文芸船

君の歌を聴こう

 斜め下からこつんこつんと頭を叩かれた僕は一つ溜息をついて振り向いた。

「ノ・ロ・マ」

 すっぱり無茶を言いつつ下から僕の顔を見上げる人。Tシャツ越しにわかる、細く引き締まっているとはいえセクシーからはほど遠い体型と、ぷうっと膨らませた色白の頰を見れば中学生とすら勘違いしかねないけれど。

「ほんとあんた、遅いっての」

 花房先輩は両手に嵌めた人形の小犬くんとネズミさんの手で僕の頭をぺちぺちと叩く。人形の手で叩かれたぐらいではむしろくすぐったい程度だが、真顔の先輩の視線は平手打ちより痛いかもしれない。僕は仔猫のミャオくんを手から外して見つめると、この人形にすらノロマと嗤われている気がする。

「『ゲンキ』の『キ』で同時に出る! タイミングずれると格好悪いからさ。ちゃんと音楽聞いてよ」

 先輩は僕の指より関節一つ分小さな手を僕の目の前に掲げ、ゆっくり歌いながら手を叩いてリズムを刻む。わかってくれたかなあ、と子供に声を掛けるように僕の顔をじっと覗きこんでくる。ふっとついた先輩の溜息が顔にかかり、僕は気恥ずかしくなって顔を背けた。

 大学に入学して黄金週間も過ぎ、部活に入るわけでもバイトに励むわけでもなく、暇つぶしにキャンパス内をぶらついていたとき、この年下にしか見えない花房先輩がキャンパスの芝生に小さな舞台を開いて付属保育園の園児を相手に人形劇を演じていたのだ。先輩の可愛い声で「がーお」とオオカミが吠えると、拳を振り上げて怒るガキ大将風の男の子。ウサギさんの手振りに頰を赤く染めて手を振り返す子。ずるい猿に騙されそうな仔猫に必死で叫んで教えようとする園児たち。

 そんな子供達を眺めていたら先輩に誘われたのだ。そのときはまさか、こんな年下のような幼い顔立ちと甘い声の人が人形劇団の団長だとは思いもしなかったけれど。そんなわけで、僕は入団して今日でちょうど一ヶ月だ。今の僕は次回の幼稚園での公演で他の先輩たちと共演できるよう、一対一で団長直々の特訓を受けているわけ。

 練習方法変えるか、と先輩は独り言を呟く。僕はやっぱり今まで経験とかなかったし、と言い訳を口にした。先輩は再び頰を膨らませてパイプ椅子に腰を下すと、頭に後ろ手を組んで溜息をつく。

「そりゃ私たちと新人の君じゃ差はあるよ。でもほら、体育会系ほど差はないと思うけど? 人形劇サークルなんて普通の高校にあるわけないんだから」

 僕は高校時代に放送部に所属していたのだが、番組制作にほとんど興味がなかったし、ましてアナウンスやDJの割り当てから逃げていた人間だ。でも花房先輩はパイプ椅子に股を開いて座り、両手を太股の間に挟むようにして行儀悪く揺らしながら、僕の顔をじっと見上げて真摯な声で言った。

「舞台、踏みたいでしょ? 子供の歓声、聞きたいじゃない。子供のノリとか早く覚えて欲しいし」

 どこまでも投げ遣りにならない熱い視線。こんな熱くなり続けるなんて僕には無理だ。でも全く見捨てないでくれる先輩に僕も何とか応えてみたいと思い、音響担当では、と訊いた。音響機器の取扱いにはそれなりに自信がある。だが先輩ははん、と鼻で笑って言った。

「喜田っちがさあ、情報工学専攻って知ってるよね」

 喜田先輩。練習後の人形の手入れを花房先輩に押し付けて、ぶつぶつ独り言を呟きつつ、頭をがしがし掻きながらパソコンに何やらがつがつ打ち込んでいた先輩だ。返事をしないでいると、先輩は僕の思っていたことを見透かしたように、僕の鼻先に片足を挙げた。

「変な奴でしょ。変な奴なの実際。まあその辺はほら、喜田っちだからしょうがないんだけど。でね、うちの音響って全部ノートパソコンで管理してるの」

 さらに説明を聞くと、普通にその辺で売っているソフトも使ってはいるが、妖精さんの羽音や狼さんがレンガを吹き飛ばす音などのタイミングを合わせたりする部分は喜田さんが自作したソフトで行っているのだという。さらに公演会場の広さや音響装置の特性に合わせて毎度微調整を行っているという過剰気味の綿密さだそうだ。ここまで一気にまくしたてると、花房先輩は自分のことのように勝ち誇った態度で胸を反らして宣言した。

「ということで、君に音響は無理。舞台もわかんないんじゃ手伝いも駄目。以上、しゅーりょー」

 ふざけた調子で言いつつ、何だか先輩の目は笑っていない。笑っていないどころか。

「甘えてる? それとも文化系だから楽そうだし女の子いるしやることは子供騙しだし美味しいかもとか私の大っ嫌いなタイプの邪心あったりする?」

 異様に滑舌の良い攻め文句に僕は慌てて首を振った。僕は先輩と目を合わせるのもつらくなって床に目を落とした。先輩は再び口を開きかけ、むう、と唸って首を傾げる。

「ごめん、言い過ぎた。私も調子乗ってた」

 僕はいえ、と返答を濁す。自分でもここまでタイミングがずれることが不思議なのだ。たぶん集中できていないのだろう。舞台前の全体の浮き立つ先輩達の熱気を浴びると、何だか頭の芯がぼんやりとしてしまうのだ。苛々したまま黙っていると、いきなり先輩は僕の右手首を掴んだ。僕は怒りかかって言葉を飲み込む。僕は無意識に携帯をポケットから出してパカパカと開閉していたのだ。苛立つと無意識にやってしまう、自分でも嫌な悪い癖だ。だが謝ろうとする前に、先輩は僕の携帯を奪い取ってパカパカと開閉した。パカパカ、パカ、パカ。パカパカパカ。

「パカパカパッカンパッカカカン」

 先輩は天井を睨んだまま呟く。そしてさらにまたパカカンカン、と謎の台詞を呟いた。何ですかそれ、と訊くと、先輩は僕の胸に人差し指を置いて笑顔を向けた。

「カスタネット。みんなの歌。良いんじゃない?」

 はい、と答えつつ意味がわからず僕は首を傾げる。

「だーかーらー、劇の合間にお兄さんとお姉さんと一緒に歌の時間。新しい歌。この劇団だけの歌!」

 はあ、と僕は間抜けな返事を返す。先輩はうなずいて背伸びすると、僕の頭を撫でてにやついた表情で言った。

「じゃ歌のお兄さん、歌が出来たら練習よろしく」

「はいっ?」

「だからさ、歌は演目の合間でやるわけ。あんたはいっちばん簡単なラインダンスしか出番ないし。あと急に演目増やして対応できるの私しかいないし」

「そんな、無理ですよ!」

「無理を頑張って子供たちのハートを丸掴みするの!」

 本当に無茶苦茶だ。無理ですそんなの僕はまだ人形操作だって満足じゃないのにさらに子供たちの前で歌なんてどうするんですか怒りますよしまいには。言いたいけれど、満面の笑みでなにやら想像しながら僕の顔をじっと見つめる先輩に、こんな怠惰な返答を出来るほど僕は大物じゃなかった。すると先輩は僕の沈黙を了承と受けたのか、再び大きくうなずくと両手を打ち合わせて言った。

「待ってて!  週末までには曲、仕上げるから!」


 金曜の夜。花房先輩と僕は喜田先輩の操るパソコンの前に座っていた。喜田先輩のノートパソコンはDTM音源装置やシャンパンゴールドの単品アンプ、パソコン用にしてはごつい本格的なスピーカーに接続されている。アンプとスピーカーについて訊くと、喜田先輩は太めで短い指で機器を撫で回しながら、アンプは子供の高音好きに合わせてマランツなんだとか、安くて小さいけどこれでも一応はJBLなんですよ伝統のウエストコートサウンド、とやら早口でまくしたててにやにや笑う。

 広い会場ならローランドの業務用が良いですよ、と僕も高校の放送部で使っていた機器の話を何となく振ると、喜田先輩は目を輝かせてコンデンサの交換裏技を教えようなどとマニアックなことを言い出す。

 と、唐突に僕らを割るように入り込んだ小さな手がぱんぱん、と打ち鳴らされた。

「機械の話はその辺にしてよ。で、仕上がりは?」

 花房先輩の冷めた問いかけに、喜田先輩は急に生真面目な表情に戻ってマウスを操作しながら答えた。

「一応メロディラインとリズムは入れましたよ。ラインはとりあえずギターにしましたけど、あとできちっとしたドラムやらストリングスやら入れます」

 喜田先輩はマウスをクリックした。ちょっとふざけたようなメロディとパカパカという電子音のリズムが入る。花房先輩が手元の紙を僕に手渡した。一番上には「君の歌を聴こう」と題があり、楽譜と歌詞が続いていた。

「じゃ、お手本に私が歌います!」

 花房先輩の言葉になぜか喜田先輩は眉を顰めた。だが花房先輩は笑顔のまま喜田先輩にうなずく。喜田先輩は渋々と曲を止め、改めて曲を最初から再生した。

パッカパカパカン カンパカン
うたって ぼくのカスタネット
カッパカパカパン パンカパン
きかせて きみのカスタネット

 あー、と僕は思わず声を上げる。喜田先輩がうん、とうなずく。花房先輩は口を尖らせて僕たちを見回した。花房先輩はおずおずと狂っているかと訊いてくる。僕たちは同時にうなずく。先輩はそっか、と呟いて、とさっ、とパイプ椅子に座り込んだ。

「花房さんの声って声域広いし綺麗だから、一回覚えるとイケるんですけどねー。歌だけは覚えるの遅い」

 軽い調子で乱暴なことを言う喜田先輩を、花房先輩は黙ったまま睨みつける。だが喜田先輩も慣れた調子でへらへら笑いながらパソコンを再び弄り始めた。

「ってことになるかな、とか予想しておりましてですね、今回は別途お手本歌手を用意しておきました!」

 再び喜田先輩はマウスをクリックする。すると今度はスピーカーからきらびやかな女性の歌声が響いてきた。それは完璧、寸分の狂いもないプロの声だった。

「ちょっ、あんた勝手に誰に歌わせてんの!」

 花房先輩が怒鳴ると、喜田先輩は手招きしてパソコンのモニタを指差す。すると画面の上では青い髪をツインテールにした、アイドル衣装の女の子が踊りながら歌っているアニメーションが表示されていた。

「最近買ったんですよ。プロのアニメ声優の声が収録されたプログラムで、歌詞とメロディを打ち込んでやるとその声優の声で歌ってくれるって仕組み」

 ネットでずいぶん出回っているのは知っているが、作品ではなくソフトそのものを使っているところを見たのは初めてだ。簡単に使いこなしてしまう喜田先輩の行動力にも呆れてしまった。一方の花房先輩は先ほどの怒りを納めながらもまだ納得しきれていないようで、何やら独り言をぶつぶつと呟いている。

 喜田先輩は花房先輩の不満げな態度を無視して机の脇からCDを取り出すと、僕と花房先輩に押し付けた。

「これに歌の入ってるのとカラオケの両方を録音してあるから、これで数日練習してみてよ。それから練習で良いんじゃない? ね、歌姫さん」

 花房先輩はうるさい、と毒つくとCDをもぎとり、解散を宣言して勝手に部屋を出て行ってしまった。当然ながら、僕は喜田先輩と二人きりになっていた。僕は喜田先輩がよくわからない人、つまりちょっと苦手で。だから僕はそのまま花房先輩の後を追おうとした。

「意外だったんでしょ」

 背中に唐突な言葉が浴びせられた。振り向くと喜田先輩は小太りな体を揺らしながら秘密を囁くように言う。

「脚本も人形、大道具小道具制作も監督も作曲も全部出来るくせに歌は狂っちゃう花房さん。意外でしょ」

 僕はまた曖昧にはあ、と答える。先輩はそうでしょそうでしょ当然だよね、と言って笑みを浮かべる。

「でもねー、そこがうちの団長さんの良いとこですよ。これ以上完璧だと付き合いにくいでしょ。あれできちんと覚えちゃえばほんと、綺麗な声だから」

 まあ機械への愛情もあれば完璧だね、と身勝手なことを言って先輩はパソコンの前に手招きした。

「ほら、うちの劇団シンボル」

 画面を覗くと、なるほど蝶ネクタイを締めた子犬と頭にリボンをつけたネズミが一緒に踊っている。

「実はこのソフト、独自の声優も使えるんだよね。だから部員の何人か分、事前に頼んでサンプリングだけしたんだ。用途は何も説明していないけど」

 先輩は画面上のネズミをクリックする。するとネズミがチュッ、と聞き覚えのある声で鳴いた。次いで先ほどの歌が流れる。今度はもっと透明感のある甘い声。先ほどより刺激はないけれど、ずっと気持ちの安らぐ声。

「花房、先輩?」

 僕の呟きに喜田先輩は黙ってうなずく。それは本当に柔らかな、僕の大好きな声質で。そして好きな声で、と思った自分に僕は何となく赤面してしまう。喜田先輩は笑って背中から一枚のCDを取り出した。

「実物はたぶん、こんな感じに仕上がると思うんだ。ということでさらに練習用ボーナスプレゼント」

 僕は慌てて受け取り鞄の奥にしまい込む。練習用なのだから堂々としていれば良いはずなのに、なぜか妙に気恥ずかしい気分になってしまう。先輩はうはは、と何を考えているのかわからない声を上げて笑うと、今日はさよなら、と唐突に言って機器のスイッチをばたばたと切って帰ってしまった。


 自宅に帰ってCD両方を掛けて聞き比べてみる。たしかに、明らかにプロらしいのは最初に花房先輩と一緒に聴いたものだ。だが好き嫌いでは絶対に花房先輩の声をサンプリングした方のCDだ。

 ふと花房先輩の顔を思い浮かべる。子供のため、と言いながら一番子供みたいに騒いで笑って怒って。二学年も年上なのだけれど、可愛いという言葉がどうしても思い浮かんでしまう。うちの劇団は人形の作成からやるし人形操作は中腰、立膝が多いせいか先輩のスカート姿を見たことはない。服装ではむしろボーイッシュと言った方が良いかもしれない。

 でも、この棘のない甘い歌声は間違いなく先輩らしい声だと思った。先輩が小さく息を吸って歌い始める瞬間を想像してしまう。なぜだろう、胸がきりりとする。

 改めて花房先輩のCDを再生しようとして、でも再生のボタンを押せなかった。今の気分でこの歌声を聴くのはおそろしく不純に思えたのだ。喜田先輩もとんでもないものをくれたものだ。あんな機械が恋人みたいな人のくせに、僕自身すら気づいていない僕の気持ちを読んでいたのだろうか。何だか妙に悔しい気がする。僕はCDを取り出すとごみ箱に放り込み、すぐにトイレに入った。用を済ませば気持ちも冷静になるだろう。

 落ち着くと思ったのに。僕はトイレを出た途端、すぐにごみ箱からCDを拾ってしまった。完全に喜田先輩に遊ばれているような気がする。その辺にカメラでも仕込まれているんじゃないかと馬鹿なことを考えてしまう。

 仕方なく、僕は問題のCDを机の奥にしまい込み、本来の練習用CDをプレーヤーのトレイに載せた。

 この美声と一緒に、本当に僕が歌えるのだろうか。


 ちょうど三連休にぶつかったこともあり、部室には顔を出さずにバイトとレポートの処理、そして歌の練習を繰り返した。歌の練習なんて高校の試験以来で、独りでやるのはなかなか難しいもので、かと言って誰か友達を頼るわけにもいかず自室で歌うしかない。だがあまり大きな声で歌うのも恥ずかしいので、ある程度練習が出来上がった段階でCDをコピーした携帯プレーヤーとそれ専用の小型スピーカーを持って近所のカラオケ店に向かった。

 だが店の玄関に立ったまま、僕は凍りついた。独りカラオケ。何とずいぶん寂しい僕だ。それより何か犯罪者とか変な目で見られないだろうか。それどころかここで悩んでいること自体不審者だけれど。誰か先輩にでも一緒に来てもらえば良かった。店番している店員さんも僕と大して歳の変わらない人のようだ。下手をすると同じ大学かもしれない。それはもっと恥ずかしい。

 ここまで考えて、でも喜田先輩と一緒よりはましだと自分に言い聞かせる。あの人と一緒だとまた何だか遊ばれたような気分になるに違いない。僕は勇気の第一歩を踏み出そうとした。

「何やってんの」

 振り向くと、安っぽいカラフルなプラスチックのCDラジカセを両手にぶら下げた花房先輩が立っていた。

「誰かと待ち合わせ?  デート?」

 いきなりの言い草に僕は何も答えられなくなってしまう。先輩は首を横に傾げ、そっか、と呟いた。

「独りカラオケのデビューって、気分きついんだよね」

 下らない悩みを一発で言い当てられ、僕はうつむいてしまう。だが、先輩はさらに僕の行動を言い当てた。

「練習、でしょ?」

 ほんの少し自信なさげに訊く先輩に、僕は大きく頭を縦に振った。先輩はよしよし偉いじゃないか、と言って僕にラジカセを持たせて告げた。

「とりあえず二時間で良い? 代金はおごってあげる」

 はあ、と気の抜けた答えを返すと、先輩は慣れた調子でカウンターにカードを置いた。店員さんは先輩と僕の顔を興味本位の視線で見比べて言う。

「花房さん、彼氏できた?」

 先輩は噴き出すと、爪先立ちして僕の頭をくしゃくしゃと撫でて答える。

「これ、うちの劇団の新人、後輩ちゃん。お歌の特訓」

 先輩らしき店員さんは、急に興味を失った目に戻ってカードにポイントのスタンプを押し、マイクの入った籠とカードを挟んだ小さい手板を僕に押し付けた。

「あっそ。じゃ、お二人様ご案内しまーす」


 部屋に入ると先輩は早速コンセントを刺してCDを入れる。烏龍茶二人分ね、と店員さんは注文もしていないのに烏龍茶と伝票を置いて出て行った。

「本当はね、コンセント使うの不味いんだけど。飲物最低二杯以上頼むって条件でオッケー貰ってんの」

 じゃあ何で烏龍茶、と訊くと、喉に絡まないし太らないし、と当然のように先輩から返って来る。おごられている分、僕には選択権がないらしい。

 二人で来ているからか、僕が今まで入ったことのないような狭い部屋だった。たぶんカップルの入室も多いのだろうか、壁の隅に男女の名前を並べて書いた落書きが見える。隣の部屋からは防音を破るように激しいドラムときついシャウトが響いていた。先輩はカラオケのリモコンとマイクを部屋の隅に追いやって僕に烏龍茶を勧める。口をグラスにつけると、先輩は私ソロで歌ってみる、と言って再生ボタンを押した。先輩は手にカスタネットを付けて曲に合わせる。カッカカカン、と乾いた音を僕の耳元で鳴らして笑う。

パッカパカパカン カンパカン
うたって ぼくのカスタネット
カッパカパカパン パンカパン
きかせて きみのカスタネット

 僕は息を呑んだ。先輩の喉から聞こえたそれは、喜田先輩の作った花房先輩の声とやはり同じで。なのに圧倒的に何かが違っていた。カスタネットと先輩の声は、綺麗で安心できるだけじゃなく、何だかとても愉快な気分にさせてくれて。幼い頃、誰よりも大きい声で歌おうとしたときの沸き立つような気分にさせてくれて。

 サビに差し掛かると、先輩は両手を挙げて喉を反らした。いつもの少し幼げな声ではなく、更に透き通った強い声が部屋を満たした。隣のドラム音が僕の耳から消滅し、先輩の細く白い喉に僕は目を奪われた。

 曲が終わると、先輩は自慢げな笑顔を向けて言った。

「音、とれるようになったでしょ。でね、『ぼくの』と『きみの』で交互に歌お。私からいくね」

パッカパカパカン カンパカン
うたって ぼくのカスタネット

 先輩が僕に目で合図する。でも僕は聞き惚れたうえに焦ってしまって声を出せなかった。先輩は眉を顰めると、僕の両耳の近くでカスタネットを激しく鳴らす。

「ぼけっとしない! 二時間しかとってないんだから」

 僕はやっと我に返ると、先輩すごいです本当に上手いです、と答えた。先輩は少し頰を染めて当然よ、と答える。僕はそれを受けて言い足した。

「僕なしでやった方が良いんじゃないですか?」

 途端、先輩の表情が一変した。叩かれるかと思い身を硬くする。だがすぐに先輩は顔を泣きそうに歪めた。

「私とじゃ、一緒にやりたくないわけ?」

 あまりにも意外な言葉に、僕は言葉を発せずに先輩の顔をじっと見つめてしまう。先輩は童顔の頰を子供のように膨らませて言った。

「何で逃げるの? 何で、私だけを出そうとするの?」

 僕はそんな上手じゃないから。当然の答えを口にする。すると先輩は、僕が弄んでいた携帯を手の上から押さえ込み、再び怒りの表情で言った。

「だから練習するんでしょ!  私だって凄い練習したし!  一緒に歌おうって、君の歌を聴こうって!」

「僕の、歌」

 先輩は背伸びすると僕に目線を合わせ、穏やかな声で言った。

「まだ私たちしか知らない歌。それを独りぼっちで歌うんじゃなく」

 言葉を切り、僕の目を真っ直ぐに見つめる。

「君と、歌いたい」

 正面から見つめてくる先輩の視線が眩しすぎて僕は顔を伏せ、何で僕ですか、と呟く。先輩はうん、と小さくうなずいて今度はゆったりとした静かな声で話した。

「この歌さ、君の癖のおかげで思いついたんだもの。そりゃ居残りして練習しても上達は遅いけど、それでも頑張ってる君のこと、もう少し知りたい。だから」

 言葉を切ると、グラスに凝結した水滴を指先で弾いて烏龍茶を口に含んだ。こくり、と喉元が小さく動いて再び僕を真正面から見つめる。

「だから、君の歌を聴きたい」

 僕は小さく呻いてうなずいてしまう。先輩の真摯な声に僕は全てを任せたくなった。むしろ先輩と一緒に頑張ってみたいと思った。譜面を確認して深呼吸する。先輩はうなずいて再生ボタンを押し、カカカッ、とカスタネットを打ち鳴らす。

 人形でも歌でも全部、先輩となら一緒にやっていけそうな気がした。

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