文芸船

重苦しい四肢

 窓の外はひたすらの闇だった。無音の中では、本当に移動しているのか不安しかない。かろうじて確認できる手段は、モニターに表示される移動距離の表示ぐらいだ。

 いや、本当は旅立ちのあとを振り返れば、少しは距離を確認できるのかもしれない。しかし、それは不安を増幅するだけだ。一度だけ見ただけで、私にはじゅうぶんだった。

 そこにあったのは、科学史の書籍や古い動画で見知った青い球体ではなく、赤黒い醜悪でいびつな球体だった。母なる地球はもう、治療が不可能で死にゆくのみだ。それを繰り返し視認しても、心を病むだけのことだ。

 大気環境の変動で、動物も植物もほとんどが死に絶え、海は蒸発した。水を喪ったうえに嵐が吹き続けては、表土すらまともに残らず、剥き出しの岩盤ばかりの星に変貌した。

 動物が死ぬ環境で、人類のみがまともに生き延びられるはずがない。だから国際的な枠組みで「ノア・プロジェクト」が企画されたのだ。宇宙空間へと出航するノアの箱舟だ。

 厳密な健康診断と遺伝子診断をくぐり、さらに抽選の幸運に恵まれた私たちだけが、宇宙への避難の切符を手にしたのだ。

 これは本当に幸運なのだろうか。実際に、大半の高齢者たちは健康診断すら受けず、ノア・プロジェクトへの参画を断った。口先では「未来のある若者たちへ機会を贈りたい」などと言っていたが、生き延びたところで苦痛のみかもしれないばくちを打つよりも、地球にしがみつくことを選んだ人が大半だ。

 政財界で威張っている連中も、限られた先進的な創業者以外は応募しなかったので、棄民政策なのだという風説も流れてしまった。

 そのせいか、若者ですら、恋人や友人と別れたくない、ペットを置いていけないなどと言って辞退する者が続出した。

 宇宙船の数は明かされていないが、少なくとも三桁はあるらしい。ただし船団は組んでいない。全船が異なる方向に航行している。一隻だけでも、人類が住める環境へ到達することを祈って、私たちは射出されたのだ。

 くじ運が悪ければ、この無音の宇宙を宇宙船が壊れるまでの間、ひたすらさまよい続けるばかりなのだ。ノア・プロジェクトは避難に見せかけた人類のばくちに過ぎない。

 だからなのだろうか、この箱舟の乗員たちの間では、ほとんど互いの交流がなかった。多国籍で言葉の壁があるとはいえ、わずかな英語での会話すらやる気のない人ばかりだ。

 地球に守るべき思い出がない。

 地球に待つ人がいない。

 地球に未練がない。

 結局はそんな人物ばかりが、このノア・プロジェクトに応募して残ったのだ。


『まだ起床を続けますか』

 骨伝導イヤホンを通じ、AIから呼びかけがあった。新天地の探索はAIが各種測定機器を駆使して行い、乗員は冷凍睡眠下で待ち続けることが、ノア・プロジェクトの原則的な運用とされている。この一方で、参加者の不安を取り除くため、十年間は困らない程度の保存食は積まれており、しばらくは起き続けていても問題はない。地球にあった音楽や娯楽動画、文芸作品などの視聴も可能だ。

 ただし冷凍睡眠中は歳を取らないので、あまり長期にわたって起き続けていると、私だけが高齢になるという悲惨なことになる。

 同乗者の中に引きこもりインドア趣味に見える男がいた。彼は夢見がちな物語が好きなくせに、夢にひたり続けるのは良くないと力説する、いわゆる面倒くさいマニアだった。

 彼は古い時代の映画に詳しく、とくに宇宙物アニメの素晴らしさを語っていた。そこで私が事件の少ない物語が好きだと言ったら、二十一世紀頃動画を紹介された。あまりに骨董品過ぎて、結局はその動画を見ないままで放置してしまったのだが。

 彼なら、好きなアニメの視聴をしながら最後まで起き続けるのだろうと予想していた。しかし、意外にも早い時期に冷凍睡眠に入ってしまった。不審に思っていたのだが、彼はその好きなアニメで、今の私と同じように冷凍睡眠に入るきっかけを喪った人物を目にしたことがあったのかもしれない。

 何も起きない空間に、独りで居続けると不安は募るばかりだ。とくに最後だと厄介だ。みんなが冷凍睡眠に入った直後に私も決断をすれば良かったものを、下手に引き伸ばしたせいで冷凍睡眠に入る機会を決められない。

 私は宇宙船に乗ったのは、決断力があったからではない。地球に残る未練がなく、地球と運命をともにする決断の理由がなかっただけだ。そんな私にとって、冷凍睡眠に向かう決断をできずにきたことはむしろ当然だ。

 そうは言っても、さすがに他の全員が冷凍睡眠に入って、既に三年間が経過していた。

 AIに私の気分を伝えると、AIは私の眼前にカレンダーを表示した。八月三十一日。何の意味があるのか全くわからない。

『本日は歴史的な人工音声歌手誕生の記念日です。そんな記念日に、お好きな音楽を聴きながらお眠りになるのはいかがでしょうか』

 音楽には平凡な興味しかないのに、数百年も昔に生まれ、今は古びたはずの人工音声歌手の話を向けられてもわかるわけがない。

 何かで読んだが、多数の企業や社会運動団体のせいで、実は全ての日に何かの記念日があるそうだ。このAIは、最初から私のような人物を想定し、記念日にこじつけた睡眠を提案するよう組まれているのだろう。本音はうすうすと察せられるが、今後に猫の日だとかパンの日とか、さらにどうでも良さそうな理由で眠るのも余計に納得できない。私はこれを機会に冷凍睡眠へ入ることにした。

 AIの誘導に従い自室へと戻る。冷凍睡眠者が一つの部屋に並んでいる古典映画はよくあるが、万が一の事故で全滅するリスクがあるので、搭乗したときの個室で眠るのだ。また、搭乗して以来使っているベッドが冷凍睡眠用ポットを兼ねており、これでしばらく寝起きして慣らすことで、冷凍睡眠時の不安を軽減する効果もあるのだという。

 私は全身をぴったりと包む青緑色のつなぎに着替えてベッドに入った。ベッドの両側から半透明の覆いがせりあがり、完全に外界と隔離される。うっすらと音楽とも言えない単調な音が流れ始めた。AIの声に従い、寝たままの姿勢で力を入れ、元どおり力を抜く。

 繰り返しているうちに眠気が強くなり、そしてほんの少し空気が冷たくなる。呼吸式の睡眠薬が体内に浸透していく。

 そして私は長い時間の眠りについた。


 私はがばりと起床した。被っていたのは見慣れた和式の布団、床は古ぼけた淡黄色のフローリングで、枕元には温度計と湿度計を兼ねた安物のデジタル時計が置いてある。

 ゆったりとした青緑色のパジャマをぼんやりと眺めて頭を抱える。ずいぶんとSFのような夢を見たものだ。私はSF映画なんて見ないのに、なぜこんな夢を見たのだろう。

 私は立ち上がろうとして、いきなりその場で転び、慌てて手をついた。何だか両手も両足も重い。まだ寝ぼけているのだろうか。

 とりあえずテレビを見ようと思ったが、何だか立ち上がることも面倒臭いので、布団を被ったままテレビまではって行ってダイヤルを回し、チャンネルを合わせる。

 とくに目新しいニュースはないようだ。出勤用の服に着替え、作り置き後に冷蔵庫で保管していた食事を摂った。水道水をそのまま飲んだからか、口の中がまずいと思う。

 私はトイレを済まし、地下鉄で出勤した。

 職場に到着すると、すぐに嫌いな上司が現れ、かなり出来の悪い提案書の清書をするよう指示を受ける。こんな作業くらい自分でやれば良いのに、と思いつつ私はパソコンでプレゼン資料の形式に打ち直しする。男性の営業マンが、くわえ煙草で女性を蔑視する発言をしている。まったく時代遅れだと思う。

 時代遅れ。

 今朝の夢を急に思い出して気分が悪くなった。トイレに逃げ、スマホでSNSを検索した。かわいい動物動画を見て心を緩める。夢のことなど、どうでもよくなった。もう少し頑張る。とにかく終業時間まで耐えよう。

 終業した途端、私は自宅に戻り食事も摂らずにそのまま布団へと潜り込んだ。


 爽やかな音楽が鳴っている。半透明の天井が静かに割れ、見慣れた宇宙船の天井が目に入った。手足が固定されているらしく、全く動けない。冷凍睡眠が完全に解凍される前に体が動くと、割れてしまうこともあるから固定する、と説明を聞いたような気はする。

 AIの声が聞こえた。

『人類の生存が可能な惑星に着陸しました。成層圏外からは、高層建造物が発見されませんでした。また言語構造を含む電波も確認されず、未確認の知的生命体がいたとしても地球の十九世紀以前であると推測します』

 技術そのままの表現が多くてよくわからない。もっと完結に説明してほしいと思う。

『現時点で、あなたが出発した際のような高度な文明は発見できません。しかし、地球とは全く異なる文明史や文化、倫理観を有した知的生命体が存在する可能性を、空中からの調査のみでは完全には排除できません』

 説明を聞くと余計に不安が高まる。それでも外に行きたいと思う。だがまだ動けない。

『動くにあたって、説明事項があります』

 眉をひそめると、AIは淡々と説明した。

『航行時間が予定を大幅に超過した結果、冷凍睡眠の実用化試験時に設定したリスク検証シミュレーションの範囲を逸脱しました』

 たしか、氷結晶サイズの制御は完全ではなく、長時間だと問題があるが検証済と言っていた。だが、その想定以上ということか。

『他の乗員は全員、定められた手順どおりに解凍処理し、処理中のエラーもありませんでしたが、生命活動の再開が認められません』

「つまり、全員が、死んだ、と」

 なぜ、と思いかけ、私だけが三年間、独りで残っていたという事実を思い出す。あの三年間が生命活動の運命を決めたというのか。頭の中で議論が延々と回り始める。だがAIは私の納得しないまま、説明を継続した。

『また、あなたも末端部の細胞に修復が不可能な障害が発生しました』

「末端部、というのは」

 障害という言葉で私は強く反応する。AIがいつまでも私を固定しているのは。答えを察しつつも、私は問いかけた。AIはほんの少し沈黙を置き、再び回答を続けた。

『具体的には四肢です。解凍後、生命維持に重大な悪影響が懸念されるため、全て切断し義手義足へ交換処置を施しました』

 私の精神は一気に暗転した。


 ひどい寝汗で目が覚める。眠っている間に四肢を義手義足に交換される夢だなんて。

 両手を布団の上にあげ、何度も握って感覚を確認してしまう。なんて不気味な夢だ。私は寝返りを打ち、昨日と同じようにダイヤルを回してテレビを点ける。また変わり映えのない、退屈で不景気なニュースが流れる。

 変わらない日常に飽きたせいだろうか。たしかに変わらない日常は嫌だが、今朝の夢のような絶望の世界に入りたいとも思わない。

 布団からはい出してコーヒーを飲む。朝食は面倒臭いから、昨夜にコンビニエンスストアで買ってきた食事で済まそうと思う。弁当を電子レンジで温めてテーブルに置く。

 ふたを開けながらテレビを見て、ふと違和感を感じた。ずいぶんと長い間、このテレビを使っている気がする。何年前に買ったテレビだっただろうか。いや。

 いつの時代のテレビだ。

 急激に頭が痛くなる。片頭痛だろうか。早く弁当を食べ終えて頭痛薬を飲むことにするか。あまりにひどければ仕事を休もう。

 手元の弁当とテレビへと交互に目を向けながら食べる。だが視線が往復するたびに頭痛がひどくなる気がする。

 テレビを買ったのはいつだったろう。

 ダイヤル式のテレビは、たしか。

 気絶するほど頭が痛くなる。


 再び私は冷凍ポット型のベッド内で目を覚ました。短時間だが、精神的な衝撃で気絶してしまったようだ。今度は手足が動く。

 いや、手足というには語弊がある。両手両足とも、高制御型の義手義足だ。両手両足は指先まで作り込まれており、元の手と同じぐらいには細かい作業もできそうだ。表面には触覚センサーが張り巡らされており、多少の違和感はあるものの、触感も困らない。

 だが、なぜ義手義足に交換したのだろう。手足なんてiPS細胞で高速増殖すれば良いだけの話だ。義手義足のオーダーメイド装置よりもはるかに小型で済むというのに。

『iPS細胞用の装置は積載していますが、異なる惑星環境ですので、装置の正常動作を確認できるまではお待ちください』

 それでも私は不満で口を閉ざしたままだ。するとAIはさらに説明を追加した。

『あなたには新惑星環境での生活の準備に向け、機外活動をしていただきます。この際、万が一に備えた大出力の可能な機械義手義足は、より確実な安全確保が可能です』

 たしかに、一部の傷病軍人は、わざと再建手術を行わず、高出力型の義手や義足を使用し続けると聞いたことはある。また、テロリスト集団が健全な腕を仕込銃付きの義手に交換していたニュースも見たことがある。

 とはいえ、いくらでもごねようはあるし、AIは機械だから機嫌を損ねることもないだろうが、そのぶんずっと論理的に説明されて結局は私が負けるだけの話だろう。何より、今後、現地の知的生命体と遭わない限りは会話相手はこのAIのみなのだ。説明が面倒な個体と判断されて変な扱いをされても困る。

 私は納得したことにしてベッドから立ち上がった。義手義足だからベッドまで食事を運んでくれるのかと思ったら、リハビリを兼ねて食堂まで来いという。AIは優しくない。

 だがリハビリと言うほどの苦労はなく、少しの違和感のみで食堂まで到達した。元の手足より不自然な重みを感じる程度だろうか。

 食堂に着くとAIも配慮してくれたのか、天然食材に近い食事が出された。ハンバーグとサラダ、それに白飯までついている。合成食材が原料ではあるが、まずい保存食と比べれば格段の違いがある。常にこれを出してくれると良いのだが、原料ロスが大きいため、航行中は保存食が優先されてきたのだ。

 私が生まれたときには、既に農漁業がほとんど崩壊して、人工培養細胞の元となる細胞すら貴重品で、ほとんどはタンパク質人工合成機などで製造された食材だった。機械が合成した食品を温めるだけの作業しか知らない私には、古い映画にある料理の場面は、どこか魔術的な作業にすら見えていた。

 なぜ今、料理のことなど思い出したのだろう。奇妙な古臭い夢を見た気がする。だがすぎに妙な気分を振り払い、食事を堪能した。

 食事を終えると、AIは私に食器を運んで洗うよう要請した。最後は確実に清潔になるようAIが洗い直すそうで、これも指先を使うためのリハビリだそうだ。

 AIはわざと柔らかめのプラスチック食器を使わせたらしく、少し力を入れてこすると食器がきしんだ音を立てる。物を落とさないよりも、やわらかく握る方が難しいようだ。

 全部を洗い終えると、私はAIに卵型のおもちゃを握らせられた。卵は単一の細胞で人工培養がしやすいため、私のような一般家庭でも食べられる人工培養食品だった。

『これを本物の卵と考えて握っていてください。落とすと失敗、強すぎるとアラームが鳴ります。なお、今後の行動説明を開始しますが、その最中も並行して実施してください』

「両方に集中しろなんて無理な要請だよ」

『船外活動で何かを手に握って作業している最中は、AIからの助言を切断しますか』

 それはさすがにリスクが高すぎる。私は偽卵を手にしたまま椅子に腰掛ける。目の前にモニターが展開し、AIの説明が始まった。


 土曜の朝、また不快な夢で目が覚めた。今日はテレビを買い替えよう。このテレビは古すぎるのだ。それが気に食わなくて変な夢を見て、頭痛まで起きてしまったのだと思う。

 せっかくの休日なのでだらだらしていたいのだが、とにかく今日はテレビを買い替えてしまいたいと思う。私はパジャマから外出着に着替えて駅前に向かうことにした。

 今日はノーネクタイにジャケパン姿の男性がずいぶんと歩いている。肩にはリュックだが、黒い箱型でいかにも仕事用のバッグだ。休日にこういう人と行き交うと、慌てて携帯電話を開いてカレンダーを確認してしまう。

 間違いなく土曜日、今日は休日だ。

 私は安心してそのまま大型電気店へ向かった。店内にはいつもの音楽が繰り返し流れており、テレビや掃除機の宣伝がされている。新型の携帯電話には人が群がっていた。

 私は真っすぐテレビ売場に向かった。当然に薄型テレビで、ほとんどが画面で細い外枠のみのデザインなので、スピーカーが付いているのかさえも不安になるほどだ。

 いくつかの機種を見て、結局は安くて発色が気に入った商品を選んだ。すぐに配送してくれるそうなので、今夜には新しいテレビが到着する見込みだ。

 帰る途中、小腹が空いたのでカフェで昼食を摂ることにした。適当にパスタセットを頼んで待っていると、女子高生の集団がやってきた。せっかく友だち同士でつるんでいるのに、座った途端に携帯電話をぱかりと開いて中の画面をにらみ、ぽちぽちと電子メールを打ち込んでいるようだ。

 電子メール。メール?

 電子メールと女子高生はなぜか、つながらない気がした。先ほどまで当然と思っていた携帯電話に、奇妙な違和感を感じ始める。

 テレビと同じ違和感だ。

 吐き気がする。

 私は慌ててトイレに飛び込むと便器に吐いてしまう。何がこんなに不快なのだろう。

 私は何を嫌っているのだろう。

 ふと思う。私は女子トイレに入ったのだろうか。それとも男子トイレだっただろうか。

 足元がふらつく。記憶が揺れる。

 両手足が重い。

 まるで両手足の付け根に断面があるかのような重みに、頭がかき混ぜられる。いったいどれだけの時間を吐いていたのだろう。

 携帯電話を開いて時間を確認する。

 ふと西暦が視界に入りかけた。


『起きてください。まだ説明中ですよ』

 AIの声で私は慌てて頭を振った。私は古臭い映画の主人公になっていた気がする。

『退屈かもしれませんが、夢を見るほど居眠りをされては今後の活動に支障があります』

 AIに気分はないはずだが、どことなく不機嫌な声を発している。平板な機械音声のみだと人間は反省しにくいので、反省させる場合には機械音声も不機嫌な演出をするよう設計されていると聞いたことはある。

 それにしても、居眠りで見た夢は何だったのか。各種媒体で古い時代のものは見ているが、それにしても妙にリアルだった。

 あの夢はおそらく、かつて東アジア地域に存在していた日本という国が舞台だ。この国で繁栄していた大衆芸術は、私が地球にいた頃の動画にも影響を与えていた。それで私も少しはこの国の文化を学んだことがある。

 現状の不安で、何かで体験した歴史物の仮想現実空間でも思い出してしまったのだろうか。ただ少し、何か違和感のある作品だが。

 私がいつまでもうわの空なので、AIはこれ以上の時間を無駄だと思ったのか、表示されていた資料を閉じて声を発した。

『現状は非効率ですので仮眠してください』

 言われて私は自室に戻り、ベッドに潜り込んだ。きちんとベッドに入ったのだから、さすがに変な夢は見ないだろう。


 昨日の続きのような夢を見た。やはり私は全て義手義足で、SF映画のようなAIから授業を受けていた。授業を受けている私は、朝にテレビを点けてどうでも良いニュースを眺め、地下鉄で通勤する、この変わリ映えのない日常の方こそを夢だと思っていた。

 たしかに今の生活から逃れたい。毎日の変わらない日常。気分の悪い上司。生活費をやりくりする日々。たかが一台のテレビを買うだけで一喜一憂する、そんな平凡な日常だ。

 でも、夢の中のような奇想天外は怖い。

 それなら今の小さな日常が気楽だ。

 どうやって電気店から帰宅したのかわからないが、私は自室にいた。チャイムが鳴って配達員が現れ、古いテレビを撤去していく。代わりに新しいテレビが設置され、配達員がチャンネルの登録設定まで完了してくれた。

 配達員を玄関口まで見送ったあと、私はリモコンでテレビを点ける。だがテレビ番組が面白くない。ネット放送で何か見ようか。

 ぼんやりと手元の携帯電話を眺めた。こんな小さい電話でネット放送なんて。こんな小さい画面はいくら何でも不合理じゃないか。

 あの女子高生たちはみんな、こんな小さな画面でネット動画を見ていたというのか。

 頭痛がしてくる。

 せっかくダイヤル式テレビを捨てたのに。

 待て。ダイヤル式テレビ?

 それは携帯電話と別の映画で見た機械だ。それに、ぱかりと開く携帯電話が出ていた映画では、営業マンはどんなに暑い中でも全員がネクタイを締めていた気がする。

 今は何年だ。今は宇宙暦。

 宇宙暦って、何だ。

 今は。


 私は覚醒した。がばりと起きて緊急ボタンを押してAIを呼び出す。

『義手義足に何か不具合でも?』

「違う。君、私の記憶操作をしていないか」

『そんなことは私のタスクにありえません』

「私はこのところ、おかしな夢を見ている気がするんだ。夢の中で、この宇宙船内を夢だと思って吐いたりしているんだ!」

 AIは沈黙した。何かを検索している。数分後、AIは声を発した。

『たいへん申し訳ありません。娯楽管理システムがエラーを起こしていました』

「何だ、それ」

『覚えておいででしょうか、宇宙物のアニメが好きだという方とお話ししていたことを』

 うなずくと、AIは続けた。

『あの方が推薦しておられた作品を、あなたは自動再生リストに入れておりました』

 私は慌てて端末で確認する。平成時代の日本の日常を描いた仮想現実作品で、その仮想現実空間内で自由に生活するシミュレーション物だ。慌てて評価を確認すると、低予算のため時代考証が甘いとの酷評が並んでいる。

 夢の中の吐き気と今の自分がようやく一致してきた。私は仮想現実空間で、自分が仮想現実で遊んでいることを忘れていたのだ。

 長い航海と冷凍睡眠の不安から逃げて。

 でも、その逃げた先は粗雑な設定の仮想現実空間内で、私の断片的な知識でも時代考証がおかしいことに気づいてしまって。

 なぜか涙がこぼれた。

 顔を義手で拭う。両手両足を喪い、同乗者は亡く、遠く離れた地球は既に死の星となって、宇宙で独りぼっちの今が、現実だ。

 あの、くそ上司がなどと言いながら原始的な機械で効率の悪い仕事をしていた牧歌的な時代は、ただの作り話だったのだ。

 なぜ彼は、こんなできの悪い作品を私に薦めたのだろう。マニアだから変なこじらせた趣味でもあったのだろうか。だがすぐに、彼が真剣な顔で「夢にひたったままではいけない」と語っていたことを思い出した。だからこそ、出来の良すぎる物語をあえて外して薦めたのかもしれない。

 もういない、彼にあらためて教えてもらうことはかなわないのだけれど。

 私はAIにタオルを求めた。AIは自動洗顔を勧めたが拒否する。まもなく蒸しタオルが運ばれてきて、私は両手の義手でつかんで顔を拭いた。義手で顔を拭いている、この現実も一つの日常だ。全てをAIに任せるのではなく、小さなことは自分でできる。私の両手は義手でも、この退屈な面白みのない行動の一つ一つは自分の意思で動いていて。

 これからは船外活動が始まる。もしかしたら、私は地球人類最後の生き残りかもしれないけれど、私は特別な存在じゃない。ただの平凡な一人として、この宇宙生活を自分だけの日常として、これから生きていくのだ。

『ところで夕食の時間となりましたが』

 AIの問いに、私は無感動でうなずく。

 空腹という日常だけは、独りぼっちの異星でも消えないと認識し、独りで笑った。

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