「巴、ウサギが呼んでる」
放課後、河合の声に応えて教室の入り口に行くと案の定、中原が待っていた。中原は河合の顔を上目遣いで見上げる。だが、河合はまるっきり興味なさそうに言った。
「さて私はそろそろ部室行くわ。中原は? 欠席?」
中原が口ごもると、河合は視線を椿に移して少し低めの声で言った。
「ま、無茶しなさんな」
椿は黙ったままうなずく。河合は二人の背中を軽く平手で叩くとそのまま美術室へと向かって行った。怪訝な表情の中原に、椿はうつむいて言った。
「ま、親友に心配かけ過ぎるもんじゃないってこと」
入院して回復して。その後の法歳とのことや苛立ち。そんなほとんどを河合は親友として横で見ていた。見離すことなく、でも無理な助言や無責任な慰めをすることなく黙って見ていてくれたのだ。中原は何だかよくわからない、と言いつつ、あ、と小さく叫び声を上げた。
「あのさっき『ウサギが呼んでる』ってなんでしょう」
おろおろとまた上目遣いで見上げる。椿の同級生が物珍しそうな目で見ながら横を通り過ぎるたびにびくっと肩を震わせる中原を見て、椿は頭の中で中原の頭にウサギの耳をつけてみる。
「うん、バニーガールというより本当にウサギだよね」
椿が言うより早く、横を通った男たちが言ってさっと走り逃げる。
「ウ、ウサギですか私。そんなウサギっぽい?」
余計周りからウサギと言われそうなことを口走っておろおろし始める。椿は中原の首根っこを掴まえると、余計混乱する前に玄関まで引っ張り始めた。
「やっぱ私が計画とか、無理ですよう。ウサギですもん」
「決断なら私がするから。ほら靴履いて行くよ!」
やっぱり河合は河合だ。格好良く気遣いしてもこうやって何かトラブルの種を置いていく。椿は苦笑しながらも、何だか昼からの気負った気分がちょうどよく抜けている自分に気付いた。
五稜郭は黄金週間の花見ほどの人出はないものの、この閑散期でも道内有数の観光地だけあってそれなりの観光客が歩いていた。観光客の呑気な顔や、タワー前のハンバーガーショップにたむろする男子高校生の顔を見ていれば、銭溜ですらここで悪事を忘れてソフトクリームの一つでも食べていても不思議はないような気分になる。
「やっぱり夜、ですか。でも夜の五稜郭は」
中原の言葉に椿は黙ってうなずく。夜遅い五稜郭の暗がりは危険だ。近所に住む大学生が高校生に恐喝されたという噂は結構聞いている。幾ら椿でも悪事をするつもりの沢山の男を相手にする気はない。とくに相手が妖怪の類ではなくただの不良となれば、逆にやりすぎてもまた警察沙汰になって厄介な話だ。法歳と会う前ならいざ知らず、法歳と会ってからは時折、手加減というものを考えないと危険だとしばしば感じるのだ。それに危険な話を抜きにしても、先日の夜だけでも両親から嫌味をしばしば聞かされているのだから、夜は椿自身も避けたい話だ。とはいえ、昼間にこのいかにものんびりした公園を歩き回って何が見つかるというのだろうか。だが、中原は椿の前に出ると両手を叩いて言った。
「でもほら、事件は現場にある、とかどこかの刑事ドラマで言ってましたよ」
「それってほんとにどんな刑事ドラマ?」
中原はさあ、と首をかしげつつ、まあ良いじゃないですかと笑って椿の手を引っ張る。ふと、中原の頰に小さなえくぼがあることに気付いた。まだ子供だな、と思う。自分だって高校生だけれど、中原のそれは、中学生の幼さをまだ引っ張っていると思う。それはもう、進学でコース分けをされたり推薦入試の点数で本当に就職まで決まりそうな子もいる、自分たち二年生にはもうないもので。昨年の二年生達が自分たちのことを子供だと馬鹿にしていたことを思い出して苦笑してしまう。
法歳のことを思い浮かべる。もう法歳は私たちと違って選択の終わった身だ。否、それどころか生きていること自体が本来なら不可思議で。そんな彼から見たら私は。
「椿先輩?」
中原の怪訝な声で我に返る。どうしてだろう、こんな風に考え込んでしまうことなんて今までなかったのに。溜息をつきそうになるのを押さえながら正面を向くと、あらためて五稜郭タワーを見上げた。そういえば五稜郭の歴史をどのぐらい自分たちは知っていただろうか。試しに中原に訊くと、当然普通の高校生レベルの平凡な答えが返ってきた。地元の史跡だと言っても意外と知らないことは多い気がする。
「とりあえず、定番の博物館とタワーに行ってみる?」
「なんか観光っぽい気がするんですけど」
中原は反論しかけ、だが自分も考えがないことに気付いて慌てて頭を何度も下げる。その仕草が何だかおかしくて、椿は思いきり笑ってしまった。
行ってみると入館料は安いわりにあまり人はいなかった。五稜郭は一応史跡なのだが、歴史よりもむしろ公園としての風景やタワーからの眺望ばかりが宣伝されているのだから仕方なくもない。少し薄暗い展示室を二人は眺めて歩く。一応、その記録の中に法歳や銭溜の形跡を探したが、当然そう上手くはいくはずもない。生来このような調べ物が苦手な椿は、展示室を出る前にもう失望しかかっていた。だが、ふと中原は言った。
「展示物、何だか思っていたのと印象が違うんですよね」
印象? と椿が首をかしげると、中原はうなずいて数枚の写真を指差した。
「もちろん、狩野君は化け物の類と戦っているから違うのでしょうけど、でも五稜郭の箱館戦争って、大砲がすごい使われているんですよね」
たしかに軍艦からの砲撃についての話や外に展示してある大砲の説明など、刀よりもほとんどが銃と大砲の話になっている。江戸時代だから刀だと先入観があったが、五稜郭の戦いで正史の中心は大砲と銃だったようだ。だが江戸時代ということだけが先入観を生んでいたのだろうか。
「椿先輩も木刀を使っていますよね。あの化け物たちって、銃が効かないとか使えないとか」
椿はうなずいて展示品をあらためて見回す。そういう可能性もあるし、それ以上に元々、銭溜和尚と法歳のつながりは妖刀から始まるのだ。未だその失った妖刀を追っていても不思議はない。
二人はうなずくと、もう一度博物館の玄関に戻る。とにかく銃と大砲以外の武器。刀やその類の記録を探すのだ。二人の動きに博物館員はかすかに首をかしげたが、仲良い歴史マニアだとでも思ったのだろうか、とくに声を掛けられることもなく二人はまた先ほどみたばかりの展示品を確認し始めた。そして中ほどに差し掛かったとき、ふと椿は足を止めた。
それは土方歳三についての特集コーナーだった。たしか法歳も仲が良いような話をしていたはずだ。展示はその一生を年表にまとめているのだが、椿が目を止めたのは、愛刀の説明だった。
「愛刀の和泉守兼定は現在、土方歳三博物館にあるが、それが箱館戦争で使われたものとは別であり、現在は紛失しているとの説もある」
その刀にも何かの力があったとしたなら。振り返ると、中原はメモ帳に説明を書き写しながらうなずいた。
「ちょっと霊感仲間で刃物に詳しい人、知ってるんです。相談してみましょう」
待ち合わせ場所はアニメイト。聞いた途端に椿は中原の顔を疑わしげに覗き込んだ。刃物に詳しい人とアニメの店で待ち合わせ。偏見はいけませんなどと生真面目な顔をして言う教師でもさすがに警戒しろと言うだろう。中原は椿の冷たい視線に焦った声で、大丈夫ですよお兄さんは、と言う。
「何それ。時々新聞に出てくる危ないお兄ちゃんとかそういう類じゃないよね」
中原は少しむくれた表情になって必死に打ち消す。中原の説明によると従兄で、大学で美術史を専攻しているのだという。歴史と現代の漫画などを合わせた美術史の研究を行っているなのだとか。趣味と学問が一致しているせいもあり、江戸時代の幽霊画や心霊、刀剣の関係もやたらと詳しいのだという。
「大学で漫画と刀剣ねえ。就職なさそう」
「先輩ってわりと堅実なんですか?」
中原の言葉に椿は言葉に詰まる。実際のところ進路については大して模試を受けているわけでもなくまだ曖昧な気持ちで、単純に推薦とかAO入試で入りやすいとか、そういう安易な理由で進路を選んでしまいそうな気がしている。わざわざ就職率の低そうな所を選ぶ理由もない。むしろそういった道を選ぶだけの動機がない。中原は腰に提げたバッグから小さなスケッチブックを取り出してめくりながら言った。
「たしかにお兄さんのところ、就職は少なそうです。まあ私は研究より創る方が好きですし、それに河合先輩みたいにそれで走っていけるだけの力はないですけど」
中原の表情に初めて会った頃のかすかな影が差す。もっと自信を持つなり開き直るなりすれば良いのに、と椿は思いつつ自分のことを敢えて顧みないようにする。早くこんな風に悩む時間を駆け抜けてしまいたいと思う。悩む時間なんて自分には本当に合わない。
話題を妙な方向に持って行ったせいか、二人とも先ほどの勢いを失ってしまった。それでも何とか椿は小さく溜息をつき、その人に会ってみようと答えた。途端、中原は明るい表情に戻って携帯でメールを打つ。だが、了解の連絡を送っているわりにはずいぶんと文字を打ったり消したりでなかなか送信しない。痺れを切らした椿が覗き込んでみると中身は何の変哲もない返事のメールで絵文字もろくに使っていない。
「何ていうか、こんな文章で良いかなとか、迷ってなかなか打てないって言うか」
「いつもの口下手?」
中原は顔を真っ赤にしてこくこくとうなずいた。やっぱり臆病ウサギ娘だと思って内心笑ってしまう。そうしているうちにやっとメールを送信し、すぐに了解のメールが返信されてきた。
「今日、講義もないからすぐ大丈夫みたいです。行きましょう」
椿はへいへい、とまだ気が進まない返事をしながら中原の後を追った。
エレベータに乗ろうとして、降りてくる面々に何だか嫌な予感がする。椿自身は自分であまり漫画なども買ってまで読む方ではなく、河合が押し貸ししてくる雑多な本を適当に読んでいるのが読書という感じがある。そんな椿にとってアニメイトをいきなり指定するというのはかなりの変な人で、更にその場所自体が異空間に思える。
古ぼけたエレベータが止まり、ドアが開いた。店内は普通に蛍光灯が点いていて明るく、本が大量に並んでいるので椿はただの本屋かと思い安心した。だがよく見れば、天井や壁に膨大に貼られた少女イラストばかりという状態に、ああやっぱり異空間、と呟く。
中原は椿に待つように言って店内をさっさと進み、奥で何か漫画を選んでいる瘦せた男に声をかける。男は中原についてきて、中原に耳打ちするのが聞こえた。
「本当に女流剣士が来たね」
やっぱり変な奴だ。椿はもろに顔をしかめる。中原は顔を赤くして男の横腹を指先でつついてユウちゃん、と怒った。椿は思わずそのかわいい呼び方に吹き出してしまう。男は気恥しそうに、ユウジさんでしょ、と中原に囁いた。
「私、中原雄二と申します。従妹がお世話になっているようで」
こちらこそ、と椿は慌てて礼を返す。いきなり変なことを他人に囁いたりする癖にこういう所はきちんとしている。逆に自分は型にはまった礼は慣れていなくて不格好だったかもしれない。大人はずるいと思ってしまう。椿は雄二と向かい合い、続けて何から話せば良いか迷った。すると男は時計を見て言った。
「一応、普通に話できそうって思うなら喫茶店に移らない? いきなり喫茶店で待ち合わせって逆に嫌だったんだよね。閉じた感じで」
言われて椿はあらためて店内を見回した。確かに先ほどから中高生がうろうろと何人も入れ替わり立ち替わり出入りしており、ある意味人目に付く店かもしれない。変な人だが頭は回るようだ。椿はうなずくとラッキーピエロに、と答えた。
ラッキーピエロは函館限定のハンバーガー店で、でき上がりまでに時間はかかるが味と大きさには定評がある店で、北海道有数の観光都市にありながら、観光雑誌の定番を占めているほどだ。芸能人やその他有名人もかなり食べに来ているらしい。その上ハンバーガー以外にカレーライスやオムライスも揃えており、ちょっとしたレストランの趣もある。
「今日はバイト代入ったし、マアちゃんと友達ならおごりで良いよ」
椿はマアちゃんと言う名に一瞬迷い、中原のことかと思い直す。中原は少し顔をしかめてから椿に囁く。
「マサキなんです。雅に妃で雅妃なんです」
「なんか巫女さんっていうよりお姫様っぽくない?」
椿の何気ない感想に、中原は口を尖らせてメニューを開きながら呟くように言う。
「そう言われると思って、あんまり名前言わないんですよ私。嫌いじゃないけど、派手って言うか」
「かわいいから良いだろマアちゃん。ね? 阿川さん、だっけ? 似合ってるよね」
ユウちゃん、と中原が椿には初耳の低い声を発する。雄二はおどけた調子でへいへい、と黙った。それから椿はブラックコーヒー、中原は抹茶シェイク、雄二は紅茶を頼んでピザを一枚頼む。
飲み物が揃った段階で、椿はこれまでの経緯を全て話した。雄二は驚きこそしたものの、とくに馬鹿にしたり否定したり、また逆にやたらと目を輝かせることもなく、教師が生徒の進路相談をするような調子で平然と聞き続けた。最後に土方歳三の刀の話まで終えると、雄二は何事か考え込む。椿と中原も特に声をかけず、二人の間に沈黙が続いた。
「シーフードピザ、こちらでよろしかったですか? ご注文は全てお揃いでしょうか」
店員の声で三人とも一斉に顔を上げる。店員はテーブルの真ん中にピザを置いて行った。椿は早速タバスコを掴んで蓋を開けた。
「先輩、自分の分だけにして下さいよ? 私、辛いの苦手ですから」
中原の言葉に椿は面白くなさそうに口を尖らせる。するとようやく雄二が口を開いた。
「唐辛子は朱色。朱は四神にして朱雀を表す、朱雀は五行にて火を表す、と」
椿はタバスコを握ったまま雄二をじっと見つめる。中原は慌てて椿の横腹を突いて言った。
「陰陽術とか、風水とか、そういうのです先輩」
「つーとー、黄色いのをお風呂に置くと幸福がどうとかこうとか言う奴?」
雄二はまあね、と言って微妙な笑みを浮かべる。何か変なことを言ってしまっただろうか、と椿は二人の視線を受けて居心地が悪くなる。有事はピザを切り分けながら話を続けた。
「阿川さんが魔物と戦っちゃたり、その狩野君の術が効かなかったりした理由だよ。彼も『辛いもの』と言っていたんだろ? 要はそういう力の象徴だから魔力とか弾くんだと思う。辛子の黄色も意味のある色だし」
はあ、と椿は毒気を抜かれた感じで背中を椅子に預け、雄二が取り分けてくれたピザをタバスコで真っ赤にしてから食いついた。雄二は呆れた表情でその食べる姿を見つめながら話を続ける。
「さっき言ったとおり、椿さんを『火』と考えれば狩野君が木刀を与えたのもわかるんだ。木は燃えて火を生むから、火の力を伸ばしてくれる」
本当かどうかわからないが、とりあえず筋は通っていると椿も思う。少しは信用できるかもしれない。雄二が一息ついてピザを口に運ぶと、椿は刀の捜索を続けるべきか問いかけた。雄二は少し迷い、そして言った。
「君が土方歳三の刀に目を付けたのはなぜ? その和尚を倒せそうな武器か何かを先に探すってこと? それをその狩野君抜きで走るなんてかなり危なくない?」
非常識が大人の常識を口にし始めた。途端に椿の気持ちが冷めてくる。冷めかけたピザのチーズを口に入れた瞬間のがっかりした気分と似たような気持ちに襲われる。中原に目を向けると、やはりもう不安そうな顔で椿を窺っている。だが急に雄二は不思議な笑みを浮かべて言った。
「きちんとリスク管理できない人間に、重要な情報は渡せないんだよ。リスク管理ができるなら別だけど」
怪訝な表情になった二人の顔を見比べて再び悠々とピザを頰張りながら、雄二は低い声で言った。
「君たちは今、偶然にも最短距離を走ってきてるんだ。僕は、君たちの欲しいものを知っている」
二人は息を飲んだ。だが雄二は表情を強張らせて言った。
「つまりもう、僕ら三人は狙われるんだよ。君らだけじゃなく僕も。僕は知識があるだけだ。だから狩野君をすぐに呼び出して欲しい」
それは、と言いかけ、椿は力なく首を振る。今はまだ無理だ。もう少し。もう少し時間と、それに何か横に立てるだけの何かが欲しい。それまではまだ、法歳に頼るわけにはいかない。法歳に任せたりはしたくない。雄二も仕草だけで椿の気持ちが何となく伝わったのか、力なくうなずいた。
「じゃあさ、次の土曜日にでも集まろうよ。それまでに気持ちを決めてくれればさ」
雄二の言葉に椿と中原がうなずきかけた。と、椿の席の背後に男が立った。
「俺、馬鹿だから呪術使えないんだよな」
まずい。椿は避けようとしたがいきなり椿の後頭部を男が殴りつけた。椿はそのままテーブルに倒れ込む。それと同時に店内に煙が立ち込めて火災報知器が鳴り響いた。雄二は中原の手を引っ張ると抱きあげる。男は椿を抱え上げて雄二に向かおうとする。しかし雄二はタバスコをテーブルに叩きつけて割ると、中身の液で男に向けて何か文字を書いた。男は悲鳴を上げて後ずさる。
「後できっと助ける!」
雄二は椿に向かって声を掛けて中原と自分の額にタバスコで「消」の字を書くと、店のドアを蹴り開けて中原を引きずるようにして店外へと逃げ出して行った。