久々の休日だったせいか、逆に出掛ける気力もなく部屋の中でだらけた時間を過ごしているうちに夕食の時間になってしまった。少しは何か行動しようとパソコンを起動する。仕事が忙しいせいで、自宅のパソコンはこの一週間というもの全く起動すらしていなかった。とりあえずメールの着信情報だけは携帯でチェックしていたけれど、急ぎの内容はなかったので返信はしていなかったのだ。
長々とした受信が完了すると広告メールがずらりと並んだ。何が「今年の冬こそ彼氏ゲット!」だ。半年も先の話にゃ魅かれんよ。こっちは「夫の帰りが遅いんです」。こんな見え見えの言葉に引っ掛かるのかね男って。
だらけたまま迷惑メールに突っ込みを入れつつ、こんなものを考える連中の労力も大したもんだと無駄な感心をしながら次々と迷惑メールを削除していく。そしてやっと残った友人のメールに返信を書いた。返信せずに溜めてしまうとどうも後ろめたい気分になるけれど、お互いに忙しい身だからわかってくれると勝手に思っておく。
送信を完了して画面をスクロールすると、昨日までの携帯チェックでは見かけなかった今日付け着信のメールに気づいた。添付ファイルがあるようだ。あらためて送信元を確認してみると間違いなく後輩の原田君で、怪しい所から来たものではない。とは言え新しく服を買ったと自慢を固めた写メを送ってくる友達はいるけれど、彼が自分の写メを送ってくるようなタイプには到底思えない。
本文を読むと「今の気持ち」としか書いてない。なんだそりゃ。ますます怪しい。エロ写真なんか送ってきていたら電話で直接怒鳴りつけてメアド削除してやろう。ま、女だと思われてなさそうだからそれはないか。多少物騒なことを思いながらファイルを開くと、そこには落書きのような円グラフが一枚描かれているだけだ。なぜに手書き。なぜにExcelじゃない。思ったけれど、よく見ると何だかデータも変なグラフだった。
なめてんのかこいつ。思ったけれど何ともみすぼらしいというか寂しいというか。そんな原田君の気持ちも何だか一目でわかった。私は溜息をついて携帯を手にする。数回呼び出し音が鳴った後、携帯にしては素早くつながる。もしもし、とだるそうな声をかけると原田君は待っていたような声で、メール見てくれましたか、といきなり言った。
「見たよ、何あれ。面白いけど」
原田君はあれはですねー、と説明口調になり、べつやくメソッド、と聞き慣れない言葉を口にした。べつやくメソッド。日本語と英語をいかにも突貫工事でくっつけた適当な名前。この脱力系手書きグラフにぴったりな名前だ。何でも、どこかのIT情報誌がネットに公開したエイプリルフール記事が元だそうで、そのときの気持ちをグラフに書いて表現しようというものだそうだ。
「何だか、君の適当というかぬるい雰囲気にぴったりな名前だわ」
「朝比奈先輩、いつもの毒舌炸裂っすか」
「じゃあなに、『あら面白いわね。私も興味あるわ』なんて私に言わせたいわけ」
「それ、何か演劇の台詞ですか」
うるせー老けガキ。角の立った声を出すと原田君はすみません、と小さな声で答える。なんとも小憎たらしくてかわいい後輩だ。私は声を低めて、店は私が決める、車は君が出せ、家まで迎えに来て、と一気に言うと電話を切った。切る瞬間、ちょっと寂しそうな声を出した原田君の顔を妙に早く見たい気分になった。
「スープカレー」
原田君がドアを開けた途端、私は前触れもなく言った。彼はまぶたを激しく動かして間抜けな溜息をつく。
辛いものは苦手だっけ。私の言葉に原田君は大きく二段重ねの溜息をついた。
「いきなり『スープカレー』はないじゃないですか。注文するわけでもあるまいし」
そういやそうだね、と私は笑ってコートを引っ掛けスニーカーを履く。玄関には彼が初めてのボーナスを使い果たして買ったとかの愛車が止まっていた。車に乗ると何だかうっすらと爽やかな香りがする。車用のコロンを買ったらしい。少しはこいつも洒落っ気が出てきたのか。
「先輩に言われると何だか微妙ですけど」
エンジンをかけながら原田君は私の服装に目を向けた。
「休日だし。面倒だし。楽な方が良いし」
原田君とご飯に行くためだけにわざわざ着飾るはずがあるわけないじゃないか。原田君は苦笑して言った。
「こうやって車に先輩を乗せていると、調査に出たときのこと思い出しますよ」
言われて思う。たしかにこのラフな格好は学生時代に生物調査に出掛けたときと大して変わらない。そっか、原田君にはこの適当な服装と仕事帰りのスーツ姿しか見せたことはないんだっけ。
「白衣の天使も見たことありますけど」
「なーにーが天使よ。実験室で白衣着てただけじゃない。他人が勘違いすること言うな」
原田君はへへ、と笑ってから少し真面目な顔に戻って言った。
「白衣、どうしました?」
言われて私も、うん、とだけ返す。今の部屋にはない。実家に置いてあるのだろうか。それとも就職の際に捨てたんだっけ。原田君は、と聞くと、彼も首をかしげて言った。
「覚えていないんですよ。とにかく、今の独身寮には置いていないですね」
白衣。私たちの思い出が色々と混ぜこぜになって浮かぶ。学生時代の記憶の鍵。
原田君はまた首をかしげて言った。
それ、私も。笑って答えてから、ふと今の割合を計算してみる。
「馬鹿だな、10%足りないじゃない」
笑って言うと原田君は唾を飲んで、いやまだ続きあるから、と答える。
「何それ」
私の言葉に、スープカレーは野菜にしますか、と明らかにはぐらかしの言葉を返した。
「原田、ちょっとそれ寂しいな。続きがあるって言って、スープカレーはないでしょ」
原田君はうなずいて赤信号で止まると、私の顔を正面から見つめてから再び車道を向いて言った。
「かわいい女の先輩がいた 10%」
私は言葉を継げなくなる。部活で女と言えば私だけだし、講座も原田君の上で女と言えば私だけだ。
「山野とか相原とか見て憧れてたのかな」
私はハンドルを握る原田君の意外に男らしい手の甲を見つめながら、適当にかわいい系だったと思う同期の名前を挙げる。でも原田君は首を振って言った。
「身近な人です、当然」
いきなり車の中でこんな話。私は頭を搔いて、逃げ道を探すようにダッシュボードを開けた。だがそこに入っているCDはバラード中心で、こんな曲をかけたらとことんまで痛々しいことになりそうだ。べつやくメソッドの馬鹿。深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
彼の横顔を見る。やっぱり学生時代より大人になったな、と思う。でもやっぱり私の目には少し頼りなくて。それに。飲んで気軽に頭をぐりぐりしてあげたりできる後輩。デートでもないけど声を掛けて、仕事と無関係に二人で遊べる友達。恋の嫉妬とは無縁の安心しきった、原田君とだけの、今の距離感。
「今の、この距離が好き」
私はやっと言葉を吐いた。そして思いついたことを早口になって言う。
「スープカレーが良い 40%、適当に飯があれば良い 20%、湖を見たい 40%」
少しの沈黙の後、ぽつりと原田君は言う。
「湖、ですか」
私はうなずいて真面目に答える。
「川でも良い。生物調査した場所に似た場所。その脇で、またコンビニおにぎりで」
スニーカーだし。調査も何もないけれど。今さらやれって言われても勘がすっかり鈍っちゃって使い物になんかならないけれど。
「学生時代からの距離感、守りたい。君のことは、その、大切だから」
自分らしくない言葉遣いをしているな、と思う。声が上ずってしまう。余計かわいいとか思われたらどうするんだ私の馬鹿。
原田君は溜息をつくと車をUターンさせた。
「湖、行きましょう。久しぶりに、先輩と」
良いです。大切って言葉だけでも。原田君の口から呟きが漏れる。私も外を眺めるふりをしながら、ごめんな、と呟いて頭の中でひそかに円グラフを描いてみる。
帰宅まで私の迷いは5%のままで変わらずにいられるだろうか。頭の中でグラフが小さくぶれていた。
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