文芸船

思い出は青

「イチゴショート二つ、お願いします」

 財布を握りしめた、まだ幼さの残る少女が呟く。私が微笑んでうなずくと、少女は小さな安堵の溜息を漏らした。

 今日は「聖なるケーキの日」。昔の女王が手作りのケーキに託して愛を告白したのにちなみ、女性が好きな男性にケーキを贈る習わしがある。今日は少女たちが一斉に小さな勇気を振り絞る、年に一度の素敵な日なのだ。

 ショーケースを前に品定めをする娘、財布の中身を数え直している小さな子。店の入り口にはまだ中に入ろうか迷っている娘もいる。ショーケースのケーキのデザインをこっそりスケッチしている人までいた。いつもならそんなの駄目なんだけど、今日だけは特別の日。彼へ最高の手作りケーキをあげたい、そんな気持ちは私だってわかってる。だから見ないふりをして他の注文に応じ続ける。

 「チーズケーキ、一つだけで良いですか?」「チョコムース二つ」「お酒多めのブランデーケーキを」「甘くないケーキありますか? あの、彼、苦手だから」「ミルフィーユ早く!」

 次々と注文が嵐のようにやってくる。目が血走っている年輩の人もいるし、ずっと歳をとった老婦人もいた。でもみんなの想いは同じ。だから私はその気持ちにできるだけ応えていく。

 ふと人の波が止んだ。気がつくともう西日が店の中を照らしていた。ショーケースの中はすっかり空になり、もう売り物はほとんど残っていなかった。

 店の前に「閉店」の札を下げてカーテンを閉めると、もう一度ショーケースの中を覗いた。やっぱりシュークリームがかなり売れ残っている。こんな日に買う人はやっぱいないみたい。他はモンブランが数切れにイチゴムース、フルーツケーキはいまいちみたい。あとはブルーベリーケーキが一切れ。

 急に涙があふれた。手作りを最初に覚えたケーキ。初めて男の人にあげたケーキ。そんなブルーベリーケーキが一切れ、横倒しになっていた。

 そっと手に取って一かけら口に入れた。あのときよりずっと腕が上がってる。それが今は悲しかった。彼がいなくなって流れた時間が恨めしかった。ディックに私の作った最高のブルーベリーケーキを食べて欲しかった。

 ディックは剣士だった。村じゃ一番の腕自慢。都市の大会でも上位入賞する憧れの人だった。そんな彼が、私の勇気じゃ精いっぱいのケーキを口にして「おいしい」って言ってくれた。

 それから私たちの幸せな日が始まった。ずっとずっと幸せな日々が続く、そんなこと思ってた。彼が剣で身を立てて、私は小さなケーキ屋さんをして彼の帰りを待つ。そしてそばには私たちの子ども。そんな妄想は簡単にかなう、そう信じていた。

 でも。旅立ちのキスがいつもより長かったあの日。まさかその旅がドラゴン討伐の旅だなんて思いもしなかった。そして翌日に帰ってきたのは。

 彼の焼け残った剣だけだった。


 気がつくと、私は厨房でケーキを作っていた。お皿いっぱいのブルーベリーケーキ。正確に、完璧に作られたブルーベリーケーキ。こんなことしても、なおさらつらくなるだけなのに。でも手は動くのをやめない。泣きながらケーキを焼いていた。

 出来上がったケーキをさっそく口に入れてみる。ほんとに美味しいケーキだった。これなら首都で一番のケーキ屋さんに並んでいても勝つ自信がある。それほど美味しかった。

 でも、そんなの。ショーケースの前でケーキの勉強してた娘たち、不器用にケーキの材料を物色してた娘たちには喜んでくれる特別の人がいる。でも私はどんなに美味しいケーキを作ったって、所詮は売り物にすぎない。ただの商品でしかない。

 たとえ王様の口に運ばれることがあっても、ディックの口に入ることはもう二度とない。彼の「美味しいよ」って言葉はもう絶対に聞けない。つらい。お金なんてどうでも良いのに。なんでそんな危ない仕事したんだよ。ねえ、ディック。

 ブルーベリーケーキにナイフを入れた。寂しくなるほど柔らかく切れる。もう一つナイフを入れる。

 ナイフが何か堅い物にあたった。間違って何かを混ぜてしまったらしい。ナイフでケーキを左右に広げてやる。すると、中に埋まっていたのは大きなサファイアの入ったネックレスだった。

 サファイアなんて持っていない。それどころかこんな巨大なサファイアなんて王家の宝物庫にだってあるかどうか怪しいものだ。私は怖くなって周りを見回した。

「そんな怖い顔しないでよ」

背中でいきなり懐かしい声がする。あるはずのない、懐かしい声。私は唾を飲んでおそるおそる振り返る。

「ティーン、せっかくのかわいい顔が台無しだよ」

 優しい微笑みがこちらを向いていた。ディックのあの頃と同じ笑顔がそこにあった。私のディックがそこにいた。

「ディック!」

 叫んで彼にとびつく。でも私の体はそのまま彼の体を通り抜けてしまった。ディックは顔を曇らせて私をじっと見つめ、幽霊なんだよ、と落ち着いた声で答えた。

「嘘! ちゃんとそこに立ってるじゃない? 私のことティーンって呼んでくれたじゃない!」

「僕はあの日から一週間後に死んだんだよ。もう死んで一年も経ってるんだよ」

でも、と言い募ろうとすると、彼はいつもの口調で私をなだめた。ちょっとだけ叱る調子の声で名前を呼ぶ。ディックが私を呼ぶ。

 いつのまにか涙があふれていた。やめようと思ったけど止まらなかった。ただ泣き続けた。どうしようもない、そんなことわかってるのに泣くしかなかった。

 それでもやっと落ちついて嗚咽がかすかになると、ディックは私の横に腰を下ろして言った。

「今日は特別に神様がチャンスをくれたんだ。君のケーキがあんまりに素敵だったのと、僕の無念に神様が同情してくれたんだ。このネックレスを渡しておいでって」

 私の首にさっきのネックレスをかけてくれる。ディックが持ち上げてるのにずしりと重い。

「あの仕事が終わったら、これを持って君にプロポーズするつもりだったんだ」

「これ、どうやって?」

「ドラゴンの宝さ。君の誕生石はサファイアだろ? それに青は君によく似合う」

「こんなのいらなかったのに。ディックがいてくれるんならガラス玉でもじゅうぶんだったのに!」

ディックは寂しそうに笑って呟くように答える。

「でも、君に最高のものをプレゼントしたかった」

 私は黙って首を振る。彼の命が詰まったネックレスはあまりに重かった。ディックはそんな私にそっと声をかけた。

「まだ時間はある。外に行こうよ」


 外の空気はすっかり冷たくなっていた。風が涙に濡れた頰の熱を奪っていく。踏みしめる下草が裸足の足をくすぐるのがむしろ心地良い。ディックの体が、空に散りばめられた星の光を吸い取ってうっすらと輝く。三年ぶりにディックが私の傍らにいる。たとえ幽霊でも良い。私の隣にいるのはディック。

 しばらく歩いてやっと村外れの湖に着いた。湖面はいつもと変わらずにかすかな水音を響かせていた。

「覚えてる? ここに二人っきりで初めて来た日」

言われて私はまた頰が熱くなるのがわかる。だってその日は彼とのファーストキスの日だったんだから。

「あのさ、実は僕もあれがファーストキスだったんだ」

真面目な顔で言うディックを見て、私は小さく笑った。

「何だよ」

「だってディック、私とっくに気づいてたもん。ディックのあんな緊張した顔見たの、あれが最初で最後」

 ディックは怒った顔で私を睨む。でも私は鼻で小さく笑ってやる。明るい将来しか思い描けなかったあの頃、いつもやってたじゃれあい。それをもう一度繰り返していた。残り少ない貴重な時間を少しでも実りある時間にしたかった。

 取り留めのないお喋りが続いた。ケーキ作りの苦労。二人のちょっとした思い出。今日見かけた女の子たちの話。大したことのない、でもディックにだから話していたい、そんな話。せめて雰囲気だけでも彼に甘えていたかった。

 でも時間の神様は残酷だった。山の端に小さな光が走った。ディックは私に顔を向けず、行かなきゃ、と呟くように言った。私はしがみつけないもどかしさに苛立ちながら駄々をこねた。でも、ディックは寂しそうに首を振る。説得するようにゆっくりと話す。

「憶えていてくれる人がいることが僕には大切なんだ。ティーン、生きて」

「やだよ。もう独りはやだよ!」

 ディックは溜息をつき、ティーン、とあの懐かしい叱責の声を出した。私はやっと涙を拭ってうなずく。ディックは笑顔に戻って言う。

「ケーキ、上手になっていて安心したよ。じゃ、神様の許してくれた一回だけの君に触れるチャンス使うね」

 唇に彼の唇を感じた途端、私の意識は遠のいていった。


 目が覚めると、私は湖畔で独り寝そべっていた。周りを見回すと、昨日ケーキを買っていった女の子が男の子と腕を組んで歩いている。彼女は私に気づくと自慢げに小さく合図してよこした。私は微笑んでみせて、すぐに胸元に手を当てた。

 首にはサファイアのネックレスが下がっていた。昨日のことは夢なんかじゃない。あれはきっとケーキが神様に頼んでくれた奇跡。そんなことを思うと、向こうに腕を組んでるできたてのカップルが微笑ましく思える。

 サファイアのように青く澄んだ湖水は、さざ波をたてながらいつまでも輝いていた。

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