注文を決めると、私はいつものように向かいの席に顔を向けた。でも、そこに彼はいない。気づいた私は独り小さく乾いた笑いを漏らした。最後に一緒に飲んだ紅茶は少し塩辛かった気がして。贅沢だよね、って面白がった銀のスプーンに映る彼の顔がどこか遠く感じて。なに寂しがってるの。そんなことを言って彼の頭を軽くこづいた私が、今は彼を恋しがっている。
カウンターから常連たちの笑いあう声が聞こえる。いや、私も常連なんだけど。でも、独りの私はこの店では一見の客だ。それに、彼がいなくなった途端にカウンターの輪に入っていくなんて、そんな勇気はない。ここに来るのはしばらく止めようか。
思いつつ窓際に並んだ小さな鉢に目を向ける。そこには小さな福寿草が二つ、並んで咲いていた。彼と最後に来た日はまだ蕾だったのに、今日はしっかりと咲いていたのだ。
僕たちみたいだよね。そんな痒くなるような台詞を平気で言ってしまう彼。こんな小さなものにまで彼を思い出す自分があまりにみっともなく思えてしまう。
静かな灰色の髪と黒革のベストがよく似合うマスターがいつも通り静かに紅茶を置いていく。アールグレイが鋭くテーブルの周辺に薫った。銀の砂糖壺を手元に引き寄せる。指先で跳ね上げようとして、壺の冷たさに指先を止めた。今日は甘さが煩わしい。だから私は初めて、紅茶をストレートのまま口にした。
いつもより熱い気がするけれど、まさか冷めるほど砂糖を入れていたはずはない。子供のように呼気で冷ましながら、こんな急いで飲んだことはなかったことを思い出した。何もお茶を飲みに来ていたわけではない。彼との時間を過ごしに来ていたのだ。紅茶は時間への装飾でしかなかったのだ。
ゆっくりと深呼吸するように紅茶の香りを胸に吸い込んだ。甘さのない、けれど中年の女性がつける化粧品のような下品さは微塵もない、引き締まった香りに目が覚めるような心地になる。口に含んだ紅茶は、いつもの甘味がないぶん複雑な味がした。ふと、これってお茶なんだな、と思う。烏龍茶や緑茶にどこか似通った部分を初めて感じた。ついさっきまで紅茶を別の飲み物だと思い、少し格好つけた気分に浸っていた自分が急に遠く感じた。
もう一口含んで店内を見回した。彼のいないこの店は私にとって新鮮な風景だった。けれどそれは不在ではなく、これから始まる新しい場所だった。学校で進級したときに同じ校内が少しだけ変わって見える、そんな感覚だ。ゆったりと深く椅子に座り直して再び紅茶を口に含む。もうしばらく喫茶店に来てみようと思い直す。独りの私にも、ここにある私の居場所が垣間見えた。
テーブルに置いたカップが小さく涼やかな音を鳴らした。
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