「とったよ!」
叫び声とともに目の前に現れたのは運転免許証だ。そういえば自動車学校に行く、と真奈が宣言したことを思い出す。真奈と俺は大学のサークル仲間で一緒に遊んだりしている。と言っても、お互い「仲の良い友だち」という程度の関係でしかないのだが。真奈は自慢の長髪を搔き上げながら俺の反応をせがんだ。
「西野くん、最速取得よ最速。どう?」
俺は溜息をつき、愛想交じりに注意をしてやる。
「偉い偉い。偉いけど走りの方で最速はやるんじゃねえぞ」
「わかってるったら。若葉マークでぶっ飛ばすわけないじゃん」
俺からの無言の視線に、真奈は不満丸だしの顔で文句を垂れた。
「私ってそんな無茶やるように見えるわけ?」
「お前っていっつも無茶やってばっかだろ」
少しは反省したのか大人しくなる。だが、それでも真奈は不満そうに口を尖らせた。手を振って相手にできない、と態度で示すと、真奈はさらにむくれる。だがすぐに機嫌を直すと俺の前に学生証を突き出した。
「明後日に私の在学証明書、代わりに事務からとって来て」
「何で俺が行くんだよ」
「証明書の発行機が壊れてて、修理が明後日なんだって。で、私さ、今日から札幌まで車で行くから明後日は私ここにいないの」
「お前って本気で好き勝手言うのな」
「あれ? いっつものことじゃん」
ここまで開き直られるといっそのこと潔い。だからと言って俺の不満が解消されるわけでは全然ないが。
「あ、そりゃ怒るのわかってるって。お土産も買って来るから。えーと、『峠名物・揚げいも』で良い?」
「まさかお前、すっかり冷めたやつ持ってくる気か?」
「大丈夫だって。一分間チン! ってやればほっかほかでしょ」
真奈はいつもながらの手前勝手な論理をべらべら述べたてる。まあ、俺もいい加減慣れっこだが。
「ところでさ、もう寒いんだから天気はちゃんと確認しろよ」
「週間予報だとしばらく秋晴れが続くってさ。あ、でも峠って天気変わりやすいんだっけ?」
俺がうなずいて見せると、真奈は少し自身なさげに考え込んだ。だがすぐに元の表情に戻って言う。
「やっぱ行く。だって今逃したら雪降っちゃうもんね」
「そりゃそうだけどさ、そこまで無理しなくたって」
「みんなは帰省で遊びに行けるけど、私は地元っ子だからさあ」
真奈はうちの大学には珍しい地元出身者だ。だから函館を出るきっかけをなかなか掴めない。俺たち下宿生の「実家に帰省」という台詞を羨ましがっている節さえある。ここ函館は古くは道内流通の拠点として栄華を誇った街だ。しかし現在では、観光客で賑わう西部地区にかつての繁栄の痕跡を残すばかりだ。今となっては寂れて、物足りない部分があまりに目についてしまう。やはり、どこか老いた街なのかもしれない。同情しながらも煮えきらない俺に、真奈は胸を張って答えた。
「ご心配なく! それより証明書の方、頼んだわよ」
俺は溜息をついてから、もう一度さっきの話の確認をした。
「ま、いいや。明後日にこの学生証で取りゃ良いんだな?」
「そう。頼りにしてまっせ、西野さま!」
真奈は俺の背中をぱん、と叩いた。このときはまだ、いつもの俺たちでしかなかった。本当に、あまりにも平凡すぎる光景だった。
「西野さん、雪虫っすよ雪虫」
窓の外に目を向けると、白い点が宙を舞っていた。今朝はいやに寒いと思ったのだが、やはり季節がやってきたようだ。雪虫は蚊と同じぐらいの小さな虫で、正式の名前は俺も知らない。北海道では、雪の降る直前になると、その小さな体に白い綿のような物を纏った雪虫が盛んに飛び回るのだ。そのくせ雪が降ると再びどこかに消えてしまう、そんな奇妙な虫だ。
「なあ河内、やっぱ雪、もうすぐかな」
「そりゃそうっすよ。こいつらが飛ぶとすぐに『今年の初雪』なんてニュースが放送されるじゃないですか」
「初雪、か」
呟いてすぐ、俺は真奈のことを思い出した。
「おい、中山峠って雪、早いっけ」
「まあまあじゃないっすか? 今時期にいきなり降って困るんっすよね。俺も今週末は様子見とくつもりっすよ」
俺は黙り込む。その様子をみて河内は怪訝な表情を向けた。
「真奈のこと知ってるよな」
「ああ、あのぶっとんでる人っすか? 結構かわいいっすけど、俺にゃちょっと扱えないっすね」
「そのぶっとび娘が峠越えして札幌に行くって言ってたんだよ」
「って、今日っすか?」
俺は黙ってうなずく。河内は首をすくめ、軽い調子で言った。
「いくら真奈さんでも様子見ぐらいするんじゃないっすか? 心配だったら携帯にかけたらどうっすか?」
俺は電話を取り出しかけ、すぐに戻した。そこまで心配する自分がどこか滑稽に思えたのだ。だが河内は追いかけるように言う。
「もしかして、西野さんってああいうのが好みなんっすか?」
「違うよ。何であんなのを俺が」
「どうだかなあ。西野さんってマゾっ気ありそうだから、ああいう無茶な女の方がお好みとか」
「う・る・せ・え」
正面を向いて念を押すように答えると河内はやっと口を閉じる。真奈のことはただ友だちとしか思ってはいない。だが、今回はなぜかあいつのことが気になって仕方がないのだ。それでも俺は胸騒ぎを無理矢理に押さえつけた。しかし実際のところ、胸の奥に掠った真奈への感情を認めたくない、それが理由だったのかも知れない。とにかく、俺は真奈のことを忘れようとした。
こうやって河内とふざけ合っているうちに昼過ぎになった。空は曇ったままで日の射す気配もなく、外を歩くには冬物のコートが欲しくなるような肌寒さが続いていた。
突然、携帯のバイブが入った。慌てて取り出すと真奈からの電話だ。俺は安心して通話のスイッチを入れた。
『あの、あなたはこの電話の持ち主の友人ですか』
いきなり聞き慣れない男の声が響く。男は低い声で、ゆっくりと言い聞かせるように続けた。
『警察の交通課なんですが、残念なことに事故に遭われまして』
「真奈が? どうなんですか!」
『落ち着いて下さい。現在は病院の方に搬送中です。とにかく連絡を、と思いまして電話した次第なので。実はこういう形での連絡はいけないんですが、まあ、そこは私個人の判断で』
俺は礼もそこそこに真奈の容体を怒鳴りかけの声で尋ねた。
『かなりの大事故です。入院先の病院はまだ未確定です。あ、上司が来ましたので、この辺で』
唐突に交信が切れる。横で河内が不安そうな表情で俺を見つめていた。俺はぽつっ、と呟く。
「真奈が事故に遭った」
「真奈さんが? で、どうなんっすか!」
「わからない。とにかくテレビだ」
俺たちは急いで部屋に戻り、テレビのチャンネルをつけた。だが映るのは気楽な顔をしたコメディアンと軽い口調の歌手たちばかりだ。のんびりした顔で温泉につかるタレントの顔が異様に憎く思える。俺はもどかしい思いで必死にチャンネルを回していく。
偶然、五分間ニュースに当たった。上空から峠を映した映像。ヘリの爆音を背景に、おもちゃ箱に詰め込んであったミニカーを一気にぶちまけたような光景がずっと映されていく。
『二十歳の女性が重体』
突然、テレビが無音になった気がした。だが平静な声はそのまま解説を続ける。最悪の状況が単なる事例として報告が続く。いつもならポテトチップをかじることさえ止めない平凡なニュースが、今は俺の最悪の情報として鼓膜を叩き続ける。次いで『二十歳の女性(重体)』という字幕が浮かんだ。だめ押しのように同じ話が手短かに語られ、アナウンサーが頭を下げる。そして平然と底抜けに明るいカップラーメンのコマーシャルに映像が切り替わった。
河内が俺の肩をそっと揺さぶった。俺は呆けた調子で河内に確認する。
「顔写真、出てなかったよな。二十歳の女なんて幾らでもいるよな」
「西野さん!」
河内の呼びかけに俺は何度も頭を振ってその場にしゃがみ込む。俺たちはただ、夜が更けていくのを待つしかなかった。
「清めの塩って、残ったの捨てて良いんっすか?」
「良いんじゃねえの」
河内の間抜けな問いに俺はぶっきらぼうに答え、黒いネクタイをほどいて椅子の上に放り投げた。
真奈の通夜。何となくシュールな気分だった。なぜか、まだ泣けなかった。涙が一滴も出なかった。哀しい、そんな言葉が出てきたのは部屋に戻ってからだ。だが、まだそんな台詞にさえも実感が湧かなかった。俺の気持ちなんて表せるわけがなかった。
棺に横たわった真奈は事故死のくせにきれいな顔をしていた。今さらながら、自分が真奈に抱きつつあった感情を発見させられた気がした。今さら、本当に今さらやり場のない感情。求めようとも何の得る物もない、喪失感だけが包み込んでいく想い。今にも「バッカじゃないの?」なんて声が聞こえるんじゃないか、そんな風に思ってしまうのに。そう信じたいのに。それでもうっすらと優しげな表情の真奈だった。俺たちには最大の事件なのに、新聞にはいいとこ地域紙の第一社会面に「またまた」という雰囲気で「若者の事故」として掲載されるのだろう。
「どうしてなんっすかね」
「知るかよ」
意味もなく河内に当たってしまう。だが、今だけは許して欲しいと思う。今日ばかりは先輩としては振る舞えない。今は真奈に取り残された人間、ただそれだけでしかない。
明日にはもう学校が始まる。俺は無理に気力を起こして机の整頓を始めた。と、積み上げた教科書の山から一枚のカードが落ちた。河内から受け取ると、それは真奈の学生証だった。
『明後日に私の在学証明書、代わりに事務からとって来て』
真奈の声が耳に蘇る。あのとき手渡された学生証。
「在学証明、とってやんなきゃ」
「何言ってんですか。もう真奈さんは」
俺はどんな視線を送っていたのだろう、河内は即座にうつむいて黙り込んだ。
「明日、こいつの在学証明書とりに行くよ」
「ついて行って良いっすか?」
俺は少し考え、そして黙ったまま小さくうなずく。それを見て河内は安心の吐息を吐いた。
翌日。俺たちは証明書発行機の前にいた。カードを入れて暗証番号をゆっくりと押す。画面が切り替わり書類選択のウィンドウが開いた。俺は迷わずに「在学証明書」を選択する。「印刷中」の文字が画面に浮かび、しばらくして足下に一枚の紙が滑り出た。
「まだデータ修正、終わってなかったんですねえ」
「データ、ね」
俺は口の中でデータ、という言葉を何回か転がしてみる。乾いた舌の上に冷たく金属質の響きが揺れた。
「データではあいつ、まだ生きてんのな」
「嫌なもんですね、コンピュータって」
呟きに俺は何の返事もせず黙って校門へ向かおうとした。と、急に河内が玄関前で立ち止まった。
「雪虫、まだいるんっすね」
数匹の雪虫が弱々しく宙を舞っていた。こいつらの寿命もあとわずかなのだろう。どことなく綿毛も薄汚れて見える。真奈の在学証明を広げてみる。今日の日付と学長名入りで真奈が今日も在学していることが保証されていた。逝ってしまったなんてことが嘘みたいに、彼女の痕跡だけが残っているのだった。
「まだあいつ、ここの学生なんだってさ」
言い捨てて歩き始め、すぐに俺は立ち止まる。顔にまた雪虫が寄ってきた。体の周りを飛び回る。そして在学証明書の上にも。
「あ、雪虫が融けた」
証明書をぼんやりと眺めながら呟いて。それが今年初めて平地にたどり着いた雪だったことに気がついた。雪っすね、と河内が確認するように呟く。冷たい風に白い点が舞う。もう二度と真奈と笑うことのない校舎が純白の衣に包まれていく。今年の初雪はもう暫く降り止みそうにない。
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