ぼんやりと車窓から外を眺めながら、何でこんなローカル線に乗っているのだろうと思い返した。一両編成の車両には僕と反対側の席で居眠りしているお婆さんの二人だけだ。こんな田舎の路線でぐっすり寝ているところを見れば通い慣れた人なのだろう。田舎の路線が多い北海道の中でも廃線間近という話には納得してしまう。
江差線は、僕の住む函館市から江差追分の江差町をつなぐローカル線だ。先ほど通過した木古内駅は青函トンネルへ接続しており、本州への玄関口となっている。思い切って青森まで行ってみようかと思ったのだけれど、一人でいきなり本州に行くとなれば流石に勇気がいる。漫画を読んでいると東京の方の高校生は他県にでも簡単に行くようだけど、僕たち北海道生まれの道産子にとっては津軽海峡は大きな裂け目で、それを飛び越えるのは難しいことだと思う。まして、楽しい一人旅じゃなくただ逃げ出しただけとなればなおさらだ。要は、僕が部を背負っていくような感じが嫌になったのだ。
僕が所属している部活は出版部だ。聞き慣れない部活だと思う。僕の高校は昔、新聞部や文芸部、漫研とかがあったらしいが、生徒の数が減ったせいで個々で部を維持できなくなり、先輩たちが無理矢理に合併した結果なのだそうだ。一方で、逆に出版というざっくりした分類だから、漫画を描こうがゴシップ記事みたいなものを書こうが何でもありなのは楽しい。今どきネットでWebサイト開設で良さそうに思うかもしれないが、やはり本の形になると嬉しいし、長文の小説や漫画だとやはり、紙で配布する方が読んでもらえる感じがする。
でも、僕の難しさは体育会系だとわからないかもしれない。この自由さが僕には逆に息苦しくなってきたのだ。ただ好きに遊んでいた一年生のときと違って、今は三年生になってまとめていくことになったのだけど、まとめる側になったら何でもありの部だから本当に紙面としてまとまらなくって、おまけに我の強い奴らだから言うこと聞かないし。でも体育会系の部みたいに「俺様の言うことを聞け」みたいなことのできる部じゃないし。
そんなことを色々ごちゃごちゃ考えているうちに僕は函館駅に立っていたのだ。駅なんて高校生は滅多に来ることのない場所なのだけど。要は現実から逃げて駅に来て、また逃げて切符の安いローカル線に乗って。それで今は、居眠りしているお婆さんと僕の二人しかいない列車の中というわけだ。
窓の外は鬱蒼とした森で、列車は覆い被さる森のトンネルを潜るようにして走り続けており、人家はほとんど見えない。携帯を開いても圏外のままで、田舎どころか無人地帯を走っていることを実感させられる。先ほどの木古内駅で降りていれば戻る列車も多いから函館に戻られたはずなのに。今になって後悔しても遅いけれど、それでも函館があるはずの方向を眺めては溜息をついてしまう。
駅舎の屋根すらない、乗降場所だけの駅が近づいて来た。すると居眠りしていたお婆さんが僕の向かいの席に移ってきた。
「若いのに、どごさ行ぐの」
かなり訛りのある言葉で話しかけてくる。こっちの田舎言葉は本当に聞き取りにくい。行くあてのない僕は首をかしげる。するとお婆さんはひゃひゃ、と笑って行った。
「一人旅かい。『ユノタイ』にでも行ぐの」
「ユノタイ?」
聞き返すと、お婆さんは窓に指でゆっくりと「湯ノ岱」と書いて振り向いた。
「温泉だあ。良い湯なんだあ」
僕は曖昧な返事を返す。温泉は嫌いじゃないけれど、僕の年齢で一人旅で温泉旅行に行く奴なんていないだろう。もしかして大学生とか社会人に見えているのだろうか。
「疲れた顔してんねえ、あんた」
お婆さんはひゃひゃひゃ、と笑って僕の膝に煎餅の入った袋を押しつけ、年齢のわりには素早く立ち上がると自動扉の前にしっかりと立った。窓の外を見ると先ほどの駅は通り過ぎ、また一つ駅が近づいていた。神明駅という立派な名前の看板があるだけで、人家があるのかすら不安になるような風景だ。すぐに列車は止まり、お婆さんは僕に煎餅を返す暇も与えず列車から降りてしまった。
遂に僕は独りになった。こんなローカル線で独り乗っていくのは不安だ。でも携帯を見ると圏外表示になっているし、中途半端な駅で降りるのはもっと不安だ。胸の辺りがじわじわと息苦しくなる。
僕は膝を抱えるようにして、もらった煎餅を一枚かじった。ほんのりと草の匂いがする不思議な煎餅だった。草餅みたいな類なのだろうか。僕は煎餅をゆっくりとかじりながら窓の外をじっと見つめて次の駅を待った。
次第に列車が遅くなってきた。窓からは川が見えてくる。やたらと透明で静かな流れの川だった。ずっと列車の進む方向を見ていると、次第にまた駅らしいものが見えてきた。
列車が止まり、自動扉が開く。駅の看板には湯ノ岱、とあった。お婆さんが言っていた駅だ。確かにさっきの神明駅と違ってまともに駅舎の形はしている。だがやはり、流石にここで降りる気にはなれない。僕は再び席に深く坐り直してしっかりと目をつぶる。扉が閉まり、再び列車が動き始めた。
少しして、僕は何となく車内を見回した。すると先ほどお婆さんが最初に座っていた席に誰かが座っていた。向こうも気付いたようで立ち上がる。僕と同い年ぐらいの女子だ。
薄青のブラウスと少し濃い青のスカート。一重瞼と丸みのある顔立ちに腰まである漆黒の艶々とした髪のせいか、体格のわりには幼くも見える。湯ノ岱駅で誰か乗ったようには思えなかったのだけれど。彼女は先ほどのお婆さんが座った席に着き、僕をしげしげと見つめた。僕は気まずくなって顔を背けるとお婆さんの煎餅を一枚取り出してかじる。
彼女が甘い声でいいなあ、と呟いた。振り向くと、僕の煎餅袋を見つめている。彼女は微笑んで僕の目をじっと見つめてきた。
「食べる?」
一枚取り出すと彼女は即座に手を出す。渡すと彼女は嬉しそうに煎餅を口に運んだ。
「好きなんだ、私。この草煎餅」
「草煎餅って言うんだ。どこで売ってるの」
彼女は首をかしげて少し考え、そして言う。
「特製で、お祭りで食べる非売品なの。森の力で元気になるお煎餅なんだよ」
へえ、と僕は曖昧に返事する。湯ノ岱かどこかの煎餅屋特製なのだろうか。森の力というのが良くわからないけれど、檜山地方は北海道の中では珍しく、明治時代より以前からの古いお祭りがあると聞いたことがある。
「君、珍しいよね」
彼女は煎餅をかじりながら言う。首をかしげると、彼女は言葉を継ぎ足した。
「だから、この列車に一人で乗ってる初見の人で、カメラで外を撮っていない若い人」
確かに、この列車だと顔見知りばかりになるだろう。鉄道マニアには名が知れているらしいから、見たことのない人間で乗ってくるのは鉄道マニアばかりなのかもしれない。
「ちょっと湯ノ岱で久しぶりに元気付けてきたの。何だか色々、疲れていて」
彼女の言葉に僕は親近感を感じて頷く。彼女はまた嬉しそうに煎餅をかじると窓の外を見て、少し表情を曇らせた。
「もう駅に着いちゃう」
僕も一緒に窓の外を見たが、まだ駅の姿は見えず川と木々の風景が流れていくだけだ。
「ここに住んでるの?」
やっと絞り出した僕の質問に、彼女は寂しそうに曖昧な笑みを浮かべ、そして急に何かを思いついたように僕に視線を向けた。
「また、こっちに来ることはあるかな」
「今日、この列車でまた戻るよ」
僕の返答に、彼女は頰を膨らませた。
「私、一日に何回も乗らないよ」
僕は口をつぐむ。他の日に乗るのか訊いているに違いない。僕は小さい声で答えた。
「何だか色々、疲れてて」
彼女はあ、と声を挙げ、そして小さく吹き出した。そして今度は明るい声で言った。
「じゃあ来月。来月の二十日、一本早い列車で乗ってきて。私、湯ノ岱で待ってる」
急な話に着いて行けず、僕は何も言い返せない。すると彼女は僕の手から煎餅袋を当然のように丸ごと取り上げて言った。
「君にこのお煎餅は多過ぎるよ。でも、貰っちゃうお礼はしなきゃ、ね」
「全部あげるなんて言っていないよ」
「駄目なの?」
彼女は当然だろうという顔で僕をまた正面からじっと見つめる。あまりに自信のあふれる表情に僕はうなずくしかなかった。
電車がまた次第に遅くなってくる。屋根すらない、ただコンクリートの上に看板だけが立っているだけの小さな駅が見えてきた。彼女は立ち上がるとドアの前に立った。
「約束だよ」
笑顔を残して、彼女は駅に降り立った。駅の看板には「天ノ川」とある。先ほどから流れている川の名前だろうか。列車はすぐに発車して彼女の姿は見えなくなった。
今日は原稿締切日だが、先に提出した連中は遊びに行って来ないだろうし、締切に間に合わない奴は逃げて今日は来ないだろう。
そんなわけで、うちの部は締切の日には部室にほとんど人が集まらない。それでも締切日ぴったりに原稿を持ち込む人もいるから、部長は必ず待機していることになっている。僕はエッセイというか何というか、要はブログのような内容を意味ありげに書いているだけなので、パソコンさえあればネタを溜めておけるから暇な時間は上手くつぶせる方だ。
それにしても誰も来ない。ゲーム記事の連中はどうせ日付が変わるぎりぎりに記事だけメールで突っ込んでくるつもりなんだろうけど、イラスト系でCGを使っていない奴らは早めに持ってきてくれないとレイアウト作業が止まってしまうから困る。僕は溜息をついて、発刊を遅らせられるか考え始めた。
部室のドアが開いた。ポテトチップ入りのコンビニ袋と鞄を手に提げ、スケッチブックを脇に挟んだショートヘアの女子。待ちかねていた締切破りの常連、雪野だ。スカートがめくれるのも構わず足でドアを開けた姿勢のまま、しまった、という表情で舌打ちした。
「いやあ、やっぱ部活って楽しいよね。でも原稿ばっか書いてると疲れるからさ。ほら部長さん。ポテトチップ、食べる?」
雪野は鞄とスケッチブックを机に放り出すと、早速ポテトチップの袋を空けた。こんな脂っこいお菓子が好きなわりに大して太らない雪野は普段、何を食べているんだろう。
僕はぼんやりとポテトチップを口に入れて塩味の刺激を味わってから、雪野のペースにはめられかけていることに気付いた。
「で、締切なんだけど」
僕はポテトチップをしっかりと飲み込んだ上でゆっくりと告げる。
「鉛筆のラフ画とかじゃ、ダメだよね?」
雪野が前髪を弄りながら上目遣いで呟く。次いで後ろに束ねた髪を刷毛のように持って落ち着きなく自分の頰を撫でた。昔から雪野が困ったときによくやる癖だ。流石にこいつでも今の状況がかなり不味いことぐらいは理解しているらしい。それでも一応は聞いてくるのが雪野の雪野たるところで。
僕は気持ちを決めると、普段なかなか出さない大きめの声で言い切った。
「表紙絵を、鉛筆のラフで終わらせると?」
「だってほら、これなんて鉛筆の素描でも名作だって今日の授業でやってたでしょ」
雪野は今日配られたプリントを取り出すとドガの「踊り子」を僕に突き出した。美術や音楽の教師は受験校であることを良いことにして、教師の趣味で好きにやっている面が結構強い。このプリントも油絵よりも淡彩が、淡彩よりスケッチが美しいなどと我流を突き進む美術教師の自分勝手な資料だ。
僕は黙ったままプリントを受け取って机に置き、雪野の目を正面からじっと見つめた。
「そんな熱い視線で告白とかされても」
「茶化すな逸らすな脱線女王。僕は、締切の話としっかりした表紙の話をしてるの」
「でさー、ドガなんだけどさ」
「君はドガみたいな大物だったかい。というか、一枚絵を描き込む派じゃなかった?」
雪野はうー、と唸って僕をまた捨て猫みたいに見上げてくる。実際、雪野の絵で鉛筆画なんてありえない。元々、動きを出すのが苦手だが、一枚絵のかわいいキャラクターイラストが得意で、それで主に表紙を担当しているのだ。今も何か出版社の公募にイラストを応募しているようだが、漫画の方は当面は無理かな、と自分で笑っているという娘なのだ。
雪野はまたうー、と唸って首をかしげる。机に放りだしたポテトチップの袋をがさがさ漁り、一掴み口に入れるとペットボトルの炭酸水を一気に呷ってまた唸る。本当にこいつは猫みたいだ。それも金持ちの家でゆったりと餌を貰っている血統書付きの猫じゃなく、道路の陰で雀を狙っている野良猫系。
「唸っても変わらないぞ」
「じゃ、にゃあん、と鳴いてみよっか」
「三遍回ってわんと吠えても変えないよ」
「頑固ですな石頭ですな古風ですな」
「って、僕のどこが古風なんだよ!」
雪野はふむ、と独りうなずいてノート大のスケッチブックを取り出し、胸ポケットに差していた薄い青のコピックを手に取った。
いつも通り紙に位置決めの十字を切ると、ざくざくと何かイラストを描き始める。子供っぽい頰のライン、ふわりとした感じのブラウスの襟。背中にかかる長髪を流すと穏やかな印象の眼を描き入れる。
「好きでしょ、こういう子。生真面目でおしとやかで優しくて、みたいな」
僕はスケッチブックのイラストに見入ってしまった。かなり乱暴に描いているが、確かに僕の好みを掴んでいるというか。それにどこか、誰かに似ている気がする。
「生真面目というか堅いというか細かいというかしつこいというか、そういうあんたの性格をプロファイリングすると、こういう子が好きなはずだと私は思うんだな、これが」
「まあ、嫌いじゃ、ないな」
答えながら誰に似ているのだろうと思いを巡らせる。雪野はスケッチを丁寧に破り取ると僕に押しつけた。
「ずいぶん気に入ったみたいだし、あげる」
「え? あ、ああ」
僕はぼんやりとイラストを受け取って鞄にしまい、帰りかけて慌てて戻った。
「お前、締切を誤魔化すつもりか?」
「ばれたか」
言葉はふざけた調子だが、雪野はさっきまでと違って妙に冷たい声を発した。何か不味いことを言っただろうか。僕たちの間に沈黙が沈む。雪野は僕の顔を真剣な顔で見つめ、唇を舐めてから独り言のように言った。
「私は、君が逃げなくても良い場所だよ」
「何、それ」
雪野はただ、うん、とだけ言ってまた僕を見つめる。何だかわかる気はする。いや、本当は僕はわかっている。
僕と雪野は幼馴染で、僕は昔から細かくて籠りやすい性格で。逆に雪野は大ざっぱだけど強い子で。だから小さい頃は雪野に助けてもらっていた。とはいえ、高校生にもなってまで何でも大ざっぱな雪野は問題だ。むしろそんな幼馴染の雪野が相手だからこそ、僕の言い方もきつくなってしまう。でも、僕がきつい言い方をするのが実は苦手だってことも雪野は知っているわけで。
「ごめん。私が言わせてるんだよね」
雪野はスケッチブックを胸に抱えると、僕に顔を近づけて言った。
「金曜日の夕方まで待って。絶対に仕上げるから。もちろん、ラフじゃなく本物で」
雰囲気に気圧され、僕は黙ってうなずく。雪野がスケッチブックを胸の上で叩くと、柔らかな弾力でスケッチブックが雪野の胸の上で跳ね上がった。思わず視線を逸らすと、雪野は不敵に笑いながらエロ、と耳元で怒鳴って部室から出て行ってしまった。
また独り残された僕は溜息をついて椅子に座り込む。何だろう、妙に疲れた。僕はあらためてさっき雪野がくれたイラストを疲れた頭でぼんやりと眺める。うちの生徒じゃない。親戚の誰かに似ているのだろうか。それとも中学時代の誰か。考え込んでもわからない。
取りあえず気分を変えてカレンダーを見ながらスケジュールを組み立てる。雪野の原稿が金曜日に上がるなら、土日に編集すればいい。そうすれば二十日の土曜日は空くな。
ここまで思って僕は叫びそうになった。雪野が描いたさっきのイラスト。先日の江差線で約束した子に似ているのだ。絵はアニメ調で現実の女子とは当然違うけれど、でも、どこか雰囲気が似通っているのだ。
ようやく誰に似ているのかわかって嬉しいはずなのに、僕は妙に後ろめたい気分になった。ただ雪野の描いたイラストが似ていただけなのに。雪野が僕の好みを描いただけだというのに。でも、それをいきなり紙で突きつけられるのはあまりに恥ずかしい。理由はわからないけれど、とくに雪野にだけは真っ直ぐに気付かれたくなかったように思った。
それにしても、列車の子はどうして約束だなんて言ったのだろう。僕は騙されているだけかもしれない。僕はカレンダーを睨んだまま、二十日にどうすれば良いか頭を抱えた。
再び乗った江差線は相変わらず乗客が少ない。一人若い男が乗っているが、乗り込む直前に必死で列車の車体をいかにも高そうなカメラで撮影していたところを見ると、湯ノ岱の子が言っていた鉄道オタクな人だろう。今日は逃げ出してきたわけでもないので、各駅停車のローカル線はかなり退屈な長旅だ。仕方がないので数冊の漫画とペットボトルのお茶をバッグに詰めて乗り込んだ。
本当に彼女が乗って来るのか自体が怪しい気がする。どこかの駅で彼女の友達や、下手をしたら怪しい彼氏とかが乗り込んできて、なんて展開を想像して思わず身震いしてしまう。それでも結局この列車に乗り込んだ僕自身の無謀な考えの浅さが情けない。おまけに乗り込んでから不安になってしまい、折角持ち込んだ漫画も上の空で頁をめくるだけだ。結局、僕は漫画を読むのを諦めて窓の外をぼんやりと眺めて過ごすことにした。
再会の話を抜きにして、このローカル線の話を雑誌の記事にしても良いかもしれない。かなり地味な内容だが、派手な記事はゲーム部門とライトノベル・漫画部門に任せておけば良いだけだ。とくにラノベの連中ときたら僕と雪野が過激なエロとオタク好みの萌え系描写を制限した鬱憤なのか知らないが、最近はやたらと戦闘描写を造り込んでくる。
だって仕方ないだろう、学校外で好きに書くのならともかく、うちは美術部と文芸部の後裔だからという理由で予算も部室も貰っている身分だ。最近は個人で絵画展や高文連の文芸部門へ応募する部員が少ないのだから、変に難癖を付けられて同好会に格下げ、部費大幅減額なんて破目にはなりたくない。
最近、政治家のようなことを言うと雪野にからかれたことがあるけど、それもこんな下らないことにばかり気を使っているせいだと思う。部長なんて引き受けるもんじゃない。何のために部活をやっているのか、部の代表だというのに逆にわからなくなってくる。
列車は相変わらず田舎道をだらだらと走行していた。それでも次第にまた駅が近づいてくる。湯ノ岱駅。あの不思議な子が乗って来るはずの駅だ。列車が次第に速度を落としていく。僕は車窓から彼女の姿を探した。
駅舎の奥に、見覚えのある青いスカートが翻った。次いで探していた丸顔が現れる。僕は唾を飲み、でも手を胸の辺りに挙げることしかできなかった。彼女は小さく微笑んで首をかしげ、ドアが開くのを待っていた。
ようやく列車のドアが開くと、彼女はゆっくりと乗ってきて僕の隣に座った。
「約束、守ってくれたんだ」
僕は黙ってうなずく。彼女は小さく笑い、バッグから水筒を取り出して蓋に中身を注いだ。何の変哲もない水のようだ。彼女はそれを一気に空けると再び蓋に注いだ。
「喉、渇かない?」
何となく勢いに流され、僕は受け取って口をつけた。氷でも入れているのか完全に冷えていて、なのにきつく刺さる感じもなく素直に喉を潤していく。普段飲んでいる水道水よりもかなり美味いように思えた。ふと、雪野が部室で炭酸水をがぶ飲みしていた姿を思い出し、後ろめたいような気分になった。
「美味しいはずだよ。特別製なんだから」
彼女は横から僕を覗き込むように見つめてくる。僕は気恥しくなって俯いてしまう。彼女は居住まいを正して真面目な顔で言った。
「天ノ川の源流、その最初に湧いた滴を集めるの。川が生まれる音が聞こえる前に水筒に詰めてしまうの。それが秘訣」
「川が、生まれる音?」
うん、と彼女は何かを思い出したように呟くと眉をひそめて俯いた。だがすぐに顔をあげると悪戯っぽい表情で僕に囁いた。
「天ノ川駅で、私と一緒に降りてみない?」
僕は彼女をあらためて見つめ直した。窓から射した日差しが髪の艶に反射して眩しい。だがふと雪野を思い出した。急に頭の中が現実的な方向に傾いた。
「君は、近所に住んでいるの?」
僕の問いに彼女は一瞬戸惑い、すぐに平然とした調子で答えた。
「私は町内に住んでいるの。ただ天ノ川駅の近くに神社があって、そこのお世話をお父さんからするように言われているの」
僕は疑う表情を浮かべたのだろうか、彼女は慌てた調子で言い足した。
「檜山は北海道で最も歴史が古いの。隣りの江差も有名な姥神神社のお祭りがあるし。神の国もかなり歴史のものだってあるんだよ」
姥神神社は大きな山車を引くお祭りで、北海道内で最も古いお祭りらしい。時期が近づくと函館でもポスターが貼られている。
「でも神の国って、言い過ぎじゃないか?」
「言い過ぎって?」
彼女は眉をひそめて口を尖らせ、すぐに吹き出す。次いで窓に息を吹きかけて曇らせると指で「上ノ国」と書いた。
「この町は『上ノ国町』って言うの。確かに函館よりは田舎だけど、知らないの?」
忘れていた。近いとはいえ、前回逃げてくるまではこちらの方になど来たこともなく、町の名前も考えたことはなかった。僕は肩をすくめて黙りこむ。顔が火照り、赤くなっていることが自分でもわかる。彼女はわざとらしく頰を膨らませてみせ、次いで声を潜めて僕の耳元で囁いた。
「でもね、上ノ国町の中でもこの周辺は、本当に神の国なんだよ」
僕は彼女の顔を覗き込んだ。彼女は本気とも冗談ともつかない笑顔で見つめてくる。そのまま見つめ合い、僕は急に気恥しくなって慌てて窓側に目を逸らした。
視線の先に小さく駅が見えてきた。天ノ川駅だ。彼女はうなずいて鞄を肩にかける。
「ねえ、私と一緒に行こうよ」
彼女は当然のように僕を振り向いた。僕は慌てて立ち上がる。汽車が次第に速度を落としていく。駅の看板の文字が見えてくる。
ドアが開いた。彼女は先に降りると僕の左手を掴み、引き抜くような勢いで引っ張る。慌てて降りると汽車はすぐに扉を閉じ、軽く汽笛を鳴らして江差へと走って行った。
天ノ川駅は無人駅で、彼女はスカートを翻して駅のコンクリートから飛び降りると山道を入っていく。僕は慌てて彼女の後を追う。だが彼女は見た目には似合わずかなりの速さで森の奥へと進んで行く。僕は周囲を見回す余裕もなく、森の中を進んで行った。
やっと彼女は歩みを緩めてこちらを振り返り、さらに奥を指差した。そこには神社と言うにはかわいらしい、僕の身長と大して変わらない高さの鳥居と祠が建っていた。鳥居は天然木をそのまま組み上げたもので柱には節が見えるが、かなり古びた木のようだ。祠の方は板葺きの屋根と、そのすぐ下に下げられた二筋の紙垂が印象的だ。
「ここが私のお社」
彼女は不思議な笑みを浮かべ、鳥居の奥に立って僕を手招きする。僕は彼女に向かって普通に歩いて行ったが、なぜか鳥居の前で立ちすくんでしまった。彼女は首をかしげ、ゆったりした笑みで僕を再び手招きする。
あらためて足を踏み出そうとした途端、背中が急に熱くなった。慌てて背中の鞄を降ろして中を除くと、一枚の画用紙がうっすらと光を放っている。広げると、それは部室で雪野がくれた少女のスケッチだ。僕は彼女に声をかけようとすると、彼女は口を尖らせて言った。
「その絵、私は嫌い。捨てて欲しいな」
彼女は再び鳥居の奥から手招きした。僕は怖くなりゆっくりと後ずさる。彼女は一歩、こちらに近づき、再び絵が熱を帯び始める。ふと、彼女の名前を聞いていなかったことに今になって気づく。僕は掠れた声で、君の名前は何だっけ、と問いかけた。
「誰だって良いじゃない」
彼女はうっすらと笑って首をかしげ、そしてきっぱりと言い切った。
「私と一緒に、逃げてくれば良いのに」
逃げる。何から逃げるんだ。
「色々と難しい、人間たちから逃げちゃえば良いの。君がどんなに頑張っても思い通りにならない、そんな煩わしいものは捨てて」
そうだ、僕は。僕はそんな煩わしさから逃げてこの江差線に飛び乗ったのだった。僕はふらりと一歩を踏み出しかけた。
だが再び雪野のことを思い出した。部室で彼女の言った言葉。「君が君が逃げなくても良い場所」。どうせ雪野の思いつきで口をついて出ただけの台詞。でもきっと、僕を裏切らない言葉。名前も知らない彼女よりも。
僕は足の裏に力を込め、その場をしっかりと踏みしめて彼女と奥の祠を睨みつけた。次いで雪野の描いたラフ画を広げて見つめる。唐突に天ノ川のイメージが頭に浮かんだ。
「君は、天ノ川」
彼女の顔色が変わり、だがすぐに溜息をついて両手を振った。祠の扉がゆっくりと開くと少しずつ水が流れ始め、そして鳥居を超すと一挙に水嵩が増して僕を押し流していく。
そしてついに僕は意識を喪った。
「臆病でぐずで普段は責任感ばっかり強いくせになんで無謀なことをするかな、君は!」
目が覚めると、泣き腫らした雪野が僕の頭をいきなりスケッチブックで叩いた。母が苦笑いして僕と雪野を眺めている。うちの母親はおっとりしているし、雪野は幼馴染みだからかもしれないけど。いや、それより僕は。僕はどこに寝ているのだろう。
「病室でしょ! 何でも天ノ川駅とかいう変な遺物みたいなとこで寝てたんだから!」
僕は天ノ川駅で寝ていたのだという。そして雪野の話によれば、天ノ川駅は本物の駅ではなく、鉄道マニアが作ったモニュメントのようなものだというのだ。
「何であんな場所に行ったのかな! 取材か何か? 物騒だから私ぐらい連れてけば良いのに! 心配させるなこのバカ!」
本来なら母が叱る場面なのだろうが、雪野が猛烈な勢いで怒鳴るので母の方が抑える側に立っている。僕は弁解しようとして、でも何も言えなくて。
ふと枕元に雪野が描いたあのスケッチがあるのが目に入った。僕は少しだけ迷い、そして短くぼかした形で言った。
「雪野のスケッチがあったから、雪野がいたから僕は助かったのだと思う」
雪野は怪訝な顔をして、次いで頰を赤くしてそっぽを向いて深呼吸した。そしてあらためて僕の方に向き直ると母を横目で見て言う。
「神の国には行かない、ってうわ言を言っていたよ。君は、帰ってきたんだね」
なんだこの恥ずかしい台詞、と雪野は自分に言って口を尖らせ、僕のタブレットを押し付けて言った。
「わかんないけど、何か書いてよ。私が挿絵描くから。今号に間に合わなくても。きっと何か、大事なことだから」
僕はうなずくと、タブレットを開いて江差線に乗る場面を書き始めた。
文芸船 — profile & mail