「法歳、帰るぞ!」
玄関先で待ちかまえていた椿に、法歳はまさに面食らった顔をした。だが、椿はそんな彼の様子を無視して続ける。
「美術部ってさあ、体育系と同じぐらい時間かかるんだね。文化系も意外に大変なもんだね」
「椿、俺はさ」
「今日の晩ご飯はすき焼きだってさ。あ、すき焼きってね、幕府が倒れてそんなに経たないうちにできたらしいよ。だから法歳の口に合うんじゃないかな」
普段の台詞。どこにでも転がっているような何気ない会話。法歳は続く言葉を見つけられずにとりえずうなずいた。すると椿は首を斜めに動かし、Vサインをしてみせる。法歳は意味がわからない、といった風に首をかしげた。
「法歳の負け、ってことよ。私を無視して行けなかったあんたの負け。私から離れることで守ろうなんて十年早いんだ。お子様はお子様らしくお姉さんの言うこと聞くもんなの」
椿の意図に気づいた法歳は、慌てて椿のそばから飛び退いた。
「椿、昨日の戦いでわかっただろう? 銭溜は今までの敵のようにはいかない。俺自身だって生き延びるだけでも大変な相手なんだ。だから、関係のない君は」
「関係のない、だって? 関係ない娘を戦いに巻き込んで、関係ない娘の家に泊まって、関係ない娘に魔戯画を描いた木刀を持たせた人間はどこのどいつよ!」
「あのときはまだ、銭溜がいなかった」
法歳の苦しい言い訳にも椿は全く動じない。
「銭溜が出てきたからはいさようなら? まるでずうっと一緒にいるような顔してたのに? あんたどうかしてるわよ! それにね」
椿は一息に言って、今度はゆっくりと優しげな声で話した。
「私は、法歳に守ってもらうお荷物でいる気はないよ」
法歳は首をかしげる。椿は空を睨みつけて深呼吸し、あらためて正面から法歳を見据えて告げた。
「相棒、って言って」
言ってから、即座に椿は視線を逸らして顔を赤らめた。本当は相棒よりも、と余計な思考が一瞬頭をよぎる。だがそんな気持ちを抱いている自分をまだ認める気にはなれなかった。あれほどまで中原に妬き、桔梗の名に沈んだ自分の気持ちを素直に認められるほど、椿はまだ大人にはなれない。なりたくはないと思う。
答えを言い淀む法歳の視線が真摯で暖かい。椿は微笑んで大きく一歩足を踏み出した。身長の高い椿と、江戸時代の少年である法歳では椿が見下ろす形になってしまう。
法歳の、かすかなあどけなさの残る頰にそっと触れた。柔らかく熱い感覚が椿の指先に伝わる。法歳は黙って椿を見上げ、わずかに爪先立ちをする。
(あともう少し。もう少しかかとを上げてくれるのなら)
目をつぶって。首を傾けて、そして彼の唇に。
もう高二なのだから、ファーストキスへの憧憬はあっても、それをもったいないと思うほど椿は幼くはない。否、こんな接吻を交わすことに心のどこかで憧れていた。気持ちが触れあうような口づけ。普段が男勝りの椿にとって、それは誰にも明かしたことのない密かな憧れだ。
だが、法歳は視線を急に外した。同時に椿は我に返り、慌てて大きく法歳と距離をとる。
「椿、君はまだ、僕と友でいてくれるのか?」
思いきって言ってしまいたかった。『キスの味、知ってる?』そんな自分らしくない言葉を口にしてみたかった。今の居心地の良い友だち関係から、もっと親密な仲へと進んでみたい。肩を寄せて街中を歩き大人な会話を交わして。そして、彼が自分を求めるなら。
だが、椿は小さく咳払いをして言った。
「もちろん。仲直りだよね。友だちだぞ」
やっぱり自分には難しい、と思う。ルックスに自信がないわけではないし、ラブシーンが似合わないとも思わない。それでも、法歳とデートしている自分の姿はずっと後の話だと思った。
だから椿は敢えて乱暴な調子で言い放った。
「あー、待たされすぎたせいでお腹減りすぎ。どっかコンビニで軽く食べちゃお。蕎麦だってあるから法歳もオッケーでしょ?」
「いや、今日は椿に合わせて僕もスパゲティにしよう」
「おーい、今日はすき焼きなんだから太るってば」
ここまで言って、二人は顔を見合わせて爆笑した。もう、二人を隔てる暗い空気はすっかり吹き飛んでいたのだった。だが、遠ざかった恋の後ろ姿を椿は内心で名残惜しんでいた。
椿が法歳と仲直りして一週間後。陵南高校は生徒会からの行事提案に騒然としていた。
「あったまきたっ! あの非常識会長、私が成敗してくれる!」
木刀を手に叫ぶ椿をクラスメイトが必死で止める。だが、ホームルームの議題の紙を握りしめた椿は険悪な形相で怒鳴った。
「このくそ寒い中で何が悲しゅうて炊事遠足なんか行かなきゃなんないのよ。みんなだって嫌でしょ。だから私がその提案をぶっ潰してあげようっての」
今年、野球部とその他幾つかの部活があっけなくぺしゃりと一回戦負けした結果、その遠征補助予算が大幅に余ったため、職員会議が「適当に体育イベントをやって予算を消化してしまえ」という決算期の悪徳官僚的な指導を生徒会本部に行ったのだ。ところがついていないことに、今年の体育委員長が登山部長、生徒会長が料理部だったおかげで、この二人の妥協の産物としてできた提案が「炊事遠足」というものだったわけだ。
ちなみにホームルームに付き物のクラス担任はと言えば、「生徒の自主性を愛している」という白々しい謳い文句を放って職員室でマルボロをふかしつつ、テレビをだらだら観ていたりする。
この生徒の自主性とやらの建て前で、良い対案があれば生徒会や職員会議の方針は簡単に覆せるのが陵南の良さなのだが、対案なんぞ簡単にまとまるわけがない。となると雪崩式に原案を各クラスが承認したというお墨付きが出てしまう。そんなわけで椿は強硬論を叫んでいるのだ。
「怒るのはわかるけど、木刀はヤバいって!」
学級委員を押しつけられているお人好しの織田が、馬鹿力で椿の腕を押さえた。だが、椿は織田を睨みつけて再び喚く。
「あんたみたいな筋肉ダルマは寒くないだろうけどねー、私みたいなか弱い乙女は嫌で嫌で嫌で嫌でしょうがないの。わかる?」
うなずく女子生徒とダベリ派の男子生徒一部。そしてあちらこちらで交わされる「か弱いかあ?」というひそひそ声。だが、その声も椿の一睨みで静まってしまう。
「ほーらね、私に反対する人はいないでしょ? だから私が実力で排除してきてあげるって。話合いなんて面倒っちいこといらないいらない。なーに、生徒会長に面を一本、体育委員長に突きを一本入れりゃおしまいよ」
物騒なことを平然と口にする椿に一同が青くなる。だが、そんな彼女に妙な対案を立てる奴がいた。
「でもさあ、椿。あんな馬鹿会長ぶん殴って停学くらうのってダルくない? それよりは何か弱みを握るかでっち上げてさ、全校に報道するぞって脅した方が良いと思うんだけど」
椿と別な意味で物騒な河合に、全員の冷たい視線が刺さった。
「目的は一緒でもあんたとだけは一緒にやりたくないな」
椿の感想が、河合に対するクラスの気分を代弁したことは明らかだ。だが、だからと言って椿にも賛同できないわけで。だが誰も止めないことを了解と身勝手に受け取って椿が再び廊下に向かいかけたとき、教室の後ろから声がかかった。
「炊事遠足でもさあ、楽なら我慢できないか?」
一同の視線が声した方に集まる。成績はクラス一位、学年でも上位五位から下ったことのない西原が、それまで読んでいたテレビガイドを置いて立ち上がった。
この男は体育の授業中にまで昼寝をしていたという筋金入りの怠け男だ。だが、怪しげな屁理屈を組み立てて面倒事を逃げ切る才能は逸品で、こいつの鋭い頭脳は生活を怠けるためにあると言っても過言ではない。勉強についても、楽な大学に入って四年間だらだら過ごすことが目的だという困った奴だ。しかし今回ばかりは西原の才能は魅力的なものだった。一同は期待の視線を彼に向ける。
「まあ、料理は諦めてやるしかないわな。となると、せめて歩かないで済まそう、と」
「歩かない遠足って何よそれ」
「とりあえず、校外に出れば生徒会や先生たちも格好がつくわけだ。だから現地集合・現地解散の遠足にすれば良い。足は心配するな、マイクロバスのチャーター料ってけっこう安いぞ」
おおー、と一同、感心の声。と同時に椿も脱力する。
「阿川も木刀なんて置いて。まずはマイクロバスの手配だな。俺は生徒会と先生方をうまく言いくるめる方法を考えるから」
「あんたの言ってることって、何か高校生として激しく間違ってる気がするんだけど」
「ふむ、阿川はずいぶんと保守的だね。『高校生らしい』という価値観そのものが旧世代の集団幻想に過ぎないんだ。俺たち高校生は若々しい心を持ってその幻想と権力に立ち向かうのだ!」
述べたてる言葉はお偉い政治家やら時代遅れな社会運動家風だが、テレビガイドのドラマ特集を眺めながら言う態度からはこいつの本性が透けて見える。
「要はさ、理想的な高校生像なんて教育テレビに任せておけば良いんだって。道徳なんて今どきギャグだぜギャグ。あれ、漫画だったらブックオフでも買い取り拒否もんだよ。時代劇の『お代官さまあ、おねげーしますだ』と同レベルだな」
椿も確かに、と思う。法歳の江戸人間の思考が移ったのか、最近どうも妙に考え方が古くさい。親や先生方から見れば「良い傾向」なのだろうが、本来が面白志向の椿にとっては妙な気分としか言いようがない。
すごすごと席に戻った椿を確認すると、議長役の織田が教室を見回して言った。
「と言うわけで、西原。うるさい連中の説得の方は頼むよ」
西原がテレビガイドを振ってみせると、すかさず河合が
「いよっ、将来の天才悪徳政治家!」
と声を張り上げる。するとそれが合図だったように教室中に拍手が鳴り響いた。
こうして胡散臭い話し合いにけりがつくと、織田が確認のために生徒会の炊事遠足提案を読み直した。
「『高校生らしい健康的な』云々は西原が言いくるめるとして。俺たち二年生は目的地が立待岬なんだけど」
立待岬は函館旧市街の端に位置し、近くには石川啄木の墓や、箱館戦争で散った旧幕軍の慰霊碑の「碧血碑」がある。いずれにしろ、常識的に考えればただやたらと寂しい所という印象だ。
だが、椿には碧血碑が妙に引っかかった。以前ならば「土方歳三関係の場所」と軽薄な考えしか浮かばなかっただろうが、法歳や銭溜和尚のことを考えると、どうしても色々と嫌なことを考えてしまう。とは言え、法歳の味方の墓が近くにあると思えば、普段よりもむしろ安心かもしれない。
あれこれ椿が悩んでいるうちに、織田は西原が担当する箇所以外をそのまま採決に持ち込んでいた。椿もわざわざ反対するほどの理由もないので、その場は諦めて賛成に手を挙げてしまった。
法歳の学年が、椿たち二年生とは別な目的地になることに椿が気づいたのは校門をくぐった後のことだった。
「一年生ってほんっと被害者だよねー」
家に帰った椿は法歳から今日のホームルームの話を聞いて苦笑した。法歳たち一年生は函館山が目的地で、それも麓から歩かなければならないと言うのだ。一年生の場合、生徒会のいい加減さも先生方の放任もまだきちんと把握できておらず、その上対抗するほどの技量もないため毎年貧乏くじをひく羽目になる。
函館は北海道の南端、すなわち冷帯と温帯の境界に位置しており、海峡に面した函館山の独特な植生は自然保護団体や植物学者から貴重な環境との評価を受けている。また、函館山から見る夜景は全国的にも有名で、観光シーズンになると登山道路もロープウェーも満杯となってしまう。
しかし、そういった明るい現在の一方で、戦前は要塞として用いられていたために、山腹には大砲の残骸や防空壕の穴ぐらが未だ残っている。実際、軍事機密の漏洩防止という名目で函館山の写真撮影が禁止されていたために、戦前の函館山についての情報は驚くほど少ない。
椿としては、霊だの魔物に縁深い法歳が戦争絡みの場所に近づくことには一抹の不安を禁じ得ない。それに、仲直りしたとは言え、法歳がずっと浮かない態度なことは大きな不安要素だった。
(近くにいるのが中原じゃ、ね)
中原なら法歳を見捨てたりはしないだろう。だが、それだけだ。彼女に戦いを強要することは酷な話だ。いや、椿のように戦えてしまう高校生の方がむしろ珍しい。その珍しい自分だからこそ。だからこそそばにいたかった。学校外の何が起こるかわからない場所で離ればなれになることに椿は強い苛立ちを抱いた。しかしそれは、先日までのどこか熱に浮かされたような気持ちではなく、ただ彼のことを案じる想いだ。
だが、枕を抱えながらベッドの上で胡座をかいている自分。法歳の口元で揺れている冬期限定販売のムースポッキー。つけっ放しにしたテレビからはアイドルの曲が脳天気に流れている。こんな、こんなあまりにも平凡すぎる中で銭溜を恐れる自分はどこか滑稽にさえ思えた。
(精神不安定なのかな)
気弱にそんなことを思ってしまうことで、なおさら椿は根拠のない不安にかられた。だが、法歳は椿の表情を見ながらゆったりとした調子で語った。
「僕なら大丈夫だよ。山はどこでも自然の霊力が宿ってる場所だからね、銭溜がばたばたしたって大きな力は揮えないよ」
「でも、恐山なんてヤバい場所もあるんじゃない?」
椿の反駁に、法歳は少し自慢げな顔で解説する。
「でも恐山の霊に呪われる、って話はそんなにないはずだよ。たしかに霊は漂いやすいけど、悪霊にはなりにくいんだ。ほら、富士山を『霊峰』って言うのも『聖なる』ぐらいの印象だろ?」
法歳に言われると何となく納得したような気持ちになる。少なくとも、霊だの化け物の類については法歳はプロ中のプロだ。
「ま、普通の高校生として遊んでくるさ。椿もそうすれば良い」
椿は肩をすくめて法歳の言葉にうなずいた。そして椿も法歳も、椿の目的地については深い注意を払いはしていなかった。