「やはり、だな」
タクシーを見送りながら、法歳はだだっ広い空き地で独り呟いた。ただ「空き地」と言うのは語弊があるかもしれない。ここは史跡である四稜郭跡だ。四稜郭は箱館戦争の際に五稜郭を模して急造された要塞だが、実際には未完成のうちに陥落してしまった。五稜郭と比べると貧弱で、今では土台の痕跡らしきものが残るばかりだ。
しかし、法歳にとってそれは大した問題ではない。四稜は死霊に通じ不浄な力を集めてしまうのだ。そして今はその歪んだ力が明確に感じられる。法歳は慎重に周囲を見回した。しかし魔物の気配は感じられない。と言うより、四稜郭が周囲から吸い上げた魔の気が魔物の気配を打ち消しているのだ。
危険なことはわかっているが、それでも法歳は敢えて目をつぶった。どうせ目で確認できないのなら、思い切って他の感覚に頼った方がましだ。法歳の研ぎ澄まされた神経は、大気に拡散した悪意を検索していく。流体と化した悲哀が、混淆した怒気が法歳の体表を舐め回し、燃え尽きることのない憎悪が法歳の喉を焼いた。
そして。刹那、法歳は先鋭化した悪意を嗅いだ。法歳の筆が鳳凰を描く。鳳凰が闇を一直線に飛翔する。一振りの太刀が忽然と闇の中に出現した。そして太刀を握る大柄な男の姿が見えるようになる。
「人でなしの銭溜か」
法歳の呟きに、豪華な袈裟を纏った生臭坊主が笑った。
「人でなし結構。私は人間という狭い輪廻の苦行から解放された高き者だからね。だから私はこんな高級な衣も似合うのだよ」
銭溜和尚は自慢げに衣を振り回す。見ると赤茶けた妙な色の衣だ。
「てめえは金と権力にしか興味がないと思ってたが、最近は色気づいたか?」
「私だって粋な衣を纏うよ。これは純粋に人間の生き血で染め上げた衣だ、贅沢だろう?」
このとき、法歳は気づいた。衣から様々な人間の苦悶の声が漏れ聞こえることに。それは、銭溜の邪な法力を高めるために供えられた犠牲者たちの怨嗟の声だった。法歳は言葉にならない叫びを挙げる。だが、それも銭溜には心地よい声としか聞こえない。
「変わらぬなあ狩野殿は。百年の年月で少しは歪むものと思うておったのだが、未だ幼稚な意気をもっておるのか」
法歳は構わず素早く筆を抜いた。銭溜も油断なく妖刀を青眼に構えて法歳の動きを牽制する。法歳は密かに周囲に目を配った。しかし、法歳の目には銭溜の妖刀に感応して飛び回る雑霊の群れしか映らない。だが銭溜がいる以上、どこかに中原の祖父がいるはずだった。
銭溜が慎重に間合いを詰めてくる。周囲の闇が一段と濃密になった。悪霊のすすり泣く声が四稜郭を包囲する。しかし、妙なことに魔物の姿は影すらない。
「妖がおらんことが不思議か? 奴らがおると儀式の邪魔をする可能性もあるからな。奴らは儂が今よりも強大な法力を持つことを好まぬらしいわい」
法歳は悪霊の数を確認し直すと、かつて彼が戦った頃と変わらぬ悪霊が銭溜を守っていることがわかる。法歳は覚悟を決めた。しかし今は魔の力が強くなる刻限だ。その上、かつての戦友はもうここにはいない。それでも法歳は独り、この強大な敵と戦うしかないのだ。
だが、ふと『無駄に命は懸けないで』という椿の言葉を思い出してしまう。今は無駄の範囲になるのだろうか、などと思う。自分が死んだら椿は泣くのだろうか、そんなことを他人事のように考えてしまう。
銭溜は慎重深く法歳の動きを測っている。だが過去に銭溜と何回も戦ったことのある法歳は、銭溜が焦っていることをも看破した。儀式を行うとすれば、かなり厳密に時間を合わせないと上手くいかないはずだ。銭溜はその刻限に間に合うかどうか焦っているのだろう。
瞬間、銭溜の視線が背後の地面に走った。法歳はすかさず筆を揮う。地面の枯れ草が生気を取り戻して伸び茂り、銭溜を十重二十重に覆い尽くす。だが緑の草篭が薙ぎ切られ、憤怒の銭溜が飛び出しざま刀を揮う。
周囲の草木は全て焼き尽くされ、後には法歳と銭溜の二人だけが荒れ地に残っていた。二人は互いに動きを止めて睨み合う。法歳は先ほど銭溜が目を向けた地面に目を注いだ。何の変哲もない草地だ。全て草は焼けてしまったのではなかったのか。おかしいとは思うものの調べる余裕はない。銭溜の攻撃を防ぎながらさらに他の行動をとるなど、どう考えても現実的ではない。
銭溜の太刀筋は次第に正確さを増してきた。疲れを知らぬのか、速さも変わらぬままだ。このままでは、法歳が太刀を受けてしまうのは時間の問題だ。法歳は筆を口にくわえると短刀を取り出した。剣術は苦手だが、魔戯画を無駄描きするほど精神力は保ちそうにない。魔戯画は最後の最後までとって置くほかない。
「狩野殿、そなたが剣を握るとは珍しいのう」
見透かしたように銭溜が嗤う。法歳は唇を噛んで短刀をしっかりと握る。
銭溜の姿が消えた。法歳は背中に刀を回す。紙一重で受け止めたが、不利な体勢で妖剣の剣先が押してくる。法歳は必死で刃を逃れようとする。
じわり、と一寸ずつ刃が迫っていく。法歳は口にくわえた筆で魔戯画を描き始める。
「無駄だ無駄だ。儂を倒すにはよほどの魔戯画でなければ効きはせんて」
法歳は絶望を悟った。妖刀が一気に法歳の背に迫る。と、いきなり法歳にかかっていた力が消滅した。法歳は体制を取り直して振り向く。
「法歳! だらっしないぞっ!」
木刀を握った椿がふるえながら銭溜と対峙していた。椿の不意打ちを喰らったせいか、銭溜の頰には火傷のような傷跡がくっきりと刻まれている。
「法歳。こ、こ、こいつ今までの魔物と違うみたいだよ」
法歳は椿の木刀を握る腕に手を添えて囁くように言う。
「こいつが銭溜和尚だ」
椿は目を見開いて、目の前に立つ敵を凝視した。銭溜は吐き捨てるように答える。
「娘御よ、儂は魔物のような下餞な者ではない。お前らと同じ人間だ。まあ、すこぶる優秀ではあるがね」
「ふざけてんじゃねえよ。この木刀で傷が焼けるのは魔物だけだぜ? お前、自分で気づかねえうちに魔物になっちまってんだよ」
法歳の激しい口調に、椿は軽い目眩を覚えたような気がした。法歳と銭溜和尚。二人は未だ幕末の中で戦っているのだ。人知れず、魔と人の戦いを続けているのだ。椿は今さらながら、法歳と自分の間に絶望的な断崖が横たわっていることを認識した。
ふと、銭溜が頰を緩めて法歳と椿を見比べた。
「狩野殿の齢を思えば当然なのだろうが、それにしても狩野殿のそばには必ず生娘が集まるものだの」
「お前のような金と女に執着する奴にゃ羨ましいだろうな」
銭溜の皮肉に法歳は苦々しい声で応じる。すると銭溜は目を見開き、わざとらしく遠くに視線を向けるような姿勢をとって言葉を返した。
「それは当然だ、自分のために命を捧げる娘を何人も手に入れられるそなたはな」
いきなり法歳が激しい口調で銭溜の言葉を遮った。法歳の目に尋常ではない光が浮かぶ。戦いのためだけとは思えない、奇妙な汗が頰を伝うのが椿の目に映る。椿は銭溜の吐いた台詞で錯乱しかける自分に気づいた。蒼白な法歳の横顔があまりにも儚げで、椿はこの空間に初めて真の恐怖を嗅ぎ取った。だが銭溜はせせら笑うと、再び口を開いた。
「そなた、その娘御もいつかは目の前で喪うのだ。腕の中で冷たくなるあの至福の感触を再び味わえるのだ、心躍るであろう?」
「うるさい! 黙れ黙れ黙れっ!」
叫びつつも、筆を握った法歳の手は奇妙なほど震えていた。だが銭溜は攻撃することもなくさらに言葉を重ねる。
「桔梗殿の生き血はまこと、美味であったわ。我が配下にあの娘御の肝を与えられなかったことは口惜しい」
桔梗、という名が銭溜の口から吐かれた途端、法歳の瞳に狂気の影が宿る。だが、銭溜は刀を地面に突き立てて嗤った。
「狩野殿。もはや儀式の刻限は過ぎた。今宵はそなたの勝ちだ。神職はこの地面の下に生かしてある。また何処かで逢おうではないか、その娘御を酒肴にしてな」
法歳がやっと龍の魔戯画術を放ったときには、銭溜は昏い哄笑だけを残してその場から姿を消した。そうして銭溜の放った妖気の残滓がやっと薄れたとき、椿は跪く法歳の姿を目にした。椿が駆け寄ると法歳は背を向ける。椿は伸ばしかけた手を引っ込め、そしてあらためてそっと肩に手を置いた。
「法歳、立てないの?」
椿は俯いたままの法歳の頰に手を当て、優しく上を向かせようとして、すぐにその手を抑える。手を濡らした感触に椿はただ言葉を失うばかりだった。
二人が中原の家に戻ったのは午前四時だった。法歳は祖父の記憶に魔戯画を施し、中原には平素の通り振る舞うように厳命すると、疲労を理由に布団へそそくさと潜り込んでしまった。そのような事情で、椿はずっと中原の相手をする羽目になった。だが、それでも椿の心は「桔梗」という名に囚われていた。
翌朝、中原は祖父に配慮して学校を休むことにしたが、椿と法歳の二人は中原の家から真っ直ぐ学校へと向かった。その足どりはどこか互いによそよそしく、重苦しい空気を保ったままだ。やっと校門に着いたとき、門の前で腕組みをしている見慣れた人影があった。だが、二人ともそのまま門をくぐろうとする。すると河合は腕を伸ばして二人の道を遮った。
「椿、法歳くん、どしたのさ。私に気づかないはずないでしょ」
河合の嫌みな台詞に、椿はわざとらしい声で驚いてみせながら答えた。
「中原の方は無事だよ」
椿の返事に、河合は険悪な表情で法歳の袖を掴んだ。
「ってことは何かあったんでしょ? 法歳くん、どうなの?」
それでも目を合わせようとしない法歳に、河合はなおさら疑いの視線を強くした。椿に視線を転じると、法歳に対してどこか一歩身を引いているような印象が窺われる。それでも河合が言い募ろうとすると、ゆらっ、と椿の右手が上がった。だが河合は全く動じることなく椿を睨みつけたまま告げる。
「中原は私にだって頼んだ責任があるよ。滅茶苦茶ばっかりの私でもさ、友達大事に、ぐらいのけじめは持ってるんだけど。ずっと気にしてたんだよ?」
珍しく真剣な河合の声音に、椿は手を下げた。法歳も視線を外して唇を噛んでいる。そんな煮えきらない二人の態度に河合は再び口を開こうとした。すると唐突に法歳が低い声で唸るように呟いた。
「心配してくれ、などと頼んだ覚えはない」
河合と椿は一瞬息を呑んだ。だが、すぐに椿は深呼吸してから低い声で河合に告げた。
「ごめん。ちょっと今、二人だけにして。今回だけ、許して」
河合は再び反論しようとした。だが椿の真剣な視線に気圧されたのか、黙って二人に背を向けると、独りで校門に向かった。法歳は椿に硬い表情でうなずくと、横の細い私道に入っていった。椿は彼の背中を黙ってついていく。そうして人通りから完全に離れたことを確認すると、法歳は椿にゆっくりと向き直った。
「俺たちはただ、偶然に出会っただけだ。そもそも、俺の戦いに君を巻き込んだのは間違いだった。これ以上、俺とは関わらぬ方が良い。普通の娘に過ぎない君は」
「何よ、それ」
「君は関わるな、と言っているんだ。普通に学校へ通い、河合たちと楽しく過ごしていれば良い。その方が君も幸せなはずだ」
椿は呆然とした。だが、次いで椿の右腕が機械仕掛けのように動き、乾いた音が響いた。法歳は頰を呆然と左手で覆う。椿はそんな法歳に見下ろすような視線を突き刺しながら乱暴な口調を浴びせた。
「あんた、ハートぶっ壊れてるよ。魔戯画師、だなんて偉そうに言ってるけどさ、あんたも半分は魔物なんじゃないの?」
法歳は焦った様子で言い返そうとする。しかし椿は口を挟む余裕もなく激しく怒鳴った。
「聞こえなかった? あんた、どっか壊れてんのよ。ただの友人? 今さら何なのよ。何様のつもりよ、私より年下のくせして! 今の時代のこと、何にも知らないくせして!」
椿は背を向けると、焦る法歳の声を無視して校門を駆け抜け、真っ直ぐ女子トイレの個室に駆け込んだ。独りになって、椿の胸に記憶が巡る。初めて魔物に襲われて助けてもらったとき。一緒に食べた激辛中華麺のせいで、涙目になっていた法歳。漢数字を用いる算術しか知らない法歳に、徹夜で今の数学を教え込んだこと。数学って苦手なんだけどな、なんて思いながらも法歳に教える手前、去年の教科書を必死で読んだっけ。江戸時代の絵を語る法歳。聞いたこともない浮世絵師や狩野派の絵師の名前が出てきて困ったものだが、それでも熱く語る彼を見ていることが好きだった。戦いのときの、冷たい擦れた視線ではない、一途でかわいいような、そんな輝き。
様々なことが頭の中を流れた。そして最後に。
桔梗という名。
(訊いてしまえば良いのに)
自分の中で呟き、すぐに溜息をつく。訊いたらはぐらかされるだけだ、そんな風に思う。いや、正直に話してくれるかもしれない。本当に正直に、知りたくもないほどに。江戸時代は現代よりも遥かに婚期が早いはずだ。それに、常に死と隣り合わせの法歳となら。江戸時代を意識し過ぎたせいか、アルファベットではなく夜伽という字句が頭に浮かんだ。同時に、艶のある若い女の声が聞こえた気がして椿は頭を振った。今、自分は何を張り合おうとしているのだろうか。
(私は相棒なんだ。親友なんだよ)
自分の望みを胸の中で呟いてみる。だが、その呟きはどこか白々しく思えるのだ。恋は全てに勝る。その常識が椿には怖かった。桔梗が法歳に安息を与える存在であったのなら。がさつな自分はそんな存在では思えなかった。
今でも法歳の心を占めているのは、椿でも中原でもなく、それはきっと桔梗なのだ。
(恋愛かな、冗談じゃないや、あいつはただの友だちだ)
もう一度、心の中で繰り返す。でも、中原と法歳の仲に抱いた気持ち。進路指導の話を聞きながら思いを巡らせた将来のプライベートには、必ず法歳がいた。
友だちだから喧嘩だってあるのは普通のはず。こんな風に何度も楽観的なことを考えようとする。でも。戦いに行ったまま遠くに行ってしまうかもしれない。大怪我をするかもしれない。
殺されるのかも知れない。
だから法歳との時間は、ただの友だちではありえなかった。彼自身わかっているはずだった。自分が平和に好きな絵を描ける時間が、椿と河合のふざけた話を横で聞いている時間がどれほどまで貴重なものなのか。それを彼が敢えて自分から壊そうとしているのは、何よりも椿のためを思っていることはわかっていた。頭ではわかっているから。だから悔しかった。情けなかった。そして、哀しかった。
始業のチャイムまで、椿は閉じこもったままで泣いていた。
「やめときなって。今日の椿、何か殺気立ってるから」
椿に声を掛けようとした一年生の首っ玉を二年生が慌てて引き戻した。武道場では椿が独り、木刀を一心に振っているのが目に入る。だが、その動きはいつもの洗練された動きではなく、ただ破壊的な動作であった。他の剣道部員は椿を遠巻きにして、なるべく視線が合わないようにする。
椿は自嘲的に独り笑みを浮かべる。剣道を始めて以来、ここまで暗い気持ちを引きずったまま剣を振るうのは初めてのことだ。ふと、銭溜の視線を思い出した。あの脳髄の奥から嫌悪感を催すような男は、ずっと法歳をつけ狙っているのだ。
もしかしたら椿をも。
だから法歳は離れようとしたのだ。万が一のときは守ってはくれるのだろう。だが、彼の考えを思えば、椿はただのお荷物に過ぎない。だから今は剣を振るわずにいられないのだ。そんな簡単に強くなれるはずがないのに。それでも剣を振るわずにはいられないのだ。狂おしいほどの苛立ちがただ、無意味な疲労を求めていた。
椿は視線を感じていた。遠くから眺める法歳の視線を。しかし敢えて無視していた。顔を合わせても、続ける言葉が頭に浮かばないのだ。今はまだ、椿から声を掛けることは難しい。
また『桔梗』の名が脳裏を疾る。
雑念を斬る。
「椿先輩!」
疲れきった下校の背中に中原の声が刺さった。椿はのろのろと振り返り、抑揚のない声で答える。
「なによ、息せききってさあ。問題は解決したじゃん」
あまりの反応に中原は開きかけていた口を閉じる。
「だったら用はないよね。じゃ、さよならバイバイまた明日」
言った字面はふざけているが、あまりの平板な声に笑いの要素は感じられない。むしろ、椿の深刻さを明白にするばかりだ。中原はそんな椿の袖を掴むと、彼女には珍しい強い声音で言った。
「法歳くんと何かあったんですか? 河合先輩も変に静かだし、法歳くんも他人行儀だし。こんなんじゃ私だってつらいです」
椿は億劫そうに顔をしかめ、中原を上から見下ろして言う。
「つらいのはあんただけじゃないの。って言うか、あんたはまだ楽だよ」
「半端なこと言わないで。私だけ仲間外れにしないで下さい」
意外なほどはっきりした主張に、初めて椿は中原をじっと見つめた。真摯な瞳と視線が絡み、良い娘だな、と思ってしまう。だが、この娘に自分と同じくらいの重圧に耐えられるだろうか。いや、自分より乱れるに決まっている、そんな風に思う。いや、椿はそう信じたかった。自分だけが取り乱してしまう、自分がそんな弱い人間だとは思いたくなかった。負けたくなかった。
しかし、何に負けたくはないというのだろう。銭溜和尚との戦い? それは無理な相談だ。愛らしさで中原に? それは畑違いの喧嘩だろう。じゃあ剣道の試合か? 今の感情に何の関係もない。だが、とにかく負けたくなかった。正体のわからない、この憂鬱な中で邪魔な全てに負けたくなかった。
ぽつっ、と中原に声を掛ける。俯いていた中原が機械仕掛けのように顔を上げた。椿は黙って言葉を探す。その間、中原はじっと黙ったまま椿を注視し続けた。そして、椿は中原の視線を正面から受け止めた。
「法歳の戦いに巻き込まれて私たちが死んだりしたら、法歳の心は壊れるのかな」
唐突な問いに中原は言葉を喪って目を見開く。だが椿はそんな中原の態度も目に入らなかったかのように言葉を淡々と続ける。
「離れちゃう方が優しい人間なのかな。法歳の気配りをちゃんと受け取る人の方が正しいのかな」
中原は口を開きかけて即座に閉じた。そんな仕草を三回も繰り返した末、たどたどしく問いかけへの返答を始めた。
「法歳くんは強い人ですけど、でも自分だけで何でもできるかどうかは別な話だと思います。それに、私」
言葉を切り、中原は続きを言うべきか躊躇する。だが、椿をじっと見つめると再び話し始めた。
「私じゃ、先輩の代わりは務まらないです。戦いなんて怖いし嫌いだし。でも、法歳くんには戦ってる場所でも一緒にいてあげられる人が必要なんです!」
全く予想もしていなかった言葉に、椿は思わず中原の顔をじっと見つめてしまう。
「自分から負け宣言するのってすっごい悔しいですよ? 先輩」
意外な言葉に椿は目を剝いた。だが、中原は大人びた笑顔で言葉を続ける。
「先輩も素直じゃないですよね。そりゃ、一年生の男の子を彼氏に、って言うのはちょっと危険な香りって感じですけど」
「中原っ! あんた」
「少しぐらいは意地悪言わせて下さいよ、私だって悔しいんですから。でも何だか河合先輩に乗り移られたみたい」
舌をぺろっ、と出した中原に思わず椿も破顔した。椿は何となくこの小憎らしいライバルがかわいらしく思えた。河合にひきずられ、祖父をさらわれ。色々な事件に巻き込まれているうちに強くなったのだろうか。内気で、線が細くて。跳ねっ返りで乱暴な椿とは別世界の娘にしか思えなかった中原が、少し自分に歩み寄ってきたように思える。それにしても、中原を前にするとなぜ自分はこうも引け目を感じるのだろう。椿は疑問に思う。だが、それまでのもやもやした気分が急速に晴れ渡っていくのを感じた。頭の中で堂々巡りを繰り返していた思考が、細い通路を発見したように思えた。
「法歳とは何とか私から仲直りするよ」
「だったら、思い切って一気に進展しちゃったらどうですか?」
「何が! どーこーに?」
椿は頰を赤くして強情に怒ってみせる。だが中原はにやにや笑いを浮かべたままだ。その笑顔を前にして、椿は自分の強情さが急にばかばかしくなった。桔梗がどんな人間だったのかは知らないが、最後は魔物に殺されてしまったのだろう。だが、自分も魔物から逃げようとは思わない。そして、自分は殺されるわけにはいかない。こうやって笑っていられなきゃ、法歳が苦しむだけだ。
無茶な、だが前向きな思いに変わったせいか、自分の笑い声が明るくなったことに椿は気づいた。そんな彼女の顔を見つめていた中原も小さく吹きだす。そのうち二人の笑い声は大きくなって、一緒に爆笑していた。胸のつかえがすっかり落ちていた。