最後の曲になりました。Wildがゆっくりと言います。
「ラストは『Bitter Snow』」
曲が流れました。いつもはこんな叫んだりしないのに自分を抑えられません。Wildのシャウトが、雅妃の胸を叩きました。彼の声しか雅妃には届いてはいませんでした。ドラムさえも消え去ってWildの輪郭だけが燃えているようでした。彼の紅いカラーコンタクトが雅妃を射抜きました。雅妃は震えました。もう曲を聴いているのではなく彼に吸収されていく、彼に飲み込まれていくばかりでした。
雅妃がWildのライブに来たのは初めてでした。自分でギターを弾いたりしているくせに、お金の都合と引っ込み思案が災いして、これまでライブとは全く縁がなかったのです。それが今回は半ば強引に、友人の奈美に引きずられて来てしまったわけです。の声にただこくこく、と雅妃はうなずきました。奈美はまるっきり先輩面して講釈をたれ始めます。
「ね、奈美、先に帰る」
「せっかくだもん、もう少しゆっくりしてようよ」
「だから帰るの。せっかくの興奮、もったいないじゃん」
奈美は雅妃を納得できない、という顔で見つめました。しかし雅妃は小さく笑って言いました。
「どうせ待ったって逢えないでしょ? だったら邪魔な顔できるだけ見ない方が気分良いもん。それに寒いし」
雅妃はバッグを両肩にしっかり背負い込むと、走りだしました。気分が良いんだから。そのまま、気分のむくまま走りたくなっていたのです。雅妃はさっそくいつもは走らない外れの商店街に駆けていきました。
彼女は面白そうだと思うと、深いこと考えずに何でもやってしまうのです。漢字で書いた名前はいかにも女らしいし、肩までのばした髪もブルーのジーンズにぴったりしています。けれどその実、面白そうなら喧嘩で大立ち回りもやってしまう娘でした。そんな彼女に文句を言うと、生まれる前に男だろうと『マサキ』に決めて、生まれてから慌てて漢字だけ変えられたという親のいい加減さを引き合いに出して笑うことが常でした。
今回、雅妃が遠回りしたのもいつもの気まぐれでした。毎日のように通っているバス通りよりも、外れた小路に惹かれただけのことです。全くあてなんてありはしませんでした。店の裏通りだけあってバケツやポリのごみ箱、それに何だかわからないくずなどが散乱していて、靴を履いているにしても歩きたくないほど不潔な通りでした。さすがに雅妃も辟易して早足になりました。幸い通る人もなく、荷物やゴミを避けさえすれば簡単に通り過ぎられそうです。
やっと表通りに出そうになったところで、ふと右側の古本屋に気付きました。看板は煤けて「古本」とやっと読める程度。玄関を覗くと、薄汚れたビニールシートの上に本が無造作に積み上げられていました。雅妃は何となく店の戸を押しました。
中は寒いままです。頭より高いところまである本棚は本がぎっしり詰まっており、そこに入らない本は脇に積み上げられていました。奥の方は暗く、誰か店番がいるらしいことしかわかりません。雅妃は並んでいる背表紙をぼんやりと眺めました。大学生が主に通う昔ながらの古本屋らしく専門書がずいぶんと並んでいます。ただ、その並んでいる本は教育心理学、地域経営学、基本物理化学、日本古語体系に水産学大全とあらゆる学部にわたっている上、また何巻かに分かれているものもまとまっているものはほとんどありません。
雅妃は今見た棚の裏側に回りました。ここもまた、さっきと変わりばえのしない教科書の山。分厚いものばかり。気楽なのものは見あたりませんでした。教科書探しに来たわけでもなく、ただ眺めるにはあんまりにも殺風景な本屋です。雅妃は玄関に向かいました。
すると店の奥から、こっちに小説があるんだけど、と若い男の声が聞こえました。振り向くと二十歳そこそこの青年が立っていました。彼はゆったりと微笑むと奥へ進みます。雅妃も何だか興味が湧いてきて後を追いました。青年は雅妃に止まるよう手で示すと、カウンターの机に飛び乗って棚を漁り始めます。
棚の上には埃が溶けかかった雪のように、未練たらしく積み上がっていました。青年はそれを指でつまみ上げるとふやわふわやと下に落としていきます。
「お客さんが来ないもんだから。けど、良いものは揃えてあるんだ」
青年は言い訳を呟きながら数冊抱えて降りてきました。
「この辺なんかどうかな」
彼が取り出したのは、銀色で布張りの表紙をした本でした。
「短編集さ。小学生が空を飛ぶ話、龍を退治に行く初陣の騎士、小さな食堂を盛り上げていく少年、長い長い駆け落ち。いろんな形のお話がたくさん入ってる」
青年は雅妃が客だと忘れたように熱っぽく語りました。雅妃が小さく吹き出して両手を突き出すと、彼は慌てて店員の顔に戻ると本を紙袋に入れました。
雅妃にとって衝動買いはそれほど珍しくもありませんが、さすがに題名も見ないで本を買ってしまったのは初めてのことでした。雅妃はアパートに帰るとすぐ紙袋から本を取り出しました。布張りの古本のわりには染みもなく、肌理の細かい銀糸はひんやりとして涼しい手触りです。そして表紙には箔押しのように「The your story」と書いてありました。
「『あなたの物語』。格好つけてるだけじゃないの?」
表紙を開くと、すぐに目次が並んでいました。最初の物語は『炎の狼』。富士山型の山の上で吠える狼の影が版画で描かれていました。紅い瞳と黒曜石のような黒い毛並みを纏った、炎を食べる狼の物語です。
雅妃は初めに軽く目を通すと、いつものようにベッドに横になりました。椅子に座って読むと、どんな本でも堅苦しくなって感じませんか。彼女はできるだけゆったりして読むのが好きなのです。横になると、ベッドサイドの時計の刻む音が妙に強くなって感じました。布団で頰を包むとちょっとだけ離れた気分になって安心します。雅妃は読む体勢を整え、しおりを開きました。
しかし、開いたところには先ほどの吠える狼の絵ではなく鬼と戦う狼の絵が描いてありました。アクリル絵の具の色使いで、狼の周りを炎が取り囲んで守っていました。揺らめく空気の重さまで伝わってくるような絵でした。
しかし、前の方をめくろうとすると、急に本が重くなりました。先ほどのページを開くとまた軽く開きます。ページを戻そうとするとやっぱり重くなっていきました。雅妃はいらついた勢いで本をベッドの角に叩きつけました。すると部屋が軽く揺れ、電灯が消えました。
慌ててカーテンを開けると、どうでしょう。真っ赤な瞳をした狼が部屋を覗き込んでいるではありませんか。周りの風景もすっかり変わり、針葉樹が一面広がっています。
そして一頭の狼が前足で窓をかっ、かっ、と叩いていました。雅妃が慌ててカーテンを閉めようとすると、狼は口を大きく開け、けが人なんだ、と言いました。
「頼む、君は『記録』を読んだのだろう」
寝転がっていたせいで夢を見ているのでしょうか。雅妃は慌てて後ろを振り向くと、先ほどの本が淡く銀色の光を放っています。狼は本を見つめながら、念を押すようにあらためて繰り返しました。
「君は『記録』を読んだのだろう」
雅妃は狼を見つめながら、自棄になって鍵を外します。狼は爪を引っかけて器用にアルミサッシを開き、失礼する、と一言断って鮮やかに飛び込んできました。雅妃は思わず、何なのよ、と捨て鉢に呟きます。
「偶然だ」
狼の無責任な言葉に、雅妃は怒った声を出しました。
「あのね、私こんな田舎にすんでないし、だいたい何で狼が喋ってるわけ。やっぱ夢よ、こんなの」
狼は喉元で低くうなり声を上げました。雅妃が慌てて飛び退くと、狼はそっけなく答えます。
「わからぬことばかり言うから思わず唸っただけのことだ」
気むずかしそうですが、紳士のようです。雅妃も落ち着いてみると、もうこれが夢かどうかなんて関係なくなってきました。要は自分がどうするか、それだけです。雅妃は床に寝そべる狼をじっくりと観察しました。すると前足に切り傷が見えました。
「ね、その怪我、包帯ぐらいなら巻いてあげられるけど」
狼は小さく首をかしげます。雅妃は薬箱を部屋の奥から引っぱり出し、狼の足を取りました。消毒薬を吹きかけると、狼は子犬みたいな泣き声を上げました。雅妃はさっきまで偉そうにしていた狼を思って思わず吹き出してしまいました。
狼はそっぽを向いて、笑うな、とうなり声をあげます。雅妃は今度は恐がらずにさらに笑いました。
「早くしてくれ。ひやりとするのは気分が悪い」
狼はあいあかわらず偉そうに指図します。雅妃も笑うのをやめるとガーゼをあてて包帯を巻きました。
「ねえ、毛深いと包帯止めるのに不便。何とかなんない?」
「お前ら毛のない連中の方がよっぽど不気味だ。生まれたばかりのネズミみたいだ」
いちいち狼は雅妃の言葉に反発します。けど雅妃にはそれが面白くてしかたがありません。もう雅妃は狼が恐いだなんて思っていませんでした。やっと包帯を巻き終わると、狼は立ち上がって感じを確かめてから雅妃の足下に座りました。
「あ、どっか駄目だった?」
「いや、礼を言おうと思ってな。ありがとう」
狼は深々と頭を下げると窓の方に向かいました。雅妃はふと、狼に置いていかれたらどうなるだろうと思いました。こんな強そうな狼が逃げて来るのです。他に何がいるのでしょう。怪我だって爪でできたような跡です。雅妃は思わず狼に抱きつきました。
「私、こんな場所にいきなり放り出されてどうすれば良いのよ。ねえ、狼、何か知ってるんでしょ? ね?」
狼はアルミサッシにかけた前足を下ろすと、雅妃に目をやりました。深い紅の、安心できる瞳で彼女をじっと見つめました。風が流れる音が聞こえるのみの時が経ちました。狼は戸口から離れて雅妃の足下に座り直します。雅妃もその場に座り込みました。
「何が訊きたい。私はそれに答えよう」
狼の言葉に、雅妃はちょっと考えて、口を開きます。
「ここはどうなってるの? そして、あなたは誰」
狼は雅妃を見つめました。そして、ゆったりと足をのばすと事の顛末を話し始めました。
狼は、あの本に描かれていた「炎の狼」でした。彼には名前がありません。この一帯に炎の狼は一頭しかいないのです。でも、ここには活火山があり、そこの溶岩さえあれば何も不満なものなどありませんでした。ここの動物たちは、言葉を話す動物と普通の獣がいました。言葉を話す動物同士は食べたり食べられたりする関係ではありません。要は人間同士と同じなのです。
ある日、奇妙な客がやってきました。それは長い爪、白目のない真っ青な眼。口を開けると狼のように鋭い歯ががらりと並び、二本足で歩く鬼でした。こいつは突然暴れ出しました。狼の住んでいる山の頂にまでは至りませんでしたが、麓は滅茶苦茶にされてしまいました。
動物たちは怒りだしました。せっかく加減して食べていたものも遠慮なく取られてしまったからです。隠れるための、また巣にするための木々もうろも、全部なくなってしまったからです。そして、死んだ者の皮を飾っているからです。
言葉を話す動物たちは何日も、何日も話し合いました。そして、ある者が言いました。
「山の頂にいる炎の狼に相談してみよう」
狼は相談を受けて、すぐに追い払うことにしました。それというのも、鬼の燃やす煙のおかげで、火山のせっかくの上品な炎がだいなしになって、腹をたてていたのです。狼は腹一杯に炎を食べると、山を下りました。狼はまず、今までのやり方を変えるよう諭しました。すると鬼は急に怒りだしました。鬼の力はとんでもありませんでした。
気がつくと、もう追い込まれ間一髪でした。周りにいた動物たちも、狼のことを忘れたように好き勝手に逃げ出しました。狼は走りました。走って、走って、山とは全く反対に向かってずっと走り続けました。
家が見えました。中には二本足の何かがいました。けれどさっきまでの鬼とは全く違う姿をしていました。気がついたら、狼はその窓を叩いていたのです。
雅妃は恐くなって震えました。もし狼の代わりに鬼が来ていたらどうなったんだろう。今頃お腹の中かもしれません。
「恐がらなくても良い。奴はこっちに来たことはない」
こう言われると、たしかに頼りがいがありそうです。
「ね、なんで私のことすぐ信じたの?」
狼は床に落ちている本を前足で指しました。
「年寄り猿がそっくり同じ本を昔から持っているんだ。それはこれから起きることが書かれている。で、『二本足のきれいな雌が森を助けて帰る』とあったから。ただいつでも読めるって代物じゃなくって、時折一カ所だけ開けることができる」
雅妃はうなずいて、考え込みました。狼は黙って雅妃を見守ります。そして、雅妃は腹を決めました。
「ね、きっと私、鬼退治手伝わないと帰れないんだと思う。ほんとは嫌だけど、やるしかなさそうだもん」
狼はゆっくりとうなずいて、出かける用意をしろ、と静かに答えました。外に出て、すぐに雅妃は自分のアパートを振り返りました。広い森の中にぽっこりとアパートの部屋だけが建っていて、いかにも周りと不釣り合いです。箱庭に子どもが玩具を置き忘れたようです。雅妃は冷蔵庫の中の冷やご飯と缶詰、そして例の本を鞄に詰め込むと狼を先頭に出発しました。
「いくら何でも、もう疲れたはないだろう?」
狼はへばった雅妃を見下ろして呟きます。かれこれ四キロメートルは早足で歩いているというのに、狼は汗一つかいていません。ところが雅妃はすっかり参ってしまっていました。雅妃は口を尖らし、私は狼じゃないもの、と言い返しました。
「しかし鹿にしろ、馬にしろもっと歩いても平気だぞ」
「あいつら走るの大得意なんだから。もうダメ。休む」
雅妃は狼の言葉を無視してその場に座り込んでしまいました。狼は気を変えるのを期待して雅妃の周りを回って歩きましたが、雅妃はそんなのはまったく無視を決め込みました。そのうち狼もさすがに根負けして一緒に座り込み、地面を激しく引っかき始めました。雅妃が何をしているのか問いかけると、狼は当然のように答えます。
「食事だ。危険だから下がってろ」
雅妃は首をかしげながらちょっとだけ後ろに下がりました。すると狼は掘り返した穴に向かって長々と吠え始めました。初めのうち何もなかった穴ぼこが、何となく柔らかに見えてきました。そのうち水が蒸発し始めます。とうとう土が溶け出しました。黒っぽい石が地面から顔を出します。
「溶岩だ。お前の口には合わぬだろうがな」
くすりと笑うと狼は溶岩を丸呑みにしてしまいました。
「俺のランチだ」
狼はつらっと当然のように答えます。
「こら、お前も早く疲れをとらんか。日が暮れるぞ」
狼は空に顎を向けます。目を向けると日は既に山の端にかかろうとしていました。雅妃は跳ね上がるように立ちます。
「おう、狼。しゅっぱーつ!」
狼は鼻で笑うと軽く走りだしました。
「そこまで元気なら少々走っても元気だろ?」
雅妃は狼の後を追いかけます。さすがに走るのは冗談でしたが、それでもまた二時間ほど歩いたでしょうか。立ち枯れの木々だけが、岩の隙間にかろうじてつかまっており、無理に割れたような岩が足下で引っかかりはじめました。微かにアンモニアの臭いが漂って来ました。狼も何だか苦しそうです。
「鬼はこんな臭気が好きらしい。火山の煙なら良いんだが」
「私ならちょっと両方ともごめんだね」
笑って雅妃は狼の首に手を回します。狼は雅妃の頰を甘噛みすると真面目な声で、気を引き締めろ、と囁きました。狼の瞳は再び紅に染まっています。風が冷たく響きました。悪臭が強くなってきました。
かすかに、遠くの大岩が動きました。人影のようなものがゆらふるっと揺れました。
「誰だ。俺の寝床を荒らす奴は」
岩が急に砕け、その後ろから大きなもの、「鬼」が出てきました。遂に鬼との戦いが始まったのです。
「雅妃、君は下がっていろ」
狼は押し殺した声で抑えます。鬼は雅妃に興味を抱いたようです。雅妃は背筋をなで上げられたような気がしました。
「おい犬ころ。その後ろに隠している奴、俺によこせ。そうすれば他のみんな、全部助けてやるぞ」
鬼の言葉に狼は雅妃を振り返りました。狼は鬼に向き直るとはっきりと通る声で叫びました。
「こいつは俺が預かったものだ。お前などに渡すものか」
鬼は腹をたてます。狼は牙をむいて態勢を整えました。しかし雅妃はふと迷いました。何ができるのだろう。狼と一緒に戦うなんて論外の話。かといって狼の足手まといになるのは嫌。雅妃は狼の背中を見つめながら迷っていました。
狼は鬼の周りをゆっくり回っています。鬼は手の中の石つぶてを弄びながら、狼にあわせて動きます。
狼の耳が小さく動きました。炎を吐いて横っ飛びします。鬼の石つぶてが地面に次々めり込みました。
狼の爪が瞬間、鬼の瞼にかかります。鬼の足が狼の腹に入りました。
少しずつ鬼の方が攻められています。しかし狼の方も疲れが見えてきました。雅妃とは無関係に戦いが進んでいきました。雅妃には何もできない自分が歯がゆくなってきました。雅妃は自問すると、ふと他のことが思いつきました。あの鬼、どうやって生活してるんだろう、と。全くのんびりした、けれどどうしても知りたくてたまらなくなってきました。
(私がいるのは、私しか見つけられないことかも)
雅妃はまっしぐらに鬼のいた岩塊へと駆けて行きました。雅妃にとって足下の悪い所を吐き気がするほど用心して走ることはかなりの負担でした。それでも鬼に気付かれないうちになんとか岩影にたどり着きました。振り返ると、狼は片方の足をひきずっています。鬼も体中血糊にまみれ、火傷が痛々しく残っていました。
岩影は、奥までトンネルが続いていました。中からは不潔な臭いが漂い、獣の頭蓋骨がこれ見よがしに並んでいます。雅妃は入り口と反対を向いて思いっきり深呼吸をしてから、中へと潜っていきました。
洞窟は背丈より高く、コケが光っているようでした。雅妃は見通せぬ奥を前に溜息をつきました。それでも拳を手のひらにたたきつけると、大股に進み始めました。進むうちに、初め聞こえていた狼と鬼の叫び声もだんだんと途切れて、遂に何も聞こえなくなりました。
雅妃は立ち止まりました。いつもならこのくらい平気で進むでしょう。けれど、ここは鬼もいるし炎の狼もいます。雅妃は悔やみました。かといって、このまま戻るのもしゃくです。狼が負けてでもいたら、今度は自分が鬼に喰われる番でしょう。入り口に並んだ頭蓋骨の仲間入りするなんて。
悩んでいるうちに、雅妃は例の本を思い出しました。鞄から本を引っぱり出すと、一箇所だけが緩くなっています。ページをめくると、大きな石のそばに立つ女の姿が見えました。背後には暗い通路がずっと長く描いてありました。
「へえ、これ、信じてみよっかな」
雅妃はわざと独り言を言うと、再び注意深く歩き始めました。雅妃にとって、大きな一ページでした。
しばらく進み、ぽっかりと広がった行き止まりに到達しました。その真ん中には丸い石が堂々と転がっていました。雅妃は石を蹴ってみました。すると表面がぼろばらりと崩れます。奥には、ぬらるっ、とした塊が包まれていました。その形は何かに似ています。
そうです。心臓のようです。よく観察すると、意思の癖にゆっくりと収縮を繰り返しています。雅妃は後ずさりました。でも少し考えます。もしかしたら。雅妃は手元のバッグをぶつけてみました。すると外から鬼の苦悶する声が聞こえてきます。
雅妃は元気になってバッグからナイフを取り出しました。思いっきり突き刺します。外からまた苦しそうな声。何度刺して、削ったのでしょう。そのうち外が静かになって、血も飛ばなくなりました。
雅妃はふらふらしながら外へ向かいました。こんな不気味な場所にこれ以上いる気になりません。はやく、はやく。けれど体は言うことを聞かず、眠気が襲ってきました。
(こんなとこで眠りたくない。せめて狼と森の中で)
そんなことを思いながら、視界が狭まっていきました。
はっはっ、という呼気がくすぐったくて雅妃は目を開きます。森の中でした。雅妃は狼の腹を枕に眠っていました。狼は優しく雅妃の頰を舐め上げると、君のおかげだ、と狼は答えました。雅妃はどうしてか泣き出しました。
「終わったのだから泣くこともないだろう。」
狼は雅妃の涙を掬うようにまた頰を舐め上げます。ふた舐めして、くすりと笑いました。
「君の涙は苦いな。降り始めの綿雪のようだ」
「雪って、苦い?」
「苦い。炎はあんなに甘いのに、な。泣くのはやめなさい」
雅妃は小さく笑って涙を拭うと、雅妃が眠った後のことを狼に訊きました。狼の話によれば、急に苦しみだした鬼を見て、狼は反撃に転じて喉笛を噛みきるととどめを刺したそうです。その後、狼は鬼の巣を確認しに行き、そこで倒れていた雅妃を連れてきたのだそうです。
「ね、鬼って何だったんだろ」
狼は雅妃の問いに少し考え込み、静かに答えました。
「鬼は仲間がいないと言っていた。石から生まれた、と。あいつなりに仲間を作ろうとしてたんじゃないかな。頭蓋骨を並べて置けば、石になって生き返ると言っていたから」
二人はその場に再び寝転がると、そのまま眠りました。久々に安心した眠りのように思えました。
一週間が経ちました。狼はそのまま雅妃の家に居座っていました。けれど雅妃はそれがむしろ幸運でした。少しでもこの炎の狼と一緒にいたい。それが彼女の正直な想いでした。しかし一週間たった今日、雅妃と狼は鹿に呼び出されました。鹿は重要な用事があるから急ぐようにせかします。
「おい、その重要な用事ってなんだ」
「俺、忘れちまったんだあ」
狼は溜息をついて雅妃に囁きます。
「誰だ、一番物覚えの悪い鹿に使いを出した奴」
雅妃はそんな狼を軽くつついて言います。
「良いじゃん、まず行ってみりゃわかる」
狼は頭を振って、外に出ました。鹿はそれを見ると、雅妃を背に乗せて軽く走り出しました。森が流れていきます。かといって車で走るとは違う揺れが、どこか楽しく思えます。
「雅妃。鹿の奴、お前を乗せてること忘れるかもしれんぞ」
狼の声に慌てて鹿の首にしがみつきます。鹿はなんともないことのようにそのまま森の中心に向かって走り続けました。
そのうち森が騒々しくなってきました。そうして、とうとう森の広場に到着しました。広場にはもう馬、猿、山猫、カモシカ、キツツキ、猪、沢山の動物が集まっていました。地面に料理が並び、足元にはリスが飲み物を捧げています。
「どういうことだ?」
狼が正面の老猿に吠えると、猿は意外そうな顔をします。
「鬼退治のお祝いだよ。鹿に聞かなかったのかい?」
「あのね、鹿さんすっかり用事忘れてたの」
雅妃の答えに猿は顔を覆います。リスはそれを後目に、雅妃には大きな草の葉のカップを、狼には松明を渡しました。
「え、長老猿はおいといて、乾杯!」
宴は長いこと続きました。小鳥の合唱、若猿の曲芸、鹿の記憶競争……。けれど。そんな芸のなによりも。狼の歌。激しいリズムで。強烈なシャウト。どこかで聞いたような、懐かしい響き。体の芯を焼くような声。
歌が終わって。みんな石のように固まって動きませんでした。そんな中、とうとう老猿が再び口を開きました。
「雅妃、だったね。その本が再び帰り道を示すだろう」
「私、帰りたくない」
雅妃は即座に言い返します。すると狼が諭しました。
「君の住む場所には君の果たすことがあるはずだ」
雅妃は黙って唇を噛みしめました。狼は涙を舐めながら、
「綿雪が君のおかげで苦いだけではなくなるかも知れぬな」
と呟きました。雅妃はうなずいて本を開こうとすると、手が震えます。狼がそっと鼻先で支えました。本が開きました。狼に支えられた女が本を眺めている絵でした。その娘が絵の中から霞んでいき、雅妃の記憶が断たれました。
気がつくと、雅妃は本を抱きしめて部屋のベッドに横たわっていました。外は見慣れたコンクリートのビル。慌てて本をめくろうとしても、糊ではりつけたように開ける所はありません。雅妃は急いで古本屋に走りました。
けれど。古本屋があった場所には小汚い居酒屋があるばかり。本屋なんてどこにも見あたりませんでした。
雅妃は再び森の中のことを思い出しました。狼の歌っていたのは狼に逢う前に聞いた「Bitter Snow」ではありませんか。雅妃は慌てて奈美に電話しました。
『このあいだのBitter Snow。あのラストの曲。テープで良いから手に入んない?』
『はあ? 何その曲。雅妃ったらラストだけ聞かないで外に出てたじゃない』
雅妃は黙り込んで電話を切りました。そう、あのコンサートのときから。Bitter Snowは雅妃のための歌。本屋だってあの狼に逢うためだけの、かりそめの宿。空を見上げると綿雪が降っていました。舌をのばしてそっと受けとめます。
「ちょっと苦いね、狼」
春が目の前に迫っていました。
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