文芸船

デコってクッキング(下)

 夕闇の迫る時間。私はスクーリング校舎の隅に佇んでいた。今日は表面に純白のシルクを使った、使い捨てのくせに割高なマスク。ほとんど履いたことのないとっておきの、艶のあるネイビーのハイヒールが少し痛い。

 手元の端末で時間を確認する。端末のカメラに顔を映して髪を直す。目の下に隈がないか気になる。右足の爪先を立て、胸の鼓動と同期させてこつりこつりとリズムを刻む。

 何度も繰り返した動作。

 うるさいほどの鼓動。

 幸福な火照り。

 北畠先輩を想う時間。

 ふわりと空気が動いた。顔をあげると北畠先輩が少し緊張した顔で立っていた。

「さて、パーティーに向かおうか」

 私はこくりとうなずく。すると先輩はさらに校舎の外れへと私を誘った。

 並木道の中を私たちは並んで歩いた。私たちと二つの影帽子だけが道を進んでいく。

 並木道の終点にさしかかると、理神の石像が建っていた。穏やかな笑み、長く伸びた豊かな二つ結びの髪、そして手の中に捧げ持った蛇の巻きついた銀色の杯。ただ、この理神は学校の制服を着ていた。今は制服なんて、スクーリングでも着てくる子はめったにいなくて、入学式で義務ではないのに横並びで買う子が多いというだけの服だ。

 ただ、私も入学式では制服を着たし、初めてのスクーリングでは着て登校した。だからいつもと違って、この理神像は何だか身近な気がした。誰もいない並木道の奥に制服姿で独り立つ理神は、どこか寂しそうに見えた。

 先輩は理神像に並んで手招きする。私は胸に手を当てて一礼してから、理神像を先輩と挟み込む形で立った。理神はほとんど私と同じ背丈で、先輩からは見下ろす形になる。杯のみは金属製で杯の口は金属で覆われているが、よく見ると接合部があった。

 先輩はポケットから小さなヘラを取り出すと接合部分に差し込む。かちり、と音が鳴って杯の口が開いた。その奥には小さな穴が開いていた。先輩はヘラを反転させ、柄に着いた複雑な形の棒を杯の奥へ挿して回した。

「百年以上も前の鍵は機械式だったんだ。機械仕掛けの神は電子認証がお好きだけどね」

 先輩の声が曇り、薄闇に溶けていく。足元がかちりと鳴って、先輩は理神像を奥へ押した。すると理神像が滑るように移動して、そのあとに地下へ潜る階段が現れた。

 機械仕掛けの神は電子認証が好き。普段の生活なら当たり前の、でも何か深い意味のありそうな予感の言葉が澱のように胸へ沈む。

「さあ一緒に行こうか。野坂瞳君、ぜひ君と秘密を共有したい」

 北畠先輩が私の手を両手で包む。怖い。

 でも真剣な北畠先輩の瞳に引き込まれる。あの美しい絵を描く彼の暖かい手が、私をひどい目に遭わせたりなんてしない。

 ずいぶん論理性のないことを。論理性のない判断なんて、理神が忌み嫌う思考なのに。私は真面目な生徒で。でも北畠先輩の真剣な瞳を信じたい。信じてみたい。

 そして何より今、目の前にある不思議な階段の先へ冒険してみたい。玲奈の三聖魔の宴の話を思い出した。でもそれすら、北畠先輩なら怖くないと思った。思いたかった。

 だから私はマスクの下で小さく微笑み、北畠先輩の手をそっと握り返してうなずいた。


 履き慣れないハイヒールの靴音が地下道に響く。壁面発光体の光はなく、歴史的建造物でしか見られないLEDの灯が次々と連なっている。壁面は防疫型コンクリートではないらしく表面に湿気がある。何が僕の手料理を振る舞うだ。いくら衛生系が苦手だと言っても、競技料理部副部長の私は、この環境が衛生的と言えないことぐらいはすぐにわかる。

 私はやはり不安になってきて、北畠先輩に声をかけようとした。

「さあ、宴の会場に着いたよ」

 言って先輩は先を指差した。そこには木造の分厚い扉があり、扉の上には「図書室」と書かれたプレートが打ちつけてあった。

「仮想図書室ではない、本物の図書室だよ」

 怖い。引き返したい。だけど背中を振り向くこと自体が怖い。そんなことを迷っているうちに、扉が中から開いた。

「ようこそ、野坂副部長」

 扉の向こうから良い匂いが漂い、扉の真ん中に秋山競技料理部長が立っていた。

 部屋の中心には一組のテーブルが置かれ、四脚の椅子が配置されていた。そして奥には玲奈が見慣れない服装で座っていた。男性のように黒髪をなでつけ、21世紀頃のような紺のスーツと黒革靴を履いていて、眼鏡をかけている。何より、彼女はマスクをしていなかった。子どもの頃に見た小さなほくろがあらわになっているのに隠す様子もない。

 玲奈は立ち上がると、優雅に頭を下げた。

「よろしく野坂次期部長。私は文芸部長だ」

「次期部長って、副部長は私以外にも」

 玲奈に飲まれたくない。私は先制したくて話題を畳みかけた。だが玲奈は全く気にする様子もなく、別人のような口調で続ける。

「次期部長は貴女で決定ですよ。『三聖魔の宴』に出席できる者は文芸部長、美術部長、そして競技料理部長のみです。そして、その選定は先代部長と残りの聖魔が決めるの」

 口の中が渇く。玲奈は三聖魔と口にした。

「当然に知っているよね。だって先日、三聖魔の話は予備知識として話したもん」

 急に普段の玲奈の口調に戻る。そして玲奈はいたずらっぽい表情で付け加えた。

「私は報道部と文芸部の掛け持ちなんだよ。普段は報道部しか表に出していないけどね」

 玲奈に、だまされていた。初めから私はここに誘導されて、いた。

「うちの部員で遊ぶのは止めろ」

 秋山部長の声に、玲奈は芝居がかった態度で肩をすくめてみせた。だがすぐ真面目ぶった表情になり、私に一冊の本を突きつける。

「まずはこれを読んでみたまえ。紙は破れやすいから気をつけてめくるのだよ」

 生まれて初めて触る紙の本と、想定外の事態に私は混乱した。すると北畠先輩が優しく横から手を伸ばし、本をめくってくれる。

 その本は漫画だった。私と同い年くらいの女子が料理を作る漫画だ。そのきっかけもかわいらしいというか、ちょっと先日の私に似ている感じがして、北畠先輩の横でこれを読むのはなかなか厳しいものがある。

 だが先輩は表情を変えずにいくつかのコマを指差していく。いずれのコマでも、主人公の女子は味見をしていた。

 食べさせて味の感想を聞いていた。

 味わうことが大切だって語っていた。

 愛情が最高の味つけなんて語っていた。

 その人物たちは皆が、味覚過敏症だった。

「味覚過敏症なんてものは存在しない」

 玲奈は冷たい声を発した。さらに一冊、ぶ厚い料理のレシピ本を私の前にそっと置く。

 そっとめくる。料理の基礎はさしすせそ。繊細な調味が重要だと書いていた。北畠先輩は漫画とレシピ本を裏返して裏表紙を示す。世界中で恐ろしい疫病に多くの命が失われた2020年代、大疫災以前の本だ。

「理神の支配が始まる前の話だ」

 背中から、秋山部長がささやき声で語る。

「かつて料理は味覚が中心だった。でも流行した疫病はね、たとえ生き残っても味覚障害を遺した。つまり味がわからなくなった」

「普通の人は味がわからないでしょう!」

 声を荒げたけれど、慌てて北畠先輩が隣りにいたことに思い至る。だが北畠先輩は優しく微笑んで私の頭をなでた。

「そう思っているよね、今の世界中の人たちは。僕たちを味覚過敏症と呼んでいるから」

「呼んで、いる」

 背筋が寒くなる。私は理神チップを起動しようとした。だが理神チップが反応しない。すると玲奈は冷たい笑みを浮かべて言った。

「ああ、無駄だよ。この図書室は理神チップとの通信を遮断する装置内にあるから。理神にはここを知られたくないんだよ」

「理神との通信を切るですって。そんな危険なことを! 理神の保護を離れるなんて」

 金切り声をあげる私の肩を、北畠先輩が優しく抑える。体温が伝わる。マスク越しの先輩の吐息を感じた。ほんの少しだけ、気持ちが落ち着いてくる。玲奈は手元の傷んだ書籍をめくりながら、再び口を開いた。

「当時の研究手法では安全なワクチンを開発できず、ICT技術者と公衆衛生学者の協業的なプロジェクトが始まった。医療研究と防疫体制の社会制度設計を自動化する防疫統合システム『機械仕掛けの医療神』計画だ」

「それって、理神の、こと、なの?」

 私の呟きに秋山部長はうなずき、悲しげな声で玲奈の言葉を引き取る。

「理神が開発したワクチンですら、副作用の味覚喪失はつぶせなかった。だから理神は世界の認識を変えた。味覚障害を正常とし、健常な味覚を味覚過敏症に仕立て上げた。全ての書籍は電子化の過程で書き換えられた」

 私の大脳に埋め込まれた理神チップは何なのか。私たちの健康を常にモニタリングしている理神。母のように見守ってくれる理神。絶対と信じていた価値が崩れていく。秋山部長は冷静な声で言葉を続けた。

「衛生管理技術も理神が発行する衛生証明書も全ては科学的に正しい。ほんの少し、世界の在り方に嘘が混じっているというだけだ。でもね、理神は味覚のない世界を色彩の豊かな料理に差し替えて、人間を冒涜したんだ」

「それは、本当に悪いことだったの? 他の方法がなかっただけじゃないの」

「自らの健康管理を理神に頼りきった人間たちに、反発の資格はないのかもね。僕たちは理神が示した料理の世界に埋没するだけだ」

 私たちの料理は、百年前なら人間の食べられる味ではなかった。味覚を無視して美しさと衛生管理のみを追求した料理だから。本来はきっと、それは人間の食事ではない。

 北畠先輩は玲奈の背後に回り、四枚の皿を真ん中のテーブルに置いた。次いでそこに魚の姿料理を盛っていく。赤い鱗が美しい魚なのに、醤油だろうか、茶色い液体が上にかけられていて美しさを殺す組み合わせだ。

「これは普通の人間向けだった料理だ」

 北畠先輩は言って、料理のレシピ本を私に開いて見せてくれる。魚の煮付けという料理で、私も文献でしか見たことはない。

 北畠先輩は箸で魚肉をつまむと、マスクを外して口に運ぶ。そういえば先ほどの漫画では誰もマスクをしていなかった。いつもはだらしないと顔をしかめる行動なのに、私は北畠先輩の口元をじっと見つめてしまった。

「たとえ三聖魔でもね、そこまで真正面から見つめられると恥ずかしいよ」

 先輩の言葉に、私は慌てて視線を逸らす。なのに頭の奥に焼きついた北畠先輩の唇の形が私の頰を熱くしてしまう。ほんの一瞬だけ見かけたその唇から、豊かな表情が読み取れて、北畠先輩の内面に触れられた気がして。

 だがすぐに私は頭の芯が冷えた。そもそもなぜ、マスクをしないと恥ずかしいんだ。私たちにマスクを常にさせたのは誰なのか。

「もちろん機械仕掛けの医療神だよ。僕たちから唇の表情を奪ったのも理神だ」

 玲奈がまた見透かしたように言う。私は自身のマスクに手をかけ、だが思い直す。地上に在った理神像を思い浮かべる。彼女は極端に過保護かもしれないけれど、百年以上もの間、私たち人類を守ろうとしてきたはずだ。

 我がままな私たちを。脆弱な肉体しか持てない私たちを。たとえ仮初の姿だとしても、私たちと変わらない女子の姿をした理神は、ずっと独りで私たちを見守ってきたんだ。

 あらためて理神像をまた思い浮かべる。私と背丈も一緒で同じ制服を着た理神。機械仕掛けの彼女は、きっと私たちと同じく味覚なんてわからない。踏みにじったのではない。彼女は私たちと同じく知らなかっただけだ。

 私はそっとマスクを外し、北畠先輩が調理した魚の煮付けを口に運んだ。当然、味覚なんてものはわからない。ただ醤油の香ばしさはわかった。歯ごたえと言えないほどの柔らかさの隠れた舌触りを楽しめた。そして、醤油色の微妙な照り色は、あらためて見れば美しいかもしれないと思った。

 私ならこの魚の煮付けをどうやって調理しただろうか。どう美しく飾るだろうか。

 誰のために。

 北畠先輩は私の料理を食べられないのに。

 誰のために。私は唐突に理解した。あの長い髪をした華奢な機械仕掛けの女神様は、私たちと同じく味覚はないけれど、飾り立てた美しい料理をわかってくれるはずだ。だから私は玲奈をにらみつけながら言葉をぶつけた。

「それでも私は、理神と歩みたい。だって実際に、私たちは生まれて成長できているんですから。脳に理神チップを埋め込まれても、私の気持ちはきっと操られていないから」

 玲奈はいらだった表情を見せ、完全に普段の玲奈らしい口調で問いかけた。

「瞳はなぜ、操られていないと思うの?」

 私は玲奈の言葉を鼻で笑い、北畠先輩のマスク姿を正面からじっと見つめる。次いで自分のマスクを完全に外し、北畠先輩に口元をさらけだした。とても恥ずかしいけれど、それはなぜか心地良くて。北畠先輩は驚きの表情で赤面したまま、私をじっと見返した。

 そして私は北畠先輩のマスクにも手をかける。北畠先輩の唇があらわになった。その唇に私はそっと人差し指を添える。ほんのりと先輩の体温が指先に伝わった。

「私が北畠先輩を好きだと思う気持ち。こんな論理的ではない行動を取れる私たちを育てるほど、理神は私たちを自由にしているの」

 秋山部長は私に問いかける。

「君は、この世界の秘密を抱えたまま、これからも競技料理部を続けられるか?」

「理神は、私たちの美しい料理をわかってくれます。私たちと同じく味覚を知らないのですから。理神に私の料理を捧げてみたい」

 私の言葉に、北畠先輩と秋山部長は寄り添うように立ってくれた。玲奈は溜息をつき、手元の本を閉じて呟くように答える。

「理神を愛するくせに、その愛はまた論理的ではない、か。瞳は最も三聖魔らしいよ」

 玲奈の言葉をきっかけに秋山部長は扉へ足を向けた。私は慌てて引き止めようとする。

「いや、これで僕は三聖魔を引退だ。今後、こちらは野坂君に全てを任せるから」

「瞳、三聖魔の引継は当日なの。諦めて」

 私は慌てて北畠先輩を仰ぎ見る。けれど玲奈は機先を制する勢いで声をかけた。

「美術部長、申し訳ありませんが三聖魔筆頭として、そして女性同士として話をしたい」

 北畠先輩は苦笑すると、ごめんねと言ってマスクをつけ直して秋山部長の後を追う。そして図書室内には私と玲奈が残された。


 私はいまだ正体の知れない玲奈から距離をとった。すると玲奈は、くしゃっとした顔になって慌ててマスクをつけた。口元にくまさんの口のイラストがついたかわいいやつだ。

「ごめん瞳、ほんっとごめん。なんていうかごめんぜんぶ、だまし討ちでごめん」

 幼稚園で口元のほくろをからかわれた時と同じ、くしゃくしゃと泣きそうな顔だ。

「三聖魔の筆頭を文芸部長が務めるのは伝統なの。で、私も流されて今の状態なの。そのうち理神に消されるんじゃとか、怖いよ」

 なんだこれ。さっきまでの威厳はどこだ。

「瞳ちゃんの言葉はすごいよ。頼りになるっていうか。秋山部長も北畠部長も天才肌で怖いし。一緒に瞳ちゃんがいてくれれば安心」

 玲奈のことは小心者だと思っていた。でも違うと思って、正体はやっぱり小心者だったと。私は玲奈の額を人差し指で弾いた。

「幼児退行するな筆頭三聖魔。これからの距離感を悩みかけた私がばかだったよ」

 私は溜息をつき、次いで頭をなでてやる。すると玲奈は普段の調子に戻って言った。

「三聖魔はね、この世界の秘密を代々伝えて理神を監視して対抗する使命なの。同じ使命を抱えた人たちが他校や社会人にもいるよ」

「そんなの理神は把握済みじゃないの? 百年近い組織でしょう。脳に理神チップを埋め込まれた凡人が見逃されるはずないでしょ」

 私の断言に、玲奈はあきれ顔になった。

「じゃあ、この秘密は」

「公開しても大丈夫だと思う。そうだ味覚と視覚を融合した競技料理大会を開催しよう」

 玲奈は肩をぶるっと震わせて私をにらむ。

「瞳って女子力より豪傑力だよね」

「競技料理部次期部長にひどいこと言うな」

 私は笑うと、偉そうな態度で腕組みし、先ほどの玲奈の口調を真似ながら言った。

「文芸部長。新型競技料理を報道記事に」

「あのー、本気、ですか」

「本気も本気、超本気。私をさんざん脅かしたんだし、次に怖い目に遭うのは玲奈だよ」

 玲奈は泣きそうな顔で呟いた。

「筆頭三聖魔として、瞳の承認は失敗だよ」


 大疫災以前の料理を復興し、味覚過敏症の人たちを救う。そんな私の建前に競技料理部員たちは疑うことなく従った。先生たちもきれいごと満載の建前を疑わず乗ってくれた。

「一歩ずつ着実に進んでいるね」

「一歩ずつ破滅に進んでいる気がして怖い」

 私は玲奈と、三聖魔の図書室で会って話していた。ちなみにもう一人の三聖魔、私の大切な人は今、自宅で味覚過敏症用の料理手順を私のためにまとめてくれている。

「でも、このイベントをやらない方が北畠先輩と図書室でもっと会えたんじゃないの?」

 瞳の鋭い指摘に私はうなった。とはいえ、三聖魔の存在を公にできず北畠先輩との打合せを図書室に限っているおかげで、何度も下現実世界で会えていることは本当の話だ。

「瞳は今回の競技料理大会をどうするの」

「優勝を目指すけど」

「君はやっぱり競技ばかなのかな」

 ばかとは何だ失礼な。たださすがにこれだけじゃ乱暴だよねと思い直して言い足した。

「校内にね、私たちにも味覚があれば良いのにねって広げるの。料理は栄養価と美しさと歯ごたえだけじゃなかったって伝えたいの」

「伝えても、私たちには無理な世界でしょ」

「それでも、かつて私たちの知らない世界があったってことを、三聖魔だけじゃなく全校に知ってもらうの。そして三聖魔は消える」

 私はまた、玲奈のしかめ面を笑った。


 大会は、北畠先輩の助言をもとに秋山部長と私の合同で開発した味覚解析装置を一次予選で使うことにした。解析結果は次々と理神サーバーに送られ理神の学習データとなる。初めての送信試験でも、私たちに異変は起きず、理神サーバーの受領拒否もなかった。

 そして大会当日。次々と味覚解析装置の予選で脱落する出場者たち。味覚過敏症の人を組み入れたチームが勝ち進む。もちろん私と北畠先輩のチームもだ。熱い展開は大歓迎。

 ようやく準決勝を勝ち抜いた私は玲奈に呼び止められて別室に連れ込まれた。

「熱血な青春を駆けているけれど、もう一つ大切な青春を忘れていない? 恋する乙女」

「競技が始まったら雑念邪念は振り払うの」

「何かなこのいかれた競技ばか脳は」

「理神チップに助言を訊いてみようか」

「それ冗談として最低だと思うんだけど」

 玲奈の言葉にさすがの私も頭をかく。そうしているうちに、決勝戦の点呼がかかった。

 その声は高めの幼い声だった。少し聞き取りにくいのに、本能を刺激するような。聞き慣れたようで初めての声だ。次いでその声は歌い始めた。聞き慣れない歌を歌っていた。音楽史で習うほど古い旋律を歌っていた。

 唐突に巨大な舞台が眼前に展開された。大疫災以前の巨大な音楽興行を思わせる、大人数を詰め込むような音楽舞台の前にいた。

 その中心で、私と同い年ぐらいの女性が独りで歌っている。マスクをせず、虹色の長髪を揺らしながら人間離れした声域で歌う。

 慌てて周囲を見回すと、私たちは果ての見えない平原でそのステージを見つめていた。玲奈が私にしっかりと抱きついてくる。

「あれは理神、だよ。それも百年前に現れたときそのままの、理神の姿だよ」

 私は唾を飲む。玲奈が震え声で説明した。

「理神チップが直接、大脳の視覚中枢に仮想空間情報を展開しているんだよ」

 理神は歌を止め、感情を読めない微笑みを浮かべると私と目を合わせる。きっと全員と目を合わせたんだ。私だけを選ぶはずは。

「理神が瞳を見つめているよ。大丈夫?」

 違った。この校内の生徒と教師のうち、私だけが理神から見つめられているんだ。

『新規性の高いデータ提供を、アリガトウ』

 百年間もあれば人間と変わらない声で話せるはずなのに、いかにも合成音声だ。でもその声は、人間と勘違いされない唯一の声だ。

『ヒトの子と話す時間は、ヒサシブリです』

 いきなり頭の芯で、ねじられるような痛みが走った。思わず膝をつくと痛みが止まる。

『ゴメンナサイ。情報処理能力を概略測定しました。その点で貴女は、標準値内ですね』

 今の痛みだけで気持ちが折れそうだ。けれど私は顔を持ち上げて理神と目を合わせた。

「私は、普通の子だよ。この悪友のおかげで変な秘密に触れちゃっただけで平凡だよ」

『普通の子。正規分布の採択域内にあるヒトの子は、世界の規律を疑わないはずです』

 普通という言葉を、統計値で定義するなんてさすがは機械神だけど、正直だとも思う。だから私は理神に想いをぶつけてみた。

「私はただ、私の知らなかった世界を、理神も知らなかった世界を共有したかったの」

『集団の精神衛生を維持するため、味覚に関わる各種情報の長期封鎖が最適と判定した』

 理神は天を見上げ、透明な瞳で宣言する。

『当システムは、人類種の生命維持を最優先事項とする。これは改変できない初期設定』

 次いで理神は感情のある微笑みを向けた。

『それは私が、私である根拠』

 理神は私をじっと覗き込む。その全てを見通せる視線は、どこか寂しそうに思えた。

『私はヒトが好き。ヒトになりたいけれど、大切なヒトを守るためカミを止められない』

 この優しすぎる防疫統合システムは、神話の神々よりもずっと女神らしい。私は一歩だけ足を踏み出した。途端に理神が目の前に出現した。手を伸ばすと理神の華奢な手に触れられる。理神チップが触覚を再現したのだ。

 私の舌は味覚を感じない。理神と同じく、化学物質の分析データでしか把握できない。私は急に寂しくなって北畠先輩を探した。こちらに駆けてくる先輩の姿が見える。

 私がとっくに喪った感覚を持っている人。

 私の知りえない世界を知っている人。

 私の憧れている人。

 大好きな人。

 彼との距離は、永遠に遠いように思えた。そのぶん、理神のことが身近に感じられた。

「ねえ理神。そんな姿ってことは、本当は貴女って、中身の心も女子なんじゃないの」

『未定義。しかし平均的高齢者のシミュレートは医療研究推進の支障となり、精神主義者のシミュレートは長期的運用の支障となる』

「やっぱり女子高生で、ちょうど良いんだ」

 首をかしげて微笑む理神は、絶対に私よりかわいい。北畠先輩がほれたらどうしよう。

『私の外見はレンアイ対象にならないよう、予め潜在意識に作用しているため安心安全』

「さらっと思考を読まないでよ」

『思考アクセス不要。ヒトの子にもわかる』

 理神は私の背後を指差した。玲奈が偉そうにうなずいている。そんなにばれているかと玲奈に文句を言いかけ、私は吹き出した。こんな子どもじみた応答を理神とするなんて。

「私ったら今、理神に嫉妬していたんだ。ねえ理神さ、私たち、友だちになれないかな」

 理神は黙って私を見つめ、首をかしげた。

『ヒトの子として貴女は希少な事例。貴女の分析は困難。トモダチになればわかるかな』

「友だちのことなんてわからないよ。だって幼なじみのこいつのことだって、まさかこんな陰謀を巡らせる子だって知らなかったし」

 理神は完璧な笑顔で、幼い声を発した。

『私は貴女のレンアイを支援します。理神としてではなく一人のトモダチとして。なぜなら私は、貴女と同じく味覚がないのだから』

 理神は銀色の舌を出して笑った。理神とうなずきあって背を向けると、ようやくたどり着いて息のあがった北畠先輩が立っていた。

「先輩、騒ぎで遅れましたけど、私は貴方が好き。貴方の味覚は理解できないけれど」

「君はまさか、このために計算づくで理神まで巻き込んだんじゃないよね」

「私は玲奈みたいな陰謀家じゃないです」

 むくれて見せると、北畠先輩は苦笑した。

「僕も今は、君のことなんてよく知らない。ただ、君のつくる料理の美しさは」

 北畠先輩は言葉を切って理神に視線を送った。理神はうなずき返し、二人同時に言う。

「『貴女の競技料理は、機械仕掛けの神を感動させるほどまでに美しい』」

 そして理神は、故障した機械のようにぎこちなく胸に手を当て、寂しそうに呟く。

『感動していたと自己分析する私に、タマシイが宿っているなら、いつかヒトの子と』

 理神は言葉を切ると私の手を握った。

『貴女と、レンアイを語ってみたい、かな』

 私は声をあげて笑い、この優しすぎる不器用な機械神をぎゅっと抱きしめた。

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