文芸船

魔戯画師

第二章 戸惑う心

第五節

 走り込みをしていて良かったと思う。走り込みを必要だと頑として譲らなかった去年の部長は、当時は目障りだったがこうして銭溜を追っていると感謝したくなる。もちろん、こんな事態を想定していたわけではあるまいが。

 山道は走りにくい上、銭溜の狙いがわからないぶん尚更体に堪える。中原の祖父をさらったように、自分も魔物に拉致されようとしているだけなのかもしれない。だが、背中を覆う濃厚な霧を見れば引き返すこともずいぶんと困難に思えた。むしろ背中からあの銭溜の手が伸びると思えばたちが悪い。

 椿は走りながら密かに手近な木々に小刀で傷をつけながら進んだ。何かの目印になるかもれないし、法歳が「呪力を塗りこめておく」と言っていたからだ。術など何一つ知らないが、何かのきっかけにでもなれば儲け物だ。

 銭溜が振り向いた。気づくと霧はより深くなり、夕暮れのように暗くなっていた。いや、夕暮れに喩えるには安堵感があまりにもない。椿はふと、銭溜の心を覗き込んだ気がした。

「小娘よ」

 銭溜が囁くような声で語りかけてきた。椿は小刀を構え、口を結んで答えない。銭溜は微動だにせず、先ほどより少し大きな声で再び声を発した。

「椿殿よ」

 初めて名前を呼ばれた衝撃に、椿の口から小さく呻き声がこぼれる。銭溜は小さく微笑み、ゆったりと何気ない様子で長刀を抜いて掲げた。

 椿の頰を冷や汗が流れる。それは真剣を見た恐怖とは異質なものだった。猫の死体が転がっているのを真正面から見てしまったときのような、そんな嘔吐したい気分に似ていた。だが、それでも椿はその剣を凝視した。

「強いな、そなたは」

 銭溜は小さく驚嘆の声を発した。だが、椿は口を閉じたまま銭溜の隙を窺う。それでも銭溜の不自然な姿勢には何故か全く隙が見つからなかった。椿は焦燥に駆られた。

「この時代、ビデオとかいう随分と便利なものがあるようだな」

 あまりの予想を外れた銭溜の言葉に、椿は思わず手の力を緩めてうなずいた。すると、銭溜は嬉しそうに長刀を揺らして言葉を続けた。

「そなたらは便利なものを持って、ずいぶんと幸せなものだ。拙僧らの時代には、法術でも使わねばあのようなことは出来んのでな。ところで」

 言葉を切ると、銭溜は長刀をゆっくりと回しながら言った。

「幸いと拙僧は法術使いの身なのでな、江戸を見せてやることができるわ」

 椿は慌てて身を引こうとする。だがそれより速く銭溜は長刀を椿に向けた。

 椿の眼前が暗転した。


 夕暮れの中、松が立っていた。こんな松が北海道にあるわけがないと思う。それ以前に、鞍をつけた馬が松に寄り添っているなどあるはずがない。椿は一度目を閉じ、大きく目を見開いた。だがそこに見えるのはやはり江戸時代らしき情景だ。銭溜の術中にあるらしい。とはいえ、いきなり全く見ず知らずの土地に呆然と立たされたままでは術を破る方法など思い浮かぶはずがない。椿はおそるおそる一歩を踏み出そうとする。すると松林の向こうに人影が見えた。椿は思い切ってその人影に近寄っていった。

 着物を着た少年が振り向いた。それは、椿のよく見知った顔だった。法歳、と椿は呼びかける。だが彼は彼女に気づかないようだ。再び椿は叫んだ。だが、彼の耳には何も届いた様子すら見えなかった。

(ビデオ?)

 銭溜の言っていた言葉を思い出し、妙に納得する。それよりも、この映像が終わるまでは自分の身に危険はないと確信できた。殺すつもりならこんな手の込んだ技など使うはずもない。だがそのぶん、今見せられている情景そのものが銭溜の罠だと言われているようなものだ。椿は爪を手の平に食い込ませるように両手の拳を握る。

 眼前の法歳は椿の知る法歳よりも少し明朗な印象があった。勿論、普段の法歳が暗いというわけではない。何かの拍子に隠せなくなる憂いが、まだ目の前の法歳には全くないようだ。

 急に法歳が誰かに手を振った。彼が見ている方向に目を移すと、そこに一人、薄紫色の着物を着た少女が立っていた。髪型や服装のせいではなくどこか上品な印象だ。だがその容貌からは勝気な性が読み取れる。ふと椿は誰かに似ていると思った。だが、思い出そうとしても名前は浮かばない。中原や河合はもちろん、近所のコンビニの店員まで思い出したが、やはり当て嵌まる人物は記憶になかった。だがそれでも、誰かに似ていると思う。

 少女は法歳の前で立ち止まった。法歳が懐から何かを取り出した。少女は微笑み、それを大事そうに受け取る。椿はその何かが気になってたまらなくなり、近寄って少女の手の中を覗き込んだ。それは、小刀と絵筆を飾りにあしらったかんざしだった。少女は懐からそっくりの懐刀を取り出し、その柄で法歳をふざけた様子でつついた。法歳は笑って筆を取り出すと、空中に桜の花を描く。描いた花はそのまま少女の周囲に雪が降るように舞い散る。次第に積もる桜の花びらは形を変え、遂に一輪の桔梗に姿を変えた。

『桔梗、夫婦になろう』

 法歳の声だった。椿は体が一瞬で沸騰したような錯覚に襲われた。だがそれでも椿は歯を強く噛み締めて動じなかった。今は何より、銭溜と戦うことに懸命だった。そしてそれこそが、今の自分が全てに勝つ唯一の手段だと信じた。

 突如、世界が夕闇に包まれた。映像の早送りだろうか。いや、法歳が筆を手にしている。桔梗も先ほどの懐刀を抜いて構えている。空を羽音が埋め尽くした。空が鴉で闇色に変わっていた。周囲に生えた草が赤黒く変色し、海藻のように揺らめき始める。木々が不気味に枝を延ばした。大地に満ちる全てが禍々しい容貌を見せていた。読経の声が聴こえる。次第に声が大きくなってくる。読経の合唱が近づいてくる。二人はぴったりと寄り添いながら周囲を見回す。しかし彼らにも椿にも、何の姿も見出せなかった。

 刹那、桔梗は法歳を突き飛ばすと大きく手を広げると松の樹に向かう。松の枝が槍のように桔梗の胸を貫いた。法歳は駆け寄って枝にしがみつく。法歳は狂乱するように筆を振るう。だが、松の枝は何の影響もなく深く、深く抉っていく。桔梗が叫んだ。

『狩野様と永久に!』

 枝が桔梗の体を引き裂き、銭溜の声で哂った。


 椿は少しの間、気絶したようだった。目を開くと、血に濡れた桔梗の着物を抱き締め、放心している法歳の姿が見えた。間違いなく姿は法歳だった。だが椿は彼に禍々しさを感じた。

 法歳は着物を絞ると地面に血液を垂れ流した。その血液を法歳は筆に取り、自らの体に何か模様を書き込んでいった。書き込みながら法歳は笑っていた。

 耳元で突然、銭溜の声が響いた。

『椿殿、これこそが魔戯画師の誕生だ』

 嘘だと思った。銭溜の言葉を信じる必要などない。だが、目の前の法歳は筆を取ると、松の枝に「炎」と一文字書いた。途端、松の木は爆ぜ、そのまま炭化してしまった。

『不自然だと思わぬかね。救うために魔戯画の技を使わなかった法歳を』

「こんなの、お前の作り事でしょ」

 椿の叫びに銭溜は余裕の声で哂った。

『なら狩野殿に訊くが良い。魔戯画の人外の力、いかにして手に入れるのか、とな』

 椿は恐怖した。銭溜の力でも見せられた映像でもなく、法歳に恐怖した。それはあってはならない恐怖だった。だがもはや、椿の中で法歳はいつもの笑顔を見せてはくれなかった。

 銭溜が優しく笑い、椿の肩に手を掛けた。いとおしむように椿の肩をそっと撫でた。椿は何となく、このまま身を任せてしまいたい衝動に駆られた。

『疲れただろう』

 銭溜の気遣う声が聞こえた。自分は銭溜を頭から嫌い過ぎていたのではないのか。法歳の言葉だけを信じすぎていたのではないか。ぼんやりとする頭で椿はそんなことを思った。

『ほんの少し、休むと良い』

 少しだけ。そうだ、法歳が来て以来しっかり休んだことはなかった気がする。少しぐらい休もうか。椿はゆっくりと目を閉じようとした。だがふと、西日の向こうに小さな石碑が立っているのが見えた。それは幕軍を弔ったという、立待岬の碧血碑だった。

 突然、銭溜から漂う生臭い匂いが鼻をついた。椿は目を見開き、小刀を握り直して飛び逃れた。銭溜が大きく呻き声を上げる。

「幕軍の愚か者どもが。霊になってまで拙僧を妨げるか」

 銭溜の顔が火傷を負ったように膨れ上がっていた。開かなくなった目を無理に見開くと、椿に指を突きつけて叫んだ。

「良いか小娘。今日見せたことは全て嘘偽りない。この術は何人も嘘は混ぜられぬ! よくその頭と、心で感じるが良いわ」

 背後の石碑が大きく輝くと、銭溜の姿は泥水のように溶けて地面へと吸い込まれていった。椿は全身の力が抜け、そのまま大地に倒れ込んだ。

 耳元で桔梗のすすり泣く声が聞こえた気がした。


 目を覚ますと、椿はベッドに寝ていた。傍には両親と担任、河合の姿があった。

「水分はしっかりとって。熱射病は意外に怖いですから」

 看護婦が仕事への責任感が混じった優しい声で言った。ぼんやりする頭でもう一度周囲を見回す。奥に探していた人物の姿があった。

 法歳が硬い声で言った。

「じっくり養生した方が良い」

 うん、と普通に答えようとした。だが声が出ない。いや、法歳に答えを返すことに嫌悪感を感じたのだ。法歳は哀しそうな表情を浮かべた。

「椿、今日の遠足で」

 だが椿は法歳の言葉を手で遮り、顔を背けると言った。

「法歳、帰って」

 周囲がどよめく。何よりも、法歳の驚愕は顔を見なくてもわかる。何よりも椿自身が驚いていた。だがそれでも言葉は止まらなかった。

「もう疲れたの! 帰って! みんな帰って!」

 看護婦が小さくうなずき、周囲に目配せを送る。それでも法歳は何か言いたげに手を伸ばした。だが椿はその手を甲で打ち払った。

 両親を最後に、全ての人が部屋を出て行った。窓から西日が差し込んでいた。眩しさに椿は布団を被った。布団を握り締めながら、椿は暫くの間独り嗚咽していた。

休章 結氷期

 本当はわかっていたのかもしれない。法歳が業とでもいうべき何かを抱えていることぐらい、わかっていたと思う。法歳の気持ちを考えて江戸の話を無理に聞こうとしなかったなんて、実際は自分を誤魔化すだけの嘘だったのだと今ならわかる。私はただ、法歳の過去から目を逸らしていたかっただけだ。退屈な高校生活に刺激が欲しかっただけだ。法歳に巻き込まれた闘いは、刺激というにはきついものだけれど、それも私にとってはいつもの唐辛子味のようなものだ。唐辛子の代わりに毒を飲んだりはするはずがない。

 法歳の過去に毒があることは、たぶんあの銭溜和尚の話が出た頃には気づいていたように思う。でも私は全く正視する気がなかった。今までの少し強すぎる刺激が続いてくれる、そんな自分勝手なことしか思ってはいなかった。でも、そんな私の気持ちを見事に銭溜和尚に破られた。

 ねえ、法歳。

 法歳の姿がなくなると、君の名前を呟いている自分がいる。なのに会えば言葉をかけるどころか背中を見せることしかできない。でも、法歳のこと、嫌いになんてなっていない。法歳とまた一緒に笑いたい。法歳と冒険したい。そして、いつかの仲直りのときに出来なかった続きも。

 ね、法歳。

 君の隣にあった私の場所、まだ空けていてくれているね。こんなに君のことを傷つけているのに。充分傷ついた君を苛むことしか出来ない私のために。一緒に闘おうって、力になるって約束したはずなのに重荷になっている私を守ってくれているね。

 待ってとは言わない。待ってくれなくても恨まない。だからお願い。自分のこと、大切にして欲しい。伝わるはず、ないけれど。

 法歳、好きなんだよ。

 戦う相手を見失ってしまった。ある意味、僕は銭溜に完敗したんだ。桔梗のときにと全く違う形で銭溜は僕から椿を奪おうとしている。いや、ほとんど奪われてしまった。今の椿は剣道も捨て、学校も週一日しか行こうとしない。声を掛けても僕の方が学校に追いやられる。もう僕が椿の家にいる理由はない。外で椿を守りながら敵を探る方が良いのかもしれない。だが、今の僕にはそれは出来ない。ここを離れることが、僕には恐ろしい。

 椿、僕は弱すぎる。

 この時代で初めて見たテレビに出ていた英雄なんかじゃない。僕はただの絵師だ。魔戯画なんて下らない。結局、僕は非力な亜流の絵師に過ぎない。君は僕を強いと言ったけれど、むしろ特別な力が無いのに耐えてきた君の方が眩しい。

 敵は今の僕たちを楽しんでいるのだろうか。全く攻撃の様子もない。だからある意味、僕は何も出来ない。謝ろうにも、何について謝れば良いのかすらわからない。今の僕は無為に時間を過ごしているばかりだ。あの事件の日以来、何もかもが凍りついたように思える。それほど僕は弱い。

 だから椿、せめて君を待つことを許して欲しい。

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