文芸船

偽りの王冠

 あ、と私は苦痛の声をあげ、納豆を練る手を止めた。納豆特有の鼻をつく臭いと糸引きが気持ち悪い。陶器に盛った白い穀物に焼いただけの赤い魚、塩漬の豆を腐らせて絞った黒い汁に生魚の切身をつけて食べるとは、何と野蛮なことだろう。私、エフェルガンド王国の聖姫たるメイ姫に何という仕打ちを。

 いやちょっと待って。私はぐらつく頭を抱えて立ち上がった。

「芽衣、どうしたの? 顔色が悪いけれど」

「ごめん。ご飯はいらないから部屋に戻る」

「風邪なら体温を計って、あと薬も飲んで」

「うん、とりあえずちょっと寝るね」

 私はお母さんになるべく短く答えを返し、慌てて二階にある自室へと駆け上がった。扉を開けて部屋に入る。

 デジタル式目覚まし時計、クレーンゲームで取ったクマのぬいぐるみ、小中学校の卒業アルバム、お母さんが買ってくれた新型スマホ、ホームセンターで買ったベッド。どれもが見慣れた私の部屋。

 太陽魔法駆動型の柱時計、有力貴族から献上された黒檀製の太陽神像、革張りの太陽神聖儀式書、父王よりいただいた白銀の魔法聖杖、天鵞絨天蓋付きの空色のベッド。どれもがない見知らぬ小屋。

 記憶が二重になっている。深呼吸して、自分の履歴を頭に浮かべてみる。

 私は山口芽衣、地方の進学校の高校二年、理系はほぼ壊滅の文系学生。ほどほどの私大に進学できれば十分の平凡な女子高生。

 私はメイ・エフェルガンド。王国の姫にして、武術はほぼ壊滅の聖魔法術師。父王の支えになりたい慎ましやかな普通の姫。

 駄目だ私は誰なんだ。叫びたいのを堪えつつ机に手を置く。今、私が手を置いているのは学習机。後ろに倒れ込めばホームセンターで買ったベッドと、同じ店の年末売り尽くしセールで買った三点セットの中綿総ポリエステルの安布団。そう、私の周りにあるものは全てが山口芽衣のもの。だから私は山口芽衣だ。私は山口芽衣だ。

 当然ですわ。私、魔王の侵略からエフェルガンドを護らんがため禁呪により魔王を打ち倒し、その呪法により転生したのですから。

 そっか私、転生したのかなるほど。

「って、どこの超キモオタ向けファンタジー脳だっつーの!」

 私はベッドの脇に座っているクマのぬいぐるみを壁に叩きつけた。いやいやいやいや、ないから! 私ほら、オタク男子の深夜アニメ談義とか顔をしかめているグループだし。ちょっとスマホゲームぐらい触ったことはあるけれど、露出が多いアニメ絵の女子とか勘弁な方だし。

 でも頭の中には魔法陣を描き呪文を唱え魔王に対峙する姫としての記憶が焼きついている。焼け落ちる家々の熱風、濁流に押し流される王国の近衛騎士たち、寵馬ユニコーンのフェリアの優しい瞳。父王が魔獣に取り囲まれる絶望。

 何、これ。

 今もしかして夢を見ている。そうだ夢だ。でも頬や足を叩くと痛みがあり、教科書や物に触れた感覚が夢だとは思えない。そうだバーチャル。最近流行りのバーチャルリアリティのゲームをやって、それが記憶にこびりついて。

 そんなはずはない。石礫の痛みや砂埃の苦しい呼吸、魔王軍の胸に込み上がる汚物の臭気までも明確な記憶がある。悪臭まで再現するバーチャルなんてあったら、クラスのオタク男子がスマホゲームなんかに課金してないでそっちにはまるに決まっている。

 私は。

 私は頭がおかしくなったのだろうか。

 自分の体を抱きしめて震える。震えつつも少しずつ、転生したという記憶のせいか山口芽衣としての感情や実感が勝ち始める。震える手でスマホを操作してメッセージアプリで友だちのリストを眺める。みんなに話して。

 駄目だ。

 こんなキモオタみたいな話をしたら、みんなが私から離れてしまう。女子高生の友情なんてそんな甘いもんじゃない。

 でもこんな話、お母さんに言ったら。

 心配するお母さんの顔が思い浮かぶ。そして心の病とか病院とかいう言葉がちらつく。いやだ怖い。無理。絶対に無理だから。

 誰か。誰かいないか。

 アプリを無為に動かしていき、一人の名前で指先が止まった。

 佐川聡太。学年トップ入学でそのまま二年生一学期中間試験までトップ独走の男子。ただし頭は良いけど紙一重で、幽霊部員しかいなくなっていた文芸部を乗っ取ってアニメ同好会化してしまった変なオタク男。見た目もちょいぽちゃで私よりチビときた。

 何でそんな奴の名前がアプリに入っているかといえば、聡太は幼稚園以来の幼なじみだから。幼なじみでも高校生になったらそんなの縁を切るだろうって? 彼は学年トップの秀才。そして私は恥ずかしながら理系壊滅のうえ英語も苦手でスポーツ推薦や芸術推薦なんてありえないという、使えない文系だ。それもなんと、高校入試は補欠合格というどうみても大学進学以前に少しの油断が留年にさえつながりそうな危ない崖っぷちの立ち位置だ。

 そんな私にとって、この幼なじみは高校生活サバイバルのための命綱なわけだ。そう、このキモオタ幼なじみは悔しいほど頭が良い。あと悪くは言っているけれど、幼なじみだから裏切られるはずがないことは保証つきで。

『ちょっと大切な話があります』

 メッセージを飛ばす。すぐに聡太から返事が返ってくる。

『明日の英語の小テストかい』

 そういえばそんなのあったっけ。いやそんなのじゃなく。

『もっと大事な、私の一大事なの』

 メッセージを流したあと、これ何かと勘違いされそうだなと思う。打っているうちに感情が落ち着いてくる。でもメッセージでも電話でも詳しくは無理。

『ごめん聡太、直接会って話したい』

『今そっちに行くか』

 我に返る。夜に男子高校生が家に来る? いやいやいやいやありえないから! 幼なじみでもありえないから!

『明日話すから。放課後。おやすみ』

 打ってすぐに切る。メッセージの言葉も自分が打っているようには思えない。まあ、聡太とメッセージやりとりなんて普段はしないからそれほど不審がらないだろうけど。でも今になって後悔する。すぐに話せない。この精神状態で明日の放課後まで待てと。

 私は布団に突っ伏し、このまま目覚めて戻ることを祈って目を閉じた。

 眠れない。そして私は一睡もせずに一夜を過ごしたのだった。


 何とか食事への抵抗感は薄れたので軽く朝食は食べられた。でも、いつも家族一緒の朝食を生きがいのように言うお父さんが今朝はいない。どうしたの、とお母さんに聞いたら答えてくれたのだけれど、ホワイトノイズのような耳鳴りがしてよく聞き取れなかった。これも気になったけれど、深く考えるとまたメイ・エフェルガンドの記憶が蘇りそうだから意識の外に置いた。

 遅刻ぎりぎりの時間に高校へ到着する。ぎっしりと埋まった教室の机に、私は唐突な恐怖を感じた。

 汚染が怖い。

 自分で呟いておきながら、何の汚染なのか自分でも意味がわからない。目を閉じておそるおそるメイ・エフェルガンドの記憶を探ったけれど、そこにも恐怖を感じるものは何もなかった。あらためて深呼吸すると再びお父さんを訊いたときのような耳鳴りがして、意味のわからない恐怖感が過ぎ去った。

 授業中は居眠りし、そして先生に叱られる。でも叱られることよりも、目が覚めたはずなのにエフェルガンドの記憶が全く消えないことに絶望する。やはりこの記憶は夢じゃない。こんな明晰夢なんてあるとは思えない。でも聡太は理系クラスなので放課後までは会うことはない。

 昼食はお弁当を食べたくないからコンビニに行って完全栄養食を探す。

 カンゼンエイヨウショクって何だっけ。

 唐突に山口芽衣としてもメイ・エフェルガンドとしてもよくわからない食事を探そうとしていた自分に気づく。カンゼンエイヨウショク。

 何か思い出しかけたけれど、急激な頭痛がした。今は、そんなものは。結局はよくわからない記憶を無視して焼きそばパンと牛乳たっぷりプリンを食べてお昼は終わりにしてしまった。

 何とか時間をやり過ごしてようやく放課後になり、スマホを確認すると聡太からのメッセージが入っていた。

『旧校舎の部室でどうでしょうか』

 珍しく敬語だ。

『部室って、他の部員は』

『今日は夏の深夜アニメ祭りをメイトでやるから、そっちのイベントにみんな行くよ。あれはオタクにとって必修だし』

 聡太の言葉に安堵し、私は旧校舎に向かった。帰宅部の私が旧校舎に行くのは入学式以来だ。新校舎は今のお父さんたちの頃に建てて両方使っていたそうだけど、私たちは少子化のせいで新校舎だけで間に合うから、余った旧校舎は丸ごと部室棟になっている。

 旧校舎に足を踏み入れると、騒がしいドラムの音や演劇部の発声練習、美術部の油の匂いなど色々と見慣れない学校の姿が目や耳、鼻から入ってきた。

 ぐらり、とエフェルガンドの記憶が私を揺らす。慌ててスマホに目を落とした。悔しいけれど聡太のメッセージが支えになる。私は山口芽衣、山口芽衣。

 文芸部の看板の前に立ち深呼吸する。ゆっくりとノックするといきなりドアが開いた。私は聡太を押して部屋の中に飛び込んだ。そして聡太と向かい合わせに座ると、聡太は私から少し距離を取る。

 狭い部屋なんだから無理して壁に寄らなくても良いのに。思って私は首を傾げた。教室に二人だから、私と聡太がこんなに近づく必要なんてないのに。私は何で、三畳間にでもいるみたいな距離感に座ったのだろう。

 また頭痛がした。メイ・エフェルガンドも沈黙しているのに、何か嫌なことを思い出しそうな気がする。あの何だっけ。昼食を探していたときに思い出した変な食事の名前。

 何だっけ。

 聡太は黙って私をじっと見つめた。

「大切な話って、何かな」

 聡太は少し頬を赤くして私を見つめる。意識が逸れて変な記憶が消えて頭痛が一瞬で止んだ。って言うか、まさかこいつなんか勘違いしてる?

「ついに芽衣、留年が……」

「違うから! まだ私、赤点でも補習後の再試験でちゃんと通ってるし!」

「……赤点、なんだ」

 うわ。聡太の哀れむ視線が痛い。でもその痛みは平凡、というかただの出来の悪い女子高生の痛みでちょっと嬉しい。

 あと、聡太から芽衣って呼ばれたことが何だか安心できる。お母さんや中学以降に会った友達だけじゃなく、幼なじみの聡太に認識されていることが、何だか地に足がついている気持ちにさせてくれた。

「勉強の話じゃないの。あと一応は言っとくけど、恋愛とか告白とか、そういうのじゃないし」

「そりゃわかるよ。芽衣、顔色が悪いし」

 うん、とだけ返事する。聡太が椅子をすすめてくれ、私たちは座る。聡太はちょうど私の右側斜めに座った。向かい合わせじゃないので少し気持ちが安心する。聡太のぷよっとしたお腹をだらしないなと思いつつ、何だか安心してつついてみたくなる。

 でも聡太はそのまま黙って鞄からスマホを出して何やら操作し始めた。

 ゲームか、と思ったけれど動きが単調。覗き込むとブラウザの検索を立ち上げてただクリックしているだけだ。

 待ってくれているのか。こういうとこ、聡太は変わんないな。

 いや、変わったのは私か。小学生の頃は聡太と一緒に遊んでいたのだし。

「聡太、私たち、小学校の頃は遊んだよね」

「色々とね。ごっこ遊びのとき、僕に囚われの姫役をやれとか言うしさ」

「だってあの頃の聡太って痩せっぽっちだったじゃない?」

 話しているうちに気持ちが落ち着いてくる。でもまだ不安がよぎる。だから私はお願いした。

「ねえ聡太、私のフルネーム、言って」

 聡太は唾を飲み、私をじっと見つめる。いやそういう反応、困るし。

「ねえ聡太」

「山口、芽衣」

 途端、私は決壊した。

「山口芽衣だよね。私、山口芽衣だよね。メイ・エフェルガンドなんかじゃないよね!」

「……メイ・エフェルガンド?」

「違う、よね。私ね」

「ちょっと芽衣、落ち着いて」

 私の肩を聡太がそっと抑える。気づくと私は聡太の両腕をがっちりと握りしめていた。

「ごめん、でも」

「まず僕は、メイ・エフェルガンドなんて名前は知らない。僕の生活圏、歴史上の人物、小説や童話の登場人物、漫画やアニメ、ゲームのキャラクターのどれでも、ね」

 こくり、と私は声を発さずにうなずく。

「芽衣なら当然わかっているだろうけれど、『僕の知っている』歴史や小説やアニメ、漫画、ゲームの範囲は並じゃないからね」

 いきなり私は冷や水を浴びせられた気持ちになる。聡太が知らない。聡太は売れている作品なら少女漫画すらも読んでいる超級オタクだ。その聡太が知らない。これだけで私の記憶が何かのゲームや漫画の勘違いのようなもの、という線はほぼ確実に消えた。

 はあっ、と溜息をつこうとして呼吸が荒くなる。聡太が私の背中に手を当ててぽんぽんとしてくれ、少し楽になる。

 それでも、スカートに涙が落ちた。

「ねえ聡太、私」

「いいから、全部話してごらん。僕たち、幼なじみだから」

 うん、とうなずき手の甲で涙を拭う。このオタクと普段なら言っているはずの聡太なのに、私は聡太の右手に私の右手を重ねた。

 そして語った。

 私の記憶、メイ・エフェルガンドとしての記憶が重なっていること、その内容まで。でも聡太は笑ったり遮ったりせず、黙って私の話をしっかりと聞いてくれる。そして私は締め括った。

「私、どうしたの。私は、誰」

「山口芽衣だ」

 誰なのと言い終える前に聡太はかぶせるよう、少し大きな声で断言する。そして言う。

「自分を誰かって言わないで。大丈夫」

 うん、と私は小学生に戻ったように答える。そして聡太の言葉を待った。聡太は小さく溜息をついて続けた。

「まず、論理的に可能性を整理しようか。敢えてありえない可能性もあげて消去するよ」

 私はうなずく。聡太は了承と受け取ったのか、話を続けた。

「まず、君が山口芽衣ではない可能性。これは僕とお母さん、それにこの学校の生徒、教師が証人だ。あとスマホ。君の指紋認証も顔認証も受け付けている。指紋や顔骨格は科学的に変わらない。君は山口芽衣だ」

 周りの人だけなら何か陰謀とか色々考えたりするけれど、米国製のスマホまでとなればちょっと違うなと思えてきた。

「次に君が僕をからかっている可能性」

「私がそんな!」

 まあ聞け、と聡太は私を押し留める。そういえばありえない可能性も、とは言っていたんだっけ。不満ながらも椅子に戻る。

「ここ数年の芽衣が茶目っ気で僕にいたずらするとは思えないよね。あと今日、僕は『オタク必修のイベント』を話したよね」

 あ、そんなことメッセージにあった。考えてみれば本当、悪いことしたよね。すると聡太は安心した顔で言った。

「ほら、悪いことしたって顔した。からかうために、僕の大事にしているアニメ趣味を邪魔する芽衣じゃないもの」

 何この真っ直ぐすぎる信頼の告白。ちょっと恥ずかしいんだけど。でも悪い気はしない。

「続けて、誰かが僕を騙すため芽衣が脅されている可能性だ。でもあまりに話が突飛過ぎて、そこに芽衣を使う利点がなさすぎる」

 私は必死で縦に首を振る。そして真剣な顔で話を続けた。

「何よりいたずらでも脅迫でも、大根読みの芽衣が演技できるとは思えない」

「大根読みって」

「だって中学のクラス発表、ひどかったでしょ」

 中学の学芸会で試しに演じた女子高生役がひど過ぎて裏方に回されたよどうせ。すねる私を置いて聡太は話を続ける。

「あとはゲームや何かの勘違いだけど、芽衣の言うとおり臭いは現代の技術ではありえないし、悪臭は健康被害の恐れがあるからおそらく試作機の開発計画すら考えにくい」

 続けて彼は鞄からいきなり美少女アニメの雑誌を出した。あのね聡太さ。

「はい、今の反応で、実は僕と同じオタクに目覚めたという可能性が消えた」

 今の、テストだったのか。

「じゃあ私、あの」

 聡太はうなずいて言った。

「確かに、心の病か、あと」

 聡太は私の右手を両手で握り、ゆっくりと諭すように言った。

「本当に、芽衣がお姫様の転生か、だね」

 ありえない可能性を否定しなかった。私はぽかんと聡太を見つめる。

「だって芽衣は嘘つきじゃないと思っているし、でもオタク趣味でもない。あと病気なら医者じゃないからわからないけれど、ネットで読んだ妄想の症状とは違うんだよな」

 聡太に相談して良かったと本当に思う。いきなり否定されたり病気だと決めつけられたりしたら私、どうなっていたか。

「でも、病気の可能性は消えてはいないよ」

 きついことを言いつつ、私の手をさすってくれる。私は小さくうなずいて問いかけた。

「私、どうすれば良いかな。やっぱり病院に行った方が、良い、の、かな」

「行きたいかい?」

「行き、たくない。怖い」

「それならちょっと魔法、使ってみよう」

「はあ? あの本気で」

「もし使えたら、それで証明完了。駄目元でやってみたら。使えないとなれば、本当に記憶だけの話となってくるから、ね」

 無責任な、と言いかけ、聡太の真面目な視線に私は言葉を飲み込んだ。私は立ち上がり、筆箱からシャープペンシルを取り出す。記憶にあるとおりの複雑な魔法陣を一分程度で机に書き上げた。もし病気だとして、こんな正確で複雑な整った図形をすらすらと書けるようになるだろうか。逆にそれがまた怖い気持ちにさせる。聡太はそれをじっと見つめ、唸ってスマホで写真撮影する。続けて私は魔法の「力ある言葉」を詠唱する。

 この世界にない言葉。山口芽衣としては聞いたこともない響きの言語。でも私はその音節一つ一つに意思を宿し、力を注ぎ込んでいく。だけど記憶にあるような、力が流れ込む感覚は……。手に、うっすらとこもる冷気はたぶん恥ずかしさの、せい。きっと、私の。

 「力ある言葉」の鍵を、私は開いた。

 ぶわり、と魔法陣が輝いて風が舞い、そして冷水が湧き出した。

「芽衣!」

 聡太が声をかける。私は慌てて「力ある言葉」の鍵を閉じた。魔法陣の水が止まり、魔法陣は輝きを失った。聡太が震える手で私に自分のスマホを突きつける。先ほどの魔法陣の輝き、湧き出す水の動画が再生された。

「病院は行っちゃ駄目!」

 聡太は口を開きかけた私の言葉を遮って怒鳴り、続けて言った。

「他の人にも、言っちゃ駄目だ。芽衣、大変なことになるぞ。いいか、今からしばらく、僕たちだけの秘密だ。いいね」

 私は何度もうなずき、そしてふと思った。今、私は聡太にとんでもなく重大な秘密を知られたんじゃないだろうか。本当に、聡太が幼なじみという関係だけで信頼して大丈夫なんだろうか。

 病気じゃなく事実だと分かった途端に頭の回転が変わる。でも私、メイ・エフェルガンドの知っている魔法より力は小さいから、魔法の力で抑え込めるかはよくわからないし。

 何かこう、聡太が余計なことを考えないなんか方法。と、私はまだ、聡太と手をつないでいたことに気づいた。

「ごめん、芽衣これはさ」

 赤くなった聡太を見て、私はすごく悪女の発想を起こした。何より、ほら結局はどうせ聡太なんだし。それにこんな程度で赤くなる聡太が少しだけかわいい気がしてきた。

 そう、聡太はかわいいかもしれない。

 聡太はかわいいんじゃないかな、と思う。

 思うことにした。

 気持ちが決まった。

「聡太、今年はバレンタインデーで本命チョコ、もらってみたいと思う?」

「いきなり芽衣ったら何を言って」

「例えば、私をしっかり全力で守ってくれるなら、私から、とか」

 言ってしまってから顔が熱くなる。実は私も本命チョコとかあげたことないし。つか男子に個人宛てで義理チョコもあげたことなんてないんだけど。というか、チョコで納得するって考えって私、甘すぎるだろうか。でもそんな心配は余計だったみたいだ。聡太は気をつけの姿勢になって声を張った。

「僕、佐川聡太は山口芽衣、メイ・エフェルガンド姫を全力でお護りします!」

 ちょっと私、引きそうになる。でも私はこれで一人、大事な味方を手に入れた。でも私は一応、聡太に言った。

「聡太。君って悪い女に騙されやすいかもしれないから、気をつけてよ?」

「僕だって芽衣以外の子からのチョコ提案ぐらいじゃ冷静に計算するさ」

 何それ。いやちょっと、うん。

「聡太って、あの」

「いやごめん今の取り消しとりあえずさっきの宣言どおり芽衣のことは守るからギブアンドテイクね楽しみだなあチョコ!」

 さっきは私のことを大根読みだなんて莫迦にしたくせに、もう聞いているこっちが恥ずかしくなるほどの早口棒読みしちゃって。頭良い最高偏差値なのに、ほんと。

 恋愛偏差値が赤点の幼なじみに、私は今日初めて、心から微笑みかけた。


「まず当面はだ、君が今、何をしたいかだ」

「ネットで見た『輝くプラチナタピオカミルクティー』を飲んでSNSにアップしたいかな」

「そういう刹那的な話じゃなくて」

 私の素直な気持ちに、聡太はげんなりした表情で方杖からわざと顎を外してみせる。いや私も薄々、わかってはいるんだけどさ。

 例の魔法を使えちゃった事件の翌日、私たちはわざわざ電車で札幌まで出てきて、どこにでもありそうなハンバーガー店にいた。地元で二人きりで話しているところを他の生徒に見られると面倒くさいということで、二人の意見がぴったりと一致したからだ。

 なお、この店の斜め向かいにはオタク御用達の専門漫画書店とフェギュアショップが並んでおり、その隣には全国チェーンの古本屋があって立ち読みしている人たちの姿が見える。私たちの話す魔法とかの話が万が一聞かれても、またオタクが何か話していると思われて済むよう聡太が選んだわけだ。こいつがオタクなことを差し引いても、ほんと先の先まで読む頭脳は怖い。でも、この店に来る前に北海道三大がっかり観光施設と名高い時計台に寄る辺り、こいつも浮かれているんじゃないかと思って逆に安心できたりもする。

 聡太は二人で頼んだジャンボフライドポテト盛りを私の三倍量まとめて口に押し込んで唸る。お前は小学生か莫迦。仕方ないので子豚にコーラを勧めるとくぴくぴ飲んだ。

 んもう、カンゼンエイヨウショクを慌てて食べるから。

 また変な単語が脳を駆け巡る。頭痛が襲う。私は頭を振ってポテトを口に放り込んだ。たしかな塩味と太りそうな油っ気が口に広がる。うん私は大丈夫。

 聡太は私に心配そうな視線を向けつつ、再び私に問いかけた。

「要は今後、どうやって生きるかというか」

「とりあえず大学は行きたい。私大で良いから受験が楽で美味しい大学で」

「それはそれで難問だよな芽衣は、って、勉強を努力しろよ教えてやるから」

「ありがとう、さすが私の幼なじみ」

 私の即答に聡太は何やら独り言を呟くと咳払いをして姿勢を正した。

「何も考えていないことはわかった。それで次に何を計画するかといえば」

「ちょっと待って私が莫迦みたいな言い方」

「だって実際、考えていないでしょ」

 ばっさり言われてさすがに私もへこむ。聡太は天井を仰ぎながら続ける。

「考えていない、もっと言えば全く平凡に生きるつもりでいるってわけだ」

「だって魔法とか怖いし」

「メイ・エフェルガンド殿下、それで本当によろしいのですね?」

 突然の聡太の切り替えに、いきなり私の内側で凍った炎が喉を突いた。灼けるようで氷を飲み込んだような矛盾した感覚。頭痛。

「私は、国を」

 私は何を言おうとしているんだろう。

「私は陛下から任せられた国を守る義務が」

 私はただタピオカティー飲んでみんなと遊んで大学に行ってなんか上手く就職してその間に誰かと恋愛して、それは聡太じゃなく。

「この身を捧げる覚悟は」

 何の覚悟とかなしで生きていたい。

「しっかりとできております」

 聡太が硬い表情で私の瞳を覗き込んでくる。心なしか顔色も悪く汗をかいてみえる。

「僕より芽衣の方が危険な顔をしているよ」

 がつん、と矛盾した灼ける氷が喉から消え去った。私は咳をすると慌てて手元のダージリンストレートアイスティーを飲み干した。

「今、私さ」

「今の言葉はメイ・エフェルガンドとしての言葉だよね。でも芽衣とは全く一致しない」

 私は顔をしかめて聡太に続きを促した。

「言葉は覚悟いっぱいなのに、表情が全く一致していなかった。まるで声優が別人に声を当てているみたいだったよ」

 ここでさらりと声優が出てくるあたり、何というか。まあいちいち突っ込んでいても仕方ないんだけど。でも何より、聡太の心配そうな表情に私は申し訳ない気持ちになる。

 私は誰なんだろう。そんな問いが頭をもたげた。あらためて将来を思い描く。思い描いているうちに、自分がお婆ちゃんになって、そして病床に横たわり、そして。

 死の瞬間を想像した途端、足元に奈落を感じた。全てが消滅する瞬間を。それは今の私が消える瞬間。熱気と砂埃に包まれ呼吸が止められてメイ・エフェルガンドが世界から喪失するその。

「芽衣!」

 店内に響く声に私は息を飲む。客の視線が私に集中していた。聡太がいかにもわざとらしい言い方で店内に聞こえるように言う。

「ちょっと罰ゲーム、ひどかったかー」

 店内が一気に冷めた空気になり、聡太に非難めいた視線が突き刺さる。店員がこちらに歩みかけ、肩をすくめて再びレジに戻った。

「ごめん聡太」

「大丈夫キモオタはこのぐらいじゃ動じない」

 動じろよこのばか。ほんと、ばかだな。なんというか、可愛いばかだ。私は恥ずかしいながらもさっきの自分を話す。すると聡太はうなずいて答えた。

「寝るときに僕も時々それ、思い浮かべて怖くなることはあるんだよ実は。芽衣の場合は今までなかったんだろうし、それに経験というか記憶があるから」

 うん、とうなずいて残ったアイスティーを飲み干す。また少し気持ちが楽になった。でも私は。私の中にいるメイ・エフェルガンドに呼び掛けた。私は、どうしたいんだろう。

 メイ・エフェルガンドが答える。現実に帰りましょう。

 いや今が現実でしょ。ファンタジーみたいな世界の方が現実的じゃない。

 じゃあ何で魔法を使えるの。魔法なんてこの世界にないはずなのに魔法を使えるって。私は何か、危険なものを踏んだ気がした。

 この世界は。

 この退屈で勉強も面倒くさいこの世界は。

 ストローを軽く指先で回し、グラスの中の氷を動かす。氷が心地よい音を鳴らし、私はふと指先のストローを複雑に動かした。とたんに氷がシャーベット状に変化する。再び回してシャーベットを幾つかの氷球に変えた。

 この世界に、こんな魔法はない。

 そして聡太は。

 男としての魅力に欠ける現実、と思っている聡太は私にずいぶんと都合が良い。これが本当に現実か。こんなものが現実であって良いのか。私、メイ・エフェルガンドは。

「聡太は」

 私は呼びかけて躊躇する。でも続けた。

「聡太は本当に、私の幼なじみでこの平凡な世界に実在する、聡太なのかな」

 聡太は首を傾げて私をじっと見つめる。聡太の視線は、私の馴染んだ。

 私、メイ・エフェルガンドの馴染んだソータ。ソータ・ノヴァク。

 ああ、思い出してはいけない。私はこの世界に住み続けたいのだ。ソータ・ノヴァクを思い出してしまっては、私は。

 エフェルガンドとしての。エフェルガンドは。

 思い出せない。エフェルガンドが何と戦っていたのか。

 いや、私はエフェルガンドではない。私はやはり芽衣だ。聡太も私の幼なじみだ。大切な幼なじみ。そしてみんなと教室に集まって勉強するなんて、今はありえないんだった。

 そう、この世界は嘘っぱちだ!


 私は意識を取り戻した。私と聡太は二人で三畳ほどの狭い室内にいた。

 それはやっぱり私の知っている聡太で。ソータ・ノヴァクとして仮想世界の私の冒険を導いてくれた天才の聡太で。外界に閉じられた隔離室の中、私の心を守ってくれた、本当にばかな天才ハッカーのゲームオタク。

「ごめん、調整に失敗したみたい」

 聡太が謝罪する。私はううん、と首を振った。でも、謝るならその手元にある聖女フィギュアと女子高生フィギュアをなでる気持ち悪い動作を止めてくれないかな。聡太は手元の端末を操作して外部情報を見せてくれた。だいぶ総ウイルス数が減少したようだ。

 私は友だちとのメッセンジャーアプリを起動する。何人かは、もう見ちゃいけない。私の心が耐えられない。心を痛めてしまった人のメッセージは、弱っている私には刺激が強すぎる。あと極端に前向きな人のメッセージもきつい。これも私の胸を傷つける。

 自分の左手首に視線を落とした。見えないように隠した聡太のバンダナ。こいつがもう少しお洒落なら、たくさんつけてしまった傷跡を私の気に入った柄で隠せたのに。変貌したこの世界で生き延びることはあまりに苦しい。でも聡太は淡々と私たち二人分の完全栄養食を準備する。

 軍政広報が端末に流れてきた。

「あと二年だってさ。僕は工学系だから公衆衛生の説明はさっぱりだよ」

 言いつつ軍政広報から垂れ流されるウイルス増殖曲線を、数学がさっぱりな私にもわかるように説明してくれる。続けて聡太は、World Hearth Army——世界保健軍——の軍報も引き出して翻訳しつつ説明してくれる。

 この汚染された世界で生き延びるには。

 この汚染された世界から自らを隔離して生き延びるには。

 このウイルスがどこから来たのかわからない。とにかく蔓延した。人が死んだ。私のお父さんも死んだ。そして私たち生き延びた人たち、主に子どもたちは隔離病棟に連れてこられ、一人ずつ隔離室に入れられて助けられた。

 私たちを救出したWHAは、良く捉えれば革命家で悪く言えばテロリストだ。機能喪失したWHOに代わり、世界中の医学者と軍医、そしてハッカーが中心になった国際軍事機関だ。今は世界中の政府がこの軍事政権の下にあるんだそうだ。難しい話は私にはよくわからないけれど。

 でも、長い年月は私たちの心を蝕んだ。それでも私たちには聡太がいた。

 いや、とくに私には。だって聡太は。

「あんまり芽衣に合わせすぎたゲームだと、芽衣がはまり込みすぎるんだな」

「よく君、こんなバーチャルリアリティなんて作るよね。無理していない?」

「作る方が楽しいし、近くに芽衣、じゃないユーザーがいてくれるし」

 ばかだなこいつ。普通に芽衣がって言ってくれれば良いのに。

「白馬のハッカー様」

 私は言って吹き出してしまう。白馬に乗ったら白馬が重いって怒りそうな体型だった彼は、今は完全栄養食のおかげでずいぶんと見やすくなったけれど。

 死にかけていた私を救うために隔離室を飛び出して私を救ってくれた、オタクの王子様という困った幼なじみ。隔離病棟とはいえ、隔離室内ほどは安全じゃないっていうのに。

 私の自死を止めてくれ、そして私の気を紛らわせるために臭いまで錯覚させるシステムを構築してネットワーク型のバーチャルリアリティーゲームサービスを立ち上げた。今の聡太の手首には、埋設ICチップとともにWHAの3Dタトゥーが刻まれている。ゲームオタクな彼には重すぎる刻印で、たぶんそれを担わせてしまったのは、私の自殺未遂だったのだと思う。

 この壊れた世界をつかの間でも忘れられるゲーム世界を丸ごと作ってプレイさせてくれる変な王子様。メイ・エフェルガンドなんて偽物のお姫様より、この見た目は冴えない聡太の方が王冠を被る価値があるのに。

「もう機械音痴の芽衣でもゲーム操作は慣れたみたいだし、あとはゲームの調整ができたら僕も自分の隔離室に戻ろうかと」

「だめー。聡太ってメッセンジャーアプリで話すといかにもゲーム管理者って感じで感じ悪いからだめー」

 もう何度も繰り返したお決まりの会話をして、聡太は肩をすくめて黙り込むと完全栄養食を私に手渡した。

「こうやって召使いがいてくれると便利」

「ヒーローじゃなく召使いなのか、僕」

「じゃあかわいいペットで」

 ひどいや、と聡太は苦笑する。この調子だと当分はなんというか、大人の関係になんてならずにゲーマー同士ってとこか。

 聡太はデバイスを操作して時計台前をディスプレイに映した。エゾシカがもりもり植栽を食べている。将来、どうすんだろこれ。

「芽衣は体力があるから、ウイルスが減ったら開拓民が似合うんじゃない? そうだ次は開拓物のゲームにしようか」

 またゲームだ。でも、私は彼が救いにきてくれたときの、余計なことをしやがってという怒りと、必死になってくれるばかな幼なじみへの安堵を思い出して微笑んでしまう。私はだらしない座り方のまま、ろくに味のない完全栄養食を口に放りこみつつ答えた。

「たまには聡太の好きなゲームにしたら良いよ。例えば、眠れる芽衣姫を聡太王子が助けるみたいな。聡太も王冠、似合うかもよ」

「僕を王子役に固定したら他のプレイヤーが怒るし、王子役の開放は嫌だ」

「妬いてるんだ?」

 聡太は黙って私から視線を逸らした。私は鼻で笑ってまたディスプレイを覗き込む。ヒグマが闊歩する大通公園、タヌキが遊び回る東京の表参道と竹下通り。くそったれなこの世界は、もしかしたらゲームの世界みたいに創り変えられているところなのかもしれない。

 私は完全栄養食を純水で流し込み、聡太の肩に頭をもたれかけた。

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