文芸船

魔戯画師

第二章 戸惑う心

第四節

「これってさ、ちょっとした修学旅行気分、ってやつ?」

 あまりにお気楽な西原の台詞に思わず椿は失笑した。だが、たしかにクラスメイトのはしゃぎようと、あちこちで口を開けているお菓子の袋は半年前の修学旅行を思い出させる。あのときはまだ法歳はいなかったことに気づき、彼が当然のようにいることに不思議な感慨を感じた。

 すると椿の表情をどう読み違えたのか、これは本当に良いアイディアだったよね、と西原が自画自賛する。だが椿は最後部席に陣取る河合を黙って指差した。なるほど、河合の鞄はやけに小さく、到底材料が入っているようには見えない。西原は嘆息してからかい気味に織田に尋ねた。

「カップラーメンじゃねえだろうな」

 西原は声をひそめて織田に尋ねた。すると河合と同じ班の織田は大きく溜息をついて答える。

「一年生の転校生で狩野法歳っているだろ? 椿さんの従兄弟、ってやつ。あいつから戦国時代の食糧をもらったらしいんだ」

 椿は顔をしかめると、おそるおそる聞いた。

「それって、まさか乾飯と芋蔓の味噌汁、ってやつ?」

「そ。昔のインスタント食品。ひからびたご飯と変な縄みたいなやつを鞄に詰め込んでたよ。先生方は『歴史の実地学習』とか適当なこと言って丸め込んじまったみたいだし」

 椿は溜息をついた。河合は器用なくせに不精な人間で、手間のかかる作業はなるべく手を抜こうとする。河合が法歳の簡易食料に強い関心を向けていたことが昨日から妙に気にはかかっていたのだが、まさか炊事遠足に本気で持ち込んでしまうとはさすがに想像の外だ。

「『料理は私に任せて』なんて言ってたから期待してたんだけど」

 織田の思っていたのは河合の美味しい手料理なのだろう。好きな女の子の手料理というものに男どもが妙な幻想を抱いていることぐらいはわかっているが、それを目のあたりにすると思わず笑ってしまいそうになる。それも図体のでかいラガーマンの織田となるとなおさらだ。

(ラブコメの読みすぎだっつーの)

 口にだして突っ込みたいところだが、さすがにそれは気の毒と思い直して椿は言葉を飲み込んだ。

「ところで巴さんの班は? もし河合さんの方が喰えないようなもんだったら救って欲しいんだけど」

 懇願の視線を向けた織田に、椿は笑顔で胸を張って答えた。

「もち、友達は助けてあげるよ。私の班は私がプロデュースする、エスニック激辛フルコース」

 言って椿はぱんぱんの鞄を開けて見せる。中にはずらりと詰まった香辛料の数々。

「ありがと。心だけ受け取っておくよ」

 織田は椿の班員に同情の視線を向ける。彼らは疲れた笑顔で織田に大正漢方胃腸薬を振って応えた。だが、そんな彼らの溜息に耳を貸さないのがやはり椿の椿たる所以だった。


「けっこう危ねえよなー」

 西原は崖を覗き込んで言った。絶壁にぶつかった波頭が白く砕け、鴎が風に流されながらも必死に飛び交う。他にも幾種もの海鳥たちが絶壁の周囲を飛翔していく。ここは立待岬。少し昔は暴走族の溜まり場になっていたのだが、警察による夜間規制のおかげで近年は静寂を取り戻している。とはいえ、この岬にはもう一つ、自殺の名所という面もある。

「たしかに気が弱くなってる人だと、飛び降りちゃえとか思っちゃうのかもね」

 涼しい顔でろくでもないことを口にする河合に、椿は眉をひそめた。

「あんたさあ、そういう縁起の悪いこと、よく平気で言えるよね」

「って言うかほら、私ってアーチストでジャーナリストだし。人間の極限って良いネタなのよね」

「パパラッチ女」

 椿の小さな呟きに、河合は大げさに驚いた顔をした。

「何を言ってんの。事実こそが現代人を最高に感動させるの。それをアーチストとして、ジャーナリストとして社会に広めるのは崇高な行為よ」

「でもあんたの場合は部費稼ぐとかさ、興味本位とかさ、なんか怪しい副産物がいっつもくっついている気がするんだけど」

「興味は人類文明進歩の原動力よ?」

「あんたの場合は不幸の元凶、って方がぴったりだと思う」

 河合は恨みがましくうー、と唸る。だが、椿はそんな河合にからかい調子でさらに言葉を重ねた。

「とにかくさ、『女性セブン』とかが人類文明進歩の原動力とは恐れ入っちゃう、ってやつ?」

 椿は参ったか、という顔で腰に手を当てて胸を逸らせる。河合は憮然とバッグを下ろすと、中から一冊のスケッチブックを取り出した。

「今日は久しぶりにマジでアートするから。ここんとこ取材ばっかで絵から離れてたのはたしかなんだ。ま、椿に言われるのももっともだよね。だ・け・ど、絵筆を握った私のことまでは言わせないわよ」

 普段と違った空気の河合に椿も真面目にうなずく。あまりにからかいすぎたのか、それともこの風景が河合の芸術心を揺り動かしたのか。とにかく、今の河合はいつものゴシップ娘ではなく一端の芸術家の匂いをさせている。椿の目にはそんな親友の姿が眩しく映った。真摯で真っ直ぐな視線に密かな焦燥を抱いたのだ。

(私の剣道にここまでの力はあるだろうか)

 椿は自問する。普段との落差が目立つ河合を目の当たりにして、いつもなら誰にも負ける気のしない剣道さえも色褪せてみえたのだ。それに魔物との戦いで、自分の剣道が所詮はスポーツでしかないことを実感させられ、その自負心にかすかな揺らぎを感じ続けていたのだ。法歳の笑顔を見ているとそんなことは些細なことに思えるのだが、ふとした拍子に劣等感が頭をもたげてくるのだ。

 それでも法歳とともに戦いたい。この感情が恋と呼ばれるべきものなのか、それとも深い友情なのか、未だ椿は自分を見極められずにいた。だが、それでも椿はこのひたむきな感情を大切にしたいと思う。

「何か椿、最近考え込むよね」

 河合は黙り込んだ椿を見つめる。だが、椿は無理に笑って答えた。

「大丈夫だよ。って言うか私だってときには考えるよ」

 河合は釈然としないながらも、無理に納得したことにしてうなずく。このとき、二人は互いの間に刻まれた飛び越えられない広大な溝の存在に気づいたのだった。


「狩野ってさあ、美術部なのにアウトドア派なわけ?」

 平地を歩いているような足取りで函館山の遊歩道を進んでいく法歳に、クラスメイトは意外そのものな声をあげた。だが、法歳は首をかしげて軽く答える。

「そもそもね、石で固めた街道があること自体、どこかおかしいと思わないか?」

「出たな、法歳の若年寄風エコロジストな主張」

 最近はクラスメイトも法歳の古びた考えとずれた発言にすっかり慣れっこになっている。一部の女子生徒の間では「そこが彼の魅力」なんぞと言われていたりする。

 と、先頭を歩いていた法歳はいきなり歩調を緩めた。法歳は肩をすくめて前を指差した。先に出発したクラスの後尾に到達してしまったのだ。と、横にいる女子生徒は肩を落とし、法歳の顔を見上げた。

「いつもなら嬉しいんだけど」

 言って焦りと諦めの混じった顔でまた溜息をついたのは中原だ。外見の印象通り、運動についてはからきしな中原は気がつくとクラスの集団からすっかり遅れてしまっていたのだ。中原は黙々と歩く法歳に優しい言葉を期待した。だが。

「中原、君は女性と言えど少しは体を鍛えた方が良いね」

 あまりといえばあまりな素っ気ない答えに、中原は珍しく苛立った表情を露にした。

「たしかに体力はないけど、何でも椿先輩を基準にしてもらったらたまんない!」

 思いもよらない反撃に法歳はたじろいだ。その上、後続には今の会話が丸聞こえになっていたわけで。

「狩野って巴先輩と良い仲なわけ?」

 一人の挙げた声がきっかけに、周囲の生徒がどよめく。ただでさえ長い道程に飽きがきていたところに、とかく色々と目立つ椿との恋愛話となれば女子生徒が黙っているわけがない。遅れ気味だった者も男子生徒を追い抜いて前列へと押し寄せてくる。法歳は小さく舌打ちをして、ポケットの中にある筆を握った。だが、まさかこんな小さなことで魔戯画を使うのも憚られる。逡巡していると、法歳の手の動きに気づく者がいた。河合にはほど遠いものの、これもゴシップ好きで鳴らす子だ。

「なに? 古風な狩野くんは写真、持ち歩いてるとか?」

 言って彼女は法歳の手をいきなり引っ張った。法歳は渋々ポケットから筆をを出してみせる。彼女はつまらなそうに法歳の握る筆を見て首を傾げたた。普段使うような絵筆ではなく習字で使うような日本の筆だ。彼女は物珍しさからか、いきなり法歳の手から筆をひったくった。

「遠足まで絵筆持ってなくたって良いじゃん! 今日は私が預かっちゃう」

 大した悪意のない、だが安易な言葉に法歳は声を荒げかけた。しかし、背後からさらに余計な声が掛かった。

「いい加減にしてきちんと歩け。それから狩野、遠足に余計な物は持ってくるなと事前に指導したはずだぞ」

 担任教師の手が絵筆に伸び、そのまま筆は教師の背負う鞄の中に放り込まれた。

「これは下山まで私が預かる。良いな!」

 法歳は黙ってうなずきつつ、何も起きないことを久々に祈った。


 時折、自身の過ごしているままごとのような時間に苦笑してしまうことがある。今の生活全てというつもりはない。数学や理科は江戸で学んだものとあまりに掛離れて進んでいるせいか楽しいし、全く違う時代からやってきた自分にとっては重要だと思う。それにしても今日の炊事遠足は本当にままごとの最たるものだろう。だが、ままごとに付き合っている、という気持ちを抱かない自分自身が不思議だ。椿の言うとおり、現代に馴染んできたのかもしれない。同級の連中とじゃれることも楽しい。他の祓い師や年かさの維新志士よりはやはり、自分は幼かったのかもしれない。

 無名な日本画家の息子で、アウトドアと美術好きな男子生徒、という一風変わった偽の肩書きは案外居心地が良いように感じる。今のまま人生を進められたら、と思う。椿も普通の高校生になれ、と言う。だが、それは本当に許されるのか。銭溜和尚の言葉が蘇る。彼がそのまま平穏な生活を過ごすわけがないだろう。むしろ維新の影に紛れて蠢いた、あの時代の再来を望んでいるように思える。おそらく、あの当時に為しえなかった悪事を果たそうと腐心しているに違いない。

 桔梗、と小さく呟いてみる。片時も忘れたことなどない、と言いたい。だがそれは事実ではない。しこりとして、傷として残っていることと忘れないことは、似ているが意味が違うはずだ。銭溜和尚との会話を聞いていたはずの椿が全く桔梗との話題に触れないことも今は少し、重い。

 ここにいて良いのだろうか。法歳は独り自問した。向こうでキャッチボールをしている友人たちを眺め、平和だと思う。その平和に自分が混じっている。それは許されることなのか。それ以上に、椿を巻き込んでいる、そのことをこれからどうするのか。維新志士にも言われたことだが、昔からはっきりしない人間だと思う。

「ここにいたんだ」

 突然の背後からの声に法歳は飛び起きた。頭にまとわりついた雑草の葉切れを慌てて振り落とす。その仕草がよほどおかしかったのか、中原は珍しく声を上げて笑った。あまりの開けっ広げな笑い声に、法歳は中原の顔をじっと見つめてしまう。すると、いつもならうつむいてしまうはずの中原が法歳を見つめ返した。ひ弱だと思っていた中原の意外な仕草に、法歳は思わずたじろいだ。

 法歳くん。中原が穏かな声で呼びかける。線の細い身体と色白な肌は、もう少し活発な性格であればどれほど男子生徒を惹いたであろう。だが、その中原の落ち着いた空気に法歳は微かな不穏さを嗅ぎ取った。中原の肩に手を掛ける。中原は穏かな笑顔でそっと法歳の手を包み込んだ。だが、彼女の手のぬくもりが伝わる間もなく法歳は身を翻した。

「法歳くん、どうしたの?」

 意外そうな表情で、だがいつもなら浮かべるであろう不安な面差しのかけらもない表情で中原が問いかける。だが、法歳は先ほどまでと打って変わった態度で言い放った。

「銭溜、貴様、中原に何をした?」

 法歳の声に呼応するように周囲に濃霧が立ち上がり、二人を周囲から遮断する。中原は余裕の皮相な笑みを浮かべて答えた。

「やはり親しき者を使役するのは難しいな。とくにお主のような勘の鋭い者はな」

「わかってりゃ術を解けよ。使役の術なんて呪力を随分と使うんだろ?」

 中原の意識を乗っ取った銭溜は法歳の言葉をさもおかしいことのように笑う。法歳はポケットに手を入れ、先ほど教師に筆を取り上げられたことを思い出して歯噛みする。中原は真面目な表情に戻り真正面から法歳を見つめた。法歳は身構える。だが呪力を振るうこともなく、静かな声で言葉を返した。

「お前の身近にいたはずのこの娘も、簡単に拙僧の術中に落ちた。拙僧が危害を加えようとしない限り、おぬしは拙僧が施す術に気づくことはない。これはどういう意味かわかるか?」

 法歳は睨みつけたまま黙って唾を飲む。その姿を中原は愉快そうに眺めて話を続けた。

「拙僧はおぬしをいつでも襲えるのだ。そなたの仲間をいつでも玩具に出来るのだよ。例えば」

 言葉を切り、中原はあらぬ方向をじっと見つめた。その先にあるはずの場所は。

「立待の崎に美しい女性が行っておったな」

「銭溜!」

 叫んだ途端、中原は心棒が折れたように地面に倒れこんだ。法歳は慌てて中原を抱き起こしながら、最早あるはずのない銭溜の気配を捜し求めていた。


「せっかくバレーボール持ってきたのに。ほんとにやらないの?」

 何となく気乗りしない。椿には珍しい台詞にクラスメイトはいぶかしがる。それでも、きっと香辛料を少し抑え気味にしたせいじゃないか、と誰かが揶揄してとりあえず場は収まった。

 どうも調子がおかしい。法歳が来て以来、時折外れていたくなるときがある。数回巻き込まれている魔物たちとの戦いのせいだろうか。たぶんそのせいだろう。やはり不安が抜けきれないのは当然だ。あのありえない情景を見てしまえば、むしろ普段の生活の方が現実感を薄れさせてしまう。遠く思えてしまう。

 三年生、そして卒業して。とりあえず大学は行っておこう。そんなレベルの高い大学には手は届かないけれど、必死で入れるところを探さなくても行ける所はあると思う。そして学生やって、就職して。法歳が来る前なら全く疑いを持たなかった進路だ。浪人生になってしまうとか、そのぐらいの差はあっても大枠では変わらないと思っていた道筋。

 それが圧倒的な勢いで霞がかかっている。お父さんがリストラされていきなり就職、なんて言うことがあっても、それを越していると思う。でも今の気持ちは法歳には話せない。ふと、法歳はどう悩んでいるのだろうかと思う。大人びているくせに、やはり昔の人だからか、それとも戦いに長く身を置いているせいか、自分のような悩みはないように見える。少しだけ、腹立たしいと思う。

 大きく身を大地に投げ出してみた。草むらの匂いが軽く鼻を撫でた。こうやって寝転がっていれば、何も考えないで中身が全部白くなれる気がした。風が匂う。爽やかに血が匂う。

 椿は跳ね起き、ポケットに入れた法歳手製の竹の小刀を握り締めた。向こうではクラスメイトが何事もなかったように遊びに打ち興じている。だが、匂いは弱まるどころかますます明確な輪郭を取り始める。耳元に何事か囁き声までも聴こえ始めた。

 誰、と椿はおそるおそる問いかけた。だが囁き声は止まらない。声は高く低く、そう、葬式で聞く経文に似た調子だ。だが葬式のような眠くなる声ではなく、果てしなく邪悪さを感じさせる声だ。咄嗟に当てずっぽうで椿は叫んだ。

「銭溜!」

 声が止み、次いでくぐもった笑い声が周囲に立ち込める。皮膚の産毛をつままれるような痛みが全身の肌を刺激してくる。だが何者の姿も目に捉えることは出来ない。椿は唇を噛んで山の奥側に移動した。

「なかなか鋭い娘だね、そなたは」

 突如、明瞭な声が頭に響いた。周囲を見回せば、木立の中に虚無僧の姿があった。顔を見なくても気配だけでわかる。銭溜だ。椿は自身の呼吸が浅くなっていることに気づき、改めて深呼吸した。こいつの言葉に、空気に呑まれてはいけない。こいつはよくわからない術も勿論だが、人の心につけこんでくる卑怯者だ。それは前回の法歳との戦いを見ていて本能的に悟ったことだ。

 虚無僧は蛙のような声で哂った。足がすくむ。だが目は逸らさない。小刀を握り直して奥歯を噛み締める。

「幻術、というわけにはいかないようだな、そなたには」

 何か術を使っていたのだろうか。それとも今の椿の意識相手にはそもそも効かない性質のものなのか。だがこの言葉自体、油断を誘う呼び水かもしれない。椿は足を動かしかけ、どちらに逃げようか迷った。

 かすかな体の移動に、虚無僧は驚くほどぴったりと合わせてくる。これではクラスメイトの所に戻るわけにはいかない。巻き込むわけには行かない。法歳を呼びたいが、声を上げたとしても法歳との距離はあまりに遠すぎる。じわり、と虚無僧が距離を縮めてくる。皺だった手の平が椿に手招きをする。

「そなた、今、何処に立っておる?」

 突然の意味不明な問いに椿は眉をひそめる。だが虚無僧は構わず問いを続けた。

「その小さな竹の切れ端で拙僧に勝てるとでも思っておるのか? そもそも、なぜそなたのような町娘が魔戯画師のように争う必要があるのだ?」

 そんなこと。言い返そうとして、ふと自分の中に疑問が湧き上がる。なぜ、私は法歳と一緒に戦っているのだろう。たしかに魔物は大嫌いだ。しかし。

「江戸の同心と等しく、この時代にも警察なるものがあるようだが。盗賊を捕らえるは警察の役目。魔物を祓うは魔戯画師や神仏に仕えるものの務め。して、そなたは?」

 一見、筋が通っているような話に椿は揺らいだ。足元をひっそりと流れる薄い霧の気配に、何故か先ほどまで感じていた血の匂いが薄らいだように思った。椿は慌てて頭を振る。力を入れて虚無僧を睨みつける。掠れかけた相手の姿をしっかりと見据えた。

 突如、霧が立ち上がった。椿は持ち前の俊敏さで虚無僧に迫る。だが、その虚無僧も霧へと姿を変貌する。だが、その中でかすかに残った袈裟の金色を椿は見逃さなかった。両手で握った小刀を光に向けて突き通す。

 くぐもった声が聴こえた。何かを刺した手ごたえはあった。椿は霧の薄い場所を探す。山に向かって細く、薄らいだ細い道が見えた。椿はその道に向かって駆け込む。

 小娘が、と吐き捨てる銭溜の憤怒の声に椿は恐怖した。だが、その恐怖は更に椿の足を急がせるだけだった。先に何があるのかはわからない。案外銭溜の罠かもしれない。だがそれでも椿は一縷の望みに自らを託した。狭い霧の壁が背中で次々と閉じていく。だからそれに追いつかれぬように必死で駆けていった。

 まだ、霧の道は遠い。

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