唇の間からわずかずつ、甘酸っぱい味が染み込んでくる。うすぼんやりとした頭のまま、視線を周囲に巡らす。口には細い管をくわえさせられており、薄緑色の液体が舌先に送られている。
桜花はもう一度目をきつく閉じ、どこか懐かしい味のジュースを飲み込む。一、二、三と数えて心を決めるとあらためて大きく目を開いた。
「あ、起きた」
目の前には手配書とそっくりの顔。少しぐらい声変わりしたと言っても間違えるはずのない、すっとぼけた口調。追いかけ続けていた彼の笑顔。
桜花は跳ね起きてストローを吹き飛ばすと、いきなり冷牙に組み付いて押さえ込んだ。冷牙は当然何の反応もできずにそのまま動けなくなる。桜花は冷牙の右手に、腰から取り出した手錠をしっかりと掛けた。
「いきなり何するんだ桜花!」
「黙れこのはぐれ魔道士! 航路妨害容疑で逮捕する!」
冷牙の抗議を吹き飛ばす勢いで怒鳴ると、桜花はもう片方の手錠を自分の左手に掛けた。冷牙は怪訝な表情で桜花の顔を覗きこむ。桜花は聞こえない声でぶつぶつと呟き、今度はあらためて冷牙を自らの正面に立たせた。
ほとんど身長は変わらなかったはずなのに、冷牙の鼻先は桜花の頭より上にあった。ほんの少し背伸びをして目線を合わせる。冷牙も桜花も黙ったままで見つめ合う。
「探したの」
桜花の呟きに、冷牙はただ、そっか、と答える。桜花は左手で手錠の鎖を引くともう一度探したの、と繰り返す。冷牙はごめん、と呟くような声で謝りの言葉を口にした。
「だから、探したんだってば! 捜査じゃなく、冷牙のこと探したんだってば!」
ほとんど叫ぶように言って、桜花は冷牙の頭を抱き締めた。冷牙も合わせるように桜花の肩筋に手を回す。昔にじゃれあったときのように固く抱き締める。だが、そのうち腕の力が互いに緩み、そっと慈しむような力の加減に変わっていく。
と、二人の足元でにゃあ、と不機嫌な声が響いた。二人は慌てて飛び離れようとして、手錠が掛かっているせいで盛大に頭をぶつけあった。
「私のことを忘れた罰さ。私と秋葉もいる前でよくも恥ずかしくもなくさあ」
「これはただ、幼馴染だから!」
桜花の咄嗟の反駁に虹は、どこまでお子様なんだか、と鼻で笑ってにゃあん、とからかう調子で鳴いてみせる。桜花はまた言い返そうとして、ふと周囲をあらためて見回した。
足元は一面が枯葉で、真夏なら欝蒼としているらしい、隙間の少ない梢を秋風が吹き抜けていく。冷牙の閉じ込められていた氷はどこにもなく、色の薄い泉が少し離れた場所に見える。反対側、自分の通ってきた道に目を巡らすと、そこには細い獣道が見えるだけで、本当に元の海岸に戻れるのかどうか怪しいようにすら思えてくる。桜花は冷牙の右手をそっと握った。
「あちらから帰っても、何も解決しない」
断言する冷牙の顔を桜花はぼんやりと見上げた。冷牙は続けた。
「兄弟子を、あの氷河師を負かさないとどうにもならないんだ。あの人は蘭洋の有力者になりたいんだ。そのための政治的な力の誇示活動でね」
こんなの、ただのゆすりじゃない。呟いて桜花は足踏みする。冷牙はさすが桜花だね、と言って小さく笑う。この笑い方、好きだったな、と桜花は思って何となく頰が熱くなってしまう。
冷牙は桜花の来た道と反対側を向くと奥の泉を指して、あそこが氷河師の研究室への入り口だと言う。桜花が怪訝な表情を浮かべると、冷牙は虹の方に向き直った。
「虹師、いい加減に正体を顕したらいかがですか」
急な冷牙の言葉に、桜花は虹と秋葉、冷牙の三人を順に見つめる。虹は面倒そうに体を伸ばすと、いつにない透き通った声を発した。
「知っていたなら仕方ないね。とはいえ二百年も猫をやっていたから人間の姿なんて思い出せるものかわからんけれど」
虹は後足だけで立ち、次いで体を今までにない強さで虹色に発光させた。その光の中には、黒髪の二十代半ばの女性が、白い長衣をまとって立っていた。女性は二人と一羽を見回すと、首を少し猫っぽい動作で回しながら言った。
「どうも人間が面倒くさくなったし、人間のままだと老衰して美容に悪いもんだから精霊猫になることにしたわけ。まあ猫になって美容も何もあったもんじゃないけどね」
人間と精霊の間を行き来できる魔道士が少数ながらいると言う話は桜花でも聞いたことはある。大体が変人で人間嫌いでとてつもない大魔道士だと言う話だ。でも、その偏屈大魔道士がなぜ桜花と一緒にいたものなのか。それ以上に、今のこの状況が現実なのか。
「暇つぶし」
桜花の疑問を見透かしたように虹師は端的に答え、にやりと笑った。
「君たち、面白そうだったからね。それだけさ。それに私ゃ落ちこぼれだから」
落ちこぼれ。冷牙を前にしたときにも言った台詞だ。これほどの魔道士が、なぜ落ちこぼれなんて言うのか。だがなぜか、それは触れてはいけない気がした。虹も何も言わず、手招きして泉に向かって歩き始める。
「冷牙、『虹師』ってのは止めておくれ、私はあんたの師匠でもなんでもないんだから。ただの精霊猫なんだよ。今回はちょいと、由来もあるから手伝うけどね」
二人が泉の前に立つと、虹は泉に両手を浸して何か呪文を唱えた。虹の手先から虹色の光が泉全体に走り、泉が虹色に発光した。
「魔法の扉を固定したよ。私の力を固定しているから、この先は絶対に凍りつかない」
虹が泉の畔にそっと指先を這わせると、一輪の竜胆が生えて咲いた。虹はそれを手折り、桜花の腰ベルトに挟める。
「この花は一時間で枯れる。枯れたら私の魔法も効かなくなる。それから、私は一緒に行けないから。二人で行っておいで」
虹。桜花が呼びかけると、虹は桜花と冷牙を繋いでいる手錠に指を這わせた。手錠はなめらかな金属の輪に変わり、鍵穴もなくなってしまう。
「離れないように。絶対、離れないように!」
虹の言葉に二人はうなずくと、しっかりと手を繋ぎ、泉に向かって飛び込んだ。
水の中を泳ぐ気でいた桜花は、単にふわふわと落ちていく感覚にむしろ得体の知れない不安を感じた。それでも手を握ると握り返してくる冷牙の感覚で次第に冷静さを取り戻してくる。
とにかく兄弟子をとっちめてやれば良いんだ。単純に桜花は考えることにする。だがそれよりも理解できないのは虹のことだ。なぜ猫になっていたのか。なぜ今回は付いてこないのか。何よりも今は虹のことが不可解で仕方がなかった。
「虹は絶対に戦えないんだ」
地面についた途端、冷牙が呟くように言った。桜花が首をかしげると冷牙は続ける。
「虹は二百年前にあった魔道士のいさかいで恋人を亡くしたらしい。それで戦いの場に出られなくなったんだ」
魔道士は、教師以外の多くは荒事の仕事も請け負うのが当たり前だ。それが全くできないとなれば虹の言う「落ちこぼれ」もわからないでもない。だが、それにしても。
「兄弟子の氷の島の魔法はね、二百年前に虹が作った魔法を改変したものなんだ」
だから。虹はきっと知っていて桜花についてきたということか。桜花はまだ何となくひっかかりながらも少しは納得した気分になって歩を進める。
二人の歩いているのは洞窟で、天然に見えるが桜花の目には人工であることがはっきりとわかる。不法な施設を作る者がよく天然の洞窟を模して人工の洞窟を作るのだ。部分的には麻薬密売の人間が作った人工洞窟より安っぽい点すらある。
それにしても、冷牙の歩き方はあまりにも安易だ。桜花は冷牙が先に行かないよう牽制しながら少しずつ先へと進んでいく。だが手錠で固く繋がれているので余計に歩きにくい。
(なぜ「離れないで」と言ったんだろう)
虹の言葉を思い出し、桜花は一抹の不安を感じる。凍りつく魔法は使えないと言ったけれど。でも、なぜ「離れないで」なのか。それに虹はまだしも、なぜ秋葉も来ないのか。
遂に洞窟が行き止まりになった。考えも行き止まり、あらためて冷牙を見つめる。冷牙が桜花を見つめる。睨む。冷たい視線が刺さる。
「冷、牙?」
声をかけて気づいた。これは、冷牙じゃない。たしかに体は冷牙だけど。さっきまで冷牙だけど。でも手錠で繋がっている先にいる「これ」は。
「初めまして、冷牙の幼馴染さん」
礼儀正しさの底に冷え切った何かが流れる、そんな声を「何か」が冷牙の口から発した。
「初めまして、私は氷河師。どこかの年寄り魔道士が余計なことをしてくれたようだが、かなり優秀な魔道士ですよ」
桜花の腕を掴む。咄嗟に桜花は腰の短剣に手を伸ばした。
「刺すなら刺したまえ。君の大切な冷牙も一緒に傷つくことになるが」
何なのこれは。何なの、と叫びたい衝動を必死で抑える。ここで叫んだら全てが終わる、そんな直感が喉からの声を押さえつける。「氷河師」は冷牙の顔で嫌な笑みを浮かべて言った。
「冷牙の人格は大きい魔道を使うにはあまり向いていないのさ。もう一つ、大魔法を使える人格。それが私、『氷河師』だ。氷と人格分割の魔道。都合の良いことに、分離した新しい人格のことは全く別人だと思い込んでしまうという素晴らしい欠点を虹師は解決していなくてね!」
(あの莫迦精霊猫!)
とりあえず毒ついておく。だがわかった気もする。私はきっと虹だ。冷牙と氷河師はきっと虹の恋人だ。二百年越しの失敗の尻拭い。そうすると、今の自分が負けた場合の結末も見えてくる。氷河師はくすっと笑って言った。
「桜花。今のまま警備士でいくつもりか? 隊長の椅子は遠いよ。でも私なら蘭洋の権力の近くにいける。これは冷牙の人格には無理だ。どうだい? 私と一緒に生きてみないか」
「誰があんたとなんか!」
「私だって、冷牙のありえた可能性の一つなんだ。もう一つの『冷牙』を名乗っている人格を君が幼馴染で馴染んでいるだけで。私だって、成長した冷牙の一つの形なんだ!」
ふと、今の尊大な声に寂しさが混じっている気がした。かくれんぼでなかなか桜花を見つけられずに泣き出したときの冷牙。寂しがるときの冷牙の声。桜花の心が揺れる。冷牙の、もう一つの可能性。おそろしく優秀な冷牙。元々冷牙は優秀だったのだから、それも一つの可能性だ。この氷河師も間違いなく冷牙なのだ。
腰に目を向ける。竜胆がしおれ始めた。これが完全にしおれたら氷河師は魔法を使えるようになる。なら、どうする。今、魔法の使えない氷河師と戦うのか。戦えと言うのか。それが虹の出した答えか。
(最低だよ)
一人っ子で、冷牙のいなくなった後はペットより姉のような存在に感じていた虹。それが与えた試練はあまりに酷だと思う。
短剣を握る。氷河師の視線が、冷牙の顔が握った短剣を悲しそうに見つめる。
「私は単に、一緒に生きようと言っているだけなんだけどね。少なくとも、君にだけは危害を加えない。いや、それどころか」
「言わないで!」
続きは聞きたくない。聞いてしまったら、私は。
「君を守りたい」
無視して氷河師は言葉を継いだ。桜花の手から短剣がすり抜ける。
(私はもう、戦えない)
氷河師の手が桜花の頰を撫で、次いで唇に触れる。桜花は振り払う気力もなくしゃがみ込む。氷河師の手が背中に回る。再会したときのことが思い出される。冷牙の細身で温かい腕。あらためて氷河の顔を見つめる。腰の竜胆はまだ、しおれきってはいない。
「冷牙の莫迦ーっ!」
思い切り叫ぶと氷河師を逆に押し倒して頰を張り手して叫んだ。
「何が『別の人格』よ! 何が『ありえた可能性』よ! そんなのどうだって良いの! 私は冷牙が好き! 冷血だろうが熱血だろうが、嫌なとこがあろうが泣き虫だろうが全部、冷牙の全部が大切なんだから!」
氷河師が呻き、冷牙の視線がつかの間戻る。しかし再び氷河師の視線が桜花を射る。だがその氷河師が桜花に手を伸ばそうとすると再び冷牙が戻る。桜花は溜まらず冷牙を抱きしめた。途端、竜胆が虹色の光を発する。光はそのまま洞窟を満たして泉の方まで達すると、泉が崩壊するように激流となって二人を襲った。
「桜花!」「桜花!」
氷河師と冷牙の声が続けざまに聞こえる。桜花はどちらかわからないまま、それでも彼の腕をしっかりと握って叫んだ。
「冷牙! 絶対、絶対離さないから!」
そして激流に飲み込まれ、桜花の意識は水の中へと深く沈んでいった。
まただ。甘酸っぱい液体が唇にきている。これで目を開ければ。意識が戻りかけて目を覚まそうとした時点で、桜花は目を開けられなくなった。ここにいるのは誰だろう。もし氷河師だったら。もう虹の魔法も切れている。虹以下の失敗をしてしまったのかもしれない。
「ねえ、桜花」
緊張感のかけらもない、ぼけた声に桜花は飛び起きた。悪戯っぽいが少し気弱な、冷牙の心配そうな視線が自分を見つめていた。
「冷牙!」
叫んで桜花は冷牙に飛びつく。と、足元で気まずそうな声が聞こえた。
「まあ、成功ってことで」
途端、桜花は冷たい視線を猫に戻った虹に送った。虹は前脚で顔を洗いながら言う。
「氷河師も消えたわけじゃないんだ。冷牙と一つになった。と言っても冷牙が基本だから、性格はまあ、桜花の知ってる冷牙なんだがね」
ふうん、と再び桜花は冷たい声を発する。冷牙、と声を掛けると冷牙は小さくうなずく。謝りかけるのを桜花は押し止め、黙って再び冷牙を抱き締めて虹に舌を出してみせる。虹はそっぽを向いて話を続けた。
「誰かが冷牙の全てを受け入れなきゃ一つになれないんだ。互いに否定しているから。それをできたのはあんただけさ。そしてそんな気持ち、説明されたらできなくなる道理さ」
うまく嵌められたのか。桜花は不満げに虹を睨んだが、ふと虹の過去を思って許したいと思った。きっと、当時の虹にはできなかったのだろう。大切な片割れ以外を受け入れるなんてできなかったのだろう。自分も虹なしでできたかと言われれば自信はない。
ふと、虹、冷牙、秋葉が揃って自分を見つめていることに気づいた。桜花は何だか気恥ずかしくなって咳払いをすると思い切り走り出そうとした。
「莫迦っ! 痛いっ!」
冷牙が桜花の腕にしがみつく。なんと魔法で変形させた手錠ががっちり二人を繋いだままなのだ。桜花は虹に手錠の魔法を解くように言う。だが虹は当然のように答えた。
「それ、ただ金属を溶かして固めただけだから元にゃ戻らんよ。街にでも行って金物屋で切ってもらうぐらいしかないね」
冷牙と桜花の驚いた声が重なる。だが虹は平然と仲良しだから良いだろうと言って笑う。そんな彼らのやり取りを見ていた秋葉はおずおずと言った。
「つまりは『死が二人を別つまで』とか誓うときに使う指輪の巨大版ですかね、親方?」
「手錠で代用なんて駄目ーっ!」
桜花の叫びが森の中に響き渡った。
——fin.——
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