと酒のせいだと思う。ミナはそう思うことに決めている。ガートンはテルアに向き直って囁いた。
「なあ、やっぱ何とかした方が良いんじゃねえか?」
「僕も医者だから。彼女のは大丈夫だよ」
「そういう意味じゃねえよ。お前の働いたぶんだってさあ」
「僕は構わない」
ガートンはちょっと考え込み、テルアの脇に腰を下ろした。
「あのさ、婆さんが具合悪いんだ。往診してくれるか?」
「良いけど、ミナを寝かせてからね」
ミナが完全につぶれている。ガートンはミナの飲んでいた酒瓶を手に取り溜息をついた。
「ここまで来たらやばいぜ、やっぱ」
「良いから。運ぶの手伝って」
テルアがミナの重い体を抱き上げた。ガートンは腰を落としてミナの剣を両手で持つと、テルアの後に続く。ミナをようやっとベッドに寝かせると、テルアは医療用の魔道具が入った鞄を手にした。二人はなんとなく互いに言葉を発さずにガートンの家に着いた。
「で、お婆さんは?」
「うちの婆さんなら温泉旅行中だよ」
テルアの戸惑いに、ガートンは肩をすくめて笑った。
「ミナの前じゃ話しにくいだろ?」
テルアは納得したようにうなずく。テルアはガートンの煎れたハーブティーの香りをその胸に吸い込む。肺が洗われたような気持ちになる。ちょっと口をつけ、話し始める。
「ガートン、やっぱミナの評判って下がってるわけ?」
「剣の腕だけは上がるからはっきり言って恐がられてるぜ」
「ミナは剣が仕事だよ」
「でもな、魔獣相手の戦い方はありゃ虐殺だぜ? 今じゃ『魔王の牙』って陰口叩いてる奴もいる」
テルアも衝撃を受ける。南方語で言う『魔王』は穢らわしいものに多用する言葉なのだ。人間に対して使うことなんてよほどでなければありえない。でも、テルアも気にはかけていたのだ。最近、ミナが「斬りたいな」という不気味な独り言を呟くことがあるので色々心配はしていたのだ。
「お前も腕のいい魔道医だから言われてるよ。『ミナに脅迫されてそばにいる』ってな。俺はお前らの仲がいいことはわかってるけど、他人から見たらそう見えてもしょうがねえよ」
「でも、ミナはちゃんと仕事してるよ」
「ちゃんと? あの稼ぎであんなに飲めるのか? 自分の酒代稼いでるだけじゃねえか。いくら格安で診療してるって言ったって、お前もう少し贅沢できるはずだろ?」
「それは研究費とか」
テルアは視線を逸らし、次いで白衣のつぎをそっと隠す。だがガートンは鼻で笑って言った。
「朝から晩まで医者やって、夜はミナの深酒に振り回されて、いつ研究してるんだよ」
テルアは言葉に詰まる。実際、最近はもう投げ出しつつあるのだ。南方にいる限り処刑はないし、医療魔法は相手を苦しめないから魔法を使っても苦痛はない。もちろん発作はあるが、それさえ我慢すれば済むことなのだ。少なくとも、テルアにはそう思えてきている。
(でも、ミナがかわいいって思えなくなりそうだ)
テルアは内心呟く。荒れたミナに暴力をふるわれたこともある。もちろんミナは泣いて謝ったけど、一度そういうことがあると壁を作ってしまう。テルアの様子を見て、ガートンは再び話し始めた。
「一度旅に出たらどうだ。生活に追われっ放しだからおかしくなるのさ。一人で命がけの仕事ばっかじゃきついんだよ」
「でも、ガートンだって」
「ミナはそんなに心の強い女か?」
言われて思う。強情っ張りで寂しがりや。感情の起伏が激しくて、それがかわいいと思っていたあの頃。ガートンはテルアの様子を伺いながら、呟くように新しい情報を与えた。
「北方から噂が流れてきたぜ。王様が死んだってよ。それで一人息子が王様になったそうだ」
ガートンは言葉を切りテルアを見つめる。ガートンが頼み事をするときのいつもの癖だ。テルアは体を硬くしながらガートンを促した。
「あのな、その王がこっちまで取ろうとしているらしいんだ」
「まさか戦争?」
ガートンは緊張した面もちでうなずき続けた。
「お前ら二人、あっちから逃げてきたんだろ。こっちが負けたらお前らおしまいだぞ。南方にゃ魔法使いはいねえ。剣じゃ負けねえが、魔法を使われたら終わりだ。なあ、わかるだろ」
テルアは黙ってうなずき、気重に口を開けた。
「で、どうすれば勝てる?」
「王自身をぶっ潰すのさ。正面戦争じゃねえ。潜入戦だよ」
テルアは考え込む。でもガートンは追い打つように告げた。
「王都を知ってる戦士はいねえ。南方商人は戦争になりゃ逃げちまう。お前ら以外に潜入できる奴はいねえ」
ガートンはテルアの肩をつかむ。テルアの目には良くしてくれた南の住人の顔が浮かぶ。ガートンもきっとこの辺を治めている長老に相談しているのだろう。テルアはガートンの手をゆっくりと握ってうなずいた。ガートンは満面に笑顔を浮かべ、そして言った。
「俺も行くからな。テルア、ミナから酒抜いておけや!」
テルアは夜の街に駆け出した。
帰り着くと、ミナは水をガブ飲みしている最中だった。
「ミナ、明日はここを出よう」
「なーにそれ」
「もうすぐここも戦場になる。北方王家が南方に出兵するらしい」
ミナの顔色が瞬時に変わる。でもミナはわざとらしく興味のないような声で答えた。
「私たちは異人だから兵役ないよ。このまま遊んでいようよ」
思った通りミナは抵抗した。逃げを打っているのがわかる。とにかく今の生活さえしていれば、という考えがテルアの目にははっきりと見える。だからテルアは硬く決心していた。
「そんなの言っててもしょうがないよ。また王家に追われる身になっちゃうんだ」
「逃げ続ければ良いじゃない!」
ミナの頑迷な声に、テルアははっきり賭けにでる。
「ミナ、さよならする?」
ミナの目の色が変わる。狼狽してテルアにしがみつく。
「私も行く! 置いていかないでよ!」
この反応にテルアは逆にショックを受けた。昔のミナだったらちょっと強情だったりしたのに。不安が走る。でもテルアは考えを変えない。このままでは早晩ミナが本当に駄目になる。多少の危険は承知の上だ。テルアは平常心を装いながらミナの背中を軽く押した。
「さ、旅の用意をしなよ」
ミナはうなずいて荷物を詰め込み始めた。食料、服、ザイル、カンテラ。一旦行くと決まったら手慣れたものだ。迷いもせずに詰め込んでいく。でも、すぐにテルアの手が鞄にのびた。
「ミナ、これは何?」
大瓶の酒を鞄から奪う。ミナは瓶にしがみついて答えた。
「怪我したときとか必要でしょ」
「これは多すぎだね。小瓶と交換だ」
ミナは悔しそうに、でもしっかりとうなずいた。テルアは表情を崩してミナの肩を叩く。
「酒は禁物だろ。どんな事故が起きるかわかんないんだから」
もう一度渋々ながらうなずく。やっとテルアは満足の表情を浮かべてみせた。でもテルアの意識では、既にミナがお荷物になり始めている。それでもまだミナを見捨てられない。テルアは念を押すように言った。
「ミナ、ちゃんとして行こうな。昔みたいに」
「昔みたいに?」
「そう、あの頃みたいに」
ミナの髪を撫でてやる。ミナはちょっと引き下がり呟いた。
「今日はあんまり近寄らないで。お酒臭いから」
「じゃ、明日の朝は大丈夫?」
ミナはちょっと首をかしげ、そして涙を溜めてうなずいた。
「じゃ、約束だよ。できるかい?」
「うん、約束する」
ミナはテルアの手に自分の手を重ねて答えた。そのとき、テルアは久しぶりにミナをかわいいと思えた。
「テルア、さ、行くぞ!」
いきなりの声にテルアは跳ね上がった。たしかに外はもう明るくなりつつあった。
「テルア早く早く!」
テルアは黙ってミナの顔に顔を寄せる。ミナは明らかに狼狽した表情を浮かべた。でもテルアは機械的に言う。
「うん。お酒の臭いがしない」
ミナは頰をぷっと膨らませて反発した。
「当然でしょ? 今日から変わるんだもの」
「約束、守ったんだ」
今度はやっとしおらしく答えを返した。テルアは完全にしらふのミナを見たのが本当に久しぶりに思える。テルアはもう一度確認するように微笑んで家のドアを開けた。
やっとミナの頭に様々な思考が浮かぶ。ドアから射し込む陽の光を浴びて、今までの記憶が鮮明に形を取る。テルアの心配を無視した自分の言動が耳の奥で恥ずかしいほどに蘇る。今まで押し殺していた感情が一瞬で沸騰した。
「テルア、今だから。今だからお願い。目をつぶって」
テルアは渋々目をつぶった。わずかな間の後、唇が塞がれる。それは色気もなく、ひたすら唇を押し付けてくるような不器用な口づけだった。だが、それでもテルアの頰を熱くするには十分だった。
「良いじゃない? 一度ぐらい」
恥ずかしそうに俯く。その表情をみればミナがこういったことに慣れていないことは容易に想像がつく。ミナはテルアの首に腕を回して囁いた。
「テルアの気持ち、聞かなかったよね。ごめん」
「でも、僕は怒ってないよ」
「もっとはっきり答えてよ!」
言っておきながら、ミナは吹き出してそして言った。
「じゃ、答えは冒険の後で。ちゃんと考えといてね!」
恥ずかしそうにうつむくテルアをミナが嬉しそうにつついたとき、外から声が響いた。
「おーいミナ、テルア、用意はできているか」
ミナが明るい声で叫んでドアを開ける。そこには案の定ガートンがにやにやしながら立っていた。
「よーし、二人とも朝から良い感じじゃねえか」
覗き、とミナが呟くと熱い空気が外まで漏れてきて、とガートンがにやついた。これにはさすがのテルアも声を荒げ、次いでミナの目が凶悪な光を帯びた。
「ねえテルア、戦の前に一人血祭りに上げて良い?」
ガートンは慌てて飛び退き頭を下げて叫んだ。
「冗談じゃねえよ! 戦の前に仲間を殺す奴があるかい!」
「恋は何でも許されるの!」
テルアはそんな二人がおかしくって腹を抱えて笑い出した。
「お前は他人事だよなあ」
ガートンの顔を見るたびテルアの胸に笑いがこみ上げてくる。するとミナまでもが一緒になって吹き出した。
「何だおい?」
「だってだって、テルアがこんなに笑ってるの見たの、ほんとに久しぶりなんだもん。何だか私まで嬉しい!」
ミナもついに大声で笑い出す。ガートンは笑い転げる二人を前に苦笑を浮かべていた。
医師、武器商人、用心棒。これが三人の肩書きだ。順にテルア、ガートン、ミナ。普通に考えれば用心棒がガートンのはずだが、口をきくのは顔の知られていない人間の方が良い。そうなると武器商人をガートンがやるしかないのである。ミナが用心棒なのも、必要以上に口をきかずに済ませるためだ。
三人は住んでいた南の街の長老から正式に委任状を受け、すぐに王都へ北上した。ガートンが北方に行くのは初めてだし、残り二人も離れっぱなしだからかなりの不安がある。中でもミナは複雑な思いを抱いていた。
(そこまで大それた悪人には見えなかったんだけど)
思わず呟きそうになって慌てて飲み込んだ。しかしミナにはあの王子が征服戦争を起こすほどの根性があるとは思えない。それに父のことだ、前線に立っているのだろう。でも、会えない方が良い。きっとファダと同じことになる。
ミナ、と呼ぶ声に振り向くと、テルアが心配そうな顔を向けた。ガートンも珍しく神妙な顔をしている。
「どしたの?」
「どしたの、ってミナの方がずっと変だよ」
「そ、だね」
ミナは答えて腰の剣をまさぐる。剣でしか落ち着けない自分にどことなく虚しさを覚える。
「今回は戦争を避けるのが目標だ。ただ戦うだけじゃない」
偉そうな口調で告げるガートンにミナはちょっと顔をしかめた。一応は騎士を目指したこともある身だ。騎士文化のない南方育ちのガートンとは違う。ガートンはミナの不満そうな様子を無視して話を進めた。そしてきつく言い渡す。
「裏情報取りに酒場に行くけど、ミナは飲むなよ」
「えーっ! そこまで厳しくしなくたって良いじゃない」
「ばれちゃうよ、そうじゃないと」
そっとミナの肩に手をかける。ミナは渋々うなずいた。ミナは酒場に入った途端に鼻をひくつかせる。南方よりも上品な酒が薫る。天井には生ハムがぶら下がり、丸テーブルを囲んだ男たちが楽しそうに談笑していた。
「ねえ、テルア」
ミナはまたもの欲しそうな顔でテルアの表情を窺う。テルアもちょっとミナのことが気の毒に思えてくる。ガートンは小さく肩をすくめ、一杯だけだぞ、と言うとミナの顔が一瞬で明るく変わった。すぐにカウンターに座ると酒とつまみを注文する。テルアは苦笑して軽食を頼んだ。横に座る男たちの会話にガートンは耳を澄ます。傭兵に募集がかかっているらしい。ガートンはマスターを呼びつける。
「なあ、最近で一番良い商売って、やっぱりあれかい?」
わざとぼやかして訊くと、マスターはすぐに答えてくれる。
「そりゃ旦那、もちろんでしょう。私みたいにグラス磨いているよりは王家の傭兵をやるのが一番ですな。そりゃ南方なんて何がいるかわかりゃしませんけどね」
「南方に良いもんなんてありそうもないがな」
「旦那、『ブラッドメタル』ですよ、王家の狙いは」
「ブラッドメタル?」
「ええ、鎧にしても剣にしても最高の金属。でね、最近魔道院が背徳の杯をブラッドメタルから生産できたんですよ。それを使って世界最強の軍隊を作るとか」
テルアとミナは顔を見合わせる。ガートンは二人に目で合図すると話を続けた。
「でも昔は禁止だろ。あれは」
「魔道院製の背徳の杯で得た魔法は安全だそうですよ」
呼び声がかかり、マスターは三人の前から離れていった。三人は顔を見合わせる。
「とんでもねえな」
「急がないと」
「でも、どうやって?」
三人で頭を悩ませていると、テルアの袖を引く者がいた。
「久しぶりじゃないか、テルア」
テルアの魔法学校時代の友人だった。ビスとはわりに気が合い、よく魔法の競争もやっていた。しかしここは王都だ。テルアは警戒の表情を浮かべる。
「俺も追われる身なんだ。魔道院といざこざがあってさ。なあテルア、俺のところに来い。面白い話があるから」
ミナが静かに短剣を抜く。でもビスは落ち着き払って言う。
「俺がここで声を上げたら一巻のおしまいだぞ。それにお前ら、情報ないんだろ。良いから来いよ」
三人は顔を見合わせる。そしてガートンが一言吐き出した。
「よし。行こうじゃねえか」
ビスは深くうなずくと、ミナたちと連れだって酒場をあとにした。ビスの「家」は地下にあった。追われる身と言うのは嘘ではないらしい。彼は三人が入るのを確認すると厳重に鍵をかけ、部屋の奥に案内した。机の上には静脈血のようにどす黒い小柄な杯が置いてあった。
「テルア、ミナ。お前らならこれが何だかわかるだろ?」
二人は目を大きく見開き、声を合わせて背徳の杯、と声を低めて言う。ビスはうなずいて言葉を続けた。
「そうだ。だがテルアが浴びた古代の遺物じゃない。これは魔道院が作った背徳の杯だ。俺が盗み出した」
ガートンは額に皺を作って呻くように言う。
「お前、何をやるつもりなんだ」
「人助けさ。これがあれば王国の人間は魔道院の人形になっちまうんだ。既に一人、なってるしな」
「誰が人形にされたんだ?」
ビスは苦々しげに、王陛下だ、と吐き捨てるように言う。三人は息を飲んだ。倒すはずの王が実際には人形だとは思いもしていない。
「魔道院は王陛下に背徳の杯で汲んだワインを飲ませたんだ。魔道院長に逆らえないようにしちまったんだ」
「なあ、僕はどうして平気なんだ?」
「杯を作った人間の言うこと以外は関係ないんだ。とっくに遺物の制作者なんて死んでるだろ」
テルアは安堵の溜息をついた。するとガートンが声を出す。
「あんたの狙いは魔道院をひっくり返すことか?」
「今は幸い鉱山が国内にはない。だが南方で大量のブラッドメタルを手に入れたらおしまいだ。だから今しかないんだ」
ビスの言葉に、その場の全員が凍り付いた。敵が魔道院。尋常な相手ではない。魔道院を存続させた先王が恨めしい。それでもガートンは咳払いをして話を続けた。
「魔道院をぶっ潰すとすると、方法は何がある?」
「もう用意はしてあるんだ。王がおかしくなった理由を既に騎士たちに広めている。だが、きっかけが要る。それは俺がつくる。君らがそれを動かせば良い」
ビスは言って巨大なブラッドメタルの塊を取り出した。
「ガートンさん。ちょうど商人の格好してるし、あんたがこれを王陛下に献上に行くんだ。その従者として俺とミナ、テルアがつく。そして俺が動く」
「何をやるつもりだ」
「そこは行ってからさ。あんたらには本気で驚いてもらわなきゃならない。良いね」
三人は渋々うなずく。ビスは満足そうに笑って言った。
「さあ、準備にとりかかるか」
ビスは貴族の紹介状を偽造すると、ミナとテルアに化粧を施した。王に謁見する前に身元がばれたらたいへんだからだ。ビスの器用さのおかげで普通では見破られないようになった。
魔導院の力が増したおかげで兵士の質も気力も落ちていることが幸いし、三人が心配したほど王宮のチェックは何もなかった。簡単に謁見の間に進む。ガートンは何回も唾を飲み込みながら台詞を口の中で繰り返し確かめる。そのうち長かった廊下もつき、大きな扉が目前になる。ゆっくりと扉が開き、中へと案内された。
「彼らはブラッドメタル鉱山の商人と技術者にございます」
ガートンは顔を上げる。正面には王が座っている。脇に立っている魔道士が魔道院長だろう。深い皺の奥から背筋の寒くなりそうに強い眼光が覗いている。周囲には騎士たちが居並ぶ。僅かにでも間違ったらそれきりだ。
正面の王はミナの目には王子の頃より意地悪になったように見えた。でも、今はビスに任せるしかない。そして遂にガートンが口を開いた。
「拝謁の名誉を頂き、恐悦至極に存じます。まず、私のブラッドメタルをご覧に入れたく存じます」
ビスが小さく舌打ちする。ガートンの妙な敬語が心配らしい。しかし王は平然と手を挙げた。すぐにビスがガートンから受け取ったブラッドメタルの塊を持って玉座に進む。と、魔道院長が眉をひそめた。テルアたちは体を硬くする。魔道院長が声をあげた。
「お前、ビスか!」
ビスはブラッドメタルを魔道院長に投げつけると、懐に隠してあった短剣を抜いて王に迫る! だが王は自ら魔力を揮う。ビスはそれを避ける。その背後にいた騎士が一瞬で肉塊に変わった。ビスは盗み出した背徳の杯を取り出して宙に放り投げ、魔法を放った。魔道院長は叫ぶ。
「馬鹿者。杯を取らぬか豚王が!」
王が自分の体を犠牲に飛びつく。ビスの魔法で腕がちぎれる。騎士たちが駆け寄ろうとするのをテルア、ミナ、ガートンが押さえる。ビスはさらに杯へ魔法を放つ。魔道院長が王に魔法を放った。とたん王が魔獣に変化する。
「院長、何をやった!」
騎士たちから声が挙がった。院長は愕然とした表情を浮かべビスを睨み付ける。
「これが目的か、ビス」
「あなたなら平気で王を犠牲にすると思いましたから」
言ってビスは騎士に向かって叫んだ。
「みんな、これが魔道院長の正体だ。俺は王陛下変化の責任を取る。敵討ちは任せた!」
ミナが走る。しかしビスは一瞬速く短剣で自分の喉をついた。ビスが事切れる。騎士たちの怒りが院長に集中した。しかし院長は不敵な笑顔を浮かべる。
「お前ら如きが勝てるか。儂こそ魔法の支配者ぞ!」
いきなり大臣たちの体が弾ける。その肉が形を取り直し、そして巨大な魔獣に変化する。
「せいぜい頑張ることだな!」
「それはこっちの台詞だい!」
ミナが身に纏っていた衣装を脱ぎ捨てて剣を取る。魔獣の咆哮にミナが剣で応える。
「我は『魔王の牙』ミナ! 魔獣掃討のプロだっ! テルア、魔道院長をお願い!」
テルアの魔法が魔道院長を狙う。しかしすぐに跳ね返される。
「馬鹿が。儂とて背徳の杯の能力者だ!」
テルアは舌打ちすると魔道院長を追った。ガートンも騎士と連携して魔獣と戦い始める。ミナがまず一頭しとめる。しかしすぐに新しい魔獣が窓から飛び込んできた。ミナの背後に立つ。
「背後から来たって同じだよ!」
振り向いて、ミナは息を飲んだ。魔獣の胸には懐かしい、父の顔が浮かんでいるのだ。
「ミナ、久しぶりだな」
周りは二人に構う暇もなく戦い続ける。ミナはまた呟く。
「父さん、何で?」
「王陛下に、やられた。しかし私は意志が常人より強いから魔獣になりきらなかったのだ」
ミナは言葉を失った。だが父は淡々と言葉を続けた。
「ミナ、戦いだ。お前への最後の指南だ」
ミナは涙を拭う。剣を真っ直ぐに支える。父は背中の翼を閉じ、熊のような体に変化する。ミナの呼吸が落ち着く。瞳はもう魔獣狩りのそれに変わった。こんな魔獣、出会ったことがない。段違いに強い。撃ち合いは次々に体へ傷を増やしていく。異常な強さは昔の父のままだ。それがあまりにも心臓を絞った。
くじけかかったミナの胸に強力な闘争心が芽生える。一度魔獣になった人間は元に戻らない。そんなこと、わかってるから。父を救うのは剣しかないのだから。一瞬、隣の魔獣が父の目を隠した。ミナの剣はそれを逃さない。剣が父の喉へ奔る。
父がそのまま倒れる。そしてかすかな声が漏れた。
「おかえり、ミナ」
ミナの目から涙がこぼれ落ちた。
テルアと院長の魔道戦は熾烈を極めた。しかし院長の陰湿な性格のおかげか、他に能力者魔道士はいないらしい。それがテルアにはまだ幸いしていた。しかし、遂に院長が大声を発した。
「儂はお前を殺して世界の王にならねばならんのだ!」
途端、院長の姿が変貌する。黒い翼と長くのびた爪。地面を叩く鋼の尾。巨大な体は城を吹き飛ばし、空に高く昇っていく。
「ドラゴン?」
崩れた城の隅から声が響いた。ミナだ。そばにはガートンが足を引きづっている。いつのまにか魔獣は全て死に絶えていた。
「テルア、院長は?」
「あの魔獣だよ。こうなったら、こっちもやんなきゃ勝てないな」
ミナは耳を疑った。とたん、テルアの体を光が覆う。テルアの体が変化していく。
「テルアやめて!」
ミナの悲鳴にもかかわらずテルアは変化をやめない。そして光の中から優しい声が響く。
「ミナ、もし僕が暴走したら頼むよ」
「何言ってるのよ! テルア、テルア!」
「良いね。そのとき、僕を倒せるのはミナだけだから」
言ってドラゴンになったテルアは純白の翼を広げ、ミナの手に小さな石を吐き出す。
「ミナ、誕生石はルビーだもんね。ごめんね、ずっと」
ミナは黙って首を振る。テルアは翼を揺らし、今度は振り返らずに空へと駆け上がっていった。空では院長が荒んだ雰囲気で待ちかまえていた。
「別れの挨拶か」
「戻れないこと、わかってるから」
「愚かよ。未熟な力で変化を使うとはな」
「でも、あんただけは倒す!」
テルアが炎を吐く。院長は翼で炎を遮り呪文を唱える。テルアは力業で弾く! 即座、テルアは爪と牙で攻撃を加える。体にどす黒い破壊の欲望がまき起こる。憎悪に支配されそうになる。でもミナの姿を思い浮かべることで押さえつける。
院長が歓喜の叫びを上げてテルアの肉を噛みきった。院長の瞳から理性の光が消え去る。再び狂気がテルアを包み込んで強大な魔力が体の中に溢れ。破滅の輝きが天上を包んだ。
光が止むと、ミナたちはテルアの姿を認めた。ガートンの胸に喜びが広がる。けれどミナは体を震わせた。
「テルアが壊れた」
ガートンはテルアをもう一度見直す。ドラゴンの瞳が変わった。魔獣の輝きを帯びているのがわかる。
「テルアーッ! 意識を取り戻せ!」
白いドラゴンが人間を睨む。かつて人間だった者が、人間を狂気の目で探る。その強大な魔力は誰をも震え上がらせた。
「ミナ、逃げよう。もうどうしようもねえ」
「ガートン、あなたは逃げて。私は良い」
「ミナ! もうこいつはテルアじゃねえ! 魔獣だ」
「でもテルアなの」
ドラゴンが炎を吐く。一瞬で木々は蒸発し、石は溶岩となって溶け出す。だがミナは不敵な笑みを浮かべた。剣を抜き、青眼に構える。
「テルア、約束したもんね。倒すって」
ガートンは後ろに下がる。ドラゴンも何かを感じたのか動きを止め、ミナに向き直る。ミナの微笑みが一段と優しさを増す。ドラゴンの手が高く振り上げられる。
ミナが走った。尾でミナを弾き飛ばそうとする。炎がミナの髪を掠める。ミナの体がドラゴンの懐に入る!
「テルア、待っててね」
声と共にミナの剣がドラゴンの喉をかき斬った。ドラゴンの巨体が揺れ、その場に崩れる。ミナはとびずさり微かに動く筋肉を黙って見つめる。噛んだ唇から微かに血がにじむ。何度も瞬きを繰り返す。そしてミナの絶叫が瓦礫の山にずっとこだましていた。
「女王陛下はどちらです?」
「それが朝から……」
「自覚がなさ過ぎる! 確かに魔獣殺しの英雄とはいえ、儀式の日ぐらいきちんとして頂かねば!」
王宮を女官、大臣総出で走り回る。今日は魔獣動乱慰霊の日だ。魔獣動乱で亡くなった国民の数は未だに不明なほどだ。その重要な五年目の節目だと言うのに女王の姿がないのだ。
「ミナ陛下! どちらにいらっしゃるのですかあ!」
大臣が走っていると、途中で大男にぶつかった。
「どうしたい、大臣」
「おお、これはガートン将軍。女王陛下が今朝から行方不明なのだ。心当たりはないか?」
ガートンは首をひねって、ふと思いついたように尋ねた。
「昨日何か話しなかったか?」
「ミナ陛下の御威光で国が完全に治まったと。ですから結婚も考えたらと申しましたら笑っていらっしゃいましたが」
ガートンの表情が一変する。即座に大臣を引っ張ってミナの私室へと走り出した。
「ガートン殿! 何をなさる!」
ガートンは問いに答えず部屋に駆け込み、大臣の止めるのも構わずに机の中を探った。ガートンは一枚の紙片を手に愕然とした表情を浮かべ、その紙を大臣に突きつけた。
「結婚します。愛した人と」
これだけしか書いていない。ガートンは怪訝な表情の大臣を抱き抱えると再び部屋から飛び出す。
実は、王位は決してミナ自身が望んだわけではない。自殺を図るミナを必死で止めた。テルアから貰った指輪を掲げて「婚約指輪だ」と叫でいた。そんな彼女に、国を平和にすることが供養だと説得した。だから、ミナの本当の望みは。
ガートンが止まる。大臣は息をのむ。
「ここは、大霊廟」
あの城跡に建てた巨大なテルアの墳墓だ。ガートンが扉に手をかける。鍵がかかっていない。中に足を踏み入れる。大臣もおそるおそるガートンに続いた。奥へ進む。かつての城跡を踏みしめていく。そして霊廟の前。大臣が持つ明かりが慄える。ガートンが息を飲んだ。
霊廟を抱くように倒れる花嫁姿のミナ。傍らに血染めの短剣が転がる。指輪のルビーは光を静かに反射した。純白のウエディングドレスに身を包んだミナは、まるで幸せな眠りに就いているかのようだった。
文芸船 — profile & mail