文芸船

ライターは涙色

 大通りのアスファルトは強い夏の日差しで空焼きをしたフライパンのようでした。大都市なんてものは人間をぎゅう詰めにした砂漠で、やっと見つけたオアシスも巨大な石の影しかないのです。それでも私は日陰を求め、ビルが作った絶壁の裂け目に潜り込みました。それに何より、私は横道を走るほどには急いでいました。友人との約束の時間にはちょっと厳しかったのです。

 障害と言えば時折生ゴミのあふれたプラスチックのごみ箱ぐらいで、私は早足で誰もいない道を進んでいきました。次第に呼吸も苦しくなり、やっと目的のビルが見えたとき、目の前に長机が現れました。最初からいたはずなのですが、あまりに急いでいて気づかなかったのでしょうか。机の向こうには一人の女の子が座っています。机の上には色々な雑貨が並べられているようでした。

「いらっしゃいませ」

 彼女は私を認めると笑顔で頭を下げます。高校生ぐらいでしょうか。奇妙な行動の割にはごく平凡で先生方にも忘れられそうな、そんな少女です。

「いかがですか、どれかおひとつ」

 私は立ち止まり、そしてなるべく落ち着いた声で告げます。

「ここは道路だよ。道を塞いで商売しちゃいけないよ」

「でも、おひとつどうぞ」

 彼女は何も感じない顔で同じ台詞を繰り返します。私は諦めて商品を一通り眺めてみました。でもそれは指輪やペンダントなどのアクセサリー。私には縁遠い商品ばかりでした。私はやんわりと、でもさっきよりは語気を強めて断ります。でも彼女は微笑んで繰り返しました。

「お客様にもぴったりの商品もご用意していますよ。もう一度よく見てくれませんか?」

 君、いい加減に、と声を荒げかけたところで、銀色の塊に目を奪われました。先ほどは涙型のブローチだと思ったのですが、実は凝ったライターだったのです。

 彼女は上のとんがりを親指の先で跳ね上げます。中には普通のライターの機構が見えました。火を灯すとしっかりした炎が上がります。いかにもライターの黄色い炎ですが、この打ち捨てられた裏道を綺麗に染めてしまう、そんな気がしました。彼女は黙ってライターを捧げながら微笑みます。詐欺をする子には見えないのですが、どう考えたってまともだなんて言えません。そうは言っても待ち合わせの時間は迫っていました。値札には損をしても我慢できそうな数字が書いてあります。

「わかった。これを貰うから。そうしたら通してくれるね」

 彼女はライターとお金を交換すると机を横に向けました。私は小走りにその隙間を一気に駆け抜けました。もう目の前は待ち合わせのビルです。間にあった、そう思ってふと後ろを振り返ると長机も少女の姿も見えません。私は首をひねりながら、でも早足で待ち合わせのビルへと向かいました。


 帰宅して一息つくと、すぐにライターのことを思い出しました。奇妙な少女と変わったデザインのライター。改めて考えると何ともちぐはぐな組み合わせです。表面の滑りどめは細かな幾何学模様で、蛍光灯にかざすと角度によって様々な光を反射します。蓋の協会は分かれ目が目を凝らして見ない限りどこにあるのか見つけることさえ叶いません。まさか盗品ではないのかと不安になってしまうほどの精巧さで、粗悪品ではないぶん逆に不安すら感じてしまうほどしっかりとしたライターでした。

 ともかく、煙草をくわえ点火しました。ゆったりと煙が上がります。紫煙をふかそうとすると、吸いもしないうちに煙が煙草から膨れだしました。煙は天井に上らずにそのまま私の周りに溜まり始めます。止まった煙からは煙草独特の臭いがせず、その上白色で湿り気を帯びていました。

 慌てて煙草を灰皿に押しつけますが、それでも煙は収まりません。次から次へと煙を生み出し、その煙は私を何重にも覆っていきます。煙の臭いもしなければ、酸欠にもならない。むしろ柔らかに包まれ心地良いのですが、その安らぎがかえって異様さを際立たせるのです。煙から這い出そうとしても、煙は私と一緒についてきます。窓を開けようと思ってもついこの間工事を始めたばかりで固定されて動きません。遂に玄関まで駆けて行って外へのドアを開けようとすると煙に顔を覆い尽くされました。でも一気に手探りでドアを開けます。目の前の煙もさすがに諦めたのか、少しずつ外へと出ていきます。わずかに目の前が透けてきました。そして完全に晴れた先は、見たこともない山々の風景だったのです。


 あるはずの鉄の階段は見あたらず、見慣れた駐車場は跡形もなく消え去っています。すっかり馴染んだコンビニの看板も見つけられません。夜だというのに太陽が健康に輝いていました。そしてただ、広い草原と青みがかった山々の連なりだけが目の前に繰り広げられているのでした。

 一歩、草原に足を踏み入れます。私は用心しながら一歩ずつ足を進めて行きます。風がさわやかでした。鳥の鳴き声がさかんに聞こえてきます。長い草が火照った足首をひんやりと冷やしてくれます。久々にモーター音も電気製品の待機音も聞こえない、清潔な音の中を歩いていきました。

 しばらく歩くうちに小川にあたり、水面を覗くとメダカが泳いでいます。川縁には葦が一面風に揺れていました。足元を臆病そうなウサギが跳ねていきました。見上げると雁が渡っていきます。

 振り返るとまだ玄関が開いています。とりあえず玄関先まで戻ると、その場にしゃがみこみました。何だか。ドアを閉じたら元に戻りそうで。そしてまだ、元に戻るにはあまりにも惜しい気がして、そのまま座っていました。どれだけ時間が経ったのでしょう。長かった気もするし、ビデオの高速回転に放り込まれたような気もします。ただ確かなのは、周りが夕闇になったことにはっとした、それほどでした。

 闇に包まれました。誰の悪意もひそまない闇はむしろ優しい抱擁を与えてくれました。空に星が輝き始めます。そのうち星の数は数えきれないほどになり、天の川がくっきりと頭の上を横切っていました。ずっと見ることのなかった夜空。今ではただ眺めることさえ叶わない星空。喪われた光景。

「そう。喪われた光景」

 いきなり背後から声がかかりました。振り向くと私にあのライターを売りつけた少女が立っていました。驚いた顔をすると、彼女は再び無表情に繰り返します。

「これはあなた方が壊して捨て去った光景です」

 彼女は謎めいた笑顔をみせました。幼げな容貌なのに、私が初めて目にするほど深い瞳をしています。

「どんなにいろんなものをプレゼントしても、あなた方は満足してくれないの。私が隠しておいたものまで持ち出して、それでも満足してくれないの」

彼女は言葉を切ると再び私の顔をじっと見つめます。そして小さく言いました。

「あなた方と一緒に住むのは難しすぎるの」

 彼女は黙って私の手に自分の手を重ねます。硬直した私の体を柔らかに抱きしめました。

「私の中で生まれたんだもの。他の兄弟たちと一緒なの」

 言葉とともに、彼女の体が透き通っていきました。顔の表情もわからなくなり、湿り気を帯びてきます。そのうち彼女は本当の水になっていきました。でも、ただの水ではありません。海水。私はあの塩辛い海水の中に浮遊していました。なぜか呼吸は止まらず、でも海水の味は喉に刺さり込んでくるのです。この海の中を魚が群をなして泳いでいきます。遠くには鯨も見えました。そして。

 海水が私の中に滲みてきます。私が泣いているのか、海水が涙になってしまったのか。わからなくなる悲鳴が聞こえました。その悲鳴とともに、海水の向こうで目にした様々な生き物が、草原が、全てが消えていきます。炎と油の臭いが頭を覆い始めました。それとともに悲鳴はさらに強まっていき、私の精神はふっつり途切れました。


 気がつくと、私は代わりばえのしない部屋の中に転がっていました。買ったはずのライターはどこにも見あたりませんでした。代わりにテーブルには一枚の葉と、その上に何かの種が転がっていました。葉を見つめているうちに、ふっとあの少女の声が聞こえました。

「育てて下さい。私の中で生まれた兄弟を育ててみて下さい。力持ちの末っ子さん」

 私は黙ってうなずくと、急いで園芸の鉢を買いに走りました。一緒にあなたも育ててみませんか。私たち生き物の母、直々からの依頼なのですから。

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