ベルデル夫人は嬉しそうに二人の申し出を聞いた。朝、起きてすぐに二人は昨日の答えを告げたのだ。夫人は何度かうなずくと、別室に入っていった。それから少し経って、夫人は一振りの剣を携えて戻って来た。
「お弁当以外にあげるもの、って言ったらこれぐらいよね」
包んでいる布をほどくとかなり無骨な造りの剣だ。フェレリアは抜いてみて、いきなり目の色を変えた。
「東方製の剣。絶対に折れないの。でも実用一辺倒だから父上は私には使わせないんだけど、でも凄い物だよ!」
夫人はうなずいて説明を加えた。
「夫がミナへ誕生日に送るはずだった剣なの。結局、あんなことになったからそのまま倉の奥にあったんだけど」
「そんなの、貰うわけにはいきません!」
慌てて剣を返そうとすると、夫人は受け取らずに答えた。
「剣は使われてこそ意味があるの。正義のために使わせるために夫が苦労して手に入れた剣ですもの。使ってあげて」
フェレリアもついに折れて頭を下げると、剣を腰に下げた。そうして色々と荷物を詰め込み、夫人の説明を受けた。婦人の話によれば、村の背後にあるゼファド山の奥でその闇業者が仕事をしているらしい。フェレリアの思った通り、彼女はただの奥様とはわけが違ってきちんと下調べは既に済ましている。
見送る夫人に手を振りながらベルデルの屋敷をあとにすると、二人は敵の潜むゼファド山に向かった。ゼファド山はどちらかといえば禿げ山に近い、疎な林がずっと続くような山だ。それというのも瘦せた土地と急峻な崖が行く手を塞ぐ、生物たちには酷な環境であるためだろう。
「デバイ、大丈夫?」
フェレリアは鎧の代わりに夫人から借りた鎖帷子に取り替えてあるとはいえ、さすがにデバイとは普段の鍛錬が違う。ほんの小一時間歩いただけなのだが、フェレリアはデバイの様子を見かねてついに歩を止めた。
「ちょっと休もうか?」
「でも、ある程度急がないとさ」
「疲れたまんまで敵さんに遭ったらなおさら危険でしょ。こういうときは戦士の言うことを聞くもの。こんなことで莫迦にしたりしないって。ね?」
魔法で治療したとはいえ、この短期間で肩の傷が完治しているはずがない。それにデバイがいつもぎりぎりまで我慢してしまうことは幼い頃から知りすぎるほどにわかっている。フェレリアが黙って木陰に腰を下ろすと、デバイは安心した表情で横に座った。そうしてやっと落ち着いた頃合いを見計らって、フェレリアは何気なく話をふった。
「ねえデバイ、背徳の杯について教えてよ」
「僕だってそんなに詳しいわけじゃありませんよ」
「でも、私よりは詳しいでしょ? だから」
デバイは神妙な顔になり、そしてゆっくりと話し始めた。
「まず魔力の付与とか、隷属の話は知ってますよね。で、これだけは注意しておいて欲しいんですが」
フェレリアは膝を揃えてうなずく。言葉を一旦切り、デバイは声を落としてゆっくりと続けた。
「古代に制作された背徳の杯の場合、その杯で汲んだ水を浴びるだけでも駄目みたいなんです」
「飲まなくっても?」
「ええ。テルア導師自身、幼い頃に偶然ミナ大帝が見つけた杯の水を悪戯にかけられたのが発端と言われています」
フェレリアの表情が曇る。うつむいたまま唇を噛みしめ、そして吐き捨てるように言う。
「私、テルア導師のことはただの事故って聞いてた。でも、原因ってミナ大帝陛下御自身なんだ」
「姫様?」
「テルア導師ってミナ大帝の被害者でしょ。ミナがいなきゃきっと幸せに生きていけたじゃない!」
「でも、ずっと一緒にいたんだしテルア導師だって」
「違うよ! ミナのわがままと無茶に引きずり回された挙げ句に命まで奪われただけなんだよ!」
「姫様、考えすぎですよ。たしかに大帝陛下の母上の仰ることは正しい面もありますが」
庇うデバイを恨めしげに眺め、次いでゆっくりと思いがけない言葉がフェレリアの口から絞り出された。
「ごめん」
デバイは首をかしげる。だがフェレリアは構わず続けた。
「私、ほんとの大莫迦者だった。デバイのこと、危険に巻き込んじゃった。私さえいなきゃ普通の調査団に行けたのに、こんな危険なとこに連れて来ちゃった」
デバイは戸惑った。こんなフェレリアを見たのは初めてだ。デバイの知らないフェレリアがそこにいた。しかし、いつも明るいばかりのフェレリアは本当にフェレリアの全てだったのだろうか。デバイの胸に複雑な振動が波紋を広げる。だがしばらくして、デバイは少し強い調子で問いかけた。
「で、謝った上でどうするおつもりなんです?」
何も答えられないフェレリアに、あえてデバイは言葉を重ねた。
「今さら帰るわけにもいきませんよね。それとも我慢してどこかの王子を婿にとってなんてこと、姫様にできるんですか?」
「できるのかって、ちょっとひどい言い方!」
「そうなんですか?」
フェレリアは黙り込んだ。そんなことに安住できる性格ならば父上に叱られるわけがない。そもそも、そんな人間がいきなり冒険に飛び出そうとするはずがない。
デバイの期待する答えがフェレリアにもわかった気がした。だからあえて気の回らない子どものように立ち上がる。
「ちょっと休みすぎね。行くよ!」
デバイに見つめられた頰が、かすかに暑い気がした。
「たしかにありそうですね」
デバイは突然立ち止まると、傍らの大岩を観察して呟いた。
「ありそうって、何がありそうなの?」
「この岩石はブラッドメタル鉱石と言って、魔力を閉じ込める性質の金属を多量に含んでいるんです」
「それで?」
「古代には背徳の杯の製造はブラッドメタルを原料に、鉱山付近で盛んに行われたらしいんです」
「盛んに、ってそんなに危険なものを?」
「古代は奴隷制度が極端に発達していたそうですから」
平然と答えるデバイに背筋が気持ち悪いような錯覚をおぼえる。だがすぐに気を取り直して次の質問をぶつけた。
「で、学者先生はどこに悪者が潜んでるって見解なわけ?」
「ベルデルさんが変な洞穴があると仰ってましたよね。素人には洞穴も坑道もわからないでしょう」
「じゃ、やっぱ」
デバイは黙ってうなずく。夫人の言っていた洞穴に向かっていたのだが、おそらくそこはブラッドメタル坑道の跡なのだろう。二人は顔を見合わせてうなずくと洞穴に急いだ。
しばらく道を進み、やっと坑道の付近についた。フェレリアはデバイを制してそっと草陰から洞穴の様子を窺う。すると案の定、入り口付近の下草が踏み荒らされている。
「動物じゃないよ、あれ」
坑道はここから見る限り真っ暗で、人がいる様子はない。周りを見回しても見張りを立てるような高台もなく、もしいるとしたら中しか考えられない。
「デバイ、覚悟を決めよっか?」
デバイは杖を握りしめ、黙ってフェレリアの瞳を覗き込む。
(僕が守ってやる、ぐらい言って欲しいよね)
ちょっとだけ悔しいような気分になりながらも、再びフェレリアの胸に戦士としての責任感が迸る。デバイは研究室勤めの魔道学生だ。こういった冒険や戦いはフェレリアが引っ張るしかない。
フェレリアは素早く洞穴に飛び込んだ。光、匂い、音、空気の流れ。五感が状況を次々と報告してくる。フェレリアは当面の危険はないと判断してデバイを手招きした。
がさがさと草から飛び出しデバイがやってくる。訓練しているフェレリアからみればずいぶんと危なっかしい。今さらながら、自分がかなり危険な境遇にあることに気づく。かすかに体が触れあい、やっと二人とも胸の動悸が収まる。フェレリアはもう一度気配を探ってから小さい声で囁いた。
「明かりをお願い。弱めで」
木の枝の先端に黄色い魔法の光を灯し、やっと中が観察できるようになる。デバイは岩壁を撫で回してうなずいた。
「人工の穴ですよ。でも、遺跡の雰囲気だね」
「じゃ、人足はいないわね」
フェレリアは少し安心する。戦士がいる可能性は高いが、それ以上に坑夫までいたりしたら話がなおさら厄介になる。だがそういった面倒だけは少なくとも避けられるようだ。
フェレリアは大きく息をつくと静かに歩を踏み出す。デバイは光を灯した棒を手渡してフェレリアの後ろについた。
「後ろに気をつけてね。後から来る可能性もあるんだから」
デバイは不安そうな表情を浮かべたが、それでもフェレリアは構わずに歩き始める。少し気が咎めるが、持ち前の正義感と無鉄砲がフェレリアの気分を後押ししていた。
(だあってデバイったら安全志向すぎるんだもん)
国を治める者としては不埒な考え方なのだが、いつも言われている父王の小言など頭の隅にも残ってはいない。この辺りが周りから叱られる原因なのだが反省するフェレリアでもない。
不穏なことを考えながらもフェレリアの勘は動物並みに鋭くなっていく。一方でデバイはといえば、さすがは学者の卵だけあって色々と調査をやっているようだ。フェレリアには何のことやらわからないが、掘られた年代を推測しているらしい。
そんな調子でかなり奥まで進んだ。坑道は緩やかな下り坂になっており、建物で言えばもう二階分は降りたはずだ。と、それまで普通に進んでいたデバイが歩調を緩めて声をかけた。
「フェーレ、この坑道ってずいぶん乾いてるよね」
偽名にちょっと戸惑い、すぐに自分のことだと思い出して生返事を返す。デバイは考えながら再び言葉を続けた。
「普通さ、雨水とか溜まるのにどうして乾いてるんだろう」
「じゃ、誰かが乾かしてる、とか」
言っておきながら、自分でも非現実的な答えだと思う。しかしデバイはその考えにとびついた。
「もしかしたら、それあるかも。たしか背徳の杯を製造するときにはかなり強い火力が必要だから」
「ここで実際に作ってるっていいたいわけ?」
デバイはうなずき、真面目な表情で歩を早めた。フェレリアは慌てて前に出てデバイの肩を押さえる。
「デバイ、あせっちゃ駄目だよ。こういうときは落ち着いて」
フェレリア自身の中にもかなり強い不安が渦巻く。それでも表情には出さないようにして再びデバイを先導しようとする。と、その刹那、奥から強烈な風の音が瞬間だけ鳴った。
フェレリアは五感を研ぎ澄ます。皮膚の毛先まで聴覚に変えたように耳をそばだてる。静まった洞穴の奥に、かすかな空気音。隙間風……いや、もっと規則的な。そう、呼吸だ。
「生き物がいる」
呟いてさらに耳を尖らせる。さっきのは共鳴だったのか。違う。直線的に聞こえた。今もそうだ。呼吸の合間が長すぎる。これほどゆっくりの呼吸なら巨大な生物だ。かなりの。いけない、とフェレリアは乾燥した呟きを発する。デバイはフェレリアの独り言に不安な表情を浮かべた。フェレリアは向き直り、ゆっくりと告げた。
「すぐ奥に魔獣かドラゴンがいるわ」
「まさか!」
「両方の呼吸音は聞いたことがあるもの。間違いないよ」
デバイは唾をゆっくりと飲み込んだ。急に喉がひきつったように思う。だがフェレリアはとてつもない提案をした。
「もう少し行こうよ」
「無茶だ!」
「でもこれじゃ危険を冒した意味がないわ。もう少し、ね?」
デバイは難しい顔でフェレリアを見つめた。しかしフェレリアは上を向いて少し考え、また続けた。
「逃げてたって始まらないよ。ディアス師だって言ってたでしょ? この旅で潰れるようなら王女として駄目だって」
「でも、危険を避けるのも選択の一つですよ」
「避けてばかりはいられない、って思う。お願い。わかって」
デバイも渋々うなずく。フェレリアは鯉口を緩めると、静かに奥への足を踏み出した。
慎重に、慎重に。自分に言い聞かせながら、神経を最大限に張りつめて進んでいく。デバイも覚悟を決めた様子で、今までよりも落ち着いた雰囲気に変わった。もし、魔獣だったら。小型なら倒せる自信はあるが、大型だったら一人で倒せるはずがない。そんなことができるのはミナ大帝ぐらいのものだ。
ゆっくりと歩を進めていく。次第に呼吸音は大きくなっていく。だが、まだ姿は何も見えない。動く様子もない。
(寝てるのかも)
だとしたら好都合だ。様子を見てとっとと逃げてくればいい。
こんなことを考えながら歩いていくと、突然目の前が大きくひらけた。明るい大広間の中、巨大なホワイトドラゴンが寝そべっていたのだ。だが後ろ足を鉄の鎖でつながれている。デバイは慌ててフェレリアの手を引っ張った。するとドラゴンが大きく欠伸をする。二人は後ずさりしながら次にとるべき行動に迷う。
「お前らは何者だ?」
ドラゴンがおもむろに喋った。二人は動けなくなる。だがドラゴンは先ほどの調子で言葉を続ける。
「お前らがこちらに向かっていたことは先刻より承知のこと。それに、お前らが儂とは何の関わりも持たぬ者であることもわかっておる。さあ、お前らは何者だ」
デバイはフェレリアを手で制し、自分が前に出て言う。
「ドラゴンよ、あなたはなぜそこに捕らえられているのだ?」
「寝込みに魔法をかけられ、気づいたらこの有り様だ。今では赤い、杯の格好をした魔道器製造の手伝いをさせられておる」
「「背徳の杯!」」
二人は同時に叫んだ。ドラゴンは目を細めてつけ加える。
「奴らはそう言っておった。儂にも使おうとしたらしいが、幸いドラゴンには効かんのだ」
フェレリアはデバイに向かって質問を放った。
「あの鎖、私たちで斬られない?」
「僕の魔法とフェーレの腕なら、もしかしたら。でも剣が保つかなあ」
フェレリアは鼻で笑って答える。
「この剣、頂いたときに頑丈だって言ってたでしょ?」
フェレリアの答えに納得しかけ、デバイは慌てて問い直した。
「ねえ、鎖を斬ってどうするつもり?」
「逃がしてあげる」
「僕たちが危険じゃないか!」
思わず叫んだデバイに横からドラゴンが応じた。
「危険はない。儂らドラゴンは恩義の何たるかを知っている。儂らは魔獣のような下等な者どもとは違う」
フェレリアはにっ、と笑って剣を高く掲げた。ドラゴンは嬉しそうに目を細める。
(企んでる様子は……ない、か)
ホワイトドラゴンは一般に善良なのだが、断言はできない。とはいえ今のフェレリアを抑えるのも一苦労だ。だが、面倒だからといって済ますようなことでは決してない。
(どうするデバイ。魔道師だろ、頭脳派だろ?)
執拗に自分への問いを発し続ける。フェレリアとドラゴン、二人の視線が痛い気がした。だがそれでも深く考える。
「デバイ、これは決断よ。答えなんてあるはずないじゃない」
フェレリアが耳元で囁く。再びドラゴンの目を見た。澄んだ灰色の瞳が不思議なほど綺麗に感じた。ドラゴンの乞うような視線があまりに不憫に思えた。誇り高き種族に酷い仕打ちをする者を、同じ人間として恥ずかしくなった。
デバイ、と再びフェレリアは促す。ドラゴンは静かに目を閉じてデバイの言葉を待つ。デバイはフェレリアの強い正義感が羨ましく思えた。やはり答えは一つに思える。ついにデバイは口を開いた。
「魔法をかけやすいように剣を僕の目の前に掲げてくれ」
フェレリアの笑顔が咲いた。
デバイの額に脂汗が浮かぶ。剣に向けた手から魔力を帯びた空気が流れていく。剣が青い光を纏いながら強烈な熱を帯びていく。フェレリアには重量まで大きくなったように思える。
(この剣でいくわけ?)
ちょっと不安に思う。技には自信があるが、残念ながら腕力はそんなにある方ではない。とはいえ、あれだけ見栄を切った以上、失敗などできるわけがない。ドラゴンの方はといえば全てを任せる、そう言いたげに目をつぶったままだ。なおさらフェレリアの手に重圧がかかった気がした。
突如、デバイの身ぶりが変わった。手を天に掲げ、呪文がさらに複雑な超古代の言語に変化する。フェレリアは剣を握り直し、デバイの目をじっと見つめた。
一声叫び、デバイが手を下ろす。途端、強烈な衝撃が剣に響き、フェレリアは岩壁に弾き飛ばされた。
「フェーレ、大丈夫?」
「心配なし! 鍛え方は違うんだから!」
せっかくだから手を貸してもらえばよかったかな、と少し後悔する。だがすぐに気を取り直し、剣を高く掲げる。剣は魔力を帯びてぼんやりとした光を放った。
フェレリアは鎖帷子の状態を確認して剣を握り直す。
「ドラゴン、今助けるぞ!」
ドラゴンは動かない。フェレリアは了解の意味にとった。剣を振りかぶり一気に鎖へ力を振り落とす。
光が走り鎖から腐臭が発する。呪力の衝突に剣を戻されそうになる。しかしフェレリアは踏みとどまった。少し剣が鎖に食い込む。力を込める。また再び鎖に食い込む。
鳴動が坑道内に響いた。鎖が爆発しフェレリアが吹き飛ばされる。闇が坑道内に広がった。姫様、とデバイは叫んだが、声がこもる。闇が視力を閉ざしていた。焦燥がデバイを包囲する。フェレリアが何よりも心配だった。ドラゴンのためにフェレリアを喪うわけにはいかなかった。
「フェレリア!」
今度は名前で叫んだ。声を吸収する闇を憎悪していた。無茶苦茶に腕を振った。闇を払う呪文を危険も省みず唱えようとした。しかしその腕はそっと大きな力で抑えられる。
「若者よ。娘は助けたぞ」
闇の中にバリトンの声が響く。闇が弾け、目の前にフェレリアを手に載せたドラゴンがゆったりと立っていた。
「気絶しているが怪我はない。魔法の影響も受けてはおらぬ」
ドラゴンはそっとフェレリアを下ろし軽く爪で額を撫でる。フェレリアは軽く呻き、ゆっくりと目をあけた。
「私、どうしたんだろ」
「気絶していたのだ。術はうまくいったぞ。礼を申す」
ドラゴンの言葉にフェレリアは飛び起きて向き直る。デバイもあらためてドラゴンを見直した。封印の切れたせいか、先ほどと違ってうっすらと白い光を帯びているのがわかる。その穏やかな表情は何となく気分を安心させるように思えた。と、ドラゴンの表情が変わった。背後に耳障りな声が響く。
「どういうことだ。お前らの仕業か!」
振り向くと魔道師が三名に兵士が一団、そして先頭には瘦せこけた貴族らしき男が立っていた。
「そなた、ヒュッケル!」
「王女……殿下?」
先頭の男が目を見張る。背後の男たちに動揺が広がった。と、デバイも別な人物の名前を呼んだ。
「ボルツマン先生?」
暗赤色の衣を纏った魔道師が舌打ちをする。フェレリアは目を細め、普段とは打って変わった口調で問う。
「そなたら、何をしておる。とくにヒュッケル、そなた病に伏せっておると聞いていたが、なぜにこの辺鄙な山奥におる?」
「姫様こそ、なぜに?」
「私は修行の旅の最中だ。そこで偶然にこちらのドラゴン殿をお助けした。何か答えがあるか?」
「それはもう、答えるまでもないな」
突然ヒュッケルの態度が変わった。兵士が一斉に抜刀する。
「先生、どうしてなんですか!」
「せっかく研究するんなら使ってみたいのが人情だろうが。こっちへ来い。跳ねっ返りに忠誠を誓って死んではつまらんだろう? どうせ身分違いで結ばれることはないんだぞ」
「嫌です! 僕は戦うぞ!」
デバイは杖を構えた。すると背後から声が響く。
「お前ら、儂がいることを忘れておらぬか?」
ドラゴンが怒りの表情で前面に立つ。兵士が後ずさった。だがボルツマンは不敵な笑みを浮かべる。
「俺は背徳の杯の力を持った爆炎と氷結の魔道師だぜ」
デバイの表情が一変した。熱に関わる魔法はボルツマンが魔道院最強で、ディアス院長さえをも凌ぐと言われている。ドラゴンは炎の生物だが、背徳の杯を使ったボルツマンだったら。
ボルツマンが杖を掲げる。空気が揺らぎ、ボルツマンとドラゴンが高温の別空間に閉ざされた。
「さあて、姫様。ドラゴンはボルツマンとの戦いで手助けはできそうもありませんぞ」
「はなからそのつもりよ。デバイ! 力を!」
デバイは目くらましの光を放ち、同時にフェレリアの剣に魔法を授けた。光が消えた途端、フェレリアが突入する。ヒュッケルの驚愕をよそに前面の兵士が倒れる。フェレリアは背後の剣士と相対する。
一方のデバイも呪文を完成させた。鎌いたちが兵士の肉体を切り裂く。魔道師に肉薄し、氷の矢を放って飛び逃げる。フェレリアの対する剣士はかなりの手だれで、数合打ち合っているがどちらも下がる様子はない。背後をついた兵士は次々とフェレリアの餌食になっていく。
魔道師の放った爆炎がフェレリアを襲った。刹那、フェレリアの意識が逸れる。
剣士が懐に飛び込む!
「もらった!」「させない!」
デバイの衝撃波が剣士を吹き飛ばす。フェレリアは炎を放った魔道師を討ち、立ち上がった剣士と相対する。
「姫様、ご立派におなりで」
「そう思ったら改心しなさい!」
「一応、ヒュッケル殿には忠誠を誓ったもんでね」
軽口を叩きながら際どい応酬が続く。と、いきなりドラゴンたちの空間が弾け、ドラゴンの咆吼が大地を揺るがす。ボルツマンの叫びがそれを突き破った。そして巨大な火柱が上がってのち、ゆらりと満身創痍のドラゴンが現れた。
「しぶとかった……」
ドラゴンは倒れ込む。背後にはボルツマンの杖だけが残っていた。それを見たデバイはヒュッケルに向かって叫ぶ。
「さあ、観念しろ。ボルツマン先生もいなくなったぞ!」
「そう簡単にやられるか!」
ついにヒュッケルが剣を抜いた。デバイが魔法を放ったがなぜか効かない。魔法よけの鎧を着ているようだ。デバイは舌打ちをする。援護を頼もうにも、フェレリアはまだ勝負を決していない。仕方なくヒュッケルの剣を避けながら呪文を少しずつ積み上げていく。
「デバイ、終わったよ!」
額からかすかに血を流しながらフェレリアが飛び込んできた。ヒュッケルは目を剝き、フェレリアの剣戟を避けると叫んだ。
「もはやこれまで。地獄をみるがいいわ!」
ヒュッケルは懐から取り出した透明な球をフェレリアに投げつける。デバイはフェレリアを庇って突き飛ばす。デバイに当たった球は破れ、中から水が弾けた。
「うああああっ!」
デバイが呻き声をあげる。服が破れ、皮膚が硬化していく。角が生え、巨大化し始めた。
「さすがは背徳の杯じゃ! 面白い面白い!」
自棄で笑うヒュッケルを一刀の下に切り捨ててデバイに向かう。
「デバイ!」
飛びつこうとしたとき、ドラゴンの腕がフェレリアを遮る。
「ドラゴン、邪魔しないで!」
「危険だ。逃げるぞ」
「やだ! だってデバイが、デバイが」
「黙れ、無駄死にはよせ」
「やだったら!」
もはやデバイは原型を留めてはいない。それでもフェレリアがドラゴンの腕を乗り越えようとした途端、ドラゴンの指がフェレリアの首筋を軽く撫でた。
「すまん。娘御、そなたのためだ」
ドラゴンは気絶したフェレリアを手の中に包み、天井の岩を突き破って高く空に飛び上がっていく。遠い意識の中でも、悲痛な魔獣の叫び声だけはフェレリアの鼓膜を叩き続けていた。
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