星を観ませんか、という中原からのメールに椿は首をかしげた。月蝕が起きるとか彗星が来ると言った話は全く聞いていないし、中原に天文の興味があるとは思えない。かと言って女同士で何となく星を眺めようというのもよくわからない話だ。ふと銭溜の容貌が頭をよぎったが、何となく銭溜がこんな細かい手管を使うようには思えない。どんな目的があるにせよ、幾ら何でもあの怪僧がぽちぽち携帯で女子高生の文体で絵文字入りメールを打つ姿だけは思い浮かべられない。
でも、もし違えば。椿は携帯を手に法歳の部屋の前に立った。だが戸を叩く手はやはり動かない。桔梗がどうしたという話ではなく、法歳に話しかける勇気がない。法歳と笑える自信がない。結局は声をかけず独りで外に出ることにした。
中原が指定した待ち合わせ場所は校舎裏の空き地だ。流石に不安なのでいつもの木刀とペンライトを背負った。独り歩くのは寂しいのでiPodもポケットに入れる。親にはコンビニに行くと言って、荷物を見られないうちに外に駆け出す。普段夜遊びなんてしない真面目な子で通っていることが救いだと思う。
そのまま近所のセブンイレブンの前に着くとトイレを済ましてオレンジジュースを買った。奇妙な外出のせいか、店員が訝しく感じるかと一瞬不安を抱いたが、普段と変わらない対応をされて少しは気持ちが落ち着いたような気がする。店の前で一息に飲んで、酸味で気持ちを目覚めさせる。何だか朝の出勤前のおじさんが缶コーヒーを買うコマーシャルを思い出して苦笑してしまう。だが出勤というか、戦闘気分の自分に軽い驚きを憶えた。
椿は空き缶を店のごみ箱に投げ込むと再び歩き始めた。このコンビニを離れてしまえば、学校まではもう街灯以外に明かりはない。法歳と会う前には全く気にしなかった夜道の闇の深さに早足になる。不安を鎮めるため、敢えてiPodの音量をいつもより大きくする。河合に勝手に入れられたアイドル系の能天気な曲が妙にいらつかせる。
足元の砂利に気づいたのは数歩、砂利道に足を踏み入れてからだった。音楽を大音量でかけているせいだろうか。椿は不安に駆られて周囲を見回す。すると道の奥で小さく光が揺れた。椿はプレーヤーの電源を切って光った方に駆け寄る。中原がかすかに頰を紅潮させ、大型のハンマーのように大きな懐中電灯を持って立っていた。椿は軽く手を挙げてから、椿の懐中電灯を自分のペンライトで指しつつ言った。
「この武器みたいなの何?」
「もちろん懐中電灯ですよ」
全くおかしなことがない、と言いたげな顔で答える中原の頭を子供を扱うように撫でながらあらためて問いかける。
「だから、な・ん・で、こんなでかい懐中電灯なんだって訊いてんの」
中原は小さくうつむくと、懐中電灯を平手で叩きながら答える。
「椿先輩と星を観にいくって父に言ったら、電池が切れないように、それから護身用にもなるように、ってこの懐中電灯を渡されたんです」
護身用になる懐中電灯なんて随分変なことを考える人だ。だから銭溜になんて狙われるんじゃないか。椿は内心思って溜息をつく。だが、中原は構わず笑顔で空を懐中電灯で指した。
「もうオリオン座が見えるんですよ。冬の星座」
へえ、と椿は返してからふと周辺を見回した。肌寒くなったが、この場所のこの時間、何か見覚えのある風景だ。
「幽霊騒動で一緒に来て、もう冬になりそうなんですよ」
言われて椿は小さく声を上げた。そう、法歳と出会って間もなく遭った騒動。あのときは危険と言っても大したことではなく、むしろ楽しむ余裕がどこかにあって。
「みんな、仲がよくって」
中原の言葉に椿は唇を噛む。中原の言いたいことはわかる。だが、そんな嫌味を言うためだけに夜に呼び出すような子には思えない。あらためて椿は中原を見つめ返した。中原は数回深呼吸をして、正面から椿を見つめて言った。
「狩野君を、助けてあげましょう」
仲直りしてくれとか、又は恋愛話をされるのだと思い込んでいた椿は、あまりの意外な言葉に唾を飲んで中原の口元をじっと見つめる。だが中原はそんな椿の様子も構わず話を続ける。
「私達、狩野君に助けて貰うことばかりじゃないですか。もちろんあんな化け物と戦うなんて私達にできるはずないんだから仕方ないですけど」
そりゃね、と返して椿は顔を背ける。だが中原はそっと椿の肩に手を触れて続けた。
「でも、全く違うことでなら、むしろ私達の方が助けてあげられる気がするんです」
「全く違うこと?」
中原は黙ったまま腰を下ろした。椿も自分のペンライトを消して中原の隣に座る。中原は大きな懐中電灯を空に向けて地面に立てて星空を仰ぐ。椿も問いかけたい気持ちを抑えて一緒に星を眺める。
二人で一分ほど黙ったまま空を眺めていたが、再び中原は顔を天に向けたままで口を開いた。
「星空って、千年も経つと少しは違うそうですけど、狩野君の時代と私達の時代だとほとんど変わらないんですよね」
地学は苦手、というそっけない椿の答えに、だが中原はひるまずに話を続けた。
「そう、変わらないんです。星から見たら江戸も平成もほとんど瞬間でしかなくって。そう考えると、私と椿先輩が会ったのも、私と狩野君が出会ったのも偶然って意味ではほとんど大差ないかもしれないなって」
偶然、という中原の言葉に椿は引っ掛かった。こんなありえないような現実が単に偶然で片付けられて良いのだろうか。辛味が大好きで法歳に巻き込まれた自分。特異な巫女の能力で巻き込まれた中原。もちろん学校の全員が偶然ではないとまでは思わない。
ただ、法歳が目覚めたことは偶然なのか。中原は椿の疑問を見透かすように問いかけた。
「工事で目覚めたって聞いていますけど、それって本当に工事のせいなんですか」
「法歳が言っては、いたけど」
言ってはいたけれど。法歳にとって確証のあった話なのか、それとも単にその場の雰囲気で適当にそう思うことにしたのか、その辺はよくわからない。何より、法歳は戦うことは知っていても周辺のことにあまり気を使わないところがあるかもしれない。そこは椿にとってむしろ心地良い点ではあるのだけれど。
ここまで思って椿は自身の頰が火照ることに気づいた。中原がこの暗い星空の下での話し合いにしてくれたことに感謝する。
「狩野君のこと、嫌いにはなっていませんよね」
「そんなこと当然」
言いかけてから、言葉を続けられなくなる。当然、何だと言うのだろう。当然と言ったわりには迷いばかりで何も言えない自分に気づいた。中原から少し体を離して再び空を見上げる。法歳のことは怖い。でも、怖いなら銭溜と一緒だろうか。違う。法歳とまた笑いたいと思う自分がいる。法歳のことは嫌いになれない。それに。
「私が狩野君を独占したら、どうでしょう」
「このお人好し」
軽く鼻で笑って中原の頰をつついた。そんなことを言われたら駄目だと思うに決まっている。自分は法歳のことを恐れて、でも好きなんだ。だけど。
「私は悪人だから気持ちは言わない」
少しだけ悪戯できる自分がいる。椿はそう思ってこのお人好しの後輩がいとおしく感じた。中原は小さく笑ってから再び真面目な声で話を戻した。
「工事で目覚めた、っていう狩野君の推理、間違いだと思っています。だって偶然が軽すぎるから。私の勝手な勘ですけど、むしろ五稜郭タワーとか、そういうのじゃないかなって」
五稜郭タワーは新築されて大して期間が経ってはいない。だからと言って新築された瞬間に現れたわけでもないので無理があるように思う。だがそれでも椿は中原の話を面白く思った。
「良いね、その想像。もうご都合主義だけど、でも面白いかもね」
「それだけじゃなく、私の事件のときに廃墟同然の四稜郭が使われたじゃないですか。なのにあんな大きな施設で大きな騒動が起きていないじゃないですか」
「中原って頭良いね」
それほどでも、と言う中原の声に軽い自慢が混じっている気がする。そういえば中原は結構上の大学を目指しているような話を河合から聞いたような気がする。気の小さい娘だとばかり思っていたけれど、いつの間にか自身が追い抜かれてつつある気がして椿はかすかに焦りを感じた。
ここまで話しておきながら、中原は急におずおずし始めた。椿は首をかしげて訊く。
「で、明日辺りから調べたりする? 何を調べたら良い?」
「それは、その」
煮え切らない返事でやっと椿は気づいた。やはり引っ込み思案の中原だ。推理までしておいて実際に踏み出す気持ちに届かないのだ。でも、そこで根性勝負に出られるのは。
「じゃ、明日から。私達で協力して行こうよ」
やっと中原は安堵の溜息をついて小さく、はいと答えた。椿は中原の首に手を回してぐっと体を引き寄せる。中原は驚いて身を硬くしたが、すぐに安心したように体を椿に預ける。あらためて空を仰ぐと、最初に来たときより星が澄んでいるように感じた。
またしばらくぼんやりと空を眺めてから、椿は中原に訊いた。
「何で夜空なの?」
中原は少し迷ってから、いつもの気弱な調子で答える。
「学校は狩野君も河合先輩もいますし。他の所も考えたんですけど。私達の不思議が始まった場所で、もう一度考えてみたいな、って」
一見無意味なこの考えに、椿は何となく納得した気分になった。理由はなくただ共感した。うなずくと、中原は少し悪戯っぽい声で言葉を付け加えた。
「たまに先輩のロマンチックなところも見てみたいな、とか」
中原、と軽く叱りながらも再び椿は中原の肩を抱き締めた。中原はますます子供のように椿に甘えるように頭を預けながら、お姉さんみたい、と呟く。この日の夜遅く、二人とも自身の両親に外出を咎められつつも、椿はむしろ誇らしく思った。
中原との夜遊びから明けた翌日、早速椿は昼休みに中原の教室を訪ねた。ちょうど中原が弁当を鞄から出したところだったので、椿は売店で買ったサンドイッチとペットボトルのお茶を見せて外へと誘いだした。ちょっとした話をするなら剣道場か美術室が慣れているし外で食事をするにはもう寒い季節だが、それでも椿も中原も今日は何となく二人だけの場所を探したい気分になっていた。
ぶらりと校庭を回ると、二人とも今まで気づかなかったカップルがこの寒空の中、数組いるのがわかる。
「結構いるんですね、その、付き合ってる人」
「高校生になれば普通よ普通。とくに上級生になれば」
「それのいない椿先輩と河合先輩は」
椿がにっこりと微笑んでみせると、中原はわかんない私にはまだわかんない、と口走って口をつぐむ。椿は軽く中原の頭をこづきながらも、強くなったな、とまた感慨にふけりそうになってしまう。実際、自分と中原という組み合わせは自分でもかなり不思議な組み合わせなのだ。河合は芸術家肌だが、それ以上に変人で無駄に有り余った行動力はある面、自分と同類の匂いすら感じる。だが、この中原は最初、本当にいじめられっ子の典型だと思ってしまった子だし、運動神経は未だに改善する様子は全くない。
でも。椿の横に立ちながら良い場所を冷静に探す中原は意外に大物のような気がする。いや、そもそも普段見せている弱気な面も、あまりの慎重さが逆に悪く出ていただけなのかもしれない。中原の容貌と言えば、最近はまた黒髪が流行ってきたとはいえあまりに深い黒髪と、それと対照するほど白いくせにきちんとうっすらと赤みの射した肌だ。その線の細い美少女風の容貌のせいで先入観も強かったようにも思える。そして、それを中原は上手く使える子なのかもしれない。
「あそこ、ちょうど良いように思いますがどうでしょう?」
中原は一本の銀杏の木を指差した。それは高校の裏庭の立木の中でも一際大きく、そのせいで逆に先客が誰もいない場所になっていた。木の根元はほとんど人の踏んだ跡もなく、あまりに目立つせいでいつも誰も場所をとっていないのだろう。色々と見ていたくせに、よりもよってそんな場所を選ぶ大胆さはむしろ椿には心地よいものだった。
もう銀杏の葉はほとんど落ちてしまっており、三味線の撥形の葉が地面を覆い隠していた。二人は腰を下ろすと食事を広げる。何となく二人とも声をかけず、黙って食べ始める。だが椿は、時折ちらちらと落ち着かず見上げる中原の視線を感じる。サンドイッチを半分平らげたところで、椿は口を開いた。
「銀杏の木ってさ、生きる化石なんだって」
中原は不思議そうに葉の落ちた枝を見上げる。椿は生物の授業で先生が雑談で話した内容をそのまま語った。授業によれば、古い時代に繁栄していた銀杏の仲間の植物は現在の銀杏たった一種だけを残して滅び、分類上では属のレベルまで近縁種がないのだという。
「時代遅れ?」
中原の言葉に椿は首をかしげる。何でこんな話を今、中原に話しているのだろう。そもそも生物なんてそんなに興味があるわけでも得意科目でもないのに。何でこの話が妙に頭に残ってしまったのだろう。本題に戻ろうと思い、ふと法歳の顔が思い浮かび、ふと法歳の名前を呟いて言葉を飲み込んだ。法歳もたった一人、この時代に残ってしまった人。もちろん銀杏は種や進化の話だけれど。何だかそこには共通点があるように思えた。他の木と同じ仲間のような顔をしているくせに、葉を触れば砕けることもなく合成物のような手触りの銀杏の木。そんな、ほんの小さな違和感でも決して混じり合えない証拠となってしまう。
「違っててもさ、この木みたいに他の木の真ん中に立ってたって良いよね」
何とか絞り出した言葉に中原はうなずく。椿はいったん大きく溜息をつき、あらためて中原を正面から見つめる。高校に入学して半年が経ち、ようやく中学生のあどけなさが抜けた程度の、だがまだまだ幼い中原の容貌をじっくりと見据えた。
「五稜郭タワー調査の件なんだけど、計画は中原にお願いしたいの」
「私が計画、ですか?」
中原はいつもの上目づかいに多少不満の色を混ぜて口を尖らせた。今日から始まる五稜郭タワー調査。昨晩は自分が引っ張るようなことを勢いで言ってしまったものの、全くどうすれば良いのか見当もつかない椿は、結局中原の直観に頼ることにしたのだ。幾ら見当がつかず、精神的に頼るのではなく直観が欲しいだけだとはいえ。
「ここは中原を頼るしかないと思うんだ、うん」
頼る、という言葉を笑顔で言う椿は、中原にとっては何か見知らぬ動物を見るような違和感がある。それでもまさか本音を言うような無謀さは当然中原にあるはずはなく、中原は無理に笑顔を作って答えた。
「私も霊感とかあると言っても、狩野君のような訓練を汲んでいるわけではないので、何とも」
いつものように他人の背中に隠れようとする中原に、椿は妙に開き直った態度で言った。
「私も色々考えたの。先輩として私がどう振る舞うべきかとか、私が今まで法歳からどんな話を聞いていたっけ、とか。で、それを一晩考えた結果なんだけど」
中原は嫌な予感がした。だがそれでも気圧されるように椿の言葉を待つ。
「やっぱ私、体で考えるのが合うみたい、って。頭と感性で動くのは、芸術が得意で成績も良い子の方が合うと思うわけ。年齢は関係なく」
「何だか河合先輩が乗り移ってませんか」
言われても椿は豪快に笑い飛ばす。笑い飛ばすと決めたのだ。今はもう、くだらない矜持になんて振り回されたくない。さすがに今はまだ、法歳の部屋に直行するほど割り切れるはずはないし、目を逸らしてしまうことは変われないけれど。でも、そんな気持ちをずっと引きずり続けるようなわだかまりはどこかに消えていた。
そんなことより。法歳の過去より、法歳の過去を暴きたてて恐怖の気持ちを縫い込んだあの怪僧が憎い。あの怪僧にもう、これ以上好き勝手なことをさせたくはない。中原には悪い気もするけれど、奮起させてくれたからには最後まで付き合ってもらうことにしよう。
中原は溜息をつき、だが少し柔和な表情になって言った。
「そこまで椿先輩が言うのでしたら、私も頑張ってみます。でも」
中原は、よほど仲の良いクラスメイトでも見たことのないような精一杯の傲慢な表情を浮かべた。
「勝手な暴走は、私が許しません」
椿は小さく笑って、中原が痛いと怒るほど強い力で中原の手を握った。