文芸船

ダブリンの鉄鎖

 私は二杯目のコーヒーを頼んだ。店員は静かに答え、新しく淹れたコーヒーと空になったカップを交換した。十五分早く来てしまっただけなのに私は既に焦っていた。店のドアが開くたびに身を乗り出しては落胆とわずかな安堵を繰り返す。

 時計を見直した。ちょうど約束の時間だ。私はふとこの場を逃げ出したいと感じた。平凡な何も知らない生活を続けるのならば逃げ出すべきであろう。しかし逃げ出すには逡巡が長すぎたようだ。メールの約束どおり、少女漫画を手にして背広を着た男が喫茶店のドアを開けたのだ。

 私が知らぬ顔をしていると、男は私の隣に当然の様子で座って言った。

「あなたも漫画は好きですよね」

 私は彼の目を見てうなずく。途端、彼は目を細めて柔らかい表情に変わり、一枚のデータチップを目の前に示して言った。

「警察による適正化が施されていない、二百年前の日記ですよ」

 本物のデータ闇市商人だ。私は唾を飲み込み、彼がテーブルに置いたサンプルに目を走らせた。間違いない、二百年前の文章そのものだ。私は一旦深呼吸してから彼に尋ねた。

「このデータをどうやって入手した?」

 男はさらに目を細めると耳元で、だが怖いほど落ち着いた声で囁いた。

「東京の六本木ヒルズにあったデータバンクセンターです。個人のデータだったおかげで政府も気づかず抹消されなかったらしい」

 思わず叫びそうになり男に止められる。私は改めて低い声で確認した。

「『禁止廃墟』に入ったのか」

「さすがは語彙学者ですね。『東京』が禁止廃墟だとわかるとは立派なものです」

 不用意に古語を笑いながら話す男に私は恐怖を感じた。しかし男は自分の言葉よりも禁止廃墟そのものを私が恐れたと思ったようだ。

「第三次世界大戦が終結してから百五十年も経ったんですよ。警備も薄い。放射能も影響はなくなっている」

 彼の言葉に私は危険な範囲に関わっていることを改めて実感する。しかし男は気にする様子も無く話を続けた。

「代金の振込みは確認しました。このデータは今日から間違いなくあなたのものです」

 私はうなずくとデータチップを鞄の奥に入れる。男は私を見つめて言った。

「語彙革命以前の混沌をお楽しみ下さい」

 男は立ち上がると、私にコーヒーの代金を押し付け店を出て行った。私は溜息をつき、冷めたコーヒーをゆっくりと飲み干した。


『きっと私、彼のこと、好き、になったんだと思う。それしかわかんない』

 整理不足の文章に、私は感情を表現する語彙を発見できなかった。百年前の文章だとはいえ、あまりに情報が未整理な文章だ。

 私は闇市の男から入手したデータの量を再確認して溜息をつき、手元の語彙辞典を意味もなくめくる。二百年前の辞書と比較すればはるかに薄い辞典だ。その代わり当時の曖昧で誤解を生じる語彙は見られない。

 人間は言葉によって多様な情報を伝達するが、一方で多様であり過ぎるため情報を効率よく整理することは難しい。二十世紀末に始まったコンピュータの爆発的な普及は大量の情報を効率的に整理できるはずだった。しかし、統制はもちろん整理すら満足になされない膨大な情報の山はむしろ、必要な情報を取り出すことを困難にするだけだった。

 一九九四年にアメリカ合衆国のダブリンで開催された会議において、十五個の精選された語彙が決定された。この十五個の語彙、世に言うDublin Coreは、当時広がり始めたばかりだったインターネット上に散らばった情報の整理に少しずつ使われ始めた。その後もschema.orgなど、より実用的で詳細な情報を記述するための語彙が増え利便性は増したものの、所詮は情報についての情報を記述するものであり、概略やつながりだけを説明するだけの、乱暴に言えば辞書の見出しや索引程度の用途としかなりえず、コンピュータの世界の中すら大きく変革するには至らなかった。

 だが、それから五十年後に起きた第三次世界大戦は語彙の統制に政治家や平和運動家の目を向けさせた。二十一世紀初頭から続いた民族間の無理解や歴史に対する違和感、そして身勝手な正義の末に起きた世界大戦の根本的な原因は、当時の国家や市民が互いに思考を交換できなかったせいだと考えたのだ。

 情報の共有は世界全体の課題だった。無数の言語と文化を持つ世界中の国々、民族が平等に、そして正確に意思疎通をする。バベルの塔で分解された諸民族を元通り繋げ直そうという人類共通の野望が誕生したのだ。

 しかし最先端の、人間の代わりに戦争すら遂行できるコンピュータの技術をもってしても、世界中の言語を互いに翻訳することはもちろん、同じ言語ですら社会階層の違いや時代の違いを越えて意思の疎通を可能にすることは不可能だった。だからこそ、新たな統制語彙の概念が生まれた。各国は自らの国内で使用する語彙について精選し、統制された語彙に絞り込むよう国際連合憲章に決定したのだ。これこそが有名な統制語彙革命だ。

 統制語彙革命は同時に数多くの不要な用法を廃止した。それらは凶悪な思考を誘発する不徳の言葉であり、単語であった。表現する単語も用法も廃止することで、そのような行為自体を発想できないようにしたのだ。遂にはその否定されるべき概念と対抗する語彙も失われつつある。例えば「人権侵害」などは侵害行為の徹底した取締りの結果無意味化した、代表的な語彙であろう。

 統制語彙革命が起きた百五十年前の当時、「表現の自由」という言葉が多く書かれたようだが、現在は意味自体が既に廃止されて存在しない。さらに言おう。表現の自由という言葉の下、何ら整理されない言葉で再び戦争への道を開くのならそれは無用な自由だ。君は窃盗の自由や殺人の自由という言葉を受け入れるだろうか。それと同じことだ。

 そして私は今、統制語彙革命以前の文書を眺めている。既に紙媒体の文字情報は第三次世界大戦の戦火で喪われたか、政府によって回収されどこかに封印されている。残すことになった文書も警察の手によって『適正化』と称して統制語彙で書き直されているのだ。統制語彙が崩壊し、意味不明の語彙で意思疎通が阻害され、再び戦争を起こす者が現れることは人類に対する犯罪だからだ。もちろん「戦争を起こす」という用法は廃止されたのだから、このような言い回しを思いつくのは私のような語彙学者ぐらいなものだろうが。

 だが私は、二百年前にインターネット上で個人が公開していた日記のデータを入手したのだ。そんなデータを閲覧すること自体、危険な行為であることはわかっている。だがそれ以上に、統制語彙もない出鱈目な語彙で未発達な意思疎通を行っていた当時の人間たちに興味を抱いたのだ。

 私はもう少し読み進めることにした。

『で、この間、恋文、って言葉見っけた。なんかこれ、音がイイ。そんなこんなで、今日から恋文日記、始めます。』

 自らの恋愛感情を毎日記録するサイトのようだ。読み進める前にふと、私は自分の恋人について思い出した。暫く連絡を怠ったままだ。私はコンピュータの電源を切ると自宅に戻ることにした。


「君はまだ『愛している』と言わないね」

 清美は私に厳しい言葉を発した。私は小さく唸り、好きだ、と続ける。しかし彼女は感情の動きを見せずに続けた。

「『好き』のレベルは既に一年以上続いているの。もう『愛している』のレベルに移行しても良いと思うのだけど」

 そう言われても、私にはまだ多様な責任を持つレベルに達していない。私が小さい声で言い返すと、彼女は少し怒った顔で言った。

「君が語彙学を学んでいるから、語彙の扱いに平均より敏感なことは知っているよ。でもここまで『愛している』のレベルかどうか厳格に判定しなくても良いと思うんだけど」

 君は二百年前の人間か。言い返しそうになって止める。感情の起伏が大きくなると表現する語彙が不足して苛立つだけだ。二百年前にあの文章を書いた女性であったなら、このような場合にどう考えるのだろうか。どんな言葉を発したのだろうか。

 考え込むと、清美は私の鼻を摘んで言う。

「まさか君、他に好きな人がいる?」

 何を言う。さすがに反論すると、彼女は睨みつけながら言った。

「『好き』は複数相手が可能な語彙、『愛している』は一人相手の語彙でしょう」

 それは、と言って黙り込む。清美とは大学時代に知り合った仲だ。彼女は法学部にいたのだが、私と付き合ったせいで語彙法を専攻に選んだため、語彙の扱いについてわりと細かい部分まで知っている。ここまで正確に疲れると私は黙り込むしかない。

 彼女は溜息をついて私を眺めた。

「君は最近、奇妙なデータを見ているようだけど、何をしているの?」

 なぜそのことを知っている。そういえば私は独り言を言う癖があったか。だが彼女はすぐに興味を失ったらしく、手を振って言った。

「君は『好き』と言っていれば安心しているようだけれど、それなら私も君に『愛している』とは言わないからね」

 厳しい宣告に私は溜息をつく。恋愛はレベル調整が本当に面倒だ。


『彼は良い人だと思う。優しいし。でも好きとか愛してるとか、そういうのって、はっきり言っちゃうのはまだ怖い』

 恋文日記の文章に私は再び首を傾げる。好きか嫌いか、言葉にしなければ正確な意思疎通は出来ないにも関わらず、奇妙なことにこの著者は満足している。書いている内容も、「でも」「だって」「何となく」という明確性のない単語ばかりで埋め尽くされ、具体的に何を表現したいのか不明だ。いや、単なる接続詞ばかりで抽象概念があるはずもない。

 それでもこの日記を読み進めることを私は止められないのだ。言語では表現できない感情がある。言語に変えられない、意思疎通できない感情など混乱の元でしかないはずなのになぜか読むことを止められない。

『なんて言うか、って言うか言葉になんないわけです。だからしょうがないし、ネットの上で好き、って書くと少し安心するわけ。日記読んでくれてる人、わかってくれるかな』

 この行に到達したとき、私は危険なものに触れた気がした。私は「なんて言うか」をわかった気がしたのだ。何も書かれていないはずの、この女性の当時抱いていた感情を直接に感じ取ったように思ったのだ。

 いや、錯覚に違いない。明確な言葉にしない表現が、これまでの人類の歴史の中でどれほどの誤解と争いを生んだものか。古い文章の読みすぎで、二百年前の人間に毒されてきたのかもしれない。

 私は気分転換のためテレビのスイッチを入れた。ちょうどニュースが放送されていた。

 語彙革命以前にあった差別語と言われる複数の単語をTシャツのデザインに使った男が逮捕されたらしい。男は差別語自体何かわからないで使ったらしいが、禁止は禁止だ。差別語は麻薬に似ており、使い始めると一瞬で蔓延してしまう上、大戦時に各国で敵国を攻撃するためによく用いられたものだ。徹底して取り締まる必要があるのだ。

 画面にTシャツが映っている。だが問題の単語には隠されていて見ることはできない。犯罪になる単語を放送出来るわけがない。話によれば、昔は放送禁止用語などと手ぬるいことを言っていたようだが、現代から見れば何という偽善だろうか。

 犯人の顔を眺めながら、やはり凶悪な容貌だと思う。危険な言葉を口にし、それどころか印刷して販売するだけのことはある。

 私はテレビのスイッチを切り、再び日記を読み始めた。

『今日、喧嘩した。別れる、って怒鳴った。もうバイバイ。って思ったけど結局彼から電話がきた。本気じゃないだろ、勘弁してくれだって。少しナメてるけど、どうしよっか』

 相変わらず数行読むだけで肩の凝る文章だ。だが再び彼女の苛立ちと、奇妙なことに矛盾した喜びを読み取れた。どこに書いてあるのだ? 私は精神に異常を来したのだろうか。

『日記ってコワイ。読み返すとけっこうなんか、自分の気持ち、書いちゃってるんだよね。ってか、行間を読むってやつ? いちおー私もこういう言葉知ってたりするんだなー』

 行間を読む? 全くわからない表現だ。闇市で入手した二百年前の辞書データを開いて検索すると、基礎的な単語の中に、平凡な単語として見つかった。

『文章の中に直接に書くことなしに表現された感情』

 私は衝撃を受けた。このような概念が当時はあったのか。行間、と私は口にしてみる。日記を遡って眺めてみる。なぜ彼女の感情がわかると感じたのか、その違和感の原因が理解できた。私は行間を読ませられていたのだ。現代の文章には絶えて存在しない技法を、ただの平凡な女性が駆使していたというのか。この統制されない乱雑な言葉の中で。

 私は清美のことを思い出した。私が彼女に対して『好き』『愛している』を明確にできないのはなぜなのか。もしこの日記の女性と語り合うことが出来たなら、きっと私の疑問を笑ってしまうのではないだろうか。

 統制語彙革命は標準的な意思疎通を確実なものにした。それは間違いない。しかし、私たちから何かを奪ったのだろうか。頭痛がする。私は何を求めているのか。何を言いたいのか。語彙が足りない。

 私は不自由だ。


「君は少し休んだ方が良いと思う」

 逢って早々、清美は真剣な表情で私に告げた。私はそんな暇は無いと言い切る。しかし清美はさらに言い返した。

「さっきから君の言っていることはおかしいよ。もっと言えば、口に出さないで何かを伝えようとしたり、絶対おかしいよ」

 そうだろうか。私は呟く。おかしいのは私の方だろうか。

 清美は私の言葉に強く反応した。

「私の方がおかしいということ? それはないよ。やっぱり変な文献、止めた方が良いよ」

 私は彼女の言葉に反発を感じた。あの文書は素晴らしい。今の時代がおかしいのだ。私はあの日記の女性を思い浮かべながら、私の気持ちを清美に伝えようと試みた。

「私は『好き』『愛している』以外にも色々な言葉が必要だと思う。大事だ、とか他にも色々と言い方があるのだと思う」

 清美は、物でもあるまいし、と言って眉をひそめる。そうだ、清美が浮かべた表情。これも言葉なのだ。互いの表現なのだ。

「私は君のことを何と言うかさ」

 清美は期待を込めた視線を私に向けた。私は普段の統制語彙を超え、最近研究していた言葉を拾い上げた。

「そう、好きで、大事で、愛していて、それでもっと言葉にできないような、そんな気持ちなんだ」

 清美は真剣な顔で身を引いた。だが、私は言葉を止められなかった。

「もっと、もっと自由に表現したいんだよ」

「君、何を言ってるかわかっているの!」

 清美は焦った表情で周囲を見回しながら私の口を押さえようとする。だが、私はそれを振り払って公道に飛び出すと叫んだ。

「もっと表現の自由を!」

 途端、私は初めて経験する高揚を感じた。締めていたベルトを緩めたときの開放感に似た、拠所のない浮遊感が私を興奮させた。

 清美は恐怖に引きつった顔で道路の向こうに逃げ去った。通りの人も緊張した表情で一斉に私を見つめている。その彼ら全員が、私の目には単なる模造物としか映らなかった。店の軒先に付けられた語彙監視マイクも、今手にしたばかりの自由を味わってしまえば何ら恐ろしいものではなかった。だからこそ、私は再び大きく叫んだ。

「もっと表現の自由を!」

 パトカーが急ブレーキで停止し、駆け下りた警官が私の周囲を取り囲んだ。全員が語彙取締官の徽章を着けている。私は開放感を知らない、不自由に気づいていない彼らを不憫に思った。だから改めて彼らに向けて叫ぶ。

「もっと、表現の自由を!」

 若い警官が銃を構え、発言を止めるよう叫ぶ。それでも私は構わず繰り返し叫び続ける。警官が血走った目で銃の引き金を引いた。

文芸船profile & mail