「いかがです、くじ引き」
にやついた井澤が寄ってきたが、俺は無視を決め込む。こいつの相手をすると厄介でしょうがない。井澤は温泉巡りサークルという爺臭いサークルの会長で、資金集めとして「函館旅行ビックリくじ」とやらを売っている。こいつの合宿先は例年函館。車に荷物が増えるだけ、という仕組みだ。くじを売っただけ丸儲け。井澤は俺の肩に腕をかけると、俺とお前の付き合いだろ、とクジを目の前に付き出してきた。だが俺は怪しげな宗教が声をかけてきたときと同じく、黙って手を振り目を合わせないようにする。すると井澤は怒りもせず手を変えてくる。
「夢を買おうぜ。学園祭は君がスター!」
「おまえなあ。よくそう恥ずかしくもなく言えるな」
「恥ずかしいんだな、これが。だから買って。へへ」
根負けして箱に手を入れようとすると、怒鳴り声が響いて二宮が突っ込んできた。井澤は爆弾娘、とうめき声を上げる。それもそのはず、二宮の通るところ騒動の起きなかった試しはない。いつ見ても童顔のかわいらしい外見だというのに、いつもやることなすこと無茶苦茶だ。幼馴染の俺でも呆れるほどだ。
「井澤、私も。面倒だからこいつと一緒で良いよ」
二宮は代金も払わないうちに箱へ無理矢理手を突っ込んできた。俺も苦笑しながら一緒にくじを引く。
「さ、二人分。どっちが当たり?」
二宮は俺のまでひったくると、二人分を井澤に手渡す。井澤は溜息をついていっぺんに開封した。だがすぐに顔色が変わり井澤の手が止まった。周りを見回す。再び手元を見直す。
「どうしたの?」
二宮は脳天気に井澤の頭をこづいた。井澤は顔をあげると、俺と二宮を恨めしそうに見つめた。
「二人とも、当たっちまった」
「しっかし、どこ行きやがったんだ?」
「しょうがねえよ。あいつがいねえとこっちも気楽だろ」
「けど、もう一週間だぜ」
俺は昨日からの愚痴を再び口にした。二宮は函館に来た途端に単独行動、そのまま行方不明になったのだ。放置するわけにもいかず、とはいえ井澤のサークル合宿は温泉巡りで時間も足りず、結局は他のメンバーを帰らせて俺と井澤だけが残ったのだ。
「そうかりかりすんなよ。こっちは開店早々当たりが出ちまったせいであのざまだぜ。被害者は俺だよ、俺」
「なあ、観光コース巡ればヒントがあるかもしんないぜ?」
何となく良い意見のような、ただのごまかしのような。
「良いんだよ。二宮は遊んでるに決まってるって」
いつもの二宮なら井澤の言うとおりだ。けど。なぜか今回だけは寂しそうな二宮が思い浮かぶのだ。
「しょうがねえな。もう一回探すのつきあってやるよ」
俺は呆れ顔の井澤を連れて、そのまま旅館を後にした。早速俺たちが向かったのは、函館市内で二大観光地の一つ、五稜郭だ。戦場となった五稜郭は現在、公園となって多くの観光客であふれかえり、当時の面影は見られない。古い要塞跡のはずが酔っぱらいやジョギング中年ばかりでは、歴史好きの人間には幻滅しか与えないだろう。
五稜郭に到着してしばらくは一緒に聴き込みをしていたが、一時間ほど経ったところで井澤は捜索を諦め、かわいい娘探しに忙しい。
「井澤、飽きたんなら帰って良いぞ。俺は初めに言ったとおりきっちり探すから邪魔しないでくれ」
「俺、あいつなんてどうでも良いよ。気が済むまでやれや」
井澤はそのままさっさと繁華街の方に行ってしまった。俺はとりあえず五稜郭タワーに登ってみる。煙と二宮は高いとこが好き、っていうのはちっちゃいときからの話だし。だが結局は売店のおばさんたちに聞いても収穫なし。五稜郭周辺は諦めようとしたとき、端で訛りのある清掃作業員の声が聞こえた。
「どこのガキだ。こんなところにいたずら書きしやがって」
「おい、何書いてあるんだ?」
「女だな、こりゃ。『いたずら猫は牛の背中の山の上』だって」
いたずら猫。二宮の古いあだ名だ。俺は清掃作業員のそばに走り寄った。当然彼らは眉をひそめる。
「お前の仲間か? こういう悪さは!」
清掃作業員が怒鳴るのも構わず俺は壁の隙間の落書きを探す。そこには二宮の丸文字がはっきり張り付いていた。部屋に帰ると、俺はすぐに落書きのことを井澤に話した。すると井澤は俄然興味を持ったのだ。
「で、『牛の背中の山の上』の意味が知りたいってわけか」
「『山』がわかればすぐに登る。だから協力してくれ」
俺が珍しく慎み深く頼むと井澤は途端に吹き出した。
「何だよ、真面目に言ってるってのに」
「悪い悪い。お前がまるで謎みたいに言うもんだからさ」
井澤はいたずらっぽい目で憮然とした俺を見つめながら簡単に答えた。
「函館山は牛の背中にそっくりだ。だから別名『臥牛山』。その上一番の観光地。愚か者め」
俺は自分の間抜けさに呆れてベッドの上に倒れこんだ。そんな俺を冷たく見据えながら、井澤はぼそっと付け足した。
「もう二宮に振り回されるわけにいかねえ。俺は今夜、帰る」
俺はただ黙ってうなずいた。井澤はバッグを背負うとそのまま独り、ホテルをチェックアウトした。俺も一緒に宿を出ると、そのまま駅に向かう。駅のバスセンターに着くと、函館山へのバスは夜景観光バスが良いという。少し高いが、仕方なく観光客の群れに飛び込んだ。周りは高齢者とカップルばかりで、俺以外には独りで乗っている客はいない。
「ごゆっくり函館百万ドルの夜景を御堪能なさって下さい。下山にはあちらの大型ロープウェイをどうぞ」
ガイドさんの声が響いた。年寄り連中は我先にと記念写真を始め、カップルはぼんやりと麓を眺める。でも俺は二宮が好みそうなスポットを探す。あいつの好きな、ちょっと静かで、それでいて寂しさは感じなくて。華やかなものが一歩下がって見られるけど、熱気のある。そんな場所。
周りの静けさに振り返った。ここは誰の姿もない。妙な方向に迷い込んだらしい。周り中、ただの原っぱだ。
「お客さん、こっちはもっと高いところから見られますよ」
声の方に目をやると、羽織を着た初老の男が微笑んでいた。
「おじさん、『もっと高いところ』ってなんだい?」
二宮のことだ。この変な誘いに乗っているかもしれない。
「手製のタワーさ。日曜大工をなめちゃ困る。ほんの百円」
男は一銭店屋の親父のような口振りでぷつぷつと誘ってくる。俺もさすがにここまで言われると気になる。
「おじさん、じゃ、登ってみるよ」
俺は百円玉を男の手のひらに乗せた。男は黙って手招きした。
「こっちだ。忘れ物は? ちゃんと思い出してくれよ」
男は年齢に釣り合わない速さで駆けていく。俺も夢中になって追っかける。男はもっと速度を上げていく。そして突然、男の姿が消えた。周りを探す。いない。足元から消えた男の声が聞こえた。
「これからタワーがせりあがります」
男の声とともに足元がそのまま浮き上がってきた。俺は慌てて暗闇から逃れようとする。
「反抗しようったって無駄だね」
目の前に真っ黒な質量のない影が落ちてくる。そして俺は気を失った。
「やっほ、久しぶり」
鼻先で懐かしい声。目の前にいたずらっぽい黒目が動いている。俺は詰問口調で次々と質問を浴びせかけた。二宮はそんな俺を面白そうに見つめて黙っている。俺はさらに少しきつい口調で迫った。と、二宮は大笑いしながら指を下に向けて叫んだ。
「ヨッタ、あなたはいったいどこに立ってるのでしょう?」
俺は首をかしげて下を向いた。そこは何にもなく小さな輝きが散った、ただ広い闇が広がっているだけだ。驚いた俺に二宮は学校の先生のように自慢げに答える。
「足元は百万ドルの夜景、こちらは天空でございます」
二宮は得意げに言う。俺は頭を振って、そんなわけねえだろ、と怒鳴った。だが俺の言葉を二宮は簡単に否定した。
「ねえ、なんでできるわけない、ってわかるの。それにあの光、どう見たって五稜郭のタワーでしょ」
なるほど函館市街がはっきり見渡せる。俺と井澤の泊まったホテルも見える。俺は黙り込んだ。二宮はにたつきながらこっちを見つめている。じっと。何もせず。言わず。そして先に沈黙をやめたのは二宮だった。
「ねえ、どうしてこんなことになったか、わかる?」
俺は黙って首を振る。どうせ二宮は知ってるに決まってる。
「教えてあげる。あのおじさんはね、私やヨッタみたいな忘れんぼを捕まえて歩いてるお役人なの。これはどっかの神様か魔法使いなの。その人たちの役所」
「んな無茶な話ってあるかよ」
「じゃ、説明してみて。空中に浮いてるなんてあり得る?」
夢だ、と言い返そうとする。だが夢が覚めそうなときに感じるような、自分が実際は布団の中にいるような曖昧な二重の感覚がない。むしろ頭はすっきりしているぐらいだ。俺は言葉を飲み込んで沈黙した。
「私の言う通りにしなさいって。で、私たちが忘れてること、ちゃんと思い出せば逃げられるの」
俺は溜息をついて文句を言う。
「『忘れたことを思い出すため』なんて何でわかる?」
二宮は俺の文句に得意げに答える。
「タワーのおじさんがね、『忘れ物はないか』って言ってた」
俺はさらに深く溜息をついた。二宮はそんな俺を心地よさそうに見つめていた。が、いきなり叫ぶ。
「やっばーい! あっちに行ってっ!」
俺は何だかわからないまま二宮の指さした方に駆ける。そして俺は耳を手で押さえながら文句を言った。
「お前なあ、耳元で叫ぶんじゃねえよ」
「ごめん。けど私が怒鳴らなかったら大変だったよ」
自信たっぷりに言うと俺のいた所を指さした。指先を辿ってみると向こうに黒い雲が浮かんでいる。俺は自分の服を叩いて憂鬱に、雨かよ、と呟いた。二宮は俺をじっと見つめている。俺が口をとがらすと二宮は吹き出した。
「濡れないわよ。あの雨雲の中にはね、いろんな人の『記憶』がいっぱい転がってる。それを拾って磨くの。だ・か・ら」
「なおさら気の滅入る話、か」
「さすが国立大学の学生さんですな。飲み込みが早いではないか、ん?」
またからかいの茶々を入れる。俺は完全に気力を削がれてしまった。けど、何でこんなことになったんだか。
ぼやきながらも二宮の招くとおり雨雲に潜っていく。確かに濡れることもなく、体にただ雲の切れ端がまとわりついてくるだけだ。ただ、外から見る限りは綿のように心地よさそうなのだが、綿よりもさらに頼りない感じで布団にはならないと思う。
「記憶」は大体が煤けていた。それを白い雲で磨いて汚れを落とす。映像が見えるのもあるし、声が聞こえるのもある。両方のものもあった。間違って落としたりすると後悔で目の前が真っ暗になる。
「ヨッタ、ぼんやりしないで。ほらっ、白雲のストックは少ないんだから無駄にむしっちゃ駄目だってば!」
二宮はこんな妙な作業なのに普通の仕事のように平気でこなしていく。俺は我慢の限界にきて喚いた。
「二宮、もしかして俺たち、死んじゃってるんじゃ」
やめて、と二宮は即座に拒絶の言葉を口にした。目が全く笑ってない。
「死んだ人が幽霊になって浮かんでる話だってあるだろ?」
「良いから黙って」
「もしかして、死んだの思い出せってことなんじゃ」
俺は先が言えなくなった。二宮が本気で俺を睨んでいるのに気付いたんだ。それも、涙をためて。
「なんで見えるものしか信じないの。それでも人間?」
「なあ、これ夢じゃないのか。こんなことあり得ないよ」
二宮は俺を責めたてるように睨み続け、冷ややかに呟く。
「夢かどうか確かめるのに一発ぶん殴ってやろうか?」
「痛い夢もあるぜ。俺は夢ん中じゃ平気でいられないんだ」
すると二宮はポケットからナイフを出して俺に握らせと、いきなり自分の腕に刺した。手に肉を裂く感触が伝わる。血がナイフの表面を流れて腕が暖かくなる。俺は二宮の手を引き離してナイフを抜く。すぐにハンカチで傷口を押さえ、二宮の髪留めの紐で縛ってやる。
「私の血って夢に感じるかな?」
二宮は頰をひきつらせて、無理に笑い顔で囁いた。
「これで『夢だ』って言い張ったら心臓を貫くつもりかよ」
「侮辱には耐えられませんので。とくにヨッタのだけは」
俺は降参の印に両手を上げて見せる。
「けど、痛いわね。夢だったら痛くなくって済んだのに」
二宮は俺の頭を撫でて微笑んだ。
『論理的にお前の無茶苦茶だよ』
『けどね、割り切れないことって人間にはあるものなの』
『わかんないね、そんなもの』
『ガキ』
『そこまで言われる筋合いないぞ』
『そうかな。あんた、人間の心なんてないんじゃない?』
『苦手なんだよ、そういうのは』
『あまえんぼ』
ひとかけら見つかった。いつかの言い合い。突き刺さるやりとり。嫌いな言葉。わからないもの。
「ヨッタ、何か見つけた? そういうかけらの中に本物があるの、きっと。恥ずかしいんなら良いって」
後ろを向いたまま二宮が声をかける。
「二宮、お前も関係してるから」
俺はそっと『記憶』を手渡す。
「中学時代じゃない。ヨッタが無茶してたときの」
二宮は懐かしそうに目を細めた。そっと『記憶』を撫で回す。そのうち『記憶』の内側に光が灯り始めると、二宮は小さく舌打ちした。
「あのね、こう光る奴はお目当ての『記憶』じゃないのよ」
俺が陰鬱な顔をすると、二宮は小さく笑い声を漏らした。
「ヨッタが来る前の私よりはまし。『この記憶は』って話する相手、お互いいるんだもん、良いじゃん」
俺は黙ったまま、ただ笑って見せるだけだった。
「ヨッタ、仕事始めるゾッ!」
あっけらかんとした声が聞こえた。
「下は寒くなったみたい。私たちには関係ないけど」
二宮がぼそっと呟く。確かに空は晴れ渡り、白雲にも事欠くほどになっていた。山は既に赤く色づいている。
「ほら、頭で納得しなくても気持ちじゃわかっちゃってる」
「そんなもんかな」
「そんなもんです」
落ち着くと二宮は真面目な様子で雲を僕に手渡した。
「ところでヨッタ、この『記憶』見て」
「小学校のときの?」
二宮の声が心なしか震えているように思える。懐かしい景色。俺たちの小学校。歌い方も忘れていた、校歌。ふと端の教室に目が行った。教壇には生徒。議長だった井澤。黒板には委員の名前が連なっている。
『私は二宮さんが良いと思います』
『賛成』『良いぞ』『決めちまえ』
『決、採って良いでしょうか』
『待てよ、もう何回もやってるだろ』
『決まんねえ、そんなこと言ってたら』
『でも少しは二宮のこと考えろよ』
言い合いが始まったところで映像も音声も止まった。顔を上げると、二宮が俺を見つめて黙りこくっている。どうした、とやんわりと声をかけると、二宮は照れくさそうに微笑んだ。
「ヨッタも手伝ってくれてた。無茶やって先生から殴られても、そのまま一緒になってくれた」
二宮は俺の肩をたたいて言った。
「ヨッタも人間だったんだよ。ただ、君は忘れちゃうだけ」
俺は目を伏せるほかなかった。
一カ月が過ぎた。大学に行くわけでもなく働くわけでもなく。ただ雲を磨いては昔の記憶に一喜一憂する生活。慣れてしまうと怖い。人生から退職しちまったんじゃないかって思うほど。
「まった怠けてるっ! 甘えるのもいい加減にしてよね」
ちょっとでも手を休めると二宮の叱咤する声が耳元で炸裂する。この爆弾みたいな攻撃は立て続けに襲ってくる。俺はただ溜息だけついては仕事を始めるのだった。今までの『記憶』は全て光を発して崩れ去った。それどころか標的に近い『記憶』さえ数えるほどしかない。
仕事が一段落ついて休んでいると、二宮が呟いた。
「ヨッタ、私たちのやり方間違ってたんじゃないかな」
二宮は腰を下ろして呟いた。二宮がこんなこと言い出すのも当然、雲の在庫がほとんど尽きたからだ。
「ヨッタ、この辺流れてる雲なんかの中に混じってるのかなそんな大事な『記憶』。って言うか、大事なら忘れるはずないもん」
ちょっとうめき声を上げて考え込む。二宮はじっとこっちを見つめて黙り込む。俺は決心して口を開いた。
「俺も同じこと思ってた。けど、他に方法ないじゃん。どうしようもないさ。続けるしか」
ここまで言って、ふと思い出した。
「別々の記憶より、二人両方に関わる方が光るまで長いよな」
「それ、ほんと? 気のせいじゃない?」
「光るまでの時間を計ってみたんだ。そうしたら一人の『記憶』より共通の方が四倍近い。ってことは」
二宮は笑いながら後を続ける。
「二人が一緒で、二人して忘れてる話ってこと」
俺が親指を立ててみせると、二宮はそれをつまんで言った。
「さすが未来のサイエンティスト!」
俺は額を軽くこづいてやった。二宮は小さく舌を出して見せると雲を机の型に組み上げ、胸ポケットからサンリオキャラクターのボールペンを取り出した。
「ヨッタ。二人のことでひっかかってて、だけどよく思い出せないこと言って。メモして一緒に思い出そうよ」
二宮は勝手に何やら書き始める。俺はぼうっと考える。
「ほい、私の分は書いちゃったんだから早く言う!」
二宮は情け容赦なく答えをせびってくる。俺は慌てて思いつくままに切れ端のようなことを呟く。
「文化祭で一緒に作った小道具、風邪で寝込んだときのお見舞い、いじめっ子からかばってくれたこと」
子どもの頃のなんて恥ずかしいことばっかり。言ってる先から二人で赤くなる。それでも何とか出し尽くす。
「じゃ、一個ずつね。お互い真面目に」
俺はそっぽをむいて首を振る。真面目になんて話せるもんか。
「恥ずかしいのはあんただけじゃないの。こっち向いて」
二宮は俺の肩を抱えて正面を無理矢理向かしやがった。俺が吐息をつくと二宮は満足そうに笑って言った。
「じゃ、始めるわよ。覚悟は良いよね」
二宮は自分の思いついたものから始めた。まずは俺の話題だ。
「ヨッタが『僕』じゃなく『俺』って言い始めた頃のこと」
考えてもそんなの思い出せやしない。俺は黙って首を振る。
「ヨッタ、自分のことぐらい覚えておきなさいよ、ったく」
二宮は一方的にわめきたてる。俺も頭にきて言い返す。
「あのな、そんな自分がなんて言ってたかなんてことそうそう覚えてられっかよ! 自分勝手なこと言うなよな」
「じゃヨッタ、何かない? 喋りが乱暴になったきっかけ。それより前のヨッタってかなり違ってた気がするの」
確かに。乱暴な言葉遣いになる前っておとなしくって、いっつも二宮のそばで。二宮は勝手に思い出話を婆さんみたいに喋りだした。
「ヨッタって昔、もっとかわいかったな。『俺』って言い始めてからよ、屁理屈こねまわしたり邪魔したり、私の言うこときかなくなったのって。だからあんときの」
二宮はこっちに構わず続ける。ったく二宮ってうるさいんだから。って。これと同じこと、考えて。
『みいちゃん、いい加減にしてよ』
『だってヨッタ、面白いんだもん』
『かわいいって言うのやめてったら』
『だってボクなんてかわいいもん』
『やめろって。ぼ……俺が馬鹿にされるじゃない』
ディテールは違うけど。これがきっかけだ。言葉も悪くなったし、二宮のこと、みいちゃんって呼ぶのもやめて。けど。何となく。強くなった錯覚。何にも変わっちゃいないのに。そんなおかしな。自信。
「思い出したよ、私も」
二宮がぷつっと切れたように呟き、そのまま黙り込んでしまう。俺も口をつぐんでしまった。掘り返されるのが恐くて。けど。やめるわけにはいかなかった。俺はしぶしぶ口を開く。
「もう少し考えていこうよ。これ以上はつらいのごめんだぜ」
二宮も同感と思いっきり首を振る。
「二宮、なんかこう絶対関係ありそうだな、ってのない?」
俺の問いに二宮はしばらく目をつぶって考え込んだ。しばらくして二宮は急に俺の頭を叩いて叫んだ。
「おっきいこと忘れてるじゃない!」
二宮は俺の文句を無視してさらに顔を近づけて騒ぐ。
「ヨッタ、完全に忘れてるじゃない。ね、思いつかない?」
俺は膨れっ面を向けて口を尖らせる。二宮は気分良さそうに俺を眺め、教えて欲しいのかな、と笑う。俺は絞り出すような声で答えた。
「ああ、教えてくれ、じゃないともう手伝わないからな」
二宮はちょっと目を細めると、大きく笑って答えた。
「私たちが、初めて会った日」
そうだった。俺たちが初めて会った日のこと。それが始まりなのに。今までの、全ての。馬鹿だ、と呟くと二宮もうつむいて小さく笑った。
「だから。いつまでも一緒にだらだらただの友達やってんじゃない? 大学生にもなって、さ」
「お互い、間が抜けてるのは事実だな」
どちらともなく吹き出す。そして二宮がはっきりと言った。
「さ、変てこな空からおさらばだ!」
俺たちが会ったのは小学校入学だ。どうやって会ったのか、それさえ。それさえわかれば。二宮が険しい表情で俺を軽く睨む。どこか狂い始めた。
「ヨッタ、あんたと会ったのって確か教室に入る前なんだ。あんた小学校に入った日、廊下で何してたっけ」
俺はゆっくりと目をつぶって考え込んだ。ずっと忘れていた、嫌な記憶が脳の中に雨雲のように広がっていく。
「いじめられてた」
「それを私がかばって」
「殴られた」
俺は思わず吹き出した。二宮が不服そうに顔をしかめるので、俺は笑った理由を話した。
「だってさ、もう少しロマンチックでも良いんじゃないか?」
「月並みなせ・り・ふ」
俺たちはまた元に戻ってぽんぽんと悪口の応酬を始めた。いつになっても発展性のない俺たち。だが、二宮はふっと真顔で馬鹿みたい、と呟いて続ける。
「私たちって、変える力もないのに。そんなわかりきったことなんでできなかったんだろ、お互い」
俺はゆっくり拍手する。二宮は黙って俯いた。黙り込んでいると、ふっと体が引っ張られるように感じた。二宮と目を合わせる。地面が見える。もうすぐ地上だった。
一カ月ぶりの地上は既に秋だった。例の老人は黙って降りてくる俺たちを見つめていた。爺さんは微笑みで応える。俺は二宮を引き寄せた。
「どうだったい、眺めは」
爺さんに俺は二宮と顔を見合わせ、一緒に答えた。
「最高でした」
「どこ駆け落ちしてたんだよ、お前ら」
俺と二宮で「帰地面祝い」をしていると、どこで聞きつけたのか井澤が乱入してきた。
「忘れ物を探してたの、ね?」
二宮は井澤にからかい混じりに答えながら俺に目配せする。
「井澤のこと、すーっかり忘れてた 」
「ろくでもねえ友達だな」
ぼやきを俺も二宮も平気な顔で笑い飛ばした。井澤は呆れた顔で俺のビールを勝手に飲み干して立った。
「俺、ついてけねえや。もう帰る」
俺と二宮はそのまま井澤が行ってしまうのを見送った。二宮はにんまり笑うといきなり怒鳴る。
「ビールジョッキ五つとお好み焼き二人前、あとお茶漬け二人前にホッケ二枚ちょーだいっ!」
「そんなに一気に頼まなくたって」
「お腹へったって言ったじゃん。ならちゃーんと食べてね」
やっぱりまた。こいつに引きずられるみたいだ。
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