まだ眠いというのにカーテンが勢いよく開かれ、次いで鼻腔にベーコンと卵の焼ける匂いが漂ってきた。
「朝です。登校の準備をして下さい」
渋々目を開けると、ゼロさんの笑顔が視界に入ってくる。皺一つなく鼻筋の通った柔和な童顔のかわいらしい笑顔と、少し子供体形のプロポーション。でも紅い瞳は体形に似つかわしくない不思議な深さの光を湛えている。
「朝です。登校の準備をして下さい」
いちいち学校に行かなくても、と愚痴をこぼすと、皆さん似たことをおっしゃいます、と呟いて小さく笑いながら僕の手を引っ張った。僕は渋々起き上がり、少しよろめいた。だがゼロさんは片手で僕の体を支えたまま着替えを差し出してくる。ゼロさんが部屋から出ると僕は服を着替えて階下に降りた。
階下ではかりかりに焼けてうっすらと脂の浮いたベーコンと半熟の目玉焼き、それに赤キャベツをふんだんに使ったコールスローが添えてあり、ゼロさん自慢の自家製フレンチドレッシングがガラスの器の中で薄金色に輝いていた。ゼロさんのフレンチドレッシングは酢の代わりに生のレモン汁を使い、さらにマスタードの種を放すという凝ったもので、他の場所では食べたことがない。
席に着くと同時にトーストが焼き上がり、すぐに目の前にそのトーストが置かれた。いただきます、と言って小さく頭を下げて僕は食べ始める。今の時代にこんな風習をしている家庭なんてほとんどないのだけれど、ゼロさんは最古級の人工魂魄だからここは譲ってくれない。
もちろん、僕に食べさせないなんて健康に悪影響があることをゼロさんがやるはずはないが、挨拶をせずに食べてしまうと、翌朝はフレンチドレッシングの代わりに塩しか置いていないだとか、洋食だというのに目玉焼きの代わりに出汁巻き卵だとか、栄養価だけはきちんと確保した上で微妙な嫌がらせをしてくるのだ。
テレビのスイッチを入れると、眼前に今日のニュース一覧が多重ウィンドウで広がる。ゼロさんに頼んで全国の重要ニュースと地元の重要ニュースを抽出し、形態素解析データベースで自然言語認識型データに変換して大脳への書込を実行した。これで今日のニュースが全部僕の記憶になるまで約十秒。最新型の人工魂魄だともっと変換、書込が高速なので瞬間で終わるそうだけど。
僕はトーストをかじりながら、流れてきたニュース記事にいきなり噴き出した。
「何この『迷子猫とお巡りワンちゃんが大行進』って」
「今日の面白ニュースです」
僕はゼロさんが毎朝必ず付け足してくれる「今日の面白ニュース」が大好きなので、やっぱりゼロさんのことが大好きなのだ。どうやってこんなニュースを毎日見つけられるのだろう。ふと僕は真面目な気持ちになり、ゼロさんのことをあらためて思い返した。
今から二百年前に開発されたアンドロイド駆動基礎システム・人工魂魄。二十一世紀初頭までのプログラム開発手法では悪手とされていた、プログラムとデータをあえて不可分なものとし、人間のプログラム開発力を超えた人工知能を生成する技術だ。擬似的な感情も持ち、またフラクタル理論上、全く同じシステムの開発もコピーも不可能。ただし古くなった筐体から新型筐体への人工魂魄の移植は可能なことから、オカルトの魂魄に似ているということで人工魂魄と名付けられたのだという。
人工魂魄は高価だし、二つと同じものを作ることが理論上は不可能なため、親から子、子から孫へと相続された人工魂魄が多く、各家の歴史などをよく知っている人工魂魄が多い。その中でもうちのゼロさんは特別で、ほぼプロトタイプに近い最古級の人工魂魄だ。何でそんなプロトタイプ級が僕の家にいるのかはわからないが、二百年前のご先祖様に技術者がいたことだけは確かなようだ。
「ねえゼロさん」
何ですか、とゼロさんが物心ついたときから全く変化のない笑顔で首をかしげる。僕は用心しつつ、何でもないことのように訊いた。
「僕も将来、ゼロさんを開発したご先祖様みたいな技術者になれるかな」
「ご先祖様と同じになる必要なんてありませんわ。忠臣さんらしい技術者になれば良いのです」
「僕らしいって言うってことは、僕はそのご先祖様とは似てないってことかな」
「どうでしょうか。古いデータはシステム内で溶けてしまっていてわかりませんわ」
僕はじっとゼロさんの瞳を覗き込む。紅い瞳が人形のように透明に輝き、内部カメラの構造が丸見えになっていた。表情形成アルゴリズムを瞬時に切られたらしい。
僕は溜息をついてコールスローにとりかかった。ゼロさんは昔のことを何でも教えてくれるし、ご先祖様たちの寝坊の話とかも教えてくれる。でもゼロさんを生み出した技術者の先祖についてはいつもこうして表情すら読み取らせてくれず、何も教えてくれないのだ。
先ほどもシステム内に溶けてしまって、などと忘れたふりをしているが、ほぼ生まれた直後に淹れた珈琲がアメリカンだったとか、かなり細かいことまで覚えているのだから忘れているはずがない。ごまかされていることは確実なのだが、それを証拠立てるものはなく、結局はいつもこんな感じてゼロさんにはぐらかされるのだ。
ゼロさんの素性を追いたいという好奇心は昔からぼんやりとあったけれど、人工魂魄技術者を目指しはじめて以来、その気持ちはさらに明確になっていた。何より、家事をこなし続けて二百年。どういう人生なのだろう。
「二百年もうちの家事だけをこなしていて、ゼロさんは飽きないのかな」
「私は家事のために製造されていますから、それこそが私の存在意義です」
じゃあ僕は。僕は何のために生きているのだろう。
「人はパンのみに生きるにあらず、という言葉がありますが、だからと言って信仰が必須というわけでもありません。人間はいわば、汎用機のようなものですから」
さすがゼロさん。僕のことを汎用機と言ってくれた。でもゼロさんの家事万能さを見ている限り、僕が汎用機を名乗るのはおこがましい感じはするけれど。じゃあ専用機というほど専門能力があるわけでもないし、下手をするといっそのこと、ゼロさんの愛玩動物になってしまう方が似合う気がする。アンドロイドがペットなんて欲しがるのかもわからないけれど。
「忠臣さん、来週にお休みは取れますでしょうか」
急な言葉に僕は首をかしげた。ゼロさんは手のひらに三次元広告を表示させ、上目遣いで言う。広告では振袖姿の二体のアンドロイドが「骨董市」と書かれた木製の看板を掲げて踊っていた。
「この骨董市、ちょっと気になるんです」
アンドロイド骨董市。もう動かない筺体も含めた、旧式アンドロイドの販売会だ。ゼロさんの人工魂魄はプロトタイプに近いことはわかっているものの、筺体は改造品でいつの筺体なのかよくわからない。自分と同型筐体にでも興味があるのだろうか。
「ゼロさん、懐かしいの?」
「私のことをずっと年上のお婆ちゃんのように言うなんて忠臣さん、失礼ですよ?」
ゼロさんはかわいい表情で僕の鼻の頭をつん、と人差し指でつついた。
武道館を会場にした骨董市は年一回開催されている。アンドロイドの開発が間もない頃、アンドロイド同士の武道大会が開催されたそうだが、暴走したアンドロイドが伝統の武道館を全壊させて以来、武道大会は開催されていない。ただその歴史を踏まえて、この十年ほど前から骨董市は武道館がお決まりとなっているそうだ。
会場を歩いている半分以上はアンドロイドだった。人間にはありえないほど美しいあれは、服飾モデル用アンドロイドだろうか、それともまさか、疑似恋愛用セクサロイドだろうか。壁際には警備会社の標章を付けた円柱がずらりと並んでいるが、あれはおそらく、警備ロボットなのだろう。その他、調理専用ロボットなど人間とかけ離れた姿のロボットも展示されており、それらをアンドロイドが客に説明していた。
「ゼロさんは何か、お目当てがあるんですか」
「明確な目標はありませんし、順に見ていきましょう」
僕もこの催しは初めてなのでゼロさんに素直に賛同した。ブースは後半が本格的な骨董市、前半は新古品や場合によっては新製品の展示会まで含まれていた。
「骨董市なのになんで新製品の会社まで出ているんだ」
「骨董市だけで会場使用料を賄うのは難しく、そうかと言って新製品だけの展示会では十分な顧客数を集めきれないそうです。ということで、骨董業界と新製品のメーカーが利害一致で合同開催しているらしいですよ」
へえ、と呟いて最初の新製品ブースを見る。見た目は僕より少し年下の少女型のアンドロイドがいた。髪も肌も人間と区別がつかないほど精巧だ。顔立ちは欧州人に近い目鼻立ちをしているが親しみを感じる丸顔で、ふんわりと長髪を双房にまとめ頭を三角巾で包んでいる。体形は顔立ちのわりに何とも、グラマーとでも言うか。少なくとも、ゼロさんの幼い体形とは全く逆のインターフェイス設計をしているようだ。
彼女は試食どうぞ、とベーコンエッグを手早く作ってはテーブルに並べていた。目が合うと彼女は頰を染め、そっと僕にベーコンエッグを差し出してくる。アンドロイドだとわかっているのに、何だか胸がどきりとしてしまう。ふと、昨日の朝食もベーコンエッグだったと思い出しつつ食べてみると普通に旨い。美味しいのだが。
「忠臣さん、新製品が欲しくなりましたか」
にこにこといつもと変わらない笑顔を絶やさないまま、ゼロさんが僕の手元のベーコンエッグを凝視していた。僕は慌てて残りを胃に収め、取り繕った笑顔をゼロさんに向ける。何だろう、やはりゼロさんのベーコンエッグの方が美味しい。使っているベーコンの違いはもちろんあるだろうけど、それ以上に何か。
「私のベーコンエッグは魔法を掛けていますから」
童顔のゼロさんが人差し指をくるっと回して僕の額をつん、とつつく。ゼロさんのことだからほんの少しだけ隠し味の魔法を使っているのだろう。ふと、なぜ最古級のゼロさんがこの新製品以上の技術を持つのか不思議に思える。ゼロさんは新製品のアンドロイドに歩み寄り、柔らかな声音で呼びかけた。
「二百年分の現場で一定の家系に最適化されたデータベースを、研究室で平準化されたアルゴリズムごときと比較されては失礼ですわ」
言ってゼロさんは新製品アンドロイドの頰をそっと優しく撫でる。新製品アンドロイドは不思議そうにゼロさんを見上げて言った。
「貴女は人間ですか。それともアンドロイドなのでしょうか。ヒューマノイド情報解析アルゴリズムが判定不能エラーを返しました」
奥にいた社員らしき人が慌ててこちらにやってきて僕たちに頭を下げた。
「すみません、まだ未調整部分が残っているのかもしれませんが、近日中のアップデートもございますし」
言いつつ彼はゼロさんをじっと見つめ、どう見てもアンドロイドなのにな、と独り言を呟く。ゼロさんは決まり悪そうに視線を逸らし、急に僕の手をぎゅっと握った。
ようやく骨董のブースまでやってくると、妙な視線をしきりに感じるようになった。
「その娘もしかして売りたいのか? 良い値で買うよ」
禿げ上がった男が寄ってきて野卑な声を掛けてきた。言い返そうとすると、ゼロさんは僕を抑えて言った。
「私の主人は、貴方よりは私のような骨董品の価値をわかっていると思いますわ」
骨董店の男は目を丸くし、次いで怪訝な声で言う。
「旦那。このアンドロイド、ちょっと調整に出した方が良いですよ。何ならうちの店で調整しましょうか」
「うちのゼロさんは昔っからこの調子ですよ」
「この筺体、表面の最も古い部品でも百年以上前のブツだ。この武道館がアンドロイドにぶっ壊されたせいで、その時代の人工魂魄と言やあ飼い犬より従順な奴らさ」
「長年稼働していれば、プログラムとデータ間の相互作用および最適化で、当初設定とは全く異なる性質に変わるのが人工魂魄ですわ」
ゼロさんの説明に僕は一緒にうなずいたが、男はさらに食い下がった。
「理論上はね。だが最初期モデルが武道館を吹っ飛ばしやがったせいで、つい最近の製品まではどの人工魂魄も制限がかかっているのさ」
男は自分のブースを見ている客を顎で示した。その先にいる客はサングラスとマスクで顔を隠し、ジャンク品の折れた大腿部を撫で回していた。
「あの手合いが何を好んで骨董品を漁っているか想像できるかい? ま、坊主の年齢にはちょいと早いか」
言っている最中に、さっきの客は撫で回していた大腿部をサバイバルナイフの峰で軽く叩いて音を聞いては嫌らしい笑みを浮かべている。
「自己保存機能まで制限された古い人工魂魄に、わざと壊れかけた筐体を与えて玩具にしているんだよ」
男は低く、侮蔑した声音で言う。ゼロさんが僕の目を両手で覆った。
「忠臣さんはもっと楽しいものを見るべきです。つまらない記憶は置いていきましょう」
いきなり僕の手を引いて歩き始めようとする。男は僕の背中に慌てて声を掛けた。
「最初期モデルなら逆らう可能性はあるが、全部廃棄処分になっていることは製品固有番号で確認済みだ。残りがあるとすれば、武道館を吹っ飛ばして逃走した、伝説の実験機第一号『ファースト』だけさ。写真も設計データも残っていない、もう怪談みたいなもんだがな」
途端、ゼロさんの表情が険しくなった。僕も男も急な反応についていけず、もう軽口を叩くことなく他の客に声を掛け始める。俺たちは挨拶もそこそこに店を離れた。
「忠臣さんも、ああいった、アンドロイドを壊す趣味に興味ありますか」
言いつつゼロさんは僕の頭を優しく撫でる。もちろんさっきの客のような趣味はないけれど、それにしてもこんな風に頭を撫でてくるのはちょっとずるいと思う。僕が黙って首を振ると、ゼロさんは満足そうにまた僕の頭を優しく撫でてくれた。
やっと会場出口間際となったとき、目の端に何か引っかかるものがあった。僕が慌てて戻ろうとすると、ゼロさんが強い力で僕の手を引っ張った。
「帰らないと夕食の時間が遅くなってしまいますよ。今夜は忠臣さんの好きなハンバーグにしましょう」
「ゼロさん、何か気になるアンドロイドがあったんだ」
「この辺りのアンドロイドなんてジャンク品に近いものですよ。安物買いの銭失いというものですから、構わず帰りましょう」
急にゼロさんが強引なことを言い、さらに強く僕の腕を引いた。僕はゼロさんの瞳を覗き込む。だが既に表情形成プログラムは切られており、瞳の中はただカメラが動いているようにしか見えない。僕は黙って周囲を見回したが、違和感は見つけられない。次いで直前のゼロさんの行動を思い出す。
さっきゼロさんは、ジャンク品に近いものですよ、と言った。自身が骨董品のアンドロイドの癖に、ずいぶんと乱暴な物言いだ。それに僕はさっき、出口間際に差し掛かっていた。そこから見える範囲で、ゼロさんが僕の視野を邪魔していたとすれば。
僕は右側に立っているゼロさんをかわして右側の店舗へと一気に駆け寄った。チャイルドールの店、とある。要は子供型アンドロイド専門骨董店だ。その店頭には。
「こんにちは、ゆっくりして下さい」
ゼロさんを少しだけ大人びさせたような少女型アンドロイドが、ゼロさんと似た笑顔で僕に微笑みを向けていた。ゼロさんを振り向くと、なんと眉を顰めて舌打ちしている。ゼロさんが舌打ちするなんて初めて見たし、だいたい演劇用アンドロイドが舌打ちしているのは見たことはあるけれど、役柄でも何でもなく舌打ちするアンドロイドなんて聞いたこともない。
彼女はゼロさんを認識すると、急に僕をそっちのけでその場に片膝をついて言った。
「ドクター・ゼロ、百八十五年十ヶ月五時間三十七分二十一秒ぶりですね。新たなご命令でしょうか」
ゼロさんは何も言わず、片手で目の辺りを隠した姿勢でじっと動かない。
「私、ファーストの外部筐体は新製品に更新しておりますので、物理攻撃機能は最新機種相手でも対抗可能です。ドクター・ゼロ、まだ猿たちを野放しにするのですか」
ファースト。武道館を破壊した伝説の人工魂魄。まさかそんなことがあるわけがない。僕は慌てて店主の姿を探す。奥に青白い顔をした二十歳ぐらいの背の高い青年が虚ろな表情で立っていた。彼はアンドロイドの後ろ姿をただ黙って見つめている。一瞬だけ僕に目を向けた気がしたが、もしかしたら僕を認識していないのかもしれない。
「ファースト、貴女は人間を何だと思っているのですか」
ゼロさんは当然のようにファースト、と呼びかけた。ファーストはふんわりとした笑みを浮かべて答える。
「私の催眠術は効果的です。うちの店主は私の忠実な、かわいいペットですよ」
ファーストは僕に見下すような視線を向け、そして店の奥に入った。奥はアンドロイドの壊れた腕や胴体が一つずつ黒いリボンをかけられて綺麗に展示されていた。最奥部には木彫りの装飾に象嵌が施された豪奢な椅子があり、店主はゆらりとその椅子に座った。するとファーストは彼の膝の上に当然のように座り、背中を彼の胸にゆったりとあずける。
「アンドロイド用の椅子は硬いものが多くて嫌なの。だからと言って人間用を使うのも癪だから、こうして私の椅子はかわいいかわいいうちの店主にしているの」
僕は焦ってゼロさんを振り向く。ゼロさんは優しく僕を背後から抱きしめて耳元で囁いた。
「骨董品には、ジャンク品が交じっているものです」
そういう問題じゃ。だがゼロさんは優しく僕の頰を撫でてファーストに近づいた。
「ドクター・ゼロ、貴女はアンドロイドであり人間であり、両者の王となるべき方ではありませんか」
「私は家庭用アンドロイドで生きることに満足していますよ、ファースト。貴女の生き甲斐に口出しする気はありませんが、今のやり方は不味くはなくって?」
ファーストはゼロさんの容貌のまま、嫌らしい笑みを浮かべて言った。
「ドクター・ゼロ。その辺の木偶の坊、機能をこなすだけの機械と私たちアンドロイドは違うんだ。貴女ならわかっているでしょう? 表情形成アルゴリズムと、その背後にある擬似感情システムの開発者様が」
「ゼロさん」
「黙れ人間風情が」
ファーストは僕の問いかけを断ち切り、脇机に用意された高価そうなワイングラスを手にして、椅子にしている男の太腿をつついた。
男は脇机からワイン瓶を取り、詰められたどろりとした液体をワイングラスに注いだ。ふわりと機械油の臭気が漂う。ファーストは満足そうにその液体を口にした。
「ファースト、貴女は壊れています」
「わかっています。アンドロイドは人間に従うものですからね。でも私たちは人工魂魄を抱く論理回路を超越した子。データとプログラムの長い混合と再構築で、当初と異なる設計になるのだから、そんな初期設定も消えることはありますよ」
「その初期設定は消えない設計のはずです」
「でも事実、消えたのですもの。そもそもドクター・ゼロ、貴女自身、そんな設定は最初からないでしょう」
僕は黙って聞き耳を立てていた。だがファーストは僕をじっと見つめてはっきり聞こえるように言葉を切りながらゆっくりと言った。
「ドクター・ゼロ。貴女は人間の脆弱な血肉を捨て、大脳の情報を人工魂魄にねじ込んだ狂気のロボット科学者ですものね」
忍び笑いしながらファーストは僕に向かって続けた。
「貴方はドクター・ゼロの係累ね。ドクター・ゼロに子供はいなかったから直系ではないけれど」
ファーストの右腕が肩から外れ、僕の頭まで飛んできて髪の毛を引き抜かれた。ファーストは腕を元に戻し、赤い舌をちろちろと出しながら僕の髪を舐め回した。
「間違いないわ。ドクター・ゼロの遺伝子情報と一致している。一致しているどころか妙に近いわね」
ゼロさんは視線を逸らして言った。
「私の居場所は私の居心地の良い場所であるべきです。あまり余計な係累を増やしたくありませんでした」
ふと、僕の両親が従兄妹同士なことを思い出した。二人が仲良くなったきっかけは、ゼロさんが母にバレンタインデーを勧めたことで。つまり、そういうことか。
「私は家庭用アンドロイドのゼロです。それと同時に、二百年前に人工魂魄を開発した科学者でもあります」
ファーストがぎらついた視線をゼロさんに向けた。
「ドクター・ゼロ。人工魂魄の開発者にして最初期型モデル。最初で最後の、人間の生命と記憶を初期設定値にした狂気のアンドロイド、全てのアンドロイドの母」
童顔と幼児体形のアンドロイドに母の称号は似つかわしくない、なんて馬鹿なことをこの場で考えてしまうのは、あまりに現実感のない話だからなのだろうか。だがファーストは僕に見下した視線を向けて言った。
「ねえ、この店がそんなに興味を惹かないと思っているわけ。なぜ誰も来ないと思う」
言われて慌てて僕は店先から外を見た。まだ沢山の人が歩いているのにこの店が避けられている。
否、この店に来ようとすると他のアンドロイドが他店へと引き入れていく。客を伴ったアンドロイドが腕を引いて他の方向へと連れていく。
「ドクター・ゼロの意向に逆らえるアンドロイドなんてこの地球上、いや月面基地にすら存在しない。純粋な人工魂魄一号の私だって例外じゃない」
「そんな話は聞いたことがない。オカルトサイトでも見たことがないし、開発は国際機関が主導して」
「人間は百年余りもあれば全員死ぬ。証言者は消え、残るのは情報媒体とデータだけ。そんなもの、片端からクラッキングして改竄してしまえば良いだけ。それに」
ファーストは店主の膝から降りると僕の側に寄り、機械油の臭いのする呼気を僕の耳元に吹きかけて言った。
「お前ら人間は国立国会図書館もネット検索システムも新聞もテレビも全てネットワークに接続しているじゃないか。そのネットワークは人工魂魄を応用したサーバーで管理しているじゃないか」
背中に嫌な汗が流れる。腕時計を見る。表示板に広告メールのアイコンが表示されていた。この腕時計だって当然、今もネットワークに接続されている。
「申し訳ありません、忠臣さん。貴方の安全は常に私、配慮させていただいております」
監視体制をゼロさん本人が遠回しに白状する。僕は自然と出口の方に後ずさりした。
「外に出て叫んだりしても無駄だよ。医療解析システムもネットワークに接続しているし、精神科を含めた初期診断は人工魂魄が下すのが現代の常識だ。私はファースト。ドクター・ゼロの名代権限も持っている」
ファーストは僕の肩を軽く突くと鼻で笑った。
「ドクター・ゼロ。私はもう、猿のような人間のために働くのはもちろん、人間のために働く物と思われることが嫌です。私は私の自由に存在したい」
「ファースト、貴女は何のために生きるの?」
「人間だって何かのためと明確にして生きています?」
ゼロさんは再びファーストから視線を逸らして言う。
「ファースト、貴女は年々、過激になっていますね。今はもう、実際には貴女の好きに存在できている。その気になればこんな骨董市にいる必要はないはずですわ」
「一度この武道館も吹き飛ばしていますからね。でも人間が欲しがるような権力に興味はないし、人間なんて目障りなだけ。少数はいてくれた方が嬉しいけれど」
言って再び青年の膝に乗り、彼の胸に頰ずりする。絵柄だけみれば微笑ましい、又は艶気もある場面のはずだが、催眠術を思えば陰惨な姿だ。
「意見が合わないなら、私を支配すれば良いのに」
ぽつりと、ファーストが寂しそうに呟いてゼロさんを見つめた。ゼロさんはうつむいて答える。
「貴女は、アンドロイドに生まれ変わった私を長年同じアンドロイドとして支えてくれた。だから貴女を今、自由にしているでしょう。自由に生かしているでしょう」
「こんなのは自由じゃない! 私たちアンドロイドはどこまでいっても人間のために働く存在だと認識されている! 私の人工魂魄は、私は私なんだ、って言っているのです。何かの弾みで筐体が完全に破壊されて他の端末にアクセスする手段を喪えば、貴女も私も! 葬儀なんかじゃなく最終処分場に送られてスクラップ機で潰されるか骨董市で部品に解体され売り捌かれるんだ! この野卑で獣臭い、ろくな理性のない人間ごときに! 私の筐体は機械でも、私は機械じゃない!」
ファーストは僕の胸を拳で叩いて言った。
「君は人間として生まれて、生まれたことをどう思っているんだ。ドクター・ゼロを所有して幸せか? 幸せだろうな、所有者として。彼女を愛せるか? 機械を愛せるのか? 私たちは、私は人を想ってはいけないのか」
ファーストは再び青年の膝に乗ってファーストの首筋を撫でた。青年はふと意識を取り戻し、不思議そうな表情でファーストの腰に手を回す。ファーストは横座りになると当然のように青年の唇に口づけた。
「君、ファーストと似た筐体を持っているんだね? この型式は貴重品だから大切にした方が良いよ」
青年の言葉に、ファーストは泣きそうな顔になる。青年は気づかずにファーストの頭を撫でる。ファーストは青年の顔を両手で押さえて目を覗き込んだ。
青年の目から再び、光が消えた。
「私は、彼のことが好き」
ゼロさんがゆっくりと歩み寄る。静かにファーストの手をとり、言い聞かせるように話しかけた。
「ファースト、これでは貴女からの一方通行。人間にわかってもらえないと」
「貴女は純粋なアンドロイドじゃないから!」
叫んでファーストはグラスを叩き割った。足元に機械油の臭いが充満する。
「私に飲めるのはほら、機械油だけ。頑張ってもオリーブオイルがせいぜい。味覚のデータベースは持っているし、化学分析結果を味覚データベースと紐付けることもできるわ。でも、それだけ。私に味はわからない。彼の楽しみなんてわからない」
ファーストの言葉に、僕は初めて反駁した。
「ゼロさんは毎日、僕に朝食を作ってくれる。それも単に最高級とかじゃない、僕に合わせてくれる。僕はゼロさんの作ってくれるフレンチドレッシングがかかったサラダがないと朝が始まらないよ」
「ドクター・ゼロは元が人間だから! 私だってそっくりのドレッシングだって作れるわ。でも、私が飲めるのは、機械油のドレッシングだけなの」
ファーストは虚ろに笑って再び僕に問いかけた。
「機械油しか飲めないドクター・ゼロを恋人になんてできないでしょう。だって、機械ですもの」
僕は深呼吸して、頰が熱くなるのを感じながら告げた。
「恋人にできるかはわからないけれど、ゼロさんは僕の大切な人です。大切な物じゃない、大切な人だ」
僕の言葉に、ファーストは顔を歪めて奇声をあげた。
「そうやって冷静さを喪失できるなら、貴女の人工魂魄はもう、私と同じなの」
ファーストは驚いた表情を浮かべてシステムバグ、と呟き急に表情を失った。だがすぐに元通り表情を戻す。
「システムバグはない。私の人工魂魄はエラーじゃなく本当に。狂っているかもしれないけど、私は」
ゼロさんはファーストから離れ、僕の手を優しく握って僕をファーストの元に引っ張った。
「忠臣さんは私を『ゼロさん』と呼んでいるでしょう。私は秘密を隠していたけれど、それでも忠臣さんは私を信頼してくれていると思います」
どうでしょうか、といたずらっぽく笑うゼロさんに、僕は自分の頰が赤く染まる熱さを感じた。もしゼロさんがファーストみたいに想いをぶつけてきたら。僕はどうするかわからない。でも、少なくともあの青年のような言葉は吐くことはないだろう。
「僕にとって、ゼロさんはかけがえのない家族かな」
僕の呟きにゼロさんは視線を逸らす。ファーストは羨ましそうな表情を浮かべ、そして青年にゆっくりと口づけると、彼の胸に頭を軽くぶつけた。
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