文芸船

幸せのケーキ

 どうしたんだろ。鍵なんかかけて。よし、合い鍵で入っちゃえ。どうせ大したことじゃない。鏡に向かってる。勝手に入ったのも気づかない。思いっきり抱きつくと彼が飛び上がる。手には剃刀が握られていて、いつもなら間抜けな感じで剃り残しがあるのに、少し赤みがあるほど丁寧に剃っている。おまけに部屋の奥には正装の燕尾服が下げてある。

「ばかやろっ! 髭を剃ってるところなんだから危ねえ!」

 私もびっくり。だってだって、会ってからずーっと彼の正装なんて見たことないもん。私が首を傾げると、彼は慌てた調子で言い訳する。

「いや、俺も正装ぐらいとか、な。ちゃんとした客の接待、お前しか出来ねえと万が一のとき困るだろ」

「ならさー、私にも相談すれば良いのに。私なんて本職から習ったんだもん、独学より良いって」

「この歳で習いたくないんだ。あー、もういい。出かける」

 彼は慌てて燕尾服を着込むと、ぎこちない格好で磨きあげた革靴をつっかけて行ってしまった。

 変。ぜったい変。なんか隠してる。まさか女? じゃ、誰かと付き合って、で、結婚して幸せな家庭? 彼が立派な旦那様か。ん、ちょっと似合わない気もするけど。

 私はそっと家を出て彼の後を尾けた。昔は私も天才科学者、魔法使いとまで呼ばれてたけど、今はその天才が事故で枯渇してしまってただの女の子。だけど彼はなんてったって政府調査員という名の元スパイ。私はかなり分が悪い。けど彼の癖は掴んでる。

 私がこうして平気で街中を歩けているのも、彼のおかげ。私は少女の癖に天才物理学者で、独裁者の下で兵器を沢山作っていた。調子に乗って、自分自身の体にまで兵器を埋め込んでいた狂気の科学者だった。でも、そんな狂った日常と狂った独裁者から、彼が救い出してくれた。本当はスパイで、私を殺すことが仕事だったのに。

 私を連れて第三国にまで逃れてくれた。全てを捨てて。そして私と一緒に、日常を過ごすんだって言ってくれたんだ。私と一緒に、ナイフも兵器も捨てて可愛いパン屋さんになってくれたんだ。

 ずいぶん行くなー。この辺はたしか、そうそう。小麦粉の卸会社の近所だよね。ほらほら卸の社長の娘さんがあいさ……。

「意外に似合うじゃない。いつもそうしていれば、結構もてるっていうのに」

「そう? 俺おしゃれな服って着たことないから」

「若い時代を大切にしなきゃ。さ、時間も迫ってるし」

「あ、ちょっとあいつ振り切るのに時間くっちゃったから」

「しょうがないわよ。さ、行きましょ。デート」

 えっ、えーっ! いつの間にこんな仲なってたんだよ。あ、仕入れは彼が専門やってたから? さっきの心配本格的。よーし、邪魔……は駄目だって! けど、尾けたって。胸が苦しい。もう見てらんない。帰ろっと。


 時間はどんどん経ってゆく。彼のいない空間。彼が誰かにとられてる時間。どっか出かけちゃえば良いんだけど、そんな気になれない。時間が経つ。沈んでいく気持ち。ばかみたい。早く帰ってきてよ。日が沈みかかってる。遅い。けど夕食の用意して待つ。あのまんま駆け落ちなんてないよね? 私のこと置いてきぼりなんて。でも。でもでもでもっ、あいつを振り切る、って言ってて。無意味に洗い物してる莫迦な私。そんな自分を見てる自分がもっと嫌。また外を眺めて。クッション胸に抱いたりして。

 こんなことして夜中。やっと彼が帰ってきた。お帰り、と普通に言ったつもりでも刺の混じった声になってしまう。彼は顔をしかめてこっちを見る。目の前には布を被せた夕食。

「ご飯すましちまった」

「なら先に言っておいてよ! もったいないでしょ」

 私は膨れて自分のご飯を食べ始める。すっかり冷めちゃっておいしくない。けど暖め直すなんて。そんな気分じゃない。

「ミルクぐらい暖め……」

 うるさい、と怒鳴ってしまう。これが私? 優しく、ううん、せめて悪戯っぽく「デートどうだった?」も言えないなんて。けど私の頰はこわばったまま。

「そんなに怒んなよ」

「最近、物騒じゃない」

 こんなの私じゃない。でも冷静になんてなれない。

「敵国に追いかけられてたお前を守ってた俺に誰が何出来るんだよ」

「ふん、幸せぼけ」

「いい加減にしろよ」

 彼は溜息をつく。憐れむような目で。そうだよね。こんな私だもんね。でも。また口走っちゃう。

「何よ。やっぱおつむ弱いね。やれるもんならやってみな!」

 言って私は立ち上がる。ほんとはこんなのしたくないのに。でも。そう、昔みたいに。けど彼の反応は、やめとけ、と指で私の額を押しただけ。私は頭にきて、昔の感覚で手の甲のレーザー銃を彼に向けようとした。でも私の普通になってしまった体にはどこにも銃なんて埋め込まれていなくって。次いで頰に強烈な一発が見舞う。ダガットには軽い平手打ち。でもそれだけで部屋の端にあるソファーまで吹っ飛ばされた。

「わかったか。昔とは違うんだ。俺が本気でかかってみろ。死んじまうぞ。お前はもう、魔法みたいな兵器を使う天才科学者なんかじゃない」

 震えてる。ダガットの声が。私は小さな声でやっと、鈍感、とだけ怒鳴ってそのまま自分の部屋に駆け込んだ。中から鍵を掛けてベッドに倒れ込む。ほっぺが痛い。涙が止まんない。でも、そんなのよりも。淋しくってしょうがなかった。もう昔とは違う。

 戻りたくない昔が無性に懐かしかった。


「朝御飯できたぞ」

 泣き疲れてそのまま眠ったらしい。昨日の服のままベッドに潜っていた。慌てて着替えてリビングに降りると、彼は席について私をじっと待っていた。目も合わせずにおはよ、とだけ挨拶する。

「昨日はごめんな。腫れなかったか?」

 彼は私の頰をなでる。たぶん、普通の女の子に彼が手を挙げたのは初めてだと思う。だって、私は普通の女の子じゃなかったから。私は自分を兵器に改造していた、狂気の天才科学者だったんだから。

「調子悪いんなら言えよ。店の方なんとかするから」

「だいじょぶ。さ、食べて始めよ」

 カチン、コチ、チキッ。食器のぶつかる音だけが響く。会話がない。いっつもなら飛び交う冗談。そんなのなんにもない。ただ、詰め込むだけ。こんな食事、彼と逢う前以来。こうして、とうとう一言もないまま朝食が終わった。

「じゃ、工場入るから」

 「ベーカリー・サイエンティフィック」って縫い取りしたエプロンを締め直して一回深呼吸。そして店の掃除にとりかかる。店。私とダガットのお店。開店して三年目。名誉なんてどうでもよかった。いつのまにか平凡な生活に焦がれていた私たちの終点のはず。あったかい家庭。

 結婚どころか、恋人でさえないのにそんな気でいた。彼が店の方に首を出す。私は振り返ってそばへ走る。

「今夜、ちゃんと話そう。大丈夫だよ、お互い命かけたんだぜ。俺たちゃ史上最強のコンビだったんだから」

 やっと私たち、目を合わせて笑えた。玄関の鈴が鳴る。

「いらっしゃいませっ!」

 今日が始まった。


「毎度、ありがとうございましたっ!」

 最後のお客さんが去った。暖簾を外して「朝までお待ち下さい」と書いた札を下げる。キッチンに行って夕御飯の用意をする。リビングに目をやるともう彼が待っていた。

「あー、腹減った」

「行儀悪いよ。ほら運んで」

「へいへい」

 パン焼きはダガットがずーっと上手。けど料理は私が圧勝。今日は思いっきり豪華に仕上げた。だって。もしかしたら。これが最後の二人の食事になるかもしれないし。

「お、すげーじゃん。誕生日みたいだ」

「たまには贅沢も良いでしょ」

 くすっと笑って席につく。ダガットはうまいうまいと凄い速さで食べていく。そのうち、ぴたっと手が止まった。私は身構える。ダガットはちょっと水を飲むと問いかけた。

「な、昨日あんなに怒ったの何だったんだ?」

「尾けたの。出かけたあと。デート行くってとこまで」

「あ、あれ……。でもなんで」

「不安だったの。だって、今は一緒にご飯食べて、一緒にお店やって。けど、結婚したらダガットは行っちゃう。私は独り。また独りぽっちに戻っちゃうんだもん!」

 彼は真面目に私の話を聞き続けた。そのうちくつくつ笑い出す。そしてとうとう大笑いし始めた。

「何なの! そんなに私のこと馬鹿?」

「いや、悪い。そんなに心配してたのかって思ってさ」

 私がべそをかくと、ダガットはまた真面目な顔で話しだした。

「実はさ、粉屋の娘が悪い女に脅されてて俺に泣きついたわけ。んで『かっこいい男とデートさせてあげます』ってあの娘に言わせて俺が悪党と地獄のデートしてやったわけ」

「って? あの」

「自宅に引き込まれた時点でぼっこぼこにしてやった。うまい具合にくっついてた男が俺の得意なナイフ使いでさ。使い方たっぷり体で勉強させてあげたよ」

 私はがっくりと椅子に座り込んで笑ってしまった。でもまたちょっとだけ疑問が浮かぶ。

「なんで秘密にしたの」

「そりゃその、デートするだろ? ほら、二人きりでジュース飲んだりさ。そういうの、気恥ずかしくってさ」

 私は思い浮かべてぷくくっと笑う。スパイなんだからそんなの幾らでもやってたはずなのに、こんな恥ずかしがる彼が面白くてたまらない。

「ほうら、笑った!」

 それでも笑いは止まらない。彼は不機嫌に言う。

「お前さ、いきなり嫉妬するなよな」

「やきもちなんてしてないもん!」

「ほらむきになる。それにさっきの台詞、やきもちだよ」

 反論できずに詰まる。そのうちさっき言ったことが頭の中を走り回って顔が熱くなる。真っ赤になっちゃう。彼はそんな私をじっと見つめて言った。

「逆だってあり得る話だろ。それにさ、今はお前の方が俺より一般人に近いんだ。どうせこの町に住み続けるんだしな」

 でも、と言うと彼は穏やかな笑顔で言葉を続けた。

「お客さんの名前、何人覚えてる?」

「百人くらいかな」

「俺、仕入れ関係以外わかんねえぞ。お前の方が友達多いよ」

「そう、かな?」

 彼はちょっと溜息ついて、優しく笑った。

「お前が人付き合い下手なことぐらいわかってる。けど馴らしていけよ。もう三年も経ったんだから。それに俺はずっと、仲間だ」

 私はやっと彼に微笑みかける。私も大人にならなきゃ。彼はやっと元に戻ったのを確認すると、立ち上がって工場に引っ込む。戻って来た彼の手には、ホイップクリームたっぷりの特大ケーキ。どうしたの、と訊くと彼は照れながら答えた。

「へへ、パンだけじゃ淋しいなって思ってさ、試しにやってみたんだ。クリームは粉屋に依頼料で買わせた」

 私は受け取るとナイフで大きく二つ切り出す。真っ白な陶器のお皿に乗せて、フォークつけて。

「これからの幸福を祈って」

「いっただっきまーすっ!」

 最高の味だった。

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