日本国内では函館以外に例をみない西洋型要塞・五稜郭。明治維新の戦乱はここ五稜郭で締めくくられ、以後の日本は西欧文明との交流と亜細亜への進出を開始した。しかし現在の五稜郭は北海道で有数の観光地に生まれ変わり、春には道南圏有数の桜の名所として花見客で埋め尽くされる。函館は北海道の南端に位置するとはいえ、今は晩秋で寒さが身にしみる。日も落ちたこの時間ともなると人通りもまばらだが、それでも散歩する主婦や連れだって歩く若い男女の姿を見いだせる。五稜郭は要塞としての役割を終え、平凡な庶民の集う公園として余生を過ごしているのだ。
これを安易に平和の繁栄と評すべきなのか、それとも。
「堕落とも呼べるな」
少年が濠の水を眺めて呟く。歳の頃は高校一年生ほどだろうか。彫りの深い顔だちながらも純日本人の美形と言えるだろう。服装はジーンズにトレーナーでごく平凡だ。だが瞳の輝きは妙に老練な空気を漂わせていた。
体をぐっと伸ばし、周囲を見渡す。と、向こうからマルチーズ犬を連れた主婦が歩いて来るのが目に入った。きっちりと着込んだ厚手のコートがことさら彼女を鈍重そうに見せている。連れられている犬も太り気味だ。少年が目を細めて凝視すると、犬は少年に目を据えながら唸り声を上げ、少しずつ後退していった。主婦は人の好い声音で少年に微笑みかけながら綱を引っ張る。
「ごめんなさいね。メイニーちゃん。ご迷惑でしょ?」
だが犬は主人を振り返ると、少年を大きく避けて走り出した。中年の主婦は挨拶もそこそこに犬を追って駆けていった。少年はその姿を見送りながら独り呟く。
「この時代は犬にまで異国の名を付けるのか?」
再び水面に目を落とし、ブルーギルの魚影を眺めつつ少年は再び嫌悪感を露にした。
「そいつら、案外旨いんだよ」
いきなりの声に少年は振り向いた。立っていたのは三十代半ばの女性だ。ダークスーツがしっくり似合っており、ちょっとした会社のキャリア女性、といった風だ。だが少年はあからさまに見下した声で答える。
「お前さあ、あんな魚も喰うのかよ」
「そりゃこの時代、いくらあたしでも昔みたいに人間の喰らい放題なんて贅沢はできないからねえ」
「で? 真面目に生活しますからという命乞いか?」
少年は皮肉な表情で問いかける。女は目を細めると、ゆったりと片手を上げて呟いた。
「坊や、我慢って女性の美容にゃよくないんだよ。でもあんたが復活したってなると、邪魔でしょうがなくってねえ!」
刹那、女の手から光が走った。少年は身をかわして構える。だが少年の背後にあった転落防止柵は水面に落ちていった。少年は流れる柵の行方を横目で確認しつつ、ふざけたような笑みを浮かべた。
「おばさん、あれだって民草の年貢で払われてるんだぜ? もったいないことするもんじゃないよ」
「ほんとにねえ。でも、あたしゃ国民以前に人間じゃないから税金は払ってないんだよ!」
再び光が走る。しかし少年はそれを正面から受け止めた。女はうめき声を上げた。手から二メートルも伸びた長い爪を少年がぎっちりと左手で握っているのだ。
「人喰い鬼よお。せっかくだから幽玄な、じゃないや、今の時代だと『クール』って言うんだったか? その、クールな紋様、描いてやるよ!」
途端、少年の右手が閃いた。女の伸びた爪の上に無数の火の玉の図柄が浮かび上がる。
「魔戯画・爆炎走呪」
爪の火の玉がはぜながら鬼女の体に駆け上った。女は慌てて爪を切り落とそうとしたが、火の玉が鬼女の体に到達する。女は少年を睨みつけて叫んだ。
「あたしに勝ったぐらいでいい気になるんじゃないよ!」
少年は意に介さず片手を下に振り下げると、そのまま鬼女は爆炎になり変わり燃え尽きていった。顔を上げると、向こうからこちらを見ている人間がいる。少年は慌てて地面に考え込む老人の絵を指で描くと、その人間を指さした。すると絵は空中に浮かび、大気へと拡散していった。
「これでどっかの誰かさんも忘れてくれるだろ」
空には薄く月影が見える。今度は少年らしからぬしみじみとした声で嘆息した。
「歳さんの墓参り、今夜にでも行くか」
独り、花束を持って夜の歩道を歩く姿があった。先ほどの奇妙な少年だ。彼は何かを探すように周りを見回しながら歩き続けていた。しばらくして人通りのない小さな石碑の前に来ると、独りうなずいて立ち止まった。
「何してんの?」
少年は背後からの唐突な声に慌てて振り向いた。声の主は十七歳ほどの女だ。手には「新撰組歴訪」という、いかにもマニア向けな本を抱えている。肩に掛けた長いバッグと鋭い視線、それにきりっとまとめた長髪があまりに似合っていて、かなりのじゃじゃ馬さが見てとれる。だが一点の崩れもない制服を見る限り、根は真面目そうな娘だ。
「あ、もしかしてお仲間?」
少年が首をかしげると、彼女は妙に打ち解けた表情に変わって喋り始めた。
「だってわざわざ花束まで持って。あなたも新撰組ファンなんでしょ。それも、土方歳三!」
少年は戸惑った表情を瞬間だけ浮かべ、話を合わせるようにうなずいた。
「やっぱり。『土方歳三最期の地』に花束なんてよっぽどのマニアよ。でもやっぱさ、知らない女の子にゃ答えにくいわよね」
「歳さんの最期の地、か」
「やあだ、『歳さん』なんて。でも君って格好良いし、美少年剣士の沖田っぽいかなあ」
少年は頰を染め、慌てて花束を置くとそのまま去ろうとした。しかし少女は彼の腕を引っ張る。
「私、阿川椿。高校二年生。私はただのマニアじゃなくって、剣道部やってるけど。でさ、せっかくだしコーヒーでもどう?」
突然の言葉に少年は一瞬顔を曇らせる。だが、少女にじっと見つめられ、彼は観念した声音で答えた。
「ご一緒しようか。僕は狩野法歳だ」
「狩野? わあ、江戸時代に絵を描いてた有力な一派と同じじゃん。もしかして偽名とか?」
「本名だよ。法歳、と呼んでくれ」
「ますます良いね。よーし、面白い、さあ行こ行こ」
椿は外見だけは煉瓦作りに見えるレストランを指さした。法歳が首をかしげると、彼女は当然な顔で言う。
「夜に開いてる店って言ったらビクトリアぐらいでしょ。でもさあ、地方弱小都市の哀しさだよね。前に東京行ったとき、十時でも普通の喫茶店がんがん開いてたもん」
やっぱいつか函館は出たいよねえ、でも私の成績じゃねえ、と椿は舌を出して笑った。
ガラン、と店のドアを開けると店員が駆け寄ってくる。
「二名様でよろしいでしょうか。あと、禁煙席ですね」
案内された通りに奥の席について一息つくと、法歳はなぜか堅い表情で遠くを見つめている。
「法歳くん、どしたの?」
ちょっとね、と曖昧に答え、また視線を元に戻した。視線を辿ると、そこには今どきセンスのないサングラスを掛けた若者が大股を開いて座っている。椿は顔をしかめ、声を潜めて法歳に注意する。
「あんなのに目つけられたら面倒じゃない」
二人がごそごそ話していると、サングラス男のところにステーキが運ばれてきた。熱く焼けた鉄板が男の前に置かれる。と、いきなり男が立ち上がった。
「ふざけんじゃねえよ! 俺はレアって頼んだんだよ。何だこの黒い塊は。喰えるかこんなもん!」
「し、しかしお客さま。それでは衛生上問題が」
「エーセー? んなもん知るかよ、俺は血の滴るようなのが喰いてえんだよ。ほうら、こんなのがなあ!」
男は店員の女に組みついた。狩野は飛び上がって男に走る!
「うっひゃー、旨えなあ!」
男の歓喜と女の断末魔が店内に流れる音楽をぶち破った。頭部を喪った女はその場に倒れる。
「お前、早速か!」
法歳は怒りを抑えずに叫んだ。男は彼の顔をじっとみつめ、にやっと笑った。
「はっはあ、狩野の術師が出てきたって聞いちゃいたが、よりもよってこんなとこにいたとはなあ」
「歳さんの墓前でこの振る舞いとはいい度胸だな」
言いながら法歳は素早く空中に門の絵を何枚も描く。扉は次々に開き、店内の人間を外へ導いていった。
「っかーっ、これだから魔戯画師は嫌えなんだよ。俺の食事が全部台無しか。って? お、一匹だけ残ってんだ」
法歳は後ろを振り向いた。そこにはなぜか椿が青い顔をして残っているのだ。
「ははーん、魔戯画の失敗か。んじゃ、一勝負かけますかあ?」
いきなり男の姿が消える。だが法歳も速い。椿に迫った牙を手刀で叩き折る。蹴りが法歳の顔面を襲った。テーブルを跳ね上げ避ける。男は着地してから距離を取ると、ポケットから黒い砂のようなものを取り出して告げた。
「呪術はあんたの専売じゃないんだぜ」
男は黒い砂を空中に振りまき、サングラスを外した。と、建物が暗闇に包まれる。
「狩野ちゃん。俺の二枚目な瞳、拝ませてあげたかったぜえ。なんてったって俺の目にゃこの明るさが素敵にぴったりなのさあ」
部屋がしん、と静まった。法歳に焦りが広がる。頰を何かが切り裂いた。咄嗟に避けて気配を窺う。だが再び闇は魔物と結託する。呼吸を整え、法歳の先鋭化した精神に、かすかな気配がひっかかった。
「椿、逃げろ!」
法歳は吼える。と、いきなり椿から光が走った。椿は懐中電灯を照らしつけたのだ。男は苦悶の声を上げ、目を覆って逃げようとする。法歳は椿のもとに駆け寄ると、懐中電灯にジーンズから取り出した筆をべたりとくっつけた。そしてその筆を大きく振るうと、店内を包んでいた闇が一瞬で晴れ渡った。魔物は目をうっすらと開けて法歳を睨む。そしてもう一度椿に向かって駆ける。だが、法歳より速く椿の振るった木刀が男の脳天を直撃した。
「伊達に剣道部長やってないわよ! く、来るんなら、ま、またゴツンなんだから!」
震えた声で虚勢を張ってみせる椿に、魔物は牙をがちがちと鳴らして起きあがった。だが、既に法歳は魔物の背を取っていた。
「季節外れだが、水枯呪といこうか」
魔物の背に手を添えると、たちまち紅葉の紋様が浮かび上がる。魔物が言葉を継ぐより速く、体中を紅葉の紋様が覆った。男は次第に干物のように変わり、そのまま粉々になって一山の粉末になってしまった。法歳は溜息をつき、椿に目を向ける。
「せっかくのカフェがまだだし、場所を変えないか?」
椿はただ、何も考える力もなくうなずいていた。
「マギガシ?」
聞き慣れない言葉に、椿は激辛麺を口元に運ぶ手を止めた。
「魔戯画師。図画の魔力で魔物を討つのが仕事だ」
ここは駅前の中華食堂。夜に開いている喫茶店が見つからなかったため、椿が行きつけの店にやってきたのだ。法歳は淡々と信じられないような話を説明した。元々法歳は江戸時代の絵師の最大流派、狩野派の中にある秘伝を使いこなしているのだという。
「言うなれば『裏狩野』という感じかな。まあ、そんな月並みな呼称は僕は嫌いだがね」
「とにかくあんたは魔物ハンター、ってわけ? あー、辛い」
法歳はスープに浮かぶ唐辛子に眉をひそめながら首をかしげる。
「魔物ハンター、って? どうも僕は異国の言葉を解せないからな」
「異国ってあんた、あのねー。私が言いたいのは、要は魔物を狩る人なんでしょ、ってこと。でもハンターぐらい普通知ってるもんじゃない。あんたどういう生活してんの?」
「この時代に生きている時間が短いのでね」
椿は唐辛子を口の中で転がしながら顔をしかめる。法歳は頭をかき、ぼそっと言った。
「僕はこの時代の人間じゃないんだ。五稜の戦で魔物と戦って、相討ちになって封じ込まれたんだ」
「って、ちょっと待ってよ! じゃ、あんたずーっと明治大正昭和って眠ってて平成もこんなに入ってからお目々開けたってわけ?」
「そんな時代はよくわからないがね。歳さんが起こしに来てくれるはずだったんだ。まさかあの歳さんが死ぬなんて思わなかったからね」
「ね、歳さんって、あのーまさか?」
「新撰組副長、土方歳三」
椿はどっさりと椅子に深く座り込む。と、奥から法歳の中華麺が運ばれてきた。椿の激辛好きを知らない狩野は椿と同じ物を頼んでいる。よほど腹が減っているのか、嬉しそうな顔で麺を思いっきり頰張った。
「どう? 美味しいでしょ」
法歳は目を大きく見開き、ぐいぐいと麺を飲み込むとコップの水を大慌てで口に注ぎ込んだ。
「椿、僕を拷問にかける気か?」
「何言ってんのよ。私と同じ辛さよ。せっかく美味しいように十本増しにしたのに」
「あの、だな。店に入るなり『十本』って言っていたのは」
「唐辛子の本数よ」
椿は当然の顔で自分の器に一味を振り込む。
「で、続きの話。あ、あなたも一味いる?」
「拷問にかけられなくても全て話すから心配するな」
法歳は自分の器に手で蓋をしながら、慌てて話すことを頭の中でまとめあげた。彼の話によると、魔物との戦いは箱館戦争における二股の戦いの直前に行われたのだと言う。それで二股峠に封印されていたのが、国道整備工事で目覚めたらしい。今でもかなり世間とずれてはいるが、それでも函館への道すがら、色々と世間の勉強はしてきたのだという。そんなわけで一応何とか椿との会話も成立しているのかもしれない。
話し終わった法歳をじっと見つめながら椿は新しい質問を考え、いきなり机を叩いた。驚いたはずみに唐辛子を飲み込んだらしく、法歳は呻きながら水を一気に飲み干す。だが椿は優しい声をかけるでもなく、疑い深い表情で尋ねた。
「あのさあ、さっき会った魔物ね、どうしてこうぴったり出会っちゃったわけ? ああいう事件なんて聞いたこともないし、ちょっと偶然にしちゃ上手すぎだよねえ」
「ほど遠くない場所に魔物の親玉が封印されていたからね。僕より先に目覚めて自分の部下を叩き起こして歩いたんだろう。もしかしたら潜んでいた物の怪まで呼び寄せているのかもしれない」
平然と言って唐辛子を吐き出す。と、狩野は吐き出したそれをつまみ上げると、ゆっくりと尋ねた。
「君はこのような食事をしばしばしているのか?」
「しばしば、って言うか、私って辛い物マニアだし。唐辛子があればなんでも美味しくなるよ」
法歳は大きく溜息をついて額を手で押さえた。
「そんな大げさにしなくたっていいじゃない。そりゃ、ちょっと度は過ぎてるけどさあ」
「それよりも深刻な問題だよ」
椿は首をかしげ、どんぶりに残っていた唐辛子を口に放り込んで法歳をじっと見つめる。すると、法歳は話を続けた。
「辛いものを日常的に食している者にはね、なぜか魔戯画の術があまり効かなくなるんだ」
「だからさっき、私だけ逃げられなかったってわけ?」
冷静にうなずく法歳を見て、椿はどっさりと深く座り込んだ。
「もしかして私と離れたくなくってわざと残したのかなあ、なんて思って期待したのに」
にやにやとからかう調子で言った椿に、法歳は相変わらず生真面目な調子で答えた。
「女を危険に巻き込むほど痴れ者ではないよ」
時代劇男、と椿は独り言を呟いてから、ふと法歳の服装を見直した。なぜ彼は着物を着ていないのだろう。椿の疑問に、法歳はばつの悪そうな表情で答えた。
「服についてはね、悪いとは思ったんだけど通りかかった人に魔戯画をかけて恵んでもらった」
それ駄目でしょ、と椿が呟いたが、法歳は聞こえなかったのか、それとも聞こえないふりなのか視線を逸らした。話題も尽きて二人とも黙り込んでいたが、法歳はおずおずと口を切った。
「椿、頼みがあるのだが」
「なあに? ここの勘定ぐらい払ってあげるよ」
「それもあるが。頼みというのは椿、君の家に暫く逗留させてもらえないか、という話だ」
さすがに椿は立ち上がりそうな勢いでいきり立つ。
「ちょっと待ちなさいよ! いきなり夜に男の子泊めてあげるほど今の時代だってオープンにはなってないわよ」
「だから僕は遠い親戚ということになるよう、魔戯画を施そうと思う。野宿にはほとほと疲れた」
「あんた、二股からずーっと野宿で歩いて来た、とか」
うなずいた法歳を椿は信じられない面持ちで見つめる。二股峠と言えば、車で数時間はかかる人里離れた峠なのだ。椿は天井を睨み、そして大きく溜息をついた。
「ただし、普段の生活じゃ勝手なことしないでね。ここは江戸時代じゃないんだから」
やっと法歳が安心してうなずく。彼の本当の笑顔を今初めて見たことに、椿は微かに感動を憶えた。それから二人はタクシーを拾って椿の家に戻った。これで椿の今月の小遣いはほとんど使い果たしたわけだ。椿は財布の中を確認して溜息をつく。だが、明日の小遣いよりももっと不安なのはこの時間だ。真夜中をとうに回っている。幾ら放任主義の家とはいえ、一人娘の夜遊びを笑って済ますほど甘くはない。家の前に車を止めず、ちょっと離れて降りたのも様子を窺うためだ。
「ねえ法歳くん、どうしよ」
「まあ、不純な遊びで遅くなったわけでもないし」
「じゃ何よ。『魔物に襲われて遅くなっちゃった。てへっ』って言って許すと思う?」
「僕の時代だったら無理だろうね」
「ドラえもんの時代だって無理に決まってるわよ!」
「銅鑼?」
そっか、ドラえもんって江戸時代になかったっけなんぞと呟きかけ、すぐに頭を振って言い放った。
「と・に・か・く。早く魔戯画使ってよ!」
法歳は自分の指先を小さく噛みきると、絞り出した血をポケットから取り出した筆につけて玄関口にさっさと描いていく。仕上がった絵は椿と狩野が仲良く歩いている絵だった。
「これだけ?」
不安げに顔を覗き込むと、狩野は自信満々にうなずく。椿は溜息をついてそっと玄関を開けた。途端、父が茶の間から走ってきて怒鳴った。
「何をしていたんだ。若い娘がこんな時間まで遊び回って!」
法歳を問い詰められるときを思ってさらに憂鬱になる。だが、次に父の発した言葉は全く椿の予想もしない台詞だった。
「椿、十七歳にもなって何をしているんだ。法歳だって着いたばかりなんだからな。お前の方がお姉さんなんだぞ?」
椿は父の小言を聞きながら狩野の術に思いを巡らせていた。がみがみ頭の上を通っていくお叱りは「法歳が来たことにはしゃぎすぎ」という話。両親ともに、法歳のことを椿の従弟だと完全に思い込んでいるのだ。
法歳は数え十七と言っていたから、今の年齢に換算すれば十六歳、ちょうど高校一年生だ。一人っ子の椿に、お姉さんという言葉の響きはちょっと嬉しい気もする。とはいえ私の弟は魔戯画師ですというのもどうかなどと頭の中で独り言を呟いているうちにお叱りも終わりに近づいたようだ。
「転校先で何か困ったら椿に訊くといい。だな、椿。頼んだぞ」
さらに予想だにしなかった言葉に、椿は何も言えずに父の口元をじっと見つめる。父は苛立った様子で言葉を続けた。
「話しただろう? 法歳くんのご両親が急な長期海外出張になったからうちで預かって転校したんだろうが」
法歳を睨むと、慌てて下を向いて椿と目を合わせないようにする。椿は親の手前、大人しく謝ってから法歳を引っ張って自分の部屋に連れ込んだ。
「法歳くん、って言うか法歳! どういうことよ転校って!」
椿のなじりに法歳は他人事のように答える。
「魔戯画の情景をたぶん転校という形で理解されたんだろうな」
「だろうな、って他人事みたいに言わないでよ。制服でしょ、勉強道具でしょ、それにあんた、学校中の人間に魔戯画を全部かけなきゃなんない。どーすんのよ」
「制服その他はご両親が用意してくれるそうだよ。魔戯画の方は今のうちに用意しておけば何とかなる」
「用意って?」
「椿、小刀と何か版画の板代わりにできるものはないか?」
椿は家中をごそごそ荒し回り、父が物置に放り込んであった木の板と中学の美術で使った彫刻刀を持ってきた。
「で、こんなもん使ってどーしようってのよ」
「学校全体に魔戯画を押そうかと思ってね。広いんだろう?」
どうも魔戯画スタンプを作ろうという算段らしい。法歳は慣れた手つきでさっさと下絵を描くと彫刻刀を握った。描いたのは狩野が本を持って歩いている絵だ。周囲には草書体で何か書いてあるが、達筆の文字を読みとることは椿には難しい。
「で、これをスタンプするとどうなるのよ」
「僕が学校にいることに違和感を憶えなくなる。今のところ、この時代にどうやって生きていけばいいかよくわからないし」
「でもね、法歳くん。ほんとに将来はどうやって生活する気?」
「丁稚奉公でもするか。絵師の仕事があれば嬉しいんだけど」
コンビニバイトを勧めようと思っていた椿は、言いかけた言葉を飲み込んだ。「丁稚奉公」なんて落語か時代劇に出てくるような言葉を平気で口にするようでは、普通の職場になぞ到底馴染めるはずもない。もしかしたら転校は彼にとって偶然の僥倖だったかもしれない。
「学校に通って世の中勉強してよ。私もできるだけ協力するからさ」
明日は学校探検でもさせるか、椿はそんなことを思っていた。