「間に合ったよね。金曜日の夕方!」
玄関先で荒い呼吸のまま原稿を突き出す宮原に僕は呆れた視線を向けた。奥から母さんがペットボトルのお茶を持ってくる。宮原はお茶を受け取るといきなり立ったまま蓋を開け、喉を鳴らしながら一息に飲み干した。
「相変わらず元気ね」
「あ、お久しぶりです」
母が笑いを噛み殺しながら言うと、宮原はやっと気付いた顔で慌てて頭を下げ、次いで母さんに慣れた調子で話し始めた。
「最近、結構人使い荒いんですよ。私が慌てて走ってきちゃうぐらい」
「小学生のときだって、夏休みの宿題を写しに走ってきていただろ」
横から憮然として混ぜっ返してやると、宮原は横目で僕をにやにやした顔を向ける。
「幼稚園のときに転んで膝を擦り剝いて泣いていた君を連れて帰ってあげたのに、ずいぶんきっついこと言うよね」
背中で母さんが声を上げて笑い、僕の背中を軽く叩く。これだから幼馴染って奴は。
僕はとにかく原稿を封筒から取り出して確認する。中からは僕が先日貰ったラフ画を基にしたイラストが現れた。服装は西洋のお姫様の雰囲気で、手前には星を描いた川が流れている。しっかり作られた分、先日のラフ画のような衝撃は逆に感じなかった。でも宮原の明るい楽しさが良く出ているイラストだ。
「天ノ川と織姫だと月並みだから、ちょっと洋風に作り変えてみたんだ」
天ノ川、と僕は呟く。列車で会ったあの子のことが頭をよぎり、何だか小さく胸が痛んだ。まさか一目惚れだとか。
いや、それよりも僕は今、宮原と話しているというのに、名前も知らない女子のことを思ったことが痛かったような気がする。では宮原に恋愛とかそういう気持ちがあるのかと言われると思考が立ち止まってしまう。
宮原は絵を描くことが好きなわりに、子供の頃に僕を鬼ごっこで引きずり回していただけあって健康美でおまけによく笑っている。客観的に見ても、あの汽車の中で会った女子とはまた違った魅力のある子だと思う。変わり者の多いうちの部にいるせいで浮いた話がないだけで、普通にスポーツ部にでもいたら彼氏ができても不思議はない。
でも、僕にとって宮原は恋愛以前に幼馴染で、好きだとか嫌いとかいう対象ではないからこそ、こうやって締め切り破りの常連でも最後の一線では信頼して待っていられる、そんな気がする。そう思いたい自分がいる。
僕はとりあえず原稿を封筒に戻すと、大きく了解の印にうなずいた。すると背中から母さんの声がかかった。
「遅いんだし、ちょっと送ってあげたら」
僕は不満を口にしかけ、宮原にこっそりと視線を移した。宮原は慌てた様子で僕から視線を逸らす。宮原を独りで帰してはいけない気がした。僕は原稿を茶の間に置くとスニーカーを引っかけて宮原と家を後にした。
外はすっかり夜空で道路は街灯以外に明りがなかった。僕の家は市内でも郊外ではないはずなのだが、近所に高齢者が多いせいか最近は夜遅くなると家の電気も早々に消えてしまい、通りまでもが真っ暗になってしまう。
僕たちは黙ったまま歩いていた。普段なら何も考えず馬鹿な話をしているというのに、送っていくと意識したせいか何を話せば良いのかわからなくなってしまう。
話題を探しているうちに、ふと母さんの話を思い出した。この辺りは今の高齢者が若い頃にベッドタウン化したせいで、家を建てた人の年齢も偏っているのだそうだ。老化した街を歩くことで、僕たちの何かを吸い取られそうな気味の悪い錯覚を感じる。
「あと、どれくらい歩くんだろ」
突然、宮原がぽつりと呟くように言った。僕は首をかしげて時計を見る。
「あと十分ぐらいか?」
馬鹿、と宮原がむくれた表情を浮かべる。次いで僕の左肩に右肩をぶつけて言った。
「あと何年、何日一緒にいられるんだろうって。ね、私たち三月には卒業なんだよ?」
卒業か、と僕は気のない声で答える。宮原は溜息混じりに話を続けた。
「その前に受験だけど。っていうか君、どこ受けるか決めた?」
僕は曖昧に首をかしげる。僕の成績はちょうど中途半端で決め切れずにいるのだ。
「教育大なら行けそうじゃないかな。君って理系だから水産学部とかもどう?」
「あそこって船に乗るんだろ。自信ないな。地元じゃなくても良いんじゃないか?」
「札幌行くの? それとも本州?」
「ありだよな。新幹線ももうすぐ通るし」
曖昧に答えながらも、僕は急に宮原の顔をよく見たいと思った。周りが暗くて表情が見えなくて、うつむいた宮原のことが心配で。
「私は地元だよ。幾らやりたいって突っ張っても国立の美大系とかは成績が無理だし。私大は高いし。なら地元にしろって」
僕は言葉を返せなくなった。結構、この手の話は他の奴からも聞いている。でも僕は何だか他人事として聞いていた。もちろん僕の家も好きにしろと言うはずはないけど、大学選びにこだわりの少ない僕にとってはその切実さを感じずにいたのだ。
宮原は僕の肩をそっと優しく押すと、大きく伸びをして僕の正面に向き直った。
「私の進路は良いの。勝手に悩んでるだけ。ただね、今みたいに締め切りに追っかけられて慌てて届けて、なんて時間はもう、ね」
「あと半年、か」
「君と騒ぎ続けて十五年だけど」
十五年。僕は幼稚園の頃のことなんてほとんど覚えてはいないけれど、宮原が一緒にいたことはぼんやりと覚えている。
マアちゃん、と僕は何気なく呟き、慌てて口に手をやった。だが宮原は吹き出した。
「懐かしいね、ナオくん」
頰が熱くなる。いつの間にか止めてしまった僕たちのお互いの呼び名。宮原は嬉しそうに僕の隣に立つと、再びのんびりした調子で歩き始めた。この先の角を曲がればもう宮原の家だ。そういえば僕一人だけで宮原の家に遊びに行ったのは何年前だっただろう。何だかこの帰り道がもったいなく思う。
宮原は僕の肩を肘でつついて言った。
「離れても、まだ私たちなら遊べるよね」
僕は慌てて必死にうなずいた。宮原は僕の方に視線を向けず話を続ける。
「うちの部活って、わりと不健全系だよね」
言われて僕は首をかしげる。とりあえず、うちはラグビー部とかみたいな乱暴な騒ぎはないし、演劇部みたいに男女のいざこざで恥ずかしい話になったりはしていない。怪訝な顔をした僕に、宮原は偉そうな口調で言った。
「あのね、先生の言うとおりにしてる真面目君が健全ってわけじゃないと思うの」
「それって僕のこと?」
「そう、君のこと」
あっさり言われて僕は宮原を睨みつけた。だが宮原はいつものふざけた調子ではなく、真面目な顔で僕をじっと見つめる。
「いつもさ、遅れちゃってごめん。反省してる。でもまた遅れてる。ごめん」
人が変わったようなしおらしさに一瞬だけ面食らったが、僕は黙って首を振る。すると宮原は穏やかな視線を僕に向けた。
「こんな私が言うのも変かもしれないけど、君はね、もう少し私のことも頼って良いよ」
宮原は何が言いたいのだろう。首筋が妙に火照ってくる。だが、宮原はすぐに首をかしげると機嫌の悪い猫のように唸った。
「夜に二人でこんなこと言うと誤解招きそうだよね。でも最近さ、元気なかったから」
ああ、と僕は少し落胆気味の声で返した。でも気付いてくれること、直接言ってくれることは嬉しいと思う。色々と呆れるような面があっても今まで宮原と幼馴染を続けてこられたのは、こういう点のおかげだと思う。
僕は間近に迫った、あの子との江差線での再会予定の話をしようと思った。でも、口を開こうとすると何かが引っ掛かる。今、あの子のことを口にすることは何となく憚れることのような気がする。僕は軽く曖昧に笑みを浮かべて、そのうち頼むよ、とだけ呟いた。
「光希、光希、光希、ミッちゃん、ミッちゃん、ミッちゃん、ミッちゃん!」
ぼんやりと目を開けると、必死な顔をしたマアちゃんが僕を見つめていた。そうか、まだ大学受験には時間があるんだっけ。
「君はまだ、一年あるだろ! 君は誰だ!」
宮原、と声をかけようとして周囲が目に入る。床に投げ捨てられた仮想現実グラス。スケッチブックではなく現代のタブレットを握りしめた、長髪が綺麗な、線の細い女の子。
宮原じゃない。この人は、僕のマア姉。
「マア姉、麻奈先輩」
僕の言葉に、ようやく先輩は大きく息を吐いた。僕は安心させたくて言葉を続ける。
「僕は、山下光希」
先輩が僕の頭を優しく撫でる。先輩、マア姉のことは好きだと思う。好きと言っても男女とかじゃなく。安心させてくれる。
僕は祖父と先輩の祖母がかなり仲の良い幼馴染みで、一緒にWebサイトのような印刷物を作っていたこと、編集が祖父でイラストレーターが祖母であったこと、そして二人とも進学で悩んでいたことを明かした。そして少し迷ったけれど、誰なのかわからない「あの子」のことも話した。
「その印刷物は同人誌だね。お婆ちゃんの頃は紙で同人誌を作る人が多かったらしいよ」
僕も祖父が変色した紙の本を読んでいたことを思い出した。わざわざ紙に印刷して配る手間をかけるなんて、随分な情熱だと思う。
先輩は窓の外を眺めながら言った。
「私たちはたった一時間半で会えるけれど、祖父の時代は時間がかかったから、進学で函館を離れることは深刻だったのだろうね」
僕は曖昧な返事を返し、先輩の制服が手に触れてどきりとする。ネットワーク越しでは感じられない今の親密さは、むしろ妙に先輩のことが遠く感じてしまう。
「私は逆に札幌の大学に通学する気だけど」
僕は心を読まれた気がして、そうなんですか、と中途半端な返事を返した。先輩はそんな僕を見つめて薄笑いを浮かべる。やっぱり読まれている感じがした。だがすぐに先輩は真顔に戻り、タブレットを引き寄せると単語を画面中に書き込んで矢印でつないだり下線を引いたりしていく。そしてやっと手を止めると「江差」という単語に二重丸を付けて検索する。次第に表情が険しくなり、最後にタブレットを投げ出した。
「江差に何かあると思うんだけどさ」
「そもそも江差って何のことなんですか」
「函館の隣にある檜山市の中心。合併前は江差町って町だったらしいよ。でも、個人的な昔話が検索に出てくるはずがないし」
言いながら再びBEDに手をかけたので、先輩、と僕は低い声で注意する。先輩は慌てた様子で手を戻してぎこちなく笑った。
「わかっているよ。あとは原始的だけど遺品漁りでもして調べるしかないだろうね」
僕はうなずいて祖父のBEDを手にとると、僕も祖父の遺品を調べますと答えた。
帰宅して父に江差という土地を知っているか訊いたところ、祖母の実家が同じ檜山市にある上ノ国だと答えが返ってきた。
「俺も婆ちゃん、光希から見たらひいお婆さんか。亡くなってから行ってないな」
どんなところか訊くと、バッタや蝶を捕りに行ったのを覚えていると言って少し考え込み、温泉、と呟いた。
「俺も小学生の頃、父さんに連れられて行っただけなんだが、ぬるい温泉でね。あと炭酸ガスが肌に張り付いて面白かったな」
タブレットで上ノ国と温泉を検索すると、二箇所の温泉が見つかった。さらに炭酸で検索すると「湯ノ岱」に絞り込まれた。父は検索結果を見て、そこがその実家だと笑う。
祖母の実家。祖父の記憶にある「あの子」は祖母のことなのだろうか。とりあえず先輩に電話すると、先輩も新情報を掴んでいた。
「当時、函館から江差まで江差線という鉄道が通っていたらしいよ。あと今確認したんだけど、江差線に湯ノ岱駅があったみたいだ」
やはり「あの子」とは祖母のことなのだろうか。でも、祖父と祖母の思い出関係だというならわかるけれど、そこに先輩の方まで絡んでくる理由がわからない。
「お婆ちゃんの保管メールを調べたら、光希のお婆さんと結構やり取りしていたようだ。あと、一緒に美術館に行ったりしているよ」
「三角関係というより、仲良し三人組?」
三角関係って、と先輩が少し軽蔑した声を発したが、すぐに機嫌を直して話を続けた。
「でも、単純に湯ノ岱に行っても意味はないと思う。もう少し情報を集めないと」
僕は了解して電話を切ると祖父の情報収集を再開した。最初に手がけたのは祖父から相続した電子書籍と音楽データで、各々に追加されているタグに江差、上ノ国、宮原、湯ノ岱といったキーワードがないか調べた。
単に調べるだけだとつまらないので、気になった曲を聴き、書籍も流し読みしたりしているうちに、何となく祖父の人となりが見えてきたような気がした。音楽は多くが生真面目なバラード系。本は技術系も文学系も様々、ジャンルが幅広い。購入時期で切ってみると、世代は違うけれどやはり、僕と同じ年齢の頃のものは何となく僕にもしっくりくる感じがある。だとしたら、僕が成長したらやはり似た傾向のものを聴くのだろうか。そしてお爺さんになり、遺品をどうするか考えて。
首筋に死の臭いを感じた。死の向こうで僕を嗤う虚無の気配に寒気が走り、無闇に意味もなく大声を発したくなる。自分の死と、その後も続くこの世界なんて想像したくない。
僕は嫌な考えを強引に振り払い、祖父の狙いを解明する謎解きに集中することにした。先ほどのキーワードだけでは何も引っかからないので、今度は多用されているキーワード順に並べ直すことにした。だが、出て来たのは流星、宇宙、惑星、天ノ川などといったキーワードばかりだ。花梨さんが望遠鏡を相続していたし、天文に興味があったのか。
亡くなってから知る祖父の色々な姿に、僕は今まで、何か重要なことを取り落としたまま祖父と別れてしまったことに気づいた。
一週間経った日、先輩から珍しくテレビ電話が入った。アクセスすると、先輩は長かった黒髪をばっさりと切ってジーンズを履いた長い足を組んでおり、ブラウスの袖は青いインクで少し汚れている。先輩は子供っぽく目をくりくりと悪戯っぽく輝かせて言った。
「私、ちょっと天ノ川を見に行こうと思う」
「天ノ川、ですか? 天体観測ですか」
先輩は開けっぴろげに笑って答えた。
「何言っているの。天ノ川駅からの眺めは綺麗だって教えてくれたでしょ」
先輩は何を言っているんだ。だが僕に口を挟む間もなく先輩は話を続けた。
「じゃ私、天ノ川で待ってるから来てね!」
待って、と声をかけたがそのままテレビ電話が切れた。意味がわからず部屋の中を見回すと、祖父のBEDが目に入った。
ショートヘアにジーンズ。袖のインク。まるで祖父の記憶にあった宮原さん、つまり先輩のお婆さんと似た服装で。そういえば、宮原さんの笑顔は本当に子供っぽい人だった。
まさか先輩は。BEDに何度も接続して記憶混濁を起こしているのか。慌ててテレビ電話を呼び出したが不在と表示される。携帯で呼びかけても不在の答えしか来ない。僕は慌てて天ノ川駅を検索したが何も出てこない。江差線の公式データにも天ノ川駅なんて駅は存在しない。どこだ。どこなんだ。
ふと、僕は祖父から相続した電子書籍と音楽データに天ノ川というキーワードが頻出していたことを思い出した。あれがもし、天文趣味じゃなく「天ノ川駅」のことなら。
僕は祖父のデータベースにアクセスして天ノ川について検索する。バラード音楽に加えて列車の音を録音したデータが出てくる。そして遂に古い個人作成の電子書籍が現れた。祖父が作っていた同人誌だ。だが古い形式なので書籍内検索はできない。もどかしいのを我慢して直接読みながら目次を辿るが、天ノ川なんて言葉は出てこない。
もう一度ゆっくりと見直す。ふと「新幹線開業とローカル線」という見出しが目についた。廃線となった江差線。
僕は本文を慌てて読み進める。言い回しは古臭い上、わからない単語が多すぎる。もっと早くに真面目に読んでおけば良かった。それでもやっと一つの文章を発見した。
「江差線は乗客数が現在、ほとんどゼロに近いものの、鉄道オタクの間では趣味人が作った『天ノ川駅』が有名である」
項目には地図が載っており、天ノ川駅が出ている。焦って地図を叩いたが、当然昔の本なので緯度経度座標が埋め込まれていない。
僕は別のモニタで旧江差線の座標を調べ、その範囲の地図データを取り、祖父の地図を重ねて大まかな位置を確認した。
僕は新幹線の発車時刻を確認すると、祖父のBEDを鞄に押し込んでICカードの残高を確認した。かなり心許ない。僕は父に電話で連絡を入れ、貯金を下ろすための認証コードを送るように頼んだ。
「何で大金が必要なんだ。明日で良いだろ」
「駄目なんだ! マア姉がおかしいんだ!」
どういうことだと問う父に、祖父のBEDを覗いたことを含めて事情を説明する。
「馬鹿な子供たちと非常識な親父たちに挟まれて、本当に俺は貧乏くじだ」
父は言葉を切って溜息をつき、そして今度は意外な言葉を発した。
「俺もマアちゃんの父さんも行き先はきっと見つけられないし、警察に捜索願を出すのも親父に負けたみたいで癪だ。お前が頑張れ」
言って父は僕に貯金解約の認証コードを送信し、さらに小遣いを上乗せしてくれた。
「親父が絡むと俺まで熱くなるから嫌なんだよ。冷静沈着ビジネスマンが崩れるから」
言っているわりに父はなぜか愉快そうな声で、祖父に続けて父の違う面を見つけた気がした。いや、父だけではない。祖父も僕も暴走する気質を実は持っているのだろう。
僕は父との電話を切ると、送られてきた保護者認証コードで貯金を全額ICカードに移し、鞄を背負って札幌駅へと走った。
札幌駅でお茶を買って新幹線に乗り込み、僕は苛立ちを必死に抑えながらさらに天ノ川と天ノ川駅を調べていく。今までアクセスしたことのない、国立国会図書館の電子アーカイブの有料資料についても検索をかける。
遂に当時の鉄道マニアが作った雑誌が見つかり、先ほどの地図と重ね合わせると位置がかなり絞り込まれた。だがやはり、函館からずっとタクシーで走るような距離ではない。
檜山市上ノ国方面行きの公共交通機関を調べると、湯ノ岱温泉行きのバスがある。幸い檜山市内のタクシーがあるので、湯ノ岱温泉からタクシーを使えば何とかなりそうだ。
僕は頭の中で計算し、貯金がなくなることを覚悟した。帰ってきたらバイトで稼ぐか。いや、先輩に全額を返して貰わなきゃ。だから。だから迷惑な先輩には絶対に会って、普通に戻して一緒に帰って来るんだ。
映画一本より短い片道一時間半の路線が、今は自転車のように遅く感じていた。
湯ノ岱温泉前でタクシーを呼ぶと、台数が少なく反対側に行っているため、一時間はかかるから温泉の待合室で待っていて欲しいという。温泉の建物を覗くと、受付にいる恰幅の良いおばさんが僕を手招きして、タクシー待ちかい、と訊くのでうなずいた。
「さっきタクシー会社からメールが届いたんだよ。せっかくだし温泉も入ったらどう?」
僕は気にしないで、と言ったけれど、おばさんは自分のICカードをチケット販売機に当て、僕に貸しタオルを押しつけた。
どうせ暇だし、僕は浴室に向かった。父は温泉にあまり興味のない人なので、僕もほとんど温泉に入ったことはない。脱衣所はかなり古びているが、それなりに清潔なので安心して服を脱ぐと浴室に入った。
浴室内は壁も床も湯花というより金属系の沈着物に覆われ盛り上がっており、何か生物の内臓をすら思わせる。だが、源泉の文字がLEDで輝く二つの浴槽はほぼ透明で、壁や床の沈着物がこの湯が由来だとは思えない。
まごついていると、風呂に入っていたお爺さんが手招きしてきた。言われるままに入るとほとんど体温と変わらない湯温に驚く。
「ぬるいだろ。でも炭酸ガスが溶けているしミネラルもあるからよく効くんだ」
そうですか、と言って湯の中を見ると確かに細かい泡が肌の表面に集まっていた。そういえば父も子供の頃、この温泉に入った話をしていた。祖父のBEDとは交通も何もかも全く変わっているし建物も変わっているはずだけど、この湯は父や、もしかしたら祖父の頃から変わっていないのだろうか。
僕は温泉から上がると、何気なく江差線のことを受付のおばさんに尋ねた。
「江差線の天ノ川駅? そっちに江差線の記念展示室があるから観て行ったら?」
僕は慌てておばさんの指差した部屋に駆け込んだ。その部屋は雑多に江差線の線路や写真などが展示されている部屋で、パネルを観て行くと天ノ川駅の写真があったので、すぐに写真の額縁をタッチしてタブレットに緯度経度座標を転送した。
記念展示室を出ると、ちょうどタクシーが到着したところだった。僕は乗り込んですぐに運転手さんに事情を話した。運転手さんは鼻で笑いつつ、制限速度を無視したスピードで突っ走ってくれる。窓から清流が見え、この流れが天ノ川だという。今すぐ降りて先輩のことを探しに駆け下りたい。
「しっかし青春だな、お前らカップル」
「カップルとかじゃないです、先輩だし!」
「先輩って言っても、俺らおじさんから見たら高校生なんて大して変わらないよ」
また運転手さんは笑い、今度はGPSを見ながら少し速度を落とし始めた。そしてゆっくりと何もない場所で止まると、運転手さんはGPSを指差した。展示室で確認した座標は道路から川寄りのようだ。運転手さんは一時間後に迎えに来ると約束して走り去った。
僕は薮を踏みしだきながら歩いて行く。すると何か人影が見えた。さらに進むと、何かの盛土の跡に座り込んでいる女の人がいた。そう、ショートヘアにジーンズの美人。彼女は僕に子供っぽい笑顔を向けて言った。
「ナオくん、遅いぞ!」
ナオくん。人違いかと思ったけれど、祖父の記憶の中で宮原さんがナオくん、と祖父を呼んでいたことを思い出した。
僕は先輩、と呼びかける。でも先輩は、幼馴染みを忘れたのかな、と笑った。僕は先輩の手を握って大きい声で言った。
「麻奈さん! マア姉! 僕はナオじゃないよ! 僕は光希だ! 今は二〇八四年だ!」
光希、とマア姉は呟いて顔をしかめ、頭を両手で抱え込んで呻き、優しい声で言った。
「私は、君のことが好きだよ。告白までタイミング遅くって、ごめん」
唐突な告白に頰が熱くなった。でもすぐ、マア姉の目に映っているのが誰なのか思い出す。それでも僕の中にこびり付いた祖父の記憶がマアちゃん、と呼びかけようとした。
僕は自分で自分の頰を拳骨で殴り、僕は光希だ、光希だと口の中で唱える。大丈夫。僕はマア姉を正面から見つめて大声で叫んだ。
「僕は、光希だよ! マア姉!」
「私は、宮原。私は宮原? 麻奈? ここは天ノ川駅。君は、私の幼馴染みだよ、ね」
「ここは天ノ川駅じゃない! ここは残骸だよ。記憶の残骸だ! 僕は光希だし、あなたはマア姉だ! 同人誌を作っていた二人はもうとっくに死んで、マア姉が見ているのは死人の置いていったただの記憶の残骸だ!」
マア姉が再び呻き声を上げ、いきなり僕を抱きしめた。僕は両手を背中に回しかけ、でも恥ずかしくて両手を空中で止めてしまう。
だが呻き声が小さくなり、そしてマア姉は僕の額に自分の額をぶつけて呟いた。
「血圧、動悸上昇。君も、私も」
マア姉と視線が間近に交わる。恥ずかしそうな、でも落ち着いた大人っぽい視線。宮原さんのくりくりした瞳はそこにはなかった。
「ミッちゃん。光希くん。ありがと」
僕は安堵の溜息をつき、そのまま地面の上にへたり込んでしまった。マア姉は僕の隣に座り、ぴったりと肩を寄せてきた。
「マア姉?」
「私は佐々木麻奈。光希の幼馴染みで今は二〇八四年で、ここは天ノ川駅の残骸」
大丈夫、と言ってマア姉は立ち上がると薮を踏みしめて道路とは反対側へ進んでいく。僕も慌ててマア姉の後を追った。
しばらくしてマア姉は立ち止まり、バッグから仮想現実グラスを取り出すと天ノ川駅との距離を計ってうなずき、僕を手招きした。
「何もないけれど、良い音が聞こえるはず」
マア姉は耳に手を当て、耳を澄ます仕草をしてみせる。僕も手を耳に当ててみた。遠くで水の流れる音が聞こえる。天ノ川の川音だろうか。マア姉はまだ黙ったまま目を閉じて耳を澄ましている。僕も目を閉じた。
木々が風に揺れている。そのざわめきの隙間に聴き慣れない鳥の声が入り混じる。心配したことや祖父の死、そういった諸々が少しずつ脳内から崩れ溶けていく気がする。
「お爺さんもお婆ちゃんも、この場所を教えてくれたかっただけなのかも」
先輩の言葉にうなずいた。僕は祖母の出身地域も知らなかった。まして天ノ川なんて。
「君のお爺さんと私のお婆ちゃん、そして君のお婆さんの三人で、ここでピクニックをしていた。君のお婆さんは君のお爺さんと高校生の頃、列車の中で知り合ったみたい」
その後は色々あったのだろうけど、と言ってマア姉は地面に寝そべった。
「でもね、三人とも結局は仲良くしていた。だから君と私もこんなに仲良くしている。それが結論だし、この場所は変わらずに素敵」
「変わらずに、ですか」
「お婆ちゃんたちはきっと、色々と変わってきて最後に亡くなった。でもきっと、変わらなかった綺麗なものが確かにあった」
それもお婆さんの記憶ですか、と訊くと先輩は小さく笑って首を振る。
「私はピクニックの楽しそうな光景しか知らない。でもね、私たちが受けた本当の形見分けは、きっと三人の秘密の場所なんだよ」
僕もゆっくりとうなずいた。もし祖父たちの想いが違うとしても、それで良いと思う。
「でも、おかげで君は貯金をはたき、私は自慢の長髪を失くしてしまった。本当に厄介な相続物件を残したジジイとババアだよ」
先輩の言葉に僕は吹き出し、先輩も一緒に笑った。そして先輩は立ち上がると、再び天ノ川駅の残骸に腰掛けて言った。
「でもやっぱり、私たちだって変わらないこと、変わっていくことを大事にしたい」
僕は少し難しい話だな、と首をかしげる。するとマア姉は真面目な表情で言った。
「例えば、君のことが好き、って言ったのは私自身の気持ちでもあるわけだし」
先輩、と言って僕は硬直する。するとマア姉は僕のそばに寄ってきて笑った。
「君は本当に反応が面白い」
「こんなときにからかわないで下さい!」
僕はむくれると道路に向かって歩き出す。マア姉は慌てて僕を追いかけてきて言った。
「ここまで心配してくれる人なんて、親以外には君しかいないよ、私には」
マア姉にはもう騙されない、と答えながら振り向くと、マア姉は頰を赤くして僕の手をそっと握りながらそっぽを向いた。
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