文芸船

愛してみたい

「君を本当に愛している」

 笹原の言葉に湯川は頰を赤くする。そのまま俯いて黙り込み、そして爆笑した。

 しばらく経ってやっと湯川の笑いが止まると、笹原は疲れ切った声で文句を言いだす。

「このシーンってクライマックスなんだぜ? せっかく居残りしてるんだからさ、きっちり台詞つないでくれよ」

 だが湯川は目の端に浮かんだ笑いの涙を拭きながら言い返した。

「だってね、ここまでくさい台詞って現実に言える?」

「そこを言っちまうのが芝居の面白さだろ。それにお前の『はい』って一言できっちり芝居が締まるんだから」

「でもさあ、笹原の言い方って全然リアリティ足りないから、私の方だって演技しにくいわけ。わかる?」

「それって俺のせいか? 全部」

「全部とまでは言わないけど。でもまだ特訓が必要ね」

 笹原は溜息をついて壁のカレンダーに視線を移した。昨日の日付まではバツ印で消されており、ちょうど一週間後には大きく「南高祭」とマジックで書かれている。

 来週の学校祭で公演予定の演劇『愛してみたい』。人間らしい恋の心を持たない魔女が、偶然出会った若者の強い想いを受けて恋の心を手に入れる、という話だ。

 この公演は演劇部の新三年生が昨年の卒業生の力を借りず、独力で仕上げる初めての舞台だ。そんなわけで、彼ら演劇部員にとっては絶対に失敗出来ない重要な舞台だ。中でも負けず嫌いな笹原と湯川は歴代の先輩たちを圧倒してやろうと企んでいるのだから穏やかではない。だが、どうしても最後の場面が上手くいかず、他の部員が帰ったあとも二人で居残り練習をしているのだ。

 湯川は台本を丸めたり伸ばしたりしながら笹原をじっと見つめる。それでも笹原が黙っていると、いかにも言いにくそうな態度で話し始めた。

「笹原って告白経験あるのかないのか知らないけどさ、あるんならそのときのこと思い出してみてよ。ないんなら好きなあの人に、って気持ちでやってみなよ」

「好きなあの人に?」

 笹原が上ずった声で聞き返すと、湯川は腕組みしてきつく睨みつける。

「いーい? 芝居はお客を感動させなきゃ。だったら演じてる本人もある程度はそれなりの気持ちになんなきゃ無理よ無理。とくにあんたみたいな大根役者にゃね」

「そういう言い方されるとさ、余計冷めるんだよな」

「そんなに冷めるんならね、役、下りなよ」

 笹原は憮然とした表情のまま湯川を見返した。湯川は少し声の高さを落とし、腕組みをして尋ねた。

「って言うかさ、あんた今までうちの部の男じゃ一番上手かったのに何で今回だけこんなひどいのさ」

 笹原は顔を背けて口を尖らせる。

「何にでも化けられて、どんな気持ちにでも変われるお前みたいな特異体質、そんなにいるわけがねえだろ」

「ならあんたも特異体質になれば良いだけの話でしょ」

「脚本と波長があわねえんだよ」

 笹原は必死にいらつきを押し隠しながら答えた。幸い鈍感な湯川だったおかげか、彼の焦りは見破られないで済んだようだ。それでも湯川は疑り深い視線をぶつけながら抑えた声で言った。

「今年の三年生は駄目だね、なんて言われたくないじゃない? あの嫌みったらしい先輩に負けたくないじゃない。芝居ですごいっ! って思わせるのはさ、やっぱ私たち役者がしっかりしなきゃなんないわけでしょ?」

 畳み掛ける調子の言葉に笹原はうつむいてしまう。すると湯川は静かな調子で優しく声を掛けた。

「ごめん。言い過ぎだよね。なんだかんだ言ったって、二年生じゃあんたに勝てるわけないんだし、私たちの代を見たって、一番はあんただもんね」

 言葉を切ると、湯川は腕にはめたG-SHOCKもどきの腕時計に目をやった。

「今日はこのぐらいにしよっか?」

「でも今日の居残りで完璧に、って言ってただろ?」

「ま、確かにそうなんだけどさ」

 湯川はがらんとした部室内を見回した。部室に残っているのは湯川と笹原の二人きりで、壁に立てかけた龍の着ぐるみが不気味に思えた。いつもなら安っぽくしか見えない失敗作の小屋が妙にリアルに見えて、陰から何者かがこちらの様子を窺っているような錯覚を憶える。

 湯川は慌てて頭を振ると、落ち着きなく自慢のロングヘアを掻きあげながら言った。

「私、実は暗い所が苦手なんだよね。それにさ、幾ら芝居の練習って言ったってね、夜の部室で男女二人っきりで『愛している』なんてちょっとどうかしてない?」

「わかったよ。今日はここまでで引き上げようぜ」

 笹原の承諾に、湯川はやっと安心した表情になった。

「私、演技にだけは妥協しない主義だからね。とりあえず今日は切り上げるだけ。勘違いしないでよ、良い?」

 しつこいほどに中止の理由を述べ立てる湯川を見て、遂に笹原は吹きだした。湯川は頰を赤くすると、立ち上がって乱暴に部室のドアを開ける。

「鍵閉めるんだから笑ってないでぱっぱと外に出て!」

 笹原はぺしゃんこにつぶした鞄を回しながら部室を出る。湯川は施錠をドアを揺すって確認しながら、自分のぱんぱんに膨らんだ重いDバッグを笹原に放り投げた。

「あんたさあ、少しは勉強道具持って帰ったら? 私は英和も和英も背負って歩いてるからここまで膨らむけど」

「普段はそんなに家で勉強しねえからな。やっても数学と英語だけだぜ」

「赤点だけは取らないでよ? 公演一週間前ってちょうど補習時期なんだから」

「俺、そこまで馬鹿じゃねえって。心配すんな」

「あんたの『心配すんな』は当てになんないもん」

「どういう意味だよそれ。証拠あんのか証拠」

「あんた、私たちって何年の付き合いか忘れたわけ?」

 言われて笹原は憮然とする。湯川とは幼稚園以来の幼なじみで、笹原自身が憶えていないようなことまで湯川はしっかりと記憶に残っている。そのせいでたびたび気まずい思いをしているのだ。

「ま、この付き合いの長さのせいかな? 告白シーンうまく言えないのって。私も笹ちゃんから告白受けるなんて難しいよな、って思ったし」

 珍しく湯川が慰めらしき言葉を口にする。だが、笹原は何事か考え込んで返事を返さない。再び湯川は不機嫌な声に戻って言った。

「何よ、急に考え込んで」

「お前がさ、俺のこと『笹ちゃん』って呼ばなくなったのいつだったかな、って思ってさ」

「中学に入って女子が男子のこと名字で呼ぶようになったからだよ。でもちょっとしたはずみで出ちゃうんだよね、『笹ちゃん』って。これ、嫌なの?」

「別に。ちょっと気になっただけ」

 話しながら歩いているうちに、二人は玄関に着いていた。外は街灯がないと周囲が見えないほど暗く、星空が広がっている。湯川はバッグを受け取って校門をくぐりかけ、急にぴたりと停止した。笹原が首を傾げると、湯川は少し考え深げな様子で言った。

「呼び方の話で思い出したんだけど。幼なじみって、それだけの理由で恋愛対象になんないのかな」

「実験してみるか?」

「笹ちゃん、そういうこと軽はずみに言うな」

 急に真剣な声を出した湯川に、笹原は狼狽えた。湯川は笹原の肩に手を置いて問いかける。

「もし私が『そうね』って真剣に答えたらどうしてた? 『実は好きな人いるんだ』って言われたらどう思う? それにね、もしかしたら『恋愛できない』なんて答えもあるかもしれないし」

「恋愛できない?」

 笹原に聞き返され、湯川は慌てて手を振った。

「いや、今のは仮の話よ仮の話。あんたがあんまり軽はずみだからさ。あんた何も考えないで誰かとつき合って喧嘩してとかやりそうに見えただけ」

「俺はそんなに馬鹿じゃない」

「この十五年間観察した結論は、正真正銘の性格バカ」

「何だ、その『性格バカ』って」

「いい加減で人の気持ちわかんなくって。とにかく、そういうあんた丸ごと全部が性格バカなの!」

 また湯川の短気が始まった、少なくとも笹原にはそうとしか思えなかった。そんな笹原の表情に湯川は顔を背けると、わざとらしく足音を立てて早足で歩き始める。

「今日は少し遠回りして帰るわ。じゃあね」

「もう遅いんだから独りじゃ危ないだろ」

「国道沿いだから心配ないって。笹原はあっちでしょ」

 頑固な言葉に笹原も諦め、湯川の反対側に歩き始める。せめて今日ぐらいは二人きりで帰りたかった、そんなことを笹原は思っていた。


「さっすが笹原先輩ですよね。苦労してるなーって思ってたんですけど、やっぱ出来ちゃうんだあ。さっきの台詞合わせ、感動ですよ」

 最初の居残り練習から一週間後。笹原が二年生の西谷と台詞合わせの話をしていた。西谷はこの芝居で笹原に片想いの女の子を演じる予定だ。

「とにかく、先輩ってすごいです。尊敬です」

「そうか? ま、俺様だからあのぐらいは平気だな」

 笹原が言い放ったとき、横から別な声が割り込んだ。

「今の一言で後輩からの受け、減点よね」

「湯川、良い話してるところに割り込むんじゃねえ」

「悪い話してる莫迦な人を賢い幼なじみがご親切にも忠告してるだけでしょ」

 西谷は二人のやりとりに挟まれ、小さい体を余計小さくすくめながら湯川に恨みがましい視線を向ける。だが湯川はますます笹原に文句を重ねた。

「たしかにさ、『愛してる』の台詞はだいぶ上手くなったよ。でも何て言うのかなあ、まだハートに届かないって気がするんだよね」

「お前、いい加減にしろよ。西谷だって感動したって言ってるじゃねえか」

「西谷って映画でも芝居でもすぐ泣く感動体質なんだから。水戸黄門でも泣くんじゃないかってぐらい」

「水戸黄門じゃさすがに泣けません!」

 大声で否定した西谷だが、湯川の言う「感動体質」はむしろ肯定したことになってしまう。それでも繰り返しの練習に飽きている笹原は、強引に話をずらした。

「とにかく、もう公演は明日だぜ? 今さらうだうだ言っても始まらないだろ。だいたいお前の告白受ける最後の返事だっていつものお前のレベルからは遠いと思うぜ」

 湯川はじっと黙り込んで盛んに髪を掻きあげる。笹原はそんな湯川を見て優しい声で言った。

「何か言いにくい話、あるのか? それともお願いとか」

「そんなこと何でわかるのよ」

「言いにくいときに髪をかき回すの、昔っからの癖だ」

 西谷は感心した顔で二人を見比べる。湯川は慌てて手を止めると、独りうなずいてようやく言葉を発した。

「そのことなんだけど、最後のシーン変えたいんだ」

「はあ? それって本気で今さらの話だろ」

 笹原の反駁には全く動じず、湯川は自信ありげな調子で言った。

「『愛してみたい』って答えて終わりにするの」

「何だそりゃ。意味わかんねえぞ」

「この芝居のテーマは『初めて恋という感情を知る』、いわば初恋物でもあるわけよ。でもさあ、変幻自在の魔女が本当に恋愛しちゃえるのかなあ、って思ったらさ」

「でも先輩、結末が逆になっちゃうと思うんですけど」

 西谷の発言に笹原もうなずく。だが湯川は自分の考えを頑として譲らない。

「たしかにね、今までと逆かもしれない。でも、どう考えてもこんな結末って何だか安易すぎるって思うんだ」

「ならそうしろよ、主演女優兼部長さん」

 笹原の返事に湯川は満足そうにうなずいた。西谷は肩をすくませると、笹原を冷ややかな視線で眺める。

「笹原先輩ってこういうときはいっつも湯川先輩の味方ですよね。でも、彼女が出来てその彼女が笹原先輩と喧嘩したら、笹原先輩はどっちの味方するんですか?」

「そりゃ両方の言い分訊いて冷静に対処するよ」

「気持ちはどっちの味方なの、って訊いてるんです」

 西谷の言葉に笹原は真剣に悩んだ。だが、最後には独り大きくうなずいて答えた。

「どっちってもんじゃねえだろ。でも、常識的に考えれば彼女の方が優先するよな」

 笹原の言葉を聞いて、湯川がいきなり机を叩いた。

「何だよ、おい」

「何でもない! 西谷、私をだしにした変な話はやめな」

 ただならぬ雰囲気に、西谷は脚本を無意味にめくって別の話題を探した。笹原も唇を噛みながら押し黙る。しばらく三人の間に気まずい沈黙が溜まった。だが、やっと西谷が作り笑顔で口を開いた。

「脚本変更の話なんですけど、どうせ先輩たちしか出てこないシーンだから私は別に良いんです。でも、私の振られ役ってなおさら格好悪くなりません?」

「憎まれ役とか三枚目役の宿命だな、そりゃ」

「私の役って三枚目だったんですかあ?」

 笹原の言葉に西谷は大きく溜息をつく。それがよほどおかしかったのか、湯川は吹きだした。

「現実にもあんたって三枚目っぽいもんね」

「恋愛にまで三枚目じゃありませんってば!」

「どうだろうね」

 冷たい声を発した湯川に、西谷は妙な刺を感じた。


 会場に長い拍手が鳴り響く。カーテンコールが幾度も繰り返された。演劇部に対して、ここまでの反応は数代前まで遡ってもなかった話だ。

 最後は湯川の演じる魔女が「愛してみたい!」と叫んで泣くシーンで終えた。その叫びも泣く姿も到底前日に変更したものには見えなかった。否、それどころかその舞台が現実であるかのように見えるほどだったのだ。

「大勝利!」

 舞台裏で湯川の宣言が響く。演劇部員は一緒に万歳したあと、各自で休憩に入っていた。湯川はTシャツ一枚の姿でポカリスウェットのペットボトルを直接口に運ぶ。

 喉を鳴らしてがぶ飲みをしていた湯川は、ふと自分に視線が刺さっていることに気づいた。

「笹原、どしたの? 私のことじっと見つめてさあ」

「この成功、お前のおかげだよな、って思ってさ。やっぱ最後の台詞、『愛してみたい』が正解だったみたいだぜ。お前もこっちの台詞の方が数段上手かったしさ」

「そりゃ、ね」

 湯川は妙に低い声で答える。笹原は違和感を感じながらも、廊下を指さしてそっと耳元に囁いた。

「ちょっと今、そっち出られるか?」

 後かたづけと興奮のせいか、出ていく二人を見咎める者は誰もいない。二人は出口に溢れ返った大道具を飛び越えながら廊下へと脱出した。

 教室の並ぶ本館の廊下は人で溢れていた。呼び込みの嗄れ声が響き、廊下に漂うカレーライスと焼きそばの匂いが空っぽの胃袋を刺激した。だが、笹原はそんな全てを無視して真っ直ぐに進もうとする。そこで湯川は笹原の袖を掴むと、わざとらしくお腹に手を当てて言った。

「笹原、お腹へったよ。そんな急がなくたってさあ」

「俺、早く着きたいんだよ」

 短く答えた笹原の声音は真剣そのもので、湯川は反論する気勢を削がれてしまう。湯川は食べ物を諦めて仕方なく笹原の背中を追った。

 結局、二人は真っ直ぐ部室へと戻った。部室は誰もおらず、他の教室から離れているせいか学校祭の騒々しさからは隔絶されている。それでも笹原は落ち着きなく周囲を見回してから、硬い表情で湯川の正面に立った。

「で、笹原。どうしたの?」

「俺さ、この芝居が終わったら言おうって思ってたことがあってさ。俺たちもう高校生なんだし。幼なじみじゃなくって、もっと男女って言うか」

「幼なじみじゃない男女、って?」

 あまりに素早く訊き返され、笹原は少しの間沈黙した。だが珍しく、湯川は笹原の言葉を待つ。笹原は唾を飲み込み、棒のように体を真っ直ぐに立てて言った。

「つきあってくれ」

 湯川は唇を噛み、笹原の顔をじっと見つめる。

 しばらく二人の時間が凍っていた。だが、遂に湯川の口から小さく言葉が漏れ出た。

「愛してみたい」

 あまりに意外な言葉に、笹原は口を開けたまま訊き返す。湯川は再び同じ言葉を、こんどはゆっくりと言い切った。

「だから、愛してみたい」

 笹原は唾を飲み込み、ゆっくりと言う。

「芝居の話じゃないんだ。本当に本気なんだよ。な?」

「私だって本当の気持ちだよ。愛してみたい、って」

「どういう、意味だ?」

 湯川は部室の壁を握り拳で叩き、黙って髪を掻きあげる。笹原も湯川の言葉をじっと待つ。そのまま数分経ったとき、湯川は肩をふるわせて一気に話し始めた。

「恋の気持ちなんてほんとは私、理解できない。偉そうに『その気持ちになってごらん』なんて言ったけど、私はそんな気持ち、どうしても全然わかんなくて上っ面な演技しか出来なくて、だから脚本を変えちゃったの!」

「ユッカ?」

 思わず昔のあだ名で声をかけた。だが、湯川は泣きながら頭を振って言葉を続ける。

「西谷だって本当はあんたのこと良いなって思ってて。なのに私に遠慮してピエロ状態だし。馬鹿だよ私たち。芝居と同じこと現実にやってて。本当に馬鹿だよ私たち」

 笹原は湯川を理解できないままに言葉をかけた。

「でもさ、試しにつきあってみたらそのうち変わるかも」

「駄目だよそんなの。気持ちが先になきゃおかしいよ」

 湯川は即座に笹原の考えを退けた。だが、湯川のそっけない返事は笹原の感情を追い詰めるばかりだ。耐えきれなくなった笹原は遂に怒りを露にした。

「何で俺を『愛してみたい』なんだよ。誰でも他の奴とつきあえば良いだろ! ふられた俺だってつらいんだ!」

 だが、湯川は諦めきった顔でゆったりと首を振り、泣き笑いの顔で静かに答える。

「私はね、笹ちゃんとずっと一緒にいたいの。でも、笹ちゃんが他の子とつきあったら、笹ちゃん今みたいにそばに置いてくれる? 彼女になるわけでもない私とずっと一緒にいられる? 無理だよ。でも一緒にいたいの」

 笹原はそっと湯川の頰に手を伸ばした。湯川は体を翻して笹原から逃げると、涙を堪えながらもう一度呟く。

「あなたのこと、愛してみたい」

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