文芸船

魔戯画師

第一章 魔物の蠢動

第三節

 放課後に美術準備室に入った椿は目を疑った。幽霊事件には到底似合わない気の弱そうな女の子が待っていたのだ。昨日、法歳にドラゴンのイラストを見せていた一年生だ。

「中原さん、だっけ? あのさ、河合に何か言われて来たんなら悪いこと言わないから逃げた方が良いよ。河合の言うこと全部きいてたら大変なことになっちゃうんだから」

 椿にしては珍しく気遣って言った台詞に、だが中原は真剣な眼差しで反論した。

「違うんです。私、興味あるからっ!」

 こいつオカルトマニアか、とひいた感想を抱いて中原を見つめる。だが、気配から察するに幽霊事件には大した興味を持ってはいない、そんな気がした。本当に大丈夫かなるべく優しい声で諭すと、中原は冷たい視線をぶつけてくる。椿は怒鳴りつけたい衝動を抑えながらも考え直すよう説得しようとする。ところがそれを遮るように準備室のドアが開いた。

「狩野くん!」

 さっきとは打って変わった明るい声で中原が駆け寄っていく。狩野は照れた表情で中原に微笑みかけた。さすがに椿も中原のことが見えた気がする。日頃から「使えるものは不発弾でも使え」なんぞと喚いている河合のことだ、中原の恋愛も上手く利用する気なのだろう。苦笑していると、これまた不似合いな人間が追加で現れた。

「巴ちゃん、よろしくな」

 挨拶とともに入ってきたのは、ラグビー部の織田だ。ラグビー部の中では比較的温厚で、そのせいかいつも河合に振り回されている。最近は雑誌部にまで引きずり込まれ、編集員ということになっている。その振り回されているのも中原と似たパターンで、彼の餌は河合自身だ。

 まだ来ていない河合の消息について織田に尋ねると、何やら準備が必要だとか言って買い物に行っている、との話だった。仕方なく四人で三十分ほど待っていると、廊下の方から荷物を引きずる音が聞こえてきた。

「織田くーん、手伝って!」

 ほとんど悲鳴に近い声が聞こえ、織田が慌てて駆け出していく。そして戻ってきた彼の手にはびっちびちに何やら詰め込んだ大きなスポーツバッグがあった。

「やー、ごめんごめん。思ったより手間取っちゃってさあ」

「いったい何なのよ。このでっかい鞄」

 椿が木刀でつつくと、河合は自慢げに胸を張って答える。

「そりゃもう色々何でも入ってるわよ。ほらほら織田くん、開けてちょうだい」

 へいへい、と織田は従順に鞄を開けて見せた。中には懐中電灯、カメラ、デジタルビデオにノートパソコン。山ほどのお菓子。「エスニックチップス」と「唐辛子の種」という袋が混じってあるのは椿用なのだろう。そして何よりも目を惹いたのは色々な神社のお守りだ。

「このお守りの山、どういうこと?」

「だあってお化けだよ? あ、こっちは数珠ね。それからロザリオはお姉ちゃんから借りてきた」

 椿は空を仰いで嘆息する。法歳はお守りを一個ずつ丁寧に確かめ、そして首を傾げた。

「河合さん、よほど何も考えずに持ってきたんだね」

「へ? それってどゆこと?」

 法歳は一つのお守りを河合の目の前で揺らして見せた。

「あー、恋愛成就のお守りかあ。神社で『適当に見繕って』って頼んだからかなあ」

 寿司の注文するんじゃないんだからさ、と呆れ声で椿は溜息が溜息をつくと、河合は少し恥ずかしそう唸った。と、横からつつっと中原が手を出した。

「あの、そのお守りいらないんだったら私、貰ってもよろしいでしょうか」

「あ? いいよいいよ、あげる」

 河合は法歳から恋愛成就のお守りを取り上げると、そのまま中原の胸ポケットに詰めてやる。この辺の気の良さが椿を惹きつけている所以だろう。そんなわけで怪しげなものを詰め込んだ鞄を閉じると、河合は四人を見回して説明に入った。

「ターゲットは夜中の二時から三時頃に現れるわけ。いわゆる『草木も眠る丑三つ時』って時間だよ。で、みんなはちゃんと親御さんの方だまくらかして家を抜け出して来る」

 中原が既に緊張した表情を浮かべる。いかにも真面目そうな子だ、夜に抜け出すだけでも冒険なのだろう。河合は中原に目で合図してからさらに話を続けた。

「で、狙いは幽霊さんの撮影。あと、状況の記録ね。写真は私、ビデオは中原。狩野くんと椿は周囲の状況に目を配ってて。あと、織田は荷物持ちと私の補助。何か質問ある?」

 法歳がすかさず手を挙げて訊く。

「もし、その幽霊が襲ってきたりした場合、僕の言うことを聞いて欲しいのだが」

「んー? 法歳くん、ずいぶん自信ありげじゃない。ま、詳しいってんだったら任せるけどさ」

 今回のスタッフは優秀だ、などと勝手なことを言って河合は嬉しそうにうなずいた。すると、中原がまた不安げに法歳を見つめて訊く。

「あの、やっぱり幽霊に祟られちゃったりするんでしょうか」

「心配ない。そんなことはさせない」

 法歳の断言に河合は目を輝かせて叫ぶ。

「うっわー、『そんなことはさせない』だって! 格好良いね狩野くんは。織田くん、こういうのに女の子って弱いんだよ?」

 河合のわざとらしい言葉に、それでも織田は真剣にうなずく。椿は織田と河合の二人を見比べながら、織田にかなり同情的な気分になった。このだらだらしたミーティングも三十分で終わり、一旦帰宅ということになった。ちなみに中原については河合の家に泊まる、ということにするそうだ。そんなわけで、椿と法歳の二人も家に帰った。

 夕飯も済まして椿の部屋に戻ると、即座に法歳は絵の道具一式を取り出した。

「椿、木刀を貸して。ちょっと術を施すから」

「術? 『幽霊を叩っ斬れ』なあんて言うつもり?」

「幽霊っていうより、ちょっとね」

 歯切れの悪い返事に椿はまた短気を起こした。

「ちょっとお。その木刀って私が使うんでしょ? ごまかさないでよ」

 法歳は肩をすくめて考え込み、そして気の進まない調子で答えた。

「実はね、今回の件に魔物が絡んでるかもしれないな、と思ってるんだ」

「魔物って、あの血ぃ吸ってた奴?」

 法歳は黙ってうなずく。椿はテーブルをばん、と叩いて叫んだ。

「あんたさ、それってめちゃくちゃ危ないじゃない! とくに中原さんなんて弱そうだし、河合も『運動にぶ子』ちゃんだよ。戦いなんてなっちゃったらさ」

「でも、中原は使えるかもしれない」

 椿が眉をひそめると、法歳は指をたてて説明を加えた。

「中原の実家ってね、神社なんだってさ」

「おーい、神社の娘だからって巫女とは限らんぞー。それに今どきの巫女さんなんてただのバイトさんだし」

 椿の指摘に法歳は大きくうなずいて答える。

「そんなの実はどうでも良いんだよ。神社にずっといるとね、神様の気配が張りつくって言うか、とにかく魔物にとって触りたくない状態になるんだ」

「へー。じゃ、神社に逃げ込めば魔物からは逃れられるね」

 法歳は先生のようにうなずき、額を指でつつきながら話を続けた。

「で、だ。問題は織田くんと河合さんの二人なんだ。はっきり言って、戦いになったら邪魔なんだよね。だから、いよいよとなったら眠ってもらおうかな、と」

「あんた、河合が黙って従うはずないでしょ」

「そりゃ魔戯画を使うつもりだし、あとは君と中原さんが口裏合わせてくれればなんとかなる」

 椿は顔を覆って考え込み、急に無関係な問いかけを発した。

「法歳、君って中原さんのことどう思ってるわけ?」

「どうって、大人しい娘だとは思っているけど」

「大人しくって、神社の娘だから魔物には襲われる心配もなくって、その上かわいくって。やっぱさ、辛い物ばっか食べて魔戯画の効かない上にがさつな私より良い、違う?」

 法歳は目を見開いて椿をじっと見つめ、そしてたどたどしく返事を返した。

「椿、何が言いたいんだ? 椿は剣を使えるし、何もそんな嫌悪するようなことはないだろう?」

「剣を使えなきゃ中原さんの方が良いわけだ」

「そういうおかしな比較は大嫌いだ。僕は椿に感謝している。絵の話ができる中原や河合さんは面白い友人だ。織田くんはまだ良く知らないが、悪い男には見えない。それではいけないのか?」

 椿は反駁しようとした。だが法歳の視線が刺さる。これ以上言うのなら本気で怒る、そんな脅迫めいた法歳の睨みに漸く椿は口をつぐんだ。

 法歳はほっと息を吐き、いたわりの混じった声で告げる。

「さあ、今夜は徹夜だ。少し寝ておこうよ。椿はかなり疲れてるようだし、ね?」

 椿は唇を噛みながら、それでも無理にうなずく。自分を見失いそうな感覚に、椿は自分の心を恐れた。


 午前二時。河合命名の「幽霊観測隊」一同は、自動車教習所のコース脇の芝生に陣取っていた。

「大スクープなんだからね。みんなしっかり頼むわよ」

 織田の大きな背中にもたれながら演説をぶつ河合を眺め、絶対この子はナルシストだ、と椿は確信する。

「しっかし、夜になるとやっぱ寒いわよね」

 河合はコートを抱きしめるようにして体をわざとふるわせる。中原に目を向けると、案の定少し怯えた表情を浮かべていた。

(やっぱ、だよね)

 椿は頭の中で嘆息する。一番気の弱そうな子が貴重な戦力候補だとは。どうも世の中、物事がちぐはぐに出来ているらしい。織田はと言えば、河合の背もたれにされているのが嬉しいようだ。鼻の下が伸びてるぞー、とからかったらどっちが先に怒るかな、そんなことを椿は呑気に考えながら法歳に視点を変えた。

 彼は目をつぶり、身じろぎもしない。おそらく気配を感じとろうとしているのだろう。法歳の話だと、幽霊は姿より先に気配が強く現れるらしい。椿も先ほど真似てみたのだが、肝心の「幽霊の気配」というものがわからないのですぐに諦めてしまったのだ。初めのうちは張りつめてていたが、さすがにそんな緊張が二十分以上も持続するはずもない。最初に織田が動き、バッグの中から引っぱり出された幾つかのお菓子が開けられた。

「はい、こっちは椿専用ね」

 「銘菓・唐辛子の種」を河合から受け取って数粒ずつぽりぽりかじる。河合の方はと言えば「やっぱプリングルスよりカルビーよね」などとくだらない批評を述べたてながら呑気にポテトチップをばりばりと頰張っていた。こうして妙に呑気な時間が三十分ほど続き。いきなり中原が立ち上がった。

「どしたの?」

「お化けが来たの!」

 椿、織田、そして河合が中原の視線を辿る。だが、そこはさっきと変わらず静かなコースがあるだけだ。

「ちょっと中原、どこにお化けが」

「心配するな。もうすぐ君たちでも見えるようになる」

 河合のなじりを遮り、法歳が金平糖を舐めながら立ち上がる。

「法歳、どうなの?」

「今のところ、危険はないと思うけど。あ、ほら」

 法歳が指さした先に目を向ける。と、ぼんやりと明かりが見えた。車のヘッドライトだ。ブレーキの軋む音が聞こえる。じんわりと車の形が見えた。屋根に「検定中」と書かれた黄色い表示板が目に刺さった。

「わ、わ、わ、出た出た出たスクープが出たっ!」

 震える手で河合がカメラを構える。と、いきなりそのカメラが叩き落とされた。

「な、何するのさ!」

「こういうのって良くないです、先輩」

 中原はカメラを胸に抱いて河合を睨みつけ、怯えた声で反駁する。一同は中原の意外な行動に目をみはった。

「先輩、あの幽霊さんたちがかわいそうです」

「あんた、この寒い中に何で私たちが来たのか忘れたの?」

「わかっています。でも、あの人たちの声が聞こえたんです。エンジン音に混じって聞こえてるはずです」

 真剣な眼差しで訴える中原に、横から法歳が助け船をだした。

「椿、河合さん、それに織田くん。耳を澄ましてみろ」

 全員が口をつぐみ、耳を尖らせる。ブウン、というエンジン音だけが耳を叩く。静まった中にエンジン音だけが響き続ける。

 と、かすかに。椿は声の切れ端を掴んだ。少しずつ、少しずつ声の輪郭が明瞭になってくる。

(終わらない終わらない教習は終わらない)

(上達しない上達しない幾ら教えても上手くならない)

(終わらない終わらない教習終了のチャイムが鳴らない)

(上達しない上達しないまだ検定は通せない)

「これ、幽霊の声?」

 哀しげにうなずく法歳に、中原は珍しくしっかりした声で訊いた。

「法歳さん、あの人たちってなんとかならないんでしょうか」

 法歳は優しく微笑んで答えかけ、急に表情を硬くした。椿は慌てて木刀を握り直す。と、コースの方から低い、男の声が響いた。

「勝手なことをしてもらっては困るな、お嬢さん」

「な、なになになによ、幽霊第三号?」

 河合の台詞に男は不機嫌な返事を返した。

「愚かな。下等な者と我々の区別もつかぬか? まあ、自らを『万物の霊長』など言い放つ身の程知らずには仕方あるまい、か」

 言霊、とでも言おうか。魔物の声に、河合と織田の顔が一瞬で青ざめる。中原には神社の力が働いているのか、慄えてはいるもののまだ意志は保っている。椿は木刀を強く握りながら、深呼吸をして乱れた意識を鎮静させた。

 と、再び魔物の声が闇の中に染み込んできた。

「下等生物よ。大人しく巣に帰るがよい」

 だが、この声に大きく反駁する者があった。

「下等とか上等とかうぜえこと言ってんじゃねえよ、害虫よぅ」

 突如がらの悪い台詞を吐いた法歳に、椿以外の全員が目を見張る。法歳は躊躇なく筆を二本取り出し、目をつぶって構える。それに呼応するように闇が急速に濃度を増した。

「椿、他の者は頼んだ」

「了解! いけやっ!」

 威勢の良い椿に、法歳は安心の笑みを見せるといきなり筆を大きく振る。と、空中に深紅の巨大な灯篭の絵が描かれ、その灯篭が闇を切り裂いた!

「魔戯画か? 滅びたはずではなかったのか!」

「お前の頭領の復活は俺の復活も抱き合わせなんだよ」

 冷めきった法歳の声に、椿はかすかな恐怖を嗅いだように思う。だがぼんやりする暇もなく中原が叫ぶ。

「椿先輩! 魔物が来てるですっ!」

 椿は中原の指さした先に木刀を叩き入れた。と、そこに巨大な蜘蛛の死骸が横たわる。

「いーやーっ! もう耐えられない!」

 河合が叫び声をあげた。即座に椿は河合の首筋に木刀を打ち込み昏倒させる。次いで織田を振り向くと大人しくしてろ、と言いかけ、織田がとっくに気絶していることに気づく。椿は法歳から貰っておいた仙術の眠り薬を二人に振りかけ、周囲を包む闇との戦いに転戦した。

「中原! あんたの方が魔物見えるみたいだから私の目になって」

 中原は黙ってうなずくと、お守りを手に握りしめたまま椿にぴったりと寄り添った。一方、法歳は目前の魔物を攻めあぐねていた。敵は自動車学校の指導員を模しているのか、学校名の入ったブレザーを着込んでサングラスをかけている。ずっと法歳と戦い続けているわりには呼吸の乱れも感じさせず、薄く闇の霧を纏いながら空中に浮遊している。先ほどから放っている魔戯画がことごとく外されてしまう。逃げていることを考えても魔戯画の無効化は出来ないようだが、術が効かなければ法歳の疲れが先に来てしまう。

「邪気祓いの剣士なしで魔戯画師独りでは所詮このようなものだろうて。化石は化石らしく黙って眠っておれば良いものを」

 魔物の嗤いに法歳は怒りの声を上げた。だが、それも魔物の嗤いを増幅させるだけでしかない。

(ここに歳さんがいてくれれば)

 太刀筋を思い返して歯がみする。だが、現実にはもう土方はこの世に存在しないのだ。法歳は一気に筆を揮うと、北斎を思わせる波の絵を描く。その波は一気に魔物を襲った。だが。

「海に霧ってのはつきもんでね。むしろありがたいよ」

 魔物はせせら嗤いながら波の中で悠然と立っている。波は闇の霧に遮られ、一部の波はそのまま闇の霧に変貌していった。

「波の術は魔戯画の中でも重いはずだろ? もうそろそろ打ち止めにして、僕の晩餐に並ばないか?」

 法歳は肩で息をしながら、それでも戦闘の構えをとった。法歳は自分に皆を守るのだと言い聞かせて心を奮い立たせる。だが、意志に反して体の反応には鈍重さが目立ってきている。

 と、魔物の爪が突如閃いた。法歳は避けきれず頰を引き裂かれ、血が空中に走る。その血を舐めながら魔物は歓喜の声をあげた。

「さすがは狩野の血だ。こいつは賞味する価値があるな」

「お前に喰われるほど安くねえっ!」

「心配なく。私は値段交渉にゃ一家言あるんでね」

 再び魔物の爪が右頰に迫る。辛うじて避けた刹那、もう一方の爪が左目を狙った。法歳は玉砕覚悟で構える。と、爪がいきなり空中に吹き飛んだ!

「痛えっ! 私の爪が、爪があっ!」

 魔物は手を押さえて後ろに飛び下がる。緊迫した空気の中、法歳は歳、と思わず旧友の名を口にした。だが、その声に応えたのは。

「ちょっと、私のこと忘れないでよ」

 椿の不満そうな声に法歳は一瞬うろたえた。だが椿はいつもの調子で続ける。

「さっすが中原、巫女ちゃまだわ。魔物を片っ端から見つけちゃうから勝っちゃった。で、法歳。戦えるの?」

「戦うしかないだろ」

 ぶっきらぼうに答えたのは、椿を土方と勘違いしたことへの恥じらいだろうか。しかし法歳は敵を睨みながら早口で付け足した。

「もしかしたら剣圧であの霧が払えるかもしれない」

「霧がなくなれば魔戯画が効くの?」

 呼吸を静めながらうなずく法歳に、椿は剣の構えで答えた。それを確認した法歳は三本の筆を口にくわえ、両手に二本の筆を握って巨大な魔戯画にとりかかる。

「このお絵描き小僧! させるかあっ!」

「そりゃこっちの台詞だよ。今度は『陵南の巴』が相手するよ!」

「小娘がっ!」

 魔物が間合いを詰めた。だが、椿も飛び退きざま一太刀を浴びせる。わずか、霧の厚みが薄くなった。椿は勝機を見た気がした。魔物も剝がれた霧の破片を目にして強く動揺する。

 魔物の爪が走った。椿のジャケットがずっぱりと斬れる。

「嬢ちゃん、僕の爪の切れ味は良いだろ?」

「こっちの木刀もよく斬れるわよっ!」

 魔物の狙いは椿の動揺だ。椿は強気に剣を青眼に構えた。空気全体が音を抑え込んだように静寂が広がった。法歳は既に魔戯画『龍之舞』を描き終えて霧が晴れるのを待つばかりだ。魔物は逃げ道を探したが、自動車学校全体は既に法歳の術で完全に封鎖されている。

 と、魔物は危険な笑みを浮かべて言った。

「喰うか喰われるか。どちらかしかねえってかよ」

「古くさいわね。今はオール・オア・ナッシングって言うのよ」

「毛唐の言葉なんざわかるかよ」

 椿と魔物の際どいやりとりを法歳さえも驚きの目で眺める。そして再び、両者の空気が張りつめた。

 魔物が跳んだ。椿の剣が一閃する。爪が喉元を走った。ぐお、と闇の霧が膨れあがり、一面に闇の霧が広がる。

「椿!」「巴先輩!」

 法歳と中原の声が闇に放たれる。だが声は返ってこない。法歳は走ろうとした。しかし走れば魔戯画が崩れてしまう。法歳は歯を噛みしめてぎりぎりで踏みとどまる。椿を信じたい。椿を信じるしかない。再び口の中で歳、と旧友の名を呟くと筆を握りしめ必死で祈る。と、再び中原が叫んだ。

「法歳さん! 来ます!」

 法歳は筆を構えた。彼の頭上では巨大な龍が舞っている。そして、魔物の姿が現れた!

「秘画・龍之舞!」

 刹那、龍が口を開けて大量の水を吐き出した。魔物の皮膚が滑り落ち内側の筋繊維がゲル状に溶解し露出した骨が泡を吹きながら細く細く溶解しつつ臓器も内容物をばらまきつつ溶けた肉液はどす黒い蒸気と化して大気に拡散していく。

 もはや、彼を守る霧は存在しなかった。立ちこめていたのは制御を離れた霧の残滓でしかなかったのだ。腐った魚からガスが噴き出すような気分の悪くなる音が響き、遂に魔物は消滅し、ともに霧が次第に晴れていく。と、法歳は叫んだ。

「椿!」

 魔物がいた場所の向こう、コース内の車のボンネットに椿は倒れていた。と、その車が音もなく動き始める。

「や、法歳さん、まだ魔物が生きてるんですかぁ?」

 中原が泣きそうになりながら尋ねる。だが、法歳は安心した表情で筆をポケットにしまった。車は法歳の前で止まり、中から二人の人間が降りた。一人は自動車学校の教官、もう一人は高三ほどの男だ。彼らが協力して椿を車から降ろすと、椿はゆっくりと体を起こし、木刀を杖代わりにして立ち上がった。

「このたびは、本当にありがとうございました。おかげでこいつも卒業させられます」

 教官が笑顔で言う。法歳と椿は穏やかな笑顔でそれに応える。

「あの、法歳くん。この人たちって」

 さっきまで気絶していたはずの河合が声をかける。椿は目を細めて悪戯っぽく答えた。

「探していた幽霊じゃないか。せっかくだから取材したら? 『幽霊との直接対談!』なんて普通できないよ」

 河合はぶるぶるっ、と首を振った。それを見て法歳や椿はもちろん、中原や幽霊たちまでが笑い声を上げる。笑いが収まると、法歳は筆を取り出して幽霊に歩み寄った。

「さて。君らはここから離れられるわけだ。良いね?」

 幽霊は二人ともうなずく。法歳は空中に筆を動かし、一艘の木造船を創り出した。次いで地面に筆を動かすと、向こう岸の見えない大河が現れた。

「この船で渡れば彼岸まで到達できよう。今までご苦労だった」

 幽霊たちは法歳に向かって手を合わせると、船に乗りこんだ。すると船は勝手に動き出して河へと入っていく。さらに船は河の激しい流れに押されることなく、真っ直ぐ対岸に向かっていく。そして遂に船が見えなくなった途端、河は跡形もなく消滅した。

 しばらく一同は黙り込んでいたが、遂に中原が声を発した。

「法歳くん、さっきの河って、まさか、さ」

「いわゆる三途の川をここに呼び出したんだ。これまで苦しんだんだから死出の旅ぐらい楽させてあげても良いんじゃないか?」

 こともなく答える法歳に椿と中原は呆れた溜息をついた。と、背後でごそり、と物音がする。慌てて振り向くと、織田が頭を振りながらこちらを凝視していた。四人と一人は黙って見つめあう。そして、やっと織田が言葉を発した。

「巴さん、幽霊は?」

 四人の爆笑が清冽な夜空に響きわたった。

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