文芸船

Wine Letter

 大学に入って三年間、親からの年賀状すら来たためしがなく、Amazonからの配達物か怪しげな宗教の勧誘しか縁のない俺の郵便受けに、差出人のないワインレッドの小さな封筒が届いていた。こんな洒落た封筒を使う知り合いなど心当たりもない。封を開けると微かにワインの香りが漂う。

 俺はバレンタインの中学生男子みたいな心地で封筒の中を覗いた。中には便箋が一枚だけ入っており、開いてみると骨太だが丁寧な文字が並んでいる。見覚えのある文字だ。俺は文章を飛ばして最後の行を確認すると、西田の名前が書かれていた。

 西田とは中学で一緒になった。彼女を一言で言えば変人、常識破りとしか言いようがない。ただ、常識破りと言っても窓を割るだとか単車で暴走するといった、粋がった不良なら幾らでもやりそうなことは絶対にやらない。

 入学式の日すら西田はいきなり常識破りできた。彼女は三つ編みに学ランで現れたのだ。教師も初め、彼女が席に着くまでどうすれば良いのか迷ったかのように黙りこんでしまった。それでも三つ編みに学ラン。それにいくら中一としても小柄過ぎる華奢な体形。性別不明だとしてもありえない組み合わせだ。だが、教師に叱責を受けた西田が最初に発した言葉は愉快だった。その声は妙に透き通った、静かな声だった。

「制服は学ラン、セーラー服、としか入学要項に書いておりませんが」

 俺たちは慌てて要項を見た。たしかに「制服は当校指定の学生服またはセーラー服」としか書いていない。教師が適当に要項を作ったというか、男子と女子を取り違える奴がいるはずがないので端折ったのか。教師の目が危険な色を帯びる。西田は後退り僕と目が合った。さっきの透き通った声で、ごめん、と彼女は呟いた。

 教師の手が出た瞬間、僕はなぜか教師との間に自分のカバンを転がしていた。すみません、と言って割り入ってカバンを拾うと、教師は鼻で笑って手を引いた。そのまま、彼女は気分によって学ランを着たりセーラー服を着たりして三年間を通してしまった。

 カバンを転がしたことが縁で、それ以来俺と西田はよく一緒にばかなことをやらかして遊んでいた。ある日は夜中に校庭のど真ん中に「東中学万歳」と段ボールで作ったでかい文字を置いていったこともあった。銀行が合併するってニュースを聞いた日には、その銀行の前で結婚式のまねごとをしたり。このときには幼馴染の美香まではまってきて大騒動になった。こんなばか騒ぎは高校でもまだ続いていた。あるときはミイラ行列と称して街の看板を包帯巻きにしてやったり。これはいつのまにか商店街がちゃっかり自分らのイベントにしてしまった。

 彼女はいつも妙なことをやるし、何より高校まで彼女は良く言えばスレンダーでボーイッシュな、悪く言えばグラマーからはほど遠い体形だったせいか、高校卒業まであまり女子だということを意識せずに友達を続けていた。だが高校卒業後、俺は地方の大学へ、西田は地元企業に就職して以来、全く連絡することもなかった。

 便箋の中身を読むと、高校時代に俺たちで仕込んだインチキ即製ワインができたので試飲に来ないか、という内容だった。何でも、西田が別に造った特別製もあるという。西田の特別製というのはある意味で不安をおぼえるけれど、期待もできる気がした。考えてみれば、俺も二年ほど実家に帰ってない。親にも呼ばれてはいるが、面倒くさくて帰る気を起こしたこともなかったのだ。だがワイン色の便箋は一日でも早く実家に帰ってこいと俺に訴えかけているように思えた。


 故郷の駅に降り立ってバス停に行くと偶然、美香のお母さんに出会った。彼女はちょっと考え込んだ俺に構わず、ずいぶんと立派になって、などと喋り始めた。美香は簿記系の専門学校を卒業したものの、なかなか就職がなく未だ実家に住んでバイトで食いつないでいるそうだ。俺や西田と一緒にいたとはいえ、美香はほとんど野心らしいものを見せない奴で、かと言って良い男を掴まえて、といった器用さもあまりない、どちらかというとニート体質だったのでそれほど意外ではなく苦笑してしまう。

 なかなか帰宅していないことは実家の母からも聞いてらしく、なるべくゆっくりいるように、とからかい気味に言われる。俺は愛想笑いしながら、西田と会うと話した。すると急におばさんの顔色が変わり、西田さん、と名前だけを呟き、そのまま会釈して離れてしまった。学生時代にばかをやっていた印象が悪いのか、それとも何か、俺の知らない事情があるのか。不安は過ぎるが、わざわざ後を追ってまで訊くのも変な気がしてその場は軽く流してしまった。

 到着したバスは高齢者に優しい低床型の車両になっており、中のポスターも見慣れない病院の広告が貼られている。ほんの数年離れただけだというのに、高校時代に乗っていたバスとはずいぶんと変わったような印象を受けた。

 それでも、途中で乗り込んできた高校生はもちろん、俺が着ていた制服と同じ型の制服を着ていた。彼らの横顔はやはり当然年下に見えるのだが、その当然なことに対し、逆に妙な違和感を感じる。彼らの中にはもう、俺は戻れない。今さら大学受験をもう一度やるなんて真っ平御免なのに、どこか寂しいような気分になってしまうのだ。何だか爺臭い話だが、二十歳を超えると当然の話なのかもしれない。

 バスが高校前のバス停に到着した。昔通い慣れた坂を登っていく。こんなにきつい坂だったのか、少し不安になる。だがすぐに懐かしい校門と校舎が見えてきた。校門前には美香と、どこかで見た気がする制服姿の女の子が立っていた。彼女は俺の顔をじっと見つめ、少し不安そうな声で言った。

「こんにちは」

 考えても誰だか思い出せない。僕が黙っていると、彼女はちょっと首をかしげて言った。

「知子です。西田知子」

 やっと思い出した。俺たちが高校でばかやらかしてた頃、道具運んでくれたり、弁当届けてくれた中学生の子がいた。西田のことをばか姉と言いながら甘えていたっけ。僕はうなずき、西田はまた何か企んでいるのか、と軽い調子で訊いた。すると知子は目を伏せて短く答えた。

「姉は、二年前から行方不明です」

 俺は突然の返事に何も言えなくなった。だが美香は畳み掛けるように言った。

「嘘じゃないよ。あいつ、だますのは邪道って言ってたでしょ?」

 知子の語った西田の消え方は、ある意味あいつらしい、けど寂しい形だった。あいつは卒業後、地元の町起こし運動の中心になっていたそうだ。確かに、イベントをやれば面白い。けど、あいつは形になったものが嫌いな奴だ。だから当然そのイベントの最中にあいつはまた悪ふざけをやった。

「姉は予定通り、徒競走で走ってくるところにビニールを敷いて大量のワインをまき散らしたんです。『おいしい水』が宣伝のイベントだったから。だから、わざと水じゃなくワインを使ったんです。けど。そのワインの上で転んだ人が何の加減か大量に飲んでしまって。この人、お酒に弱かったものだから病院に運ばれるまでになっちゃったんです。それで姉は悲観して家を出たんです」

 美香は地元にいただけあってうなずいて聞いていた。俺がずっと黙っていると、美香が口を開いた。

「ねえ、この手紙はどうしたの。この筆跡、西田のだよね」

 俺も慌てて手紙を取り出して美香と知子に見せた。

「手紙は私にも来たんです。だからここで待ってるんです。きっと来るはずですから。ばか姉だけど、嘘つきませんから」

 知子は俺と美香をしっかり見つめて答える。俺は肩をすくめてその場に座った。美香は俺に目を向けると呟く。

「西田にとって、夜中までは今日のはずよ」

 そのまま美香も俺の横に座った。どうも今日は久しぶりに徹夜らしい。


 夜も更け、もうすぐ今日も終わるかという頃、背後から足音が聞こえてきた。俺たちは一斉にそちらをじっと見つめる。女が一人、ビニール袋をぶら下げこっちに向かってくる。知子は立ち上がると彼女の方に走った。

「知子、美香と山下も来てるんだね」

 西田の声だ。俺たちも西田に向かった。暗くて顔はよく見えないが、間違いなく西田だ。俺は西田に駆け寄ると、頭をこづいて知子に謝れ、と諭した。西田は真面目に何度も頭を下げる。ところが今度は、西田がいつまでも頭を下げているので、そのうち俺と美香は吹き出した。

「やっと三人とも許してくれたみたいだね。じゃ、約束通り二つのワインを飲んでもらおうかな」

 西田は見覚えのある小瓶と、奇麗に包装したワイン瓶を取り出した。

「まず、こっち」

 西田は三人にグラスを渡して小瓶の方を注いでいく。知子には一応一口だけだ。おそるおそる飲んでみると、まあ飲めんこともない、という代物。事情を知らない美香に、高校時代に俺と西田でこのワインもどきを造ったことを話した。美香は仲間外れか、とむくれてみせてからグラスを空けた。

 西田はすぐにもう一本を開けて再び注いだ。飲んで、俺たちは首をかしげた。それを見て西田は真面目な顔で答える。

「ノンアルコールワインだよ。今日やっと完成したんだ。ただ謝罪するだけじゃ、何も生まないと思った」

 謝罪の代わりに何かを生み出す。難しいし、苦しいことだと思う。何より、この努力だって世の中にどれほど認められるかはわからない。

「もう一度、これを持ってあのときの被害者に謝りに行きたい」

「お前の考え、普通の人に通じるのか」

 俺の言葉に、西田は一瞬目を背けた。だが再び俺たちをしっかりと見回して言った。

「理解してもらえるかどうかはわからない。でも、これがないと私も、走り出せないよ」

 唇を噛む西田が、初めて小さい女の子に見えた気がした。叱られ慣れた悪戯っ子が、自分に課した罰。

「罰なんてのはさ、最後は自分が更生できて初めて意味あんの」

 美香の投げ遣りな言葉は、むしろ俺を納得させた。知子が優しい視線で西田の隣に立ち、そっと西田の背中を撫でる。西田が足を踏ん張って立ち上がった。俺たちは西田の後ろにつき、この後の謝罪行脚を見守ることにした。

「酒から醒めても君たちだけは実体だよ」

 真剣な西田の言葉に、俺たちの笑い声が寝静まったグラウンドに響きわたった。

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