雲一つない広大な青空と丸く広がった水平線の境界が、嫌になるほど爽やかな藍色に滲んでいる。その鮮やかな青い風景を前に、何の目的もなく、ただぼんやりと崖下を眺めているだけの僕自身が本当に馬鹿らしかった。
展望台で若い女性が歓声を上げた。女性の指差した方に目を向けるとイルカが小さく跳ねていた。汗ばんだ肌に湿ったシャツが張り付いてくる。僕は襟口を指で伸ばしながら沖合を眺めた。地球が球形だと体感できるから地球岬なのだと聞いていたが、ここ現地の看板によると「ポロ・チケップ」というアイヌ語が語源なのだそうだ。「母なる断崖」という意味で、岬から見下ろしただけで背筋が寒くなる急峻な断崖を目にすれば、大げさな意味を匂わせる語源も納得できる。室蘭市内の観光案内所で配布しているパンフレットには語源の話は載っていないが、それも地球岬の眺望を観光化する上では上手い方便なのかもしれない。実際に断崖の周りは観光客だらけなのだから、きっと作戦は成功なのだろう。
僕は鞄の中を覗くと一通の封筒を取り出した。採用不合格通知書だ。受け取って中身を確認して、でも現実を受け止められなくて家から逃げ出して、今は単に運動したいのだと無茶なことを自分に言い聞かせて。それで走り続けて地球岬の断崖まで辿り着いてしまったというわけだ。観光客だらけの断崖を前に独り不合格通知書を抱えて汗だくで立っているなんて、これが僕自身の話でなければ僕も指差して笑ってしまうほど情けない状況だ。
気が弱すぎると笑うかもしれない。でも僕が昨年度の卒業生でお花見の季節もとっくに過ぎているとなれば話は別だと思う。実際、自宅で安穏としていられる雰囲気はない。とはいえ、こうやって封筒を取り出してみてもやはり不合格は不合格で結果が変わることなんてあるはずがない。無駄なことはわかっているのに諦め悪く開いては確認してしまう。
突風が頰を打った。通知書が風に巻き上げられる。僕は慌てて通知書を追いかけた。掴もうとしたが、そのまま通知書は僕の手をすり抜けて崖の先に飛び去っていく。観光客たちは拾ってくれるどころか、あからさまに迷惑そうな視線を僕に向けるだけだ。僕は彼らを押しのけながら通知書を追った。崖を下る坂道は立入禁止看板付きの柵で閉鎖されていたが、構わず柵をよじ登って坂道を駆け降りる。まだだ。まだ間に合う。あともう少し。
指先が届きそうなところで僕はいきなりつまずいて転んだ。そのまま通知書は風に乗って海まで飛び去ってしまった。僕は足元を睨みつける。そこには目を惹く青い石の突起が出ていた。かなり風化してはいるが人工物のようだ。その先には大きな灯台があり、僕の駆け降りてきた坂は灯台の管理通路らしい。
石をつま先で蹴飛ばしたが、深く埋まっているのか全く動かない。僕はしゃがんで石をじっくりと観察した。空と海の境界で滲んでいた青色の滴が地面にそのまま刺さったような、濃厚な青さの石だった。表面に文字を刻んでいたらしき跡もあるが、風化してしまっていて言語すらわからない。だが撫でてみると、風化しているわりに真新しい金属のような滑らかさもある。触っているとひんやりとして、おまけに崖下だと観光客の騒々しい声も聞こえず、次第に苛立ちも収まってくる。
僕はしばらくの間、地べたに座り込んで石を撫でていた。不合格通知書なんて何の役にも立たないのに、大切に持ち歩いていた自分が哀れで、そのくせ大事にしていたはずの通知書をあっけなく風に奪われた僕の不注意さは同情の余地がないほど間抜けだった。そんな哀れで無様な僕と、観光地の外れに突き刺さっていた石は似ているように思えたのだ。
ポロ・チケップ。何となく僕は呟いて石をそっと撫でる。今はもう、この石を蹴飛ばす気はなくなっていた。僕はあらためてはっきりとポロ・チケップ、と口にしてみた。アイヌ語は濁音が少ないせいか響きの美しい言語だと思う。とくにこの言葉は優しい感じがした。やはりどんな民族でも、母を指す言葉には優しい印象を与えたかったからなのだろうか。
ポロ・チケップ。大きめの声でまた言ってみる。何だか気持ちが安らいだようだ。僕はやっと立ち上がると、青い石にお礼を言う気持ちを込めて手で押した。すると、さっきは蹴っても動かなかったはずの石が大きく斜めに傾いた。試しに両手で掴んで揺すってみたところ、あっけない調子で石はすっぽりと抜けて僕の腕の中に収まった。石は思っていたほど深くは埋まっておらず、そのうえ中に空洞でもあるのか、意外に軽い石なので抱えたままでも上れそうだ。僕はそっと周囲を見回すと、石を両腕で抱えて坂道を上り始めた。
母には不合格通知の話もせず、そのまま自室へと戻った。背中に母の視線を感じたが、とくに何も声は掛けられない。母は昔からあまり責めたりしない人だ。そのぶん、最近の無言は僕への詰問のように感じられるのだ。
部屋の鍵を回す。鍵の掛かる音が僕を少し冷静にさせてくれる。直射日光が入るとパソコンの画面が見にくいので、窓のカーテンはいつも閉め切ったままで開けることはない。外界と関わらずにいられる、不甲斐ない僕が隠れていられる空間。僕は拾ってきた石を床に置くと安堵の溜息をついて、朝起きたままの布団に倒れ込んだ。石鹸の香りと布団に染み付いた自分の汗の入り混じった匂いが鼻腔に侵入してくる。このまま何も考えず眠ってしまいたい。布団を股に挟み、体を小さく丸めて目をつぶる。顔に布団を押し付けて匂いを嗅ぎ、曖昧なまどろみへ逃げようとする。
何かが耳に引っ掛かった。机を叩くような音が聞こえた気がする。きっと気のせいだと思う。だがさらに大きめの音が聞こえた。母がドアを叩いたのだろうか。僕は無視して雑音が聞こえないよう布団の中へ潜り込んだ。
諦めたのか、ようやく雑音が消えた。僕は布団から顔だけを出して目を開けると、地球岬から持ってきた青い石に視線を向けた。何となく気になり、布団から這い出して石に近寄る。あらためて石を撫でてみる。ひんやりとした冷たさが僕の中のざわめく気持ちを落ち着かせてくれる。僕は座って石を膝に乗せた。
今になって考えてみるとポロ・チケップ、母なる断崖という名前は不思議な語感だ。獅子が断崖から子を突き落とすという昔話はあるが、子供を突き落としている親獅子は絶対に雄だと思う。あくまで僕の勝手な想像でしかないのだが、母と断崖という単語は、僕の中でどうも上手く結びつけられない言葉だ。
ポロ・チケップ。僕は再び声に出した。部屋に持ってきたこの石をどうするか。母が気付いたら何か文句を言いそうだが、飾りだと言い張ろうか。そもそも、あんな場所から勝手にこんな意味ありげな石を引っこ抜いて後で問題にはならないだろうか。文字か何かを刻んだような跡があるぶん不安になる。市内の二十代無職男性が無断で持ち出して逮捕、なんて新聞記事に載ったりしたら本当に最悪だ。想像するだけで僕は不安になった。それでもこの石は絶対に捨てたくないと思った。僕は石を胸に抱えると再び布団の中に潜り込む。胸に当たるひんやりとした感触が心地良い。次第に眠気が迫ってくる。僕はもう投げやりな気分で石を抱いたまま目を閉じた。
目が覚めると、カーテンから漏れ入ってくる太陽の光が消えていた。僕は起き上がるとカーテンを細く開けて外を覗く。見事な満月が空に浮かんでいた。僕は溜息をついて布団の上に座り込む。また色々と諦めて眠り込んでしまったようだ。寝ぼけた頭が次第に明瞭になってくる。何かを忘れている気がする。
僕は叫んで立ち上がった。胸に抱いていたはずの石がない。起きたときに石を蹴り転がしただろうか。それとも寝ているうちにどこかへ放り投げたのか。だが部屋の中を見回しても見当たらない。抱えるほどの石が、この狭い部屋の中で紛れるなんてありえない。掛け布団をめくって裏返す。敷布団もひっくり返した。机の下に潜り込む。匍匐前進の要領で部屋の隅々まで這い回って石を探す。そこまでしてもあの青い石は見当たらなかった。
夢を見ていたのだろうか。採用試験に落ちたことも地球岬に行ったことも全てが夢だったのではないだろうか。僕はのろのろと鞄を開けてみる。だが、不合格通知が入っていた空の封筒はやはりそのまま見つかった。僕は溜息をついて紙袋を取り出し、力を込めて丸めると机の脇に置いたごみ箱に放り投げた。封筒は上手くごみ箱に入ったが、すぐにごみ箱から丸めた封筒が飛び出して床に転がる。僕は立ち上がって封筒をごみ箱に投げ込もうとして、危うく呼吸が止まりそうになった。
「痛いじゃないですか」
ごみ箱の中から、少女の姿をした人形が口を尖らせて僕を見上げていた。人形は着物に似た青い服を纏っており、黒髪の長髪を結い上げ、衣装に合った瑠璃色のかんざしで留めている。肌は人形らしい純白なのだが、頰や首筋は血色の桜色がほんのりと映えていた。
何だ、この人形は。僕はそっとごみ箱から身を引く。するとごみ箱を中から叩く音が聞こえた。僕は再び近づいて覗き込む。人形が更に苛立った顔で僕を睨んでいる。そっとごみ箱の中に手を伸ばすと、人形はいきなり僕の手の甲をつねった。僕は慌てて手を引っ込める。人形は胸を張って甲高い声を発した。
「狭いから、早く出して欲しいのだけど」
僕は握ったままの封筒を取り落として後ずさりする。だが人形は苛立った声で喋った。
「籠から出してよ。籠に逃げ込んだのは私だけど、ここまで連れてきたのは君なんだし」
僕は部屋から逃げ出そうとしてドアノブに手を掛けた。だが、無言の母からの視線を思い出してドアノブから手を降ろす。もう一度振り向いてごみ箱に目を移した。離れて見るぶんにはやはり何の変哲もないごみ箱だ。僕は覚悟を決めてごみ箱をそっと覗き込んだ。
人形がふて腐れた表情で僕を睨みつけてきた。手を籠に入れると、さっきまでは出してくれと言っていた癖に身を反対側に縮める。
「出して欲しいんだろ? 何で逃げるんだ」
「卵から醒めたらすぐそばに人間が寝ていたなんて、恐ろしいに決まっているでしょう」
人形は仁王立ちすると震える声で言った。卵とは青い石のことだろうか。あれが卵だったと言われればそんな風にも思える。とりあえず僕は人形の腰回りを両手で掴んだ。人形の体は柔らかく、少し高めの体温が手に伝わる。
「私、高い高いされて喜ぶような子供じゃないの。でも危ないから、きちんと抱いて」
僕は掲げていた人形を慌てて腕の中に抱いて床に座り込み、太腿に載せて観察した。先ほどは着物だと思ったが、よく見るとアイヌ模様に似た刺繍が縫い取られている。だが服の色は色々な博物館で見たアイヌの資料にはない、消えた石と同じ鮮やかな青なのだ。彫りが深い容貌は完全に近く整っており黒髪と長い睫毛は艶やかで、だが安物の人形にあるようなビニール系の安っぽさはない。僕を仰ぎ見る瞳も黒く濡れたように輝いている。
「見つめられると恥ずかしいのだけれど」
再び人形が不満そうに言った。僕は言い返そうとして喉が渇いていることに気付いた。朝起きたばかりだし、何よりも今の異常さに喉が真っ先に反応したようだ。僕は不機嫌顔をした人形を膝から降ろす。机の脇に置いた冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出して蓋を開けると、一息に半分ほど飲み干した。
「ねえ、私の分は?」
人形は僕のペットボトルを見つめて当然のように言った。僕は手元のペットボトルと人形を交互に見比べる。人形が僕のジーンズを引っ張るので、僕は再び元通り床に座り込んだ。人形は当然のように僕の膝をよじ登って太腿の上に正座した。僕はペットボトルの蓋にお茶を注ぐとそっと人形に手渡す。人形は両手で受け取ると上品にお茶を口にした。
「何で人形なのに」
僕は思わず呟いてしまう。人形は目を細めると僕を馬鹿にした表情で首をかしげた。
「人形がお話して、お茶を飲むと思うの?」
「でもさ、現実に起きているだろ」
「君は頭が悪いの? 造り物の人形が話している以外の可能性を、何も考えられない?」
透明で甘い、でも棘のある声に僕は体を縮める。人形は憐れむような視線を向けた。
「人間がどれだけこの世界を知っていると思うの。あなたが住んでいる土地のどれほどのことをあなたたちは知っているつもりなの」
僕は首をかしげた。部屋の本棚に目を向ける。大学時代の教科書はまだ棚に並べたままだ。生物学の分厚い参考書が目に入った。現代の生物学は外見の観察も無視できないが、遺伝子解析やタンパク質分析を応用した研究が花形だ。でも、地球上に棲んでいる生物を全て把握しているのか問われるとかなり危うい。
「あなたたちは未だ何も知らない。私たちが太古から存在することすら知らないくせに」
ここまで強く言ったのに、彼女は急に顔を歪めると僕を睨みながら小さい声で言った。
「私の他にも仲間が沢山いる。いる、はずなの。でも私は長く卵の中で待っていたから」
彼女は口元に手を寄せて目を逸らした。だが、すぐに再びきつい視線を僕にぶつける。
「卵から私を起こしたのは君でしょう。だから君には、私のために働く義務があるの」
「何でお前がそんなに威張っているんだよ」
反駁すると彼女はあからさまに不機嫌な表情を浮かべたが、すぐに僕の顔をじっと見つめて何か考え込んだ。次いで僕の右手に小さな温かい両手を重ねて少し穏やかに言った。
「自己紹介がまだだったよね。私はルル。お前と呼ばれるのは不快だから名前で呼んで」
慌てて僕も自己紹介しようとすると、ルルは僕の唇に右手を当てて塞いだ。
「今は名前、訊かないでおく。いちいち人間なんかに情を移したくないもの」
僕は文句を言いかけ、ふとまた不合格通知書が頭を過ぎる。そんな自分が名前を名乗って、更に今の境遇を話すようなきっかけを造ることは嫌だった。そんな話をしたらどんな侮辱をされるかわからない。僕は自己紹介から話を逸らすために敢えて協力的に言った。
「で、僕は何をすれば良いんだ?」
ルルはうなずくと腕組みして僕を仰いだ。態度はかなり偉そうなのに、ほんの少し瞳が濡れていて目が泳いでいるように思えた。
「仲間を、探したい」
ルルの言葉は当然と言えば当然だった。少なくとも僕はルルの同類を知らない。ルルも仲間が今、どこにいるのかを知らない。ルルは、今いる場所がどこなのか、更に陸と海の位置をわかるものが何かないか訊いてきた。
僕は机に移ってパソコンを立ち上げた。ルルはよじ登って僕の膝に載る。画面に動きがあるたび、ルルは身を震わせては慌てて元通り僕の太腿に座り直して居住まいを正す。
やっとスタートアップ画面が終わった。ブラウザを立ち上げてGoogleの地図サービスを開き、航空写真地図へ表示を切り替えた。僕はまず、僕たちが今いる自宅ではなく地球岬に画面を移動した。海と陸の境界が明確に見えてくる。膝の上でルルが小さく飛び跳ねるような動作をしている。こっそりと顔を覗くと、さっきまでの重い空気はほとんどなくなり、画面を食い入るように見つめていた。
「ここがルルの卵があった場所」
僕は地球岬の先端を指差した。ルルはうなずいて僕の顔を見上げ、おずおずと言った。
「ここから麓に下りると平地があったはずなの。色々と見たいのだけど。できる、かな」
僕は画面を移動させていく。ルルはもどかしそうに、マウスを操作している僕の右手に両手を重ねる。それでも僕は飛ばさないよう敢えてゆっくりと画面を移動していった。
と、急にルルは僕の手の甲に爪を立てた。
「ここ! ここをもっと見たい!」
ルルが必死な様子で画面にべったりと指を突き立てる。ちょうど母恋駅の場所だ。僕はスライダーを動かしてズームを調整していく。ズームしていくに従い、更にルルの爪が僕の手の甲に食い込んでくる。いい加減痛いと文句を言おうとしたとき、ルルの爪が急に力を失った。そっと声を掛けると、ルルはいかにも僕を疑っている目で睨みつけ、いきなり激しい口調で主張した。
「この箱はどうせ人間の造りものでしょう。やっぱり本当の場所に行ってみないと」
「確かに地図だけど、空から本物を撮影してるんだよ。撮影って言ってもわかんないか。記録だよ記録。それもつい最近のもの」
説明してもルルは僕を睨みつけたままだ。爪を噛んで何か呟いている。何を言っているのか僕は乱暴に訊いた。ルルは急に膝から飛び降りると、僕の脛を蹴りつけて叫んだ。
「こんなはずはないの。ここには私たちの聖地があるの! 私たちの村があるの!」
僕はどう答えれば良いかわからなかった。ルルの言うような村があるはずはない。でもルルは真剣そのものだ。ルルを連れて行って見せてやれば良いのだろうか。思った途端、この部屋から出たくないと思った。また不合格通知書のことが頭をもたげてくる。最近、家を出ようとすると見えない段差を飛び越えるような緊張が走る。街の中を歩くとき、どうしても後ろめたいような気分が背中から圧し掛かってくる。今の中途半端な状態で、仕事を探すという建前もなく歩き回ることが僕は怖い。でも、完全な引きこもりになって世の中を拒否するほどの固い決心もない。そんな僕をまたすぐに外出させようというのか。
ルルは迷惑だ。確かに石のつもりで卵のルルを何も考えず家まで持ち込んだのは僕だ。でも、だからと言って何でこいつは僕の部屋でここまで偉そうにしているのだろう。今、思い切ってこいつを殴りつけてしまえば。
だが僕の右手に温かい体温が乗った。次いで僕の膝に再び体重がかかる。ルルと視線が交わった。それは先ほどまでの横暴なルルとは全然違う、甘えてしまいたくなる表情だ。
「君は今、何か抱えているの?」
僕は固めていた拳を緩めた。掌に食い込んだ爪の痛みに驚く。ルルを殴りたいだなんて一瞬でも考えた自分が急に恥ずかしくなる。でもルルは穏やかな手で僕の頰を撫でた。
「ごめんね。私も焦っていたみたい。冷静に考えればわかったはずだけど、君だって何でも自由にできるはずはないものね」
ルルの言葉の意味を反芻する。たぶん僕の駄目な感じがルルにもわかるのだろう。ルルは僕の部屋を見回す。今の人間の生活を知らないルルでも、脱ぎっ放しの服や乱雑に積み上げた雑誌の山を見れば一目瞭然のはずだ。
ルルは僕の膝の上に器用に立ち上がると、初めて犬に触る子供みたいなぎこちなさで僕の頭を撫でた。でも、なぜかそのぎこちなさが僕には妙に心地良くて目を閉じてしまう。
「だから私を卵から戻せたのね。君だから」
あらためてルルの姿を見直した。これほど小さくなくて僕たちと同じ身長だったら、このかわいさだし男たちに言い寄られるだろう。話し方や態度は尊大だが、さっきのマップ機能の飲み込みの良さを思えば頭は切れるようだ。
ルルは大人びた寂しい笑顔を僕に向けた。
「ゆっくりで良いんだよ、ゆっくりで」
うなずきかけ、あらためて思った。今の僕にできることは何だろう。まずは別の就職先を何か探さないと。でも今は探すあてすらろくにない。だったら今、僕だけにできることは。
僕はルルを膝から降ろして言い切った。
「母恋駅まで連れて行ってあげるよ」
翌朝、僕は納戸の奥から我が家で最大のスポーツバッグを探しだすと、ルルに中に入るように説得した。ルルと一緒に歩くとか抱き抱えて移動するなんてあまりに無茶な話だ。
でも階段を降りかけたとき、いきなりバッグの中から腿を蹴られた。バッグを開けて覗き込むとルルは涙目で、酔う、とだけ呟く。僕はなるべく揺らさないよう用心しつつ玄関を出た。これでは自転車なんて使えるはずがない。僕は諦めてバスの停留所に向かった。
母と顔を合わせたくないので朝食抜きにしてしまった。僕は腹が空いているし、何も訴えないルルだって空腹のはずだ。僕はコンビニでジャスミンティーとクリームパンを買って近所の公園に向かった。ベンチに腰掛け、パンを半分とペットボトルの蓋に入れたジャスミンティーをバッグの中に差し入れる。次いで僕も残していたパンをジャスミンティーで胃袋に流し込んだ。バッグの中を覗くと、ルルはパンの端をむしってはクリームをつけて食べている。ペットボトルの蓋を口元に傾け、かすかに動く白い喉元が愛らしい。
ルルはジャスミンティーを飲み干すと、急に僕を見上げた。だがすぐに目を逸らして小さな声で何か言う。聞き返すと口を尖らし、次いで顔を背けたまま大きめの声で言った。
「朝食、ありがとう。変わった味だけれど」
クリームパンとジャスミンティーではルルが食べ慣れているはずがない。やはり僕はどこか抜けている。だがルルは笑って言った。
「食べ物は甘いしお茶も華やかな香りで楽しかったわ。毎日こんなのを食べているの?」
「いや。一番簡単に手に入ったから」
「そうなの? でも、ありがとう」
ルルの柔らかな笑みを見て、僕はもっと今の人間の食べ物を食べさせたいと思う。でも母の料理を取り置きして後で分けるというのはペットのようで嫌だと思った。でも独り暮らしをして、そこにルルが一緒にいたなら。
自身の安直な発想に苦笑しつつも、何か不思議と暖かい気持ちになった。
バスに乗った途端、雨が降ってきた。かなり集中的な豪雨で、バスのワイパーも滅多に見られないほどの速さで往復している。窓から見える空は濃い灰色で、まだ昼間だというのに街路灯は橙色の明りを灯していた。
バッグが僕の膝を小さく突いてきた。そっとバッグのチャックを開け、ルルの顔を周りから隠して膝の上に抱きあげてやる。ルルはチャックに少しだけ指先をかけて外を覗くとすぐに僕の頰をつついた。僕は小さく開けたチャックに顔をくっつける。ルルは、灰色だよ、とだけつぶやく。僕はうなずいて、天気悪いな、と周りから独り言に聞こえる調子で答える。するとルルは小さく体を揺らした。
「天気だけじゃなく、全部が灰色だよ」
僕はあらためて窓の外をじっくりと眺めた。ぼんやりと灯った街路灯に照らされた道路と建物の壁は酷い豪雨のせいもあって、いつもより色褪せて見えた。普段なら目に入るはずの民家のトタン屋根やパチンコ屋の電飾も、この豪雨の中では静かに隠れてしまっていた。
だが、もし今日が良い天気だとしても、やはりコンクリートの壁やアスファルトは美しくない。この街を支える鉄鋼工場は僕たちに必要だけど、観賞するような建物ではない。それこそ無味乾燥な灰色と銀色の塊だ。
「君には色が付いているよ」
またぽつりと呟く。僕は言葉を待った。
「天気が晴れたって、私にはきっと灰色に見えそうな気がするの。でも君だけは、何だか色が付いているような気がするの」
僕は首をかしげる。ルルは小さく笑った。
「ここは私の知っているはずの場所。でも全てが見たことのない風景なの。その中で、君とだけはこうして話せているでしょう」
胸が苦しくなってくる。僕はバッグを強く抱きしめた。ルルは少しだけ苦しそうな声を漏らしたけれど蹴ってくることはなかった。
幾つかの停留所を過ぎ、やっと僕たちは母恋駅前で降りた。僕はバッグの口を大きめに開ける。ルルは中からチャックに手をかけ、目から上だけを出して周囲を見回した。
ルルは黙って街中を見回す。初めはゆっくりと、そのうち激しく首を振るようにして必死に見回す。次いで僕の腿をそっと蹴った。僕はまた少しだけ歩いて、ルルが蹴ってきたらすぐに立ち止まる。ルルが周囲を見回す。次第に腿を蹴ってくる力が弱くなってくる。
こんなことを繰り返して二百メートルほど歩いたところで腿を蹴られなくなった。僕は黙ったままバッグを下げて待つ。だが、いつまでも反応がないので声を掛けようとした。
ルルが何か言っている。ゆっくりとバッグを抱え上げて中を覗き込もうとすると、慌てたようにチャックが中から閉められた。続けてバッグの中でルルが暴れる。小さな拳で僕の胸を叩いてくる。でも、その叩き方は傲慢なルルとは思えない弱さしかなくて。その打撃の陰から漏れてくる声はどう聞いても幼い啜り泣きで。僕はどうすれば良いかわからず道路脇に座り込んだ。目の前を通る人たちは嫌な視線を向けてきたけれど、そんなことは今、どうでも良かった。僕はバッグを膝の上に乗せ、バッグの上からルルの背中をそっと撫でる。ルルは小さく震えたけれど、そのまま僕の胸に体重を預けてきた。
ルルはチャックを中からほとんど全開にした。僕は慌ててバッグごと抱きあげると駅舎に駆け込んだ。幸い小さな駅のせいか待合室には誰もおらず、端の椅子に腰を下ろした。
「何もないの。何も、誰もいないの。家がないことなんて気にならないし、人間だらけになっていることだって覚悟していた。でも、ここには私の仲間は、もう誰もいないの」
ルルの訴えに僕は外に視線を移す。君にはわからないよ、とルルは泣き笑いで言った。
「仲間も、仲間の子孫もいないの。それに」
ルルは頰を染めて僕を見上げる。僕は黙ってルルと目を合わせた。ルルは僕の目を覗き込むように見つめてくる。ルルの強い視線は一瞬だけ、面接の試験官や母のことを思い出させる。でも僕は目を逸らさない。今、ここで逸らしては駄目だと思う。そう思うとすぐに僕は亡霊のような記憶から自由になった。
ルルは独りうなずくと震える声で言った。
「母が、待っているはずなのに、いない」
今までの尊大な態度よりも、今のルルが本当の姿なのか。ルルは唇を噛んで言った。
「色々とあって、私は卵に閉じ籠ったの。あのときはそれが最も良かったはず、なの」
ルルは言って僕の人差し指を強く握る。僕は話が良くわからず、それでもうなずいた。
ルルは昔、大熊に見つかってしまったのだそうだ。この大熊というのは僕たちの知っているヒグマとは少し違うものらしく、ルルたちの仲間を好んで襲うのだそうだ。そこで、匂いを覚えられたルルから村に辿り着かないよう、ルルは冬眠装置のような卵に隠されたのだそうだ。そして、しばらく経って起こされたとき、大熊に姿を見られたルルを悪く言う声を耳にしたのだという。だからルルは。
「自分で卵を硬くして卵から出なかったの、ずっとずっと。そのうち誰も来なくなって、でも自分では開けることもできなくなって」
大熊に言葉はわからないから、卵から起こすための鍵となる言葉をルルの仲間なら誰でも思い付くはずのポロ・チケップにしていたのだそうだ。それを僕が何度も卵の間近で叫んでいたことが偶然に効いたのだという。
「あの場所は母なる断崖。ここはその、母なる神々を想う聖地と村があったはずなの」
母恋駅という地名は偶然なのだろうか。それとも言霊のようなものがあるのだろうか。
「罰が、当たったんだよ」
自身を責めるルルを見ながら、僕はまた不合格通知書のこと、僕の部屋、そして何も言わない母のことを思い出した。今の僕の部屋は何となくルルの卵に似ている。母が言葉を掛けてこないことを良いことにして、声をかけ難くした僕は今、こうやって街の中を歩いてもなるべく人と関わらずに逃げている。これでは部屋の中にいるのと同じだ。今の僕も自分では殻を破れない鋼鉄の卵の中なのだ。
僕は詰まりながらも自分の境遇をルルに話した。ルルに軽蔑されるかもしれない。それでも構わず今の恥ずかしい自分を話した。話し終わるとルルは僕を鼻で笑ってみせ、でもすぐに顔を歪めてまた鼻をすすって呟いた。
「君は、私みたいに間違ったら駄目」
ルルはいきなりバッグから出てこようとする。僕は慌てて他人の目から隠そうとした。だがルルは僕の手を押しのけて言った。
「どこかに仲間がいるかもしれないから、自分だけで探してみるわ。今までありがとう」
馬鹿、と声を荒げて僕はルルの肩を掴む。顔を歪ませたルルを見て慌てて力を緩め、それでもルルの肩から手を離さずに言った。
「僕も今は、元気に挑戦する自信はあまりないんだ。でもルルが傍にいてくれたら、さ」
ルルは意外そうに僕の顔を見上げてくる。僕は今、駅構内にいることも忘れて言った。
「だからさ、僕も仲間探しに協力するから」
ルルは再び肩をゆすり、でも振りほどこうとまではせずに動きを止めると顔を上げた。
「じゃ、駄目な者同士。少しずつ行こうね」
ルルは泣きはらした目蓋を擦って無理な笑顔を浮かべた。僕も何とか笑顔でうなずく。するとルルはふと思い出したように言った。
「ごめんね。君の名前をまだ聞いてなかったよね。これからは、何て言うか、ね」
ルルは口ごもり、目を逸らして言った。
「たった一人だけの親友の名前を知りたいの」
やっと僕も温かい気持ちになって笑うと、ルルの耳元でそっと僕の名前を囁いた。
文芸船 — profile & mail