腕の痛みにフェレリアは目を覚ました。いつも見慣れた天蓋がない代わりに、低い天井が目に映る。期待とうらはらな光景に、再び意識が遠くなりかけた。
ここはお城じゃなくって。今度は意識がはっきりした。慌てて体を起こそうとする。しかしすぐにその体は優しく抑えられた。
「落ち着いて。もう少し寝ていなさい。傷だらけのホワイトドラゴンがあなたを連れてきたのよ」
「デバイ! デバイは?」
夫人は答えない。黙ったままうつむいてしまう。フェレリアは即座に布団をはねのけた。
「デバイのところに行かなきゃ。デバイを助けないと!」
いきなり夫人の張り手が飛んだ。フェレリアは呆然とする。
「ごめんなさい。あんな依頼をした私が一番悪いわ。でも、今あなたが行ったって何ができるの?」
フェレリアは黙り込み、次いで脅すような低音の声で訊く。
「じゃあどうするわけ?」
「王城の方に連絡すれば。それしか解決法はないと思う」
フェレリアは鼻で嗤った。そして睨みつけながら詰め寄る。
「へえ。それが解決法? 苦渋の選択として魔獣は駆除してあとで汚職捜査、ってやつ? ええ、この辺の民衆はもちろん、お城の父上や役人や魔道院もめでたしめでたし、よね」
フェレリアは剣を夫人の首筋に当て、自棄の言葉を続けた。
「解決の糸口を作った姫君は魔獣デバイ掃討の初陣も飾り? 王位を継ぐ力を認められて?ああ幸せよね。デバイを殺したって罪を背負い続けて一生幸せよね。ミナ大帝そっくりよね!」
剣を引き、ドアに向かって投げ捨てる。狼狽えるベルデル夫人を見つめ涙を溜める。そしてついに哭いた。泣いて泣いて、体の水分を絞り出そうとするかのように泣き続けた。
そうやって泣いていると、窓を叩く音が聞こえた。振り向くと、窓からは部屋の中を覗くドラゴンの瞳が見える。フェレリアはやっと泣き止んで袖で涙を拭うと窓を開けた。
「お姫様、目が醒めたようだね」
「ねえデバイを助けたいの。手伝って」
フェレリアの言葉にドラゴンは溜息をついた。
「私は解呪など知らぬよ。あれは人間の魔法なのだから」
答えを聞いてしゃくりあげる。ドラゴンは気の毒そうに見つめ、しばらく考え込んだ。と、ふとドラゴンは目を輝かせる。
「フェレリア、一つ心当たりがないでもないぞ」
フェレリアは顔をあげ、必死の形相で窓際にしがみつく。ドラゴンはフェレリアが落ちないように支えながら記憶を辿った。
「儂らドラゴンの棲む谷で修行していった偏屈な女魔道医がいるんだ。相当の知識なんだが、王家が大嫌いとか言ってたな」
フェレリアは落胆の色を隠せない。だが、一人うなずいてドラゴンに頼み込んだ。
「お願いです、その人の所に連れていって!」
ドラゴンは夫人に目を向けた。婦人は静かに答える。
「この娘、鍛えているから三日だけ休めばなんとかなるわ」
「三日も待てないよ!」
フェレリアの叫びにドラゴンは静かな声で答える。
「休みなさい。向こうで倒れたら大変だろう? 当日の夜には到着すると思う。いや、到着してみせる」
フェレリアはドラゴンの真摯な瞳と目が合う。少し焦りすぎていたように思う。驚異の回復力のドラゴンでさえも傷だらけなのに気づいた。それを省みなかった自分が恥ずかしかった。
「わかりました。では三日後、お願い致します」
ドラゴンはうなずき、そのまま窓の下に寝そべった。フェレリアもベッドに戻り、ゆったりと体を横たえる。
「ベルデルさん、さきほどは酷い言葉、すみません」
婦人は小刻みに首を振り、小さく笑顔を浮かべて応える。それを見たフェレリアはまだ傷の癒えていない証拠か、強い眠気に襲われた。フェレリアは目を閉じて大きく息をつく。
フェレリアは眠りに落ちながら、耳元でごめんなさい、という声を遠く聞こえた気がした。
三日後。多少痛むのを我慢しながら、それでも鎧を纏ったフェレリアがいた。ドラゴンはかなり回復した様子で空を駆けながら軽く準備運動をしている。
この三日間、山には動きがない。とはいえ、山で声が聞こえるという話が村内では話題になっている。今のところは夫人が「ベルデルの奥方」として抑えてくれているが、城の方に話が伝わるのも時間の問題だろう。残された期限はわずかだった。
「じゃ、お願いします!」
フェレリアは旅立ちの準備を整え、ドラゴンに頭を下げた。ドラゴンは相変わらず優しい表情のままでそっとフェレリアを背中に乗せる。フェレリアは夫人に眼差しをむけた。
「申し訳ありませんが留守中お願いします!」
「お任せなさい。デバイ君には誰にも手を出させないから」
瞬間だけフェレリアの目が潤んだ。しかしすぐに調子を取り戻すと勇ましく胸を張って天を睨みつける。ドラゴンは一声吼えると真っすぐに空へと舞い上がっていった。
ドラゴンは真っすぐに南へと飛び始めた。馬なら一週間かかる距離を一日で飛ぶというだけあってかなりの速さだ。フェレリアも初めのうちはあまりの速さと高さに口もきけず目を閉じていたが、やっと慣れてきたのかそっと目を下に向けた。
「すっごーい」
眼下に広がる原生林は幼い頃に贈られた森の玩具のように小さく、もはやベルデル夫人の村も遠く霞んでいた。次々と光景は流れていき、地平線が連続して描き直されていく。
「小さいなあ。この国ってこんなに小さいんだ」
フェレリアは目の眩みそうな思いに浸る。ドラゴンや魔獣から見れば、どれほど自分たち人間が小さな存在なのか思い知らされた気がした。それと同時に、その巨大な力を跳ねのけて繁栄を続ける人間のしぶとさに静かな恐ろしさをおぼえた。
ちょっとした感傷を振り捨て、行き先に思いを巡らせた。
「ドラゴンさん、魔道師ってどんな人? 何て名前なの?」
「その前に言っておくが、儂の名はシェールだ。呼び捨てで構わぬから『ドラゴンさん』はやめろ」
「だあってドラゴンじゃありませんか?」
「ならお前は『人間さん』か?」
シェールの言葉にフェレリアは大声で明るく笑う。
「元気になったな。数日前は自害でもせんかと心配だったが」
「大丈夫。だってデバイを助けられるかもしれないんでしょ。一度は彼を殺めようとまで思い詰めたんだもん!」
シェールはフェレリアの言葉に舌を巻く。強くなった、そう思いながらも同時に不憫に思えてしまう。
(どうにかして幸せにしてやろう)
ドラゴンが人間に興味を抱くことは珍しい。だが今回ばかりは特別だった。フェレリアの抱いているあまりにも強い想いがシェールの目に眩しく映っていたのだ。しかしそんなシェールの考えも知らず、フェレリアは元の話題に戻る。
「で、相手ってどんな人?」
「五十歳程の女魔道師だ。名前はピアティ」
聞いたことのない名前だ。王家を嫌っていると聞いてはいたが、父王との間で昔に何かあったのだろうか。
「厄介なことがなければいいのだがな」
「でも、絶対に私たちの責任じゃないし」
「人間は親子を一緒に考える悪い癖があるからな」
シェールの答えに、やはり彼がドラゴンだと思い知らされた気がする。そんなことは過去のしがらみがあれば当然だ。だがドラゴンにとっては親子は何のことでもないのだろう。
しばらく二人は黙り込む。そのうち再び疲れが襲ったのかフェレリアは軽い寝息をたて始めた。シェールはフェレリアを落とさないように気をつけながら真っすぐに飛び続けた。
しばらくして、フェレリアは右目の眩しさに目を覚ました。もうだいぶ傾いた西日が頰を照らしていたのだ。
「目が醒めたかね?」
「ごめんなさい! すっかり寝入ってしまって」
「別に構わぬ。そなたがまだ本調子ではないことぐらい先刻より承知の上だ。それよりもうすぐだぞ」
ドラゴンの指さす方角に目を向けた。そこにはこんもりとした森があり、その中心部だけがくり抜いたように樹木が生えていない。さらにその中心には小さく建物があるように見える。
「魔法で樹木を避けているのだ。大したものだろう?」
フェレリアは仰天する。魔法には詳しくないが、そこまで自然の力に干渉できるとなればかなりの腕に違いない。おそらくディアス院長さえをも凌駕しているに違いない。
(どうしてそれほどの人物が若いのに隠遁なんて?)
一抹の不安が胸をよぎった。だが今はピアティに会うことだけを考えるしかなかった。
(どんな障害だって切り抜けてやる。デバイのためだもの)
そう自分に言い聞かせ、眼下の風景に目を凝らす。ちょうどシェールは着陸態勢に入りつつあった。穴の周りをゆっくりと旋回し、両足を揃え器用に翼を動かして穴に降りていく。木々が近づいてきて、次には森の中心を貫くように沈んでいく。
ついにシェールは地面に降りた。フェレリアは飛び降りて目標の建物に駆け寄った。何本も煙突が立ち、数枚の窓には呪文が描いてある。家庭というよりも研究所の風情だ。
フェレリアは玄関の前で立ち止まりシェールの態度を窺う。するとシェールは爪でドアを叩いて中に声をかけた。
「シェールです。緊急の用があり参りました」
人の動く気配がして、次いでドアがゆっくりと開けられた。
「いらっしゃい、シェールとお嬢さん」
鋭い感じの女性だ。銀色のローブを纏い、額には赤い金属製の細い鎖を巻いていた。
(ブラッドメタルだ)
すぐにデバイのことを思ってしまう。また泣き出しそうになる。だが唇を噛んで気持ちをぐっと抑え込む。
「この娘の相談で参りました」
フェレリアは慌てて深々と頭を下げた。ピアティはフェレリアをじっと見つめ、そして片手を挙げるとシェールを指さした。
「とにかく部屋で話しましょう」
言った途端にシェールの巨体がみるみるうちに小さく変わり、フェレリアと同じ高さまで縮んでしまった。
「シェールさん!」
「彼が入るには小さくなってもらうしかないでしょう? 建物を大きくするのは大変だし」
とんでもないことをまるで当然のことのように言う。フェレリアは背筋に冷たいものが流れるように思う。ピアティが身を翻して部屋に入る。ぼうっとしていたフェレリアはシェールに促され、慌てて後を追った。
通された部屋は四人用のテーブルと本棚と食器棚が並んでいるだけの簡素な部屋だった。奥には「無断侵入禁止」の文字がある扉が見えた。おそらく研究室関連なのだろう。
「ワッセル王国国王ガートンの娘、第一王女フェレリアと申します。本日は貴殿のお力をお借りしたく参上した次第です」
フェレリアの口上を聞き、一瞬だけピアティの眉がつり上がる。だがすぐに平静な表情に戻って答える。
「いらっしゃいませ。私は魔術士のピアティと申します」
「魔術士?」
フェレリアは思わず聞き返す。本来は魔道師は研究を中心としており、魔術士は人々の役に立つ術を実際に施す人、という区分なのだが、実際には魔道師の方が格上とされているのだ。
ピアティは小さく笑ってフェレリアの疑問に答えた。
「私、魔道師の肩書の試験を受けてないのよ。研究をやっちゃいけない、って決まりがあるわけでもないし。私は必要なときにすぐ自分で魔法を使う、そういう魔法使いでいたいわけ」
「はあ……」
フェレリアの中に再び不安が巻き起こる。かなりの変人、そう言われても仕方ない。だがこれで強力な魔術を操りながらも名前が耳に届いていない理由がわかった気がする。
「おかけになって。ご立派なお城にすんでらっしゃるお姫様がこんなあばらやに来るなんて不思議だけど」
フェレリアはピアティの言葉に刺を感じとった。シェールも不安そうな表情を浮かべている。
(父上、いったい何をやったわけ?)
不安のあまりにもう父王を恨みに思う。だがピアティは普通の表情で、何か緑がかった飲み物をテーブルに置いた。フェレリアは不安な表情でグラスを覗き込む。
「お酒は弱い? これ、梅から作ったジュースなの」
「梅、ですか」
「ええ。親友の好きだった花」
フェレリアは首をかしげると、ピアティは真面目な表情で訊く。
「父上から何か、訊いていない?」
「いえ、とくに……ただ、毎年その季節になると梅の花を見に一人で馬を駆っていなくなるんですけど」
そう、とぽつり答えると窓の外に目を向けたまま沈黙する。フェレリアは彼女の姿を観察しながらまた考え込んだ。
(まさか父上の恋人、とか? でもまさかあの父上にかぎって)
しばらくしてピアティはつっ、と顔を戻すと、今度は鋭い視線でフェレリアに問いかけた。
「で、何があったのです? まともな初陣も済ましていない王女自らが動くとは、どのような用件なのですか?」
フェレリアは慌てそうになる自分を必死で抑えながら今までの顛末を話した。それでも本来は無駄なはずの、デバイと自分の幼い頃の話までしてしまう。だがそれで正しい気がした。全てを話すのを求められている、なんとなくそう思えた。
一通り話し終えるとピアティはシェールに魔法の専門的な質問をいくつか問い、紙の上で何やら計算しながら再び考え込む。しばらくしてペンの動きが止まった。顔をあげ、フェレリアをじっと見つめる。
「あなた、覚悟できるの?」
「もちろん、どんなことでも!」
言った途端、ピアティが立ち上がって叫んだ。
「そういうことをすぐ答えるところが間違ってるの! 話を聞けばあなたのいいかげんさ、甘えが事態を悪化させてるんじゃないの? 思慮が全く足りない! さすがはガートン王の娘だ!」
「父は……父は関係ありません!」
「私は若い頃のガートン王を知っているの。思慮不足の約束で一人の若い娘を恋に狂わせたガートン将軍を憶えている」
フェレリアは言葉もでず、椅子の上で慄える。するとシェールが横からそっと口添えした。
「この娘はまだ若い。たしかに大きな失敗をしているが、まだ若いのだ。まずはデバイを救うことが先決ではないかな?」
シェールの言葉に表情を緩め、静かに席へ戻った。ジュースで喉を湿らせ、今度は静かな声でフェレリアに質問を発する。
「あなた、ミナ大帝の技も習ってる?」
「はい。ただ、最高の秘伝は姿勢その他は覚えていますが、基礎体力が足りなくて、実際に使うまでは」
ピアティは数回うなずき、そして続ける。
「その秘伝が必要なの。剣を心臓に差し入れてその剣から呪いを解く魔法を流し込んであげるわけ。魔獣の心臓まで剣を真っすぐ届かせるって言ったらあの剣技しかないわ」
「でも……」
「できないのはわかってる。だから、あなたに魔法をかける。肉体の限界を越える魔法」
この台詞を聞いた途端、シェールが慌てて叫んだ。
「危険すぎる! なんなら儂がその役を代わろう」
「剣を揮う者に解呪を予めかけておくのよ。ドラゴンに魔法を帯びさせられるわけないじゃない。だから覚悟をさっき訊いたのよ」
二人の会話にフェレリアは不安な表情を浮かべる。その様子を見たピアティは一気に話した。
「『無限の法』をかければミナ大帝の秘剣を揮えるでしょう。しかしそのあとは保証しない。おそらく、あなたは一生剣を握れない体になるでしょうから。いえ、その華奢な体ならまともな生活を送れるかどうかさえ保証しきれない」
フェレリアの目が大きく見開かれる。二度と剣を握れない。もう、戦士としては使い物にならなくなる。
「そんな危険、他の人にさせるわけにはいかないわよね。代わりの人なんているわけないわよね」
(剣を捨てる……剣を、捨てられる?)
自分に問いかける。大きな誇りの剣。それを捨てる。だがすぐにデバイの顔が思い浮かんだ。魔獣に変化していくデバイを思い出した。自分を庇ったためにあんな姿になったデバイ。
「すぐの決心は心変わりしやすいわ。一晩考えてみなさい」
ピアティはもう真っ暗になった窓の外を眺める。フェレリアはただ黙ってうなずくばかりだった。
案内された寝室は狭いながらもこぎれいで、考え事をするにはうってつけの部屋だった。食事も終わっておやすみの挨拶をすると、フェレリアは独りで寝室に閉じこもった。
ベッドに横たわり、剣に目を向ける。父王に稽古をつけてもらったこと。騎士たちに紛れて騒いでいた日のこと。沢山の思い出。この旅だって、父王から剣を取り上げられそうだったのを逃げることが始まりだった。
でも。それ以上にデバイを喪いたくなかった。ベルデル夫人の声が耳に残っている。
『ガートン王を倒し、このデバイ君を殺すわけね?』
剣を捨てないことを選ぶのなら、そのときの答えはこれしかない。ミナ大帝と同じことになる。おそらく、いつか父王を手にかける日も遠くないだろう。
(ミナ大帝。あなただったら? あなたはどうだったの?)
剣を見つめて問いかける。もちろん何の返事も返ってくるわけがない。だが、それでもまた剣を見つめる。
「殺したいほど愛してる」
何気なく口をついて出た台詞にフェレリアは自分の思考を恐怖した。いつのまにか自分は狂っているのだろうか。
ふと、ドアの外に物音が聞こえた。フェレリアがそっと開けると、そこにはシェールが立っていた。
「フェレリア、どうだね?」
フェレリアは唇を噛み、いきなりシェールの首に腕を回してしがみついた。シェールは優しくそのままの姿勢を保つ。しばらくして体を離すと、中にシェールを招き入れた。ドアが音を立てて閉まる。
「どうすればいいんだろう」
「それは君の心次第だ」
月並みな返事に当然だ、と言い返しそうになって思い直す。たしかに、自分の問題でしかない。とくにシェールに至っては人間でさえないのだから全く無関係としか言いようがない。本当に、本当にわかりきったことだった。
「だがね、君にとって本当に大切なものは何なのかね。どちらが正しいのかも私にもわからない。ただ、君が王女という特殊な人間であることは事実だね」
そう、王女。将来は国を動かしていく重要な人間。そんな風に大臣や家庭教師の先生方に習ってきた。しかし、それがどれほどの価値があるというのだろうか。
(私の代わりに王を務められる人は?)
いない、とは言い切れない。もし何かの事故で自分が生まれなかったとしても、その場所は誰かが埋めていたはずだった。王女である、そんなのは単なる偶然と言ってもいい気がした。
(でもデバイは。デバイがこの世から消えたら?)
ミナの心が今、やっとわかった気がした。剣、なんて。デバイと剣を秤りにかけているなんて。自分の両手をじっと見つめる。いったい何のために剣を習ってきたんだろう。
ミナ大帝も今のフェレリアと同じ選択肢があったなら、もっと違った結果になっていたのかもしれない。否、そうに違いなかった。大切なものを守るため。答えは一つしかない。
「シェールさん、気持ちは決まりました」
「中身は明日、訊くことにしよう。今日はゆっくりおやすみ」
シェールはそう言い残して部屋を出ていった。フェレリアはベッドに潜り込んでゆったりと息を吐いた。
今夜はデバイの夢を見られるような気がする。
「お願いします」
ただ一言。朝起きたときのフェレリアの言葉はこれだけだった。ピアティは黙ってうなずくと昨日の部屋へと手招きした。部屋では既にシェールが姿勢をただして待ちかまえていた。一礼すると、シェールは全てを了解したようにうなずいた。
少し緊張を解いてテーブルを眺めると、トーストと鶏の香味焼き、蜂蜜と梅の実のジャム、そしてミルクが並んでいる。これから悲痛な戦いに出るというより、ピクニックの日の朝食と言った方がしっくりくるような取り合わせだ。フェレリアは戸惑ってテーブルを見回していた。
「食事もせずに戦うつもり? 食事は戦士のお仕事よ」
慌てて答えて席に就く。さきほどまで高揚しすぎていた気分が少し落ち着きを取り戻した。あまりにも平和過ぎる食卓。なんだか毒気を抜かれるような気になる。
(でも、最後の平和な気分を満喫しておこう)
フェレリアはトーストにかぶりついて笑みを浮かべる。それを見たピアティも嬉しそうに微笑んだ。
(やっぱり不思議な人、よね)
この食事が終われば。その瞬間にこの平凡な日常は崩れさっていく。今ここにある平和はただ見せかけのものでしかない。蜂蜜たちのもたらした幻影の魔法。日常と暗黒がここまで近い光景はどこか滑稽でさえある。
そんなことを考えても、食事は呆れるほど美味しかった。王宮の晩餐にも慣れっこのフェレリアでさえ覚えのないスパイスが効いた肉にフェレリアは深刻な気分を軽くされた気がした。
「明るくなったわね、フェレリア姫」
「お食事が素敵でしたから」
装備を点検していたフェレリアの答えに、ピアティはさも嬉しそうにまた笑う。そうしているうちにフェレリアが立ち上がる。ピアティも杖をとって外に出ると、来たときと同じようにシェールに魔法をかけ、シェールを元の大きさに戻した。
「さあ、二人とも乗るがいい。超光速で送ってあげよう」
二人が背中につかまる。シェールは軽く体を揺すって二人が落ちないのを確かめると、森に響くほどの大声で吼えた。
「出陣だ!」
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