連絡ないって思ってたら。
霞桜花は手元の手配書を見つめながら、周囲に聞こえない声で毒ついた。名前を見るまでもなく人相書きだけですぐにわかった。五年間会っていないとはいえ、十五歳までほとんど毎日顔をあわせた幼馴染みをわからないはずはない。それでも桜花はあらためて人相書きを見直した。
氷の魔道師、冷牙。歳の頃は二十歳ほど。名前も年齢もぴったりだ。図々しく本名で馬鹿なことをしでかす辺りあの冷牙だとますます確信できる。
この性格莫迦っ!
五年前には毎週怒鳴っていた台詞が頭の中を巡る。頭は切れるくせに、何かと悪戯や騒動の種をばら撒く冷牙。魔道師に弟子入りするとは聞いていたけれど、それで最初に見る話が手配書とは呆れ返る。その上、桜花自身の立場はこの独立都市始まって以来の初の女性警備士だ。追いかけっこはずいぶんやったが、今度は人生かけての追いかけっこだときた。
「まあ、霞警備士には厳しい内容ではあると思うがね」
女性初の警備士というせいか、行事やら何やらで局長とは何度も直接会ってはいる。だが、警備局の広告塔ではなく本来の警備士の仕事で局長に呼ばれるのは大変なことだ。ここで庇うのは勿論のこと、逆にやたらと張り切るのも「やはり女は」と始まるきっかけになるだろう。桜花は軽く深呼吸して言った。
「容疑手配が来たら捜査にあたるのは当然のことだと思います。詳細をご説明下さい」
やはり桜花の態度は意外だったのか。局長は感心の表情を浮かべた。嫌味も追及の言葉もなかったことに桜花は内心安堵する。だが、だからと言って幼馴染みが手配犯だという事実が変わるわけではない。再び説明を促すと、局長はゆっくりと冷牙の容疑について話し始めた。
桜花たちの住む独立都市・蘭洋は公式には公爵殿下が統治していることになっているが、実質統治は公爵家から委任を受けた市民の代表である市長が行っている。この近代的な政治体制を支えているのは、安全な海路と安定的な漁業生産による高い経済力に負うところが大きい。実際、これらの国家予算に占める割合も圧倒的である。
そんな重要な海域の中に突然、霧と雪に包まれた海域が出現したのだ。何事かと海事局で調査したところ、冷牙と名乗る魔道師がちょうどこの霧の中心にあたる離れ小島に渡し舟で渡った翌日からこの怪現象が起きた、というのだ。
局長はここまで話して手元の冷めかけた茶をすする。桜花も付き合いに茶をすすり、だがすぐに声を発した。
「失礼ですが、この案件は我々警備局よりも海事局か魔道局の仕事のように聞こえるのですが」
局長は苦笑した。桜花が仕事をたらい回しにする性ではないことは十分に承知している。いきなり警備局が動いたら争いになりかねない案件なのだ。外野から見れば下らない縄張り争いだが、そのことに気を回せるようになっただけ桜花も成長したのだろうと内心思う。とは言え、彼の苦笑に苛立ちを表に見せている辺りはまだ新人の青臭さが鼻につく。局長は軽く咳払いをして、わざとらしく窓に目をそむけつつ低い声で言った。
「市長から特別の裁可が下りているんだよ。海事局が動けば貿易に支障があるのではと商人たちが嗅ぎつける。魔道局が動けば戦争かと、周辺国が妙な勘繰りを入れてくる。まして軍なんぞもってほかだ」
局長は再び桜花に目を向けると、自分の胸元に輝く警備局長の徽章を摘み上げながら告げた。
「つまり、この事件は『瑣末で下らないゴシップ仕事』なのだよ。私はもちろん、君の直接の上司である隊長級すら鼻で笑うほどのね」
突然の矛盾した言葉に桜花は思わず手元のお茶を一息に飲み干してしまう。局長は小さく笑って桜花の茶器に茶を継ぎ足しながら言った。
「君はまだひよっ子だ。広告塔として動いてもらっているぶん、実務面では舐められているだろう。で、犯人の幼馴染みとくれば」
桜花の睨みつける視線を局長は内心面白がりながら、わざと重々しい声で言う。
「あらゆる方向の連中から大した事件じゃないと上手く目を逸らせるわけだ。幾らひよっ子が重大だと喚いたとしても、ね」
半人前がちょうど良いと言いたいわけだ。桜花は手元で湯気を立てている茶器を投げつけたい衝動を必死で抑える。局長は余裕のある素振りで冷めたお茶をすすって言った。
「これは、解決できなければならん問題だ。だが、それ以上に『大事であってはならない』事件なのだよ。捜査資金は私が直接手配するし、隊長にも話は通してある」
完全に嵌められたと思う。話を聞いた今、断ることは難しいだろう。だいたい、断った時点でさらに馬鹿にされるに決まっている。局長は大きくうなずき、思い出したように言った。
「犯人の冷牙だが。具体的な貿易被害が出れば死刑だからな。だが、全く無ければ」
ここで局長は声をひそめて言った。
「厳重注意で終わるだろうさ。大事じゃないからね」
桜花以外、適任者がいるはずのない条件だ。これだから古狸は嫌いだと桜花は胸の中で繰り返し叫んでやる。家に帰ったら部屋の中で枕に向かって馬鹿局長と連呼してやろうと思う。
そんな桜花の気持ちを知ってか知らずか、局長は立ち上がって笑顔で言った。
「君の大いなる活躍を心から祈っているよ。さあ、捜査を開始したまえ」
「なあにが『大いなる活躍』だってのよ!」
桜花は部屋に帰ってパジャマに着替えると、だらしなく寝そべっていた白猫に文句を叫んだ。白猫は片目を開けると、そのままの姿勢でけだるそうにソプラノの女声を発した。
「そう思うなら『大いなる活躍』してみせるのがあんたのやり方じゃないのかい?」
桜花は口の中で、でもさあ、と呟いて恨みがましく白猫を見つめる。見返してやる前にここまで露骨に半人前扱いされるとどうにも腹の虫が納まらない。だが白猫は悪戯っぽく笑って言葉を継いだ。
「どうみても理不尽なときってのは、案外チャンスなんだよ。まだひよっこには難しいかもしれんがね」
「ひよっこひよっこって、これでも初任者じゃないのよ、私は!」
さすがに桜花も言葉を返した。だがそれでも白猫は余裕の声で答える。
「こっちも二百年ばかり『精霊猫』やってるもんでねえ」
言って白猫はゆっくりと立ち上がると、小さく身震いした。途端、白猫の全身がうっすらと虹色に変わる。桜花は溜息をついて猫の姿に見とれてしまった。
精霊猫。妖精か何かの類らしいのだが、桜花もよくわからない。昔に冷牙と離れ小島に冒険に行ったときに突然現れ、そのままなぜか桜花の所に居ついてしまったのだ。普段はただの白猫にしか見えないのだが、こうして時折虹色に体を輝かせる。この光を浴びさせてもらうと疲れがとれたり気持ちが落ち着いたりする効果があるのだ。そんなわけで、この精霊が名前を明かさないこともあり、桜花はこの精霊のことを「虹」と呼んでいる。実際のところ、元々精霊に名前があるかどうかも怪しいものだが。
虹は桜花の表情を眺め、諭すように言った。
「まあ、あの冷牙もあんたが言うほどお馬鹿じゃないと思うよ、私は」
光の効果もあってか、桜花は先ほどより落ち着いた調子で答えた。
「お勉強なら私よりはるかに冷牙の方ができてたんだし、たった五年会ってないぐらいで私が追い抜いてるだなんて思えないよ」
桜花は言葉を切って天井を仰ぎ、次いで独り言のように付け加えた。
「でもあの性格馬鹿が治るとは思えないでしょ」
桜花の言葉に虹は苦笑した。虹が平然と居座れるようになったのも冷牙に負うところが大きいからだ。ただの猫に化けることを考え付き、どうしても猫を飼おうと騒ぎ立て、そのくせ実際に虹の住む場所は桜花に押し付けてしまったことはよく覚えている。
自分の部屋だというのに桜花は居心地が悪そうに部屋の中を見回して嘆息した。これからの捜査を思うと気が重い。さらに冷牙を捕まえることを想像するとますます悲惨だ。手配書を貰っているとはいえ、桜花の中では未だ冷牙の姿は十五歳のままだ。それが余計に彼女の気を重くさせているのかもしれない。
虹はもう一度輝きかけ、途中で光を抑えた。今の桜花に無理な癒しは長い目で見るとむしろ良くないような気がしたのだ。虹も桜花と一緒に部屋の中を見回した。年頃の娘としてはかなり殺風景かもしれない。警備士という職業柄、余計なものを置かずいつでも緊急出動できるように、という配慮は正しいのだが、もしこれで虹がいなければ寂しい部屋になるように思える。
桜花はやっとベッドの上に腰掛けると、手持ち無沙汰そうに枕を抱えた。時折、ぽつりと冷牙の名前が口から漏れる。虹は部屋の隅に行くと、わざと鈍感そうな声で言った。
「たまには私も外歩きをしてみたいんだけどね。捜査、一緒にしないかい?」
桜花は独り言をぴたりと止め、虹をじっと見つめた。虹はわざと普通の猫のように大あくびをしながら繰り返した。
「ただ散歩してても最近は飽きてきてね。どうせなら桜花の働きぶりでもみてやろうかと思ったわけさ。なにぶん、今回の仕事は変な仕事だしね」
「でも、部外者を仕事に巻き込むわけにはいかないよ?」
焦り気味の声を発した桜花に、虹は鷹揚な声で答えた。
「猫に部外者も何もあるもんかい。それとも何かい? 警備隊の馬は守秘義務の宣誓でもやってるのかい?」
何が猫だ、と桜花は口の中で呟く。だが、この苛立つ捜査に虹が同行してくれるなら少しは気が紛れるように思う。それに虹は精霊猫だ。魔法の関わるところで何か手伝ってもらえるかもしれない。桜花は難しい顔をしつつ、もう一度虹をじっと見つめる。虹は気だるげに尻尾をゆっくりと左右に振って再び大あくびをした。
「あくびしてるんならさっさと寝なさいよ。明日は朝六時から捜査開始だからね!」
言って桜花はベッドに潜り込む。虹はやっと本物の小さなあくびをして、床にゆっくりと寝そべった。
満月が部屋を静かに照らしていた。
もう日は高いというのに風はずいぶんと冷たかった。桜花は潮風の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、海を見るのがしばらくぶりなことを思い出した。警備局に採用されて以来、港湾は全て海事局の支配だということで個人的にもあまり近づかないようにしていたのだ。
「なんだかわくわくするねえ」
足元の声に桜花は頰を緩めかけ、慌てて頭を振って反駁する。
「虹、これから捜査なのよ? 遊びじゃないの」
だが、虹は構わず普通の猫のように顔を前脚でこすりながら余裕の声で返した。
「なあに、冷牙の小僧を探すだけ。昔っからあんたらのやってたかくれんぼじゃないか」
「これはれっきとした事件なの! 悪質なの、あいつは!」
むきになった桜花の声に虹は思わず失笑する。桜花の頰がかすかに上気しているのは怒りだけではあるまい。そもそも凶悪犯を追うわりには今日の服装も普段の制服のままで、桜花が危険を感じていないことは虹の目でなくとも明らかだ。
桜花は虹から視線を外すと照れ隠しに早足で歩き始めた。明らかな被害者がいないせいで何から取り掛かれば良いのかすら判然としない。闇雲に港の中を歩きつつ、桜花は内心途方に暮れていた。
結局三十分ほど歩き続けた末、虹が大きくあくびをした。
「猫が昼間っからあくび?」
「猫は飼い犬みたいに同じところをぐるぐる回る癖はないんでね」
虹の嫌味の返答に桜花は押し黙った。虹の嫌味は辛辣だが、こんなことをしているなら散歩をしている犬の方がまだましだ。だからと言って誰彼構わず「霧と雪で見えない海域」などと訊けば単なる騒ぎの元になるだけだ。だいたい、今までは単純な空き巣の捜査などしかやったことのない桜花にとって、あまりにも荷が重い。だからと言って局長や隊長に指示を仰ぐのも癪だった。自由にやれるとなったら結局自分でできない、そんな自分は桜花にとってありえない話だ。
虹は大きく伸びをすと、港の建物に前足を突き出して言った。
「あそこに『船舶保険』って看板が見えるんだけどね。保険屋なら事故の話でもちきりなんじゃないかね」
桜花は目を見開いて看板を見つめる。何をやっていたんだ。保険屋なら他の部署とも摩擦を起こさないで済むはずだ。いきなり駆けだした桜花の背中を虹はやれやれといった足取りで追いかけた。
桜花が保険屋に乗り込んだ日が今日だったのは幸運だった。桜花自身はよくわかっていなかったのだが、今日は決算期の始まりで、しばしば抜き打ちの査察が入る日なのだ。査察官は様々な捜査などに冷たい対応する店に何かあると疑う傾向があり、そういった情報を陰から入手して調査対象を絞るという。そんなわけで適当にあしらわれることもなく、桜花は真っ直ぐ店長室へ通された。
手配書を見せた際の保険員の表情を見て、桜花は訪ねて正解だったと確信した。保険屋という仕事は冷静な表情の仮面をしっかり被っている人が多い。にも関わらず冷牙の似顔絵を示した途端に表情が変わるとなると、案外と深い情報を持っているに違いない。保険員は慌てて手前の珈琲を飲むと、無理に表情を取り繕って言った。
「当社では規定どおり必要な公的書類を確認の上で保険へ加入いただいておりますし、ご存知のとおり大陸諸国の競合企業よりもはるかに経営は安定しておりますので、問題はないかと」
桜花が尋ねるまでもなく自社の経営について滔々と述べ立てる。よく喋る奴は他の話をしたくない奴、というのは新任研修でも習う初歩の話だ。冷牙が保険に加入した際に何かまずい部分でもあったのだろう。だが今の桜花にとって保険屋の仕事の内容に興味はなかった。それ以前に保険の経営取締など桜花の知識ではやりたくても到底できるわけもないのだが。とはいえ、保険屋に後ろ暗いところがあることはむしろ幸運だ。
桜花はわざと冷たい声で、帳簿の検査をするならこの部屋辺りだろうか、と保険屋にとっては物騒なことをわざと呟く。保険員はますます引きつった笑みを浮かべ、今は決算期だの経理が近々大陸に出張予定だのと喋り始める。桜花は机を叩いて保険員の喋りを遮った。
「さっき示した男についてもっと話を聞きたいわね。それで時間切れになったら帳簿の方は今回はお預けにしても良いけど」
保険員は大きくうなずくと、目を輝かせて事務所の奥に叫んだ。
「先日の魔道師の案件、なるべくこちらの警備隊員様にのご説明申し上げなさい! あとは熱い珈琲だ!」
保険員は安堵の溜息をついて再び揉み手をしながら桜花の顔をじっと見つめる。あまりのご都合主義に、桜花は絶対ここの保険は使わないでおこうと胸に誓った。
冷牙が保険に入る際に示した書面が偽造であることを知りつつ、この保険屋は目先の利益で保険に加入させたらしい。もし保険金を払う事態に陥っても、偽造書類に騙されたと言って踏み倒すつもりだったようだ。虹は保険屋の建物を出るんなり嫌味たらしく言った。
「で、警備隊員さんとしては取り締まらないのかい?」
桜花は口を尖らせ、そんな暇ないでしょ、と口の中で呟く。だが実際のところ、桜花自身の技量不足の方が問題だった。もし犯罪を証明できなければ自分の方が責められる立場になる。そしてそれ以上に最も問題なのは。
「あんたは帳簿は苦手だからねえ」
虹が愉快そうに喉を鳴らす。桜花は口を尖らせると、だって、とだけ言って警棒を手の中で弄んだ。自分の技量不足が年数の浅さだけではないことぐらいはわかっているようだ。
桜花は溜息をつくと、手配書を取り出して見詰める。こんなときにいてくれたら、と頭脳派だった冷牙を思い出してしまう。クイズだろうが小さな冒険だろうが、頭を使うことでは冷牙にはどうしても勝てなかった。だが、それもただ悔しいだけではなく違う感情がある。誰にも頭脳では負けない冷牙は、それでも芯から馬鹿にすることはなくてどこか心地良かった。
ふと虹の視線に気づき、桜花は慌てて手配書を乱暴に丸めてポケットにねじ込んだ。今やらなければならないのは容疑者の逮捕なのだ。
「そう、とっ捕まえるの!」
気合を入れた桜花の言葉に、だが虹は呑気な調子で答える。
「そうそう、かくれんぼは日が暮れる前に終わらにゃね」
「だから、幼馴染みとかそういうのは無しなんだったら!」
桜花の怒りに虹はしなやかに身を翻してわざとらしくニャア、と鳴いて顔を洗ってみせる。周囲から見れば飼い猫とじゃれている間抜けな警備隊員だ。桜花は黙り込み、今度は虹を無視して港へと戻ろうとした。虹は慌てて桜花の足元に寄って話しかけた。
「そう怒るんじゃないよ。だいたい、保険屋の話じゃ『胡散臭い魔道師が船を買って行った』って話しかわからんじゃないさ。どこに行こうってんだい?」
虹の言葉に桜花は歩を緩めてうつむく。その様子を見た虹が再び声を掛けようとすると、桜花は急に顔を上げて駆け足になった。
「ちょいと! 桜花どこに行こうってんだい!」
「かき氷の島!」
いきなりの奇妙な言葉にさすがの虹でも何のこと、と高い声をあげた。桜花は立ち止まって笑みを浮かべ、幼馴染みだから、と自信ありげに答える。先ほどとは全く逆の桜花に、虹はいくら猫でもというほど目を丸くした。
桜花は歩調を緩めると、冷牙の声を思い出しながら語った。この国では珍しい猛暑の日、二人でかき氷を食べたいと騒いで両方の母親に怒られた日のこと。雲を落ちてくる氷に、島を器とかき氷に見立てて、あれを巨人が食べるんだ、なんて話をふざけてしてた日のこと。そして。
桜花は懐かしそうに小さく笑った。
「あいつね、『魔法使いになっておっきいかき氷作る』ってしばらく言ってたの。でき上がったら最初に食べる約束してたのが私で」
はあ、と虹は呆けた返事を返した。次いで髭を震わせると低い声で訊く。
「まさか、それでかき氷作ってる、なんて言うのかい?」
桜花は曖昧な返事を返しつつも、遠く海を見詰めて言った。
「きっと他にも理由はあるんだと思うけど。でも行き先は『かき氷の島』だと思うの」
桜花は虹を抱き上げると、彼女には珍しく腰の低い声で頼んだ。
「忘れちゃった昔のことを思い出す魔法、たしか使えたよね」
虹は黙って顔を洗い、次いで気乗りのしない声でにゃあと鳴く。桜花が文句を言うと虹は不機嫌な声で、嫌いな魔法なんだよ、と呟いた。それでも桜花は諦めず使ってくれとせがむ。遂に虹は諦めると、桜花の首筋に爪を立てて虹色に体を輝かせた。
刹那、桜花の眼の前が歪んだ。視線がずっと低くなり、風景の色が濃厚に変わった気がした。見慣れたはずの風景が今はあまりに新鮮だった。意味もなくはしゃぎたくなった。ずっと遠くにはいつものかき氷島が見える。水平線に溶けちゃいそうな、美味しそうな島。
ねえ冷牙。早く遊ぼ。冷牙、どこにいるの。
僕は旅立って待ってる。君の傍にはいないよ。
冷牙がいない。いるはずの、大好きな冷牙がいない。
冷牙が消えて、私は独りぼっちで。
「冷牙!」
自らの叫び声で桜花は我に返った。周囲の人が注目している。だが桜花が恐慌に陥る前に虹が再び虹色に輝いた。途端に周囲の人は桜花への興味を喪った。
虹はほうらみろ、という調子で桜花の頰を舐める。桜花は自分の頰に涙の跡があったことに舐められて初めて気づいた。母親に怒られたとき、こうやって虹に舐められながら慰められたことを桜花は思い出して頰が熱くなった。もう寂しさなんかに負けないと思っていたのに。でも高ぶった気持ちが収まらない。年甲斐もなくもっと泣いてしまいたいと思う。泣いたまま眠って、大人になったなんて夢で、また冷牙が隣で笑って。そんな時間に戻りたいと思う。
桜花の動悸が静まるのを確認して、虹はそっと言った。
「で? 収穫はあったのかい」
桜花は黙ってうなずくと、遠くの水平線を指差した。だが、そこには何も見えない。虹の目にもただ、水平線とカモメの姿しか目に入らなかった。だが、桜花は確信した声で言った。
「場所はわかったんだから、あとは船を手に入れれば完璧ね!」
虹は首をかしげ、それでも仕方ない様子でうなずいた。
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